「アスペルガー者への支援について 」カテゴリ記事一覧


アスペルガー症候群かもと思ったら-支援に繋がる前に知っておきたい7つのポイント-

アスペルガー、発達障害関連情報はカオス?!

支援迷子・情報迷子にならないために

我が子が、自分が、アスペルガーかも?と思ったら...今のご時世ならまずするのが「Webで情報をあさる」だろう。

これを読んでいるあなたもそうやってここにたどり着いた方かもしれない。

だが、アスペルガー症候群、発達障害といったものを調べるとまあ出てくる情報がカオスである。

「障害か個性か?」「周囲の理解を」「療育が必要」「治らない」...じゃあいったい何をどうしていいのか?といいたくなる多すぎてクラクラしそうだ。

そしてWebの発達障害関連の情報にもまれて、でもやはり気になるとなるとお世話になるのが各地域の発達障害者支援センター(発達障害者支援センター一覧はこちら(当ブログ別館))や、児童相談所(児童相談所一覧東日本版児童相談所一覧西日本版)だろう。だが、これも実は結構地域によってクセがある。

というわけで、カオスに飲み込まれないために気をつけたほうがいいポイントというのををアスペルガー当事者目線でざっくりと書いてみた。

 

1.身体や感覚の問題は大きいと心得る 

アスペルガーというと「空気を読めない」というのが取りざたされることが多いが、結構身体のモンダイは

身体と身体感覚のモンダイは結構大きい

アスペルガー児者は姿勢があまりよくないことが多い。猫背だったり前屈みだったり、歩くとつま先立ちだったりドラえもん歩きだったり、そして座っていてもぐにゃっとしてしまいがちだったりその逆でカチンコチンだったりとまあ、パターンはさまざまだがとにかく姿勢があまりよくない。

あっちこっちによけいな緊張があったりすればそりゃよく眠れないってことも多くなる。

その状態でまともに仕事なり学業なりしようとすれば他の人より疲れるのは当然だし、それは意欲や気持ちにも影響してくる。

そして身体感覚の問題もある。身体感覚がつかみにくく「コタツに入ると足がなくなる(ニキ・リンコさん)」などの状態では日々の生活動作あちこちに困難を生じる。他にも痛みを感じにくいだとか体温調節が苦手で汗をかけないなど、いろいろある。

こういった身体の問題を放っておいていいわけはないだろう。

知覚のモンダイも結構大きい

感覚過敏というと「ある種の音が苦手」とか「光に敏感でまぶしがる」というように書かれていることが多いが、これは「苦手」で済まされない問題だ。簡単にいってしまえば極端な「音疲れ」「視覚疲れ」が生じる場合が結構あるのだ。

極端な偏食なども味覚の問題であることが多いと思うしそれは他の感覚と連動する場合もある私自身音疲れ状態だと味覚がおかしくなる)。

 

身体や身体感覚・知覚の問題は本人にとってはそれがデフォルトだし人と比較するのが難しいため気がつきにくい。デジタル耳せんを試してはじめて音がしんどかったことに気がついたという人も実際にいる。

先ずはこのあたりの対策をしないと何の対策をしてもなかなか効果が上がらないといったことはあり得るだろう。

 

関連記事:デジタル耳せん(キングジム製)を買ったのでその感想 【聴覚過敏対策グッズ】

2.「周囲の理解」を過剰にあてにしない 

あちこちの発達障害本には「周囲の理解が重要です」的なことがよく書いてあるが、これが実は結構クセモノだ。どこまで理解すべきか?どこまで許容すべきか?という問題が生じる。

結論から言えば「他人に損害を与えたり我慢を強いるような事への理解は得られない」という非常に常識的なラインで世の中動く。

特性だからと仕事の場で遅刻しまくれば信用を失うのは当然である。アスペルガーという障害名は免罪符ではない。

もう一つ

「周囲の理解が重要」を反転させて「周囲が理解すべき」ととらえてしまうと何かと不満の元になる。

いくら「周囲の理解が重要」と医者や支援者が言ったたところで、それができるのはせいぜい親や福祉関係者、教育関係者どまりだ(それで飯食ってるなら理解しておけよと言いたいが結構怪しい場合もあるのが現実)。

いちいち気にして「理解のある環境」を求めていたらいつまで経っても自立には近づけない。

社会に理解を広げるべき...と言って啓発活動にはしったところで必ずタイムラグは生じるので自分には跳ね返らない、そして理解したくない人は世の中には必ずいる。それをどうこう言っても始まらない。

とはいっても世の中けっこう捨てたものではない。誠意をもって交渉すれば理解を得られることも結構ある。

棚からぼたもちのように上から理解が降ってくるのを待っているよりは、自ら交渉して理解を得ていく力をつけたほうがオトクなのだ。

  

3.既にしてしまった誤学習はあると心得る 

社会的知識はけっこうあやしい

アスペルガー症候群児者では人の視線がわかりにくかったり、自他の区分があいまいだったりするため、知的に問題がなくても社会的な知識を習得しにくいといったことがあります。

ごくごく簡単な人付き合いの基本を学習しそこねていたり(未学習)現実から乖離したした思い込みを持っている(これを誤学習という)ことがよくあります。

「場の全員が仲良くすべき」「お金儲けはよくないこと」「人にアドバイスを貰ったら必ずその通りにしなくてはいけない」...などがありがちな誤学習ですが、ものが「誤」であるのでバリエーションは限りがありません。算数のテストで考えてみれば簡単な話です、正解は1つでも誤答はいくらでもありますよね。

「無礼な態度をとる」「話が通じない」「変なところで怒りっぽい」などは、その陰に誤学習や未学習が隠れていることがよくあります。

 

誤学習の解除・修正がキーポイント

ある時点でアスペルガーであることに気づいたとして、気づいて以降は誤学習が少なくなるようにという対策はいろいろ立てられますが、人間には個々人それぞれに生きてきた歴史が必ずありますから未学習や「すでにしてしまった誤学習」はあると思っていたほうがいいでしょう。

幼稚園、小学校段階でしてしまった誤学習に気づかれないままで、後年影響してくることもよくあります。「お金を稼ぐことが怖くて就職が怖くなる」とか「アドバイスを受けたら負けと思っているため職場で人の助言に怒り出す」など、ちょっと困ったことは後から起こります。

こういった誤学習を解除・修正が本人が楽に過ごせるためのキーポイントであることはしばしばあります。

ただ、「すでにしてしまった誤学習」の発見、解除、修正にはそれなりの時間がかかりますので、焦らずにつぶしていくことが必要。

 

4.愚痴のこぼしあいからは多少距離をおく

誰にもいえない悩み...を共有する仲間がいれば心強い。それは確かだ。

だが、愚痴をこぼしてスッキリして気力が戻って...という効果がある反面、仲間を選ばないと「治らないからしかたない」を繰り返し脳みそすり込むだけになってしまうということもありうるのだ。

「しかたない」に埋没してしまえば建設的な取り組みがしにくくなるのは当然だろう。

成人においては「どうしようもない→社会が悪い」といった誤学習の上塗りで社会への恨みを募らせてしまう危険もある。これは避けた方が生きていきやすい。

親の会でも当事者会でも、愚痴のこぼし合いが多い場であるなら、多少距離をおいたほうがいいだろう。

 

5.医療も支援も選んだ方がいい 

医療も支援も選んだほうがいい。アスペルガーなどの発達障害を診断できる医師が増えはしたが、二次障害に対する投薬以外のフォローまでできる医師はそう多くはない。

支援もまた似たり寄ったりだ。最近は支援機関の数こそ増えてきたがにわか支援者も多いし、「かわいそう」と過剰な保護に走りたがる支援者もまた結構多い。特定の療育方法を”ほとんど信奉”しちゃっている支援者もいる。

はじめ良いと思った支援が問題が解消されて合わなくなるということもある。それでも「まだまだ」と支援者が押しとどめることだってある(特に就労関係)。

だからこそ医療も支援も選ぶ必要があるし、選ぶためには冷静な目で観察することが必要だ。

もちろん医療や支援を選ぶにあたっては、「できるだけ自立方向に向かうようなもの」という選択もあるし「かわいそうだから周囲に理解をごり押ししても努力はさせたくない」という選択もある。お子さんの場合そのあたりは親御さんの選択が重要だ(あまり後者はおすすめしないが)。

 

選ぶためのヒントはこちら(長いけど)↓
発達障害児への支援と療育を「機能-行動モデル」で考えてみる

 

ついでに言うなら支援や医療で多少ハズレをひいたとしても嘆くほどのことではないのだ。次項はそこらへんについて。

 

6.自分でor親御さんができることは結構たくさんある

成人のアスペルガー者で起こる困りごとの大半は二次障害を除けば「身体と知覚の問題(体力含め)」「社会的知識の問題(誤学習含め)」「生活スキルの問題」「不注意や衝動性の問題」が大半だ。

「不注意や衝動性の問題」を除けば、身体作りをし、社会的学習を経験を増やし、生活スキルを上げるといったことで対策できるではないか?!

そして身体作り、さまざまな経験とその適切な理解、生活スキルの獲得というのは特別な療育、教育施設でなくても可能なことである。

料理のお手伝いだって立派な療育だしリハビリだ。各種のボディワークは身体作りにかなり役立つ。最近は過敏対策に便利なツールも結構多い。

いい支援に恵まれないと嘆く前に手近なできることをやってみた方がいい

下の本は最近出た本だが、そういった手近な工夫と、それを生み出す考え方のヒントが盛りだくさんの本である。著者のこよりさんは、自閉っ子のお子さん2人を自らも病気がありかつ介護等で多忙な生活の中で育て上げた方である。療育資源に恵まれない中、観察と工夫で乗り切って来たこの記録はこれからお子さんの障害に向き合おうとする方に勇気を与えてくれるだろう。

7.「自立して幸せに人生をおくるために」という前提をくずさない

特に就労や進学の場面で「やはり支援をうけられる場でないと...」ということを言われる場合もあるかもしれません。

具体的には障害者就労をすすめられたり、支援級や特別支援学校への進学をすすめられたりという場合です。

それ自体は問題があるわけではありません。状態によってはその必要がある場合もあります。

現在できないことと将来できないことは別

ただ、「アスペルガーだから、発達障害だから○○がダメだからこれでよしとしておかないと」という思考をもってしまうとさまざまなことにトライすることが難しくなってしまいます。

つまり以降の人生が「消化試合」になってしまいます。

これでは人生つまらなくなってしまいますし、努力しようという気持ちもおきにくくなって当然です。

ですから、医療や支援で「自分にとって消極的過ぎるおすすめ」をされても真に受けすぎないことが肝要です。

もちろんそのとき休養が必要であれば休養すべきでしょう、さまざまな支援を必要とする時期ありますのでそういうときは利用したほうがいい場合もあります。

ただ、うける支援が支援という名の過剰な保護になっていないか?という目を常にもっておく必要があるということです。

すべての支援も療育も

自立して幸せに人生をおくるために

利用するものだということを頭の片隅に必ずおいておいて欲しい。

 


関連する書籍の紹介

 




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発達障害の支援ニーズをどうとらえるか?

発達障害者手帳は必要か?という問題から

精神の手帳、療育手帳などと別に発達障害者手帳があればいいのに...という話がSNSで回ってきた。

まあ、これに関しては要らないといえばいらないし、要るといえばいると私は思っているのだが、今日は精神の手帳から発達障害者の支援ニーズをいろいろ考えてみたい。

精神の手帳は取得したものの...

現状、精神の手帳で受けられる支援というのは、統合失調症or鬱病の単身者を想定して設計されている。まあ歴史的な経緯から考えれば当然のことではある。

発達障害者が何らかの理由で生活能力、説明能力が落っこちでしまった場合に受けられたら助かる支援というのは確かにあるが、そのほとんどが既存の支援メニューにはなく、よほど自治体窓口が柔軟に対応しない限りほとんど精神の手帳は役に立たないというのが実情。

6~7年前だったか、PTSDで私の調子がかなり悪かった頃、主治医が生活支援、つまりヘルパーさんの助けが必要だろうからそのためにと手帳の取得をすすめてくれ、私は手帳を取得したのだが、役所に行っても結局必要な支援は既存のメニューにはなく、何度か役所に足を運んだものの全くもって埒があかなかったという経験がある。
 
状態が悪くなったときの生活能力の落っこち方というのが現状あまり知られていない。たいてい同時に説明能力まで落っこちるのでそういうケースのニーズは伝わらず、知られることがないから制度に反映されるわけもない。

ただ、状態のよい時には手帳の必要性なんざまるで感じないというのも確かにあるのだ。

 

発達障害者の支援ニーズは機能から

支援ニーズのとらえ方から

発達障害者の支援ニーズというのは今まで主に「心理面」を主軸に捉えられてきた。「気持ち」に負の影響を与えないための支援である。

だが、これをニーズとしてしまうと個人の状態・経験に依存する部分が非常に大きくなり、合理的配慮の範囲が膨大になってしまう。そして生活の質の向上には案外繋がりにくいように思うのだ。

 

語られやすい問題と語られにくい問題

「気持ちへの負の影響」といった部分は発達障害当事者から語られやすい。そしてそれらのエピソード自体は非当事者にも比較的理解、共感しやすいものである(配慮が可能かはまた別の話だが)。

だが、「気持ちへの負の影響」が生じる以前に生活能力などに繋がる機能面でかなりの問題が生じているというのが実情だろう。

それに当事者自身で気づいていない場合も少なくないと思う。

聴覚刺激による負荷が大きかったというのを、デジタル耳せんをつけてみて初めて気がついたという人も結構いる。活動能力に不足を感じつつも「どうにもならないもの」と無理を重ねてしまう人も多い。脳や身体レベルでさまざまな無理を重ねていれば気持ち=精神面の問題もより大きくなるだろう。

私にしてみても聴覚の負荷が活動能力に影響することには早くから気がついてはいたものの、デジタル耳せんが長年の出不精返上に一役買うなどとは夢にも思っていなかった。

ずっと続いている状態であればあるほど、目に見えない機能面の問題は気がつきにくく、トラブルの生じやすさとか、実際にトラブルが生じた時の気持ちの問題ばかりがクローズアップされてしまう。

「気持ちに寄り添う」「当事者の声をきく」というのは精神科医療や福祉の方面では非常に重要視されるようだが、発達障害においてはそれが実は機能面での問題を見えにくくしてしまっている面はあると思う。

こういった事を踏まえて発達障害者の支援ニーズを考えると、生活能力や説明能力など、生活していく上で必要な能力を支える脳と身体の機能面から見ていったほうがいいのではないかと思う。

 

まあ、となると認知面や感覚面を中心にいままで語られてこなかったことを掘り出す必要はあるんだろう…というわけで、ときどきは前回のようなメカニズム面に焦点をあてた記事をかいていきたいと思う。

 

 

▼デジタル耳せんはほんと重宝してます。

↓下記は高次脳機能障害の本だが、自閉脳と似た現象が多くてビックリ。

 




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発達障害者、発達障害児の親御さんが、診断がついてから途方にくれがちな理由を考えてみた

一昨日フラフラと連続ツイートをしたのを勿体ながってトゥギャッターにまとめたのだが、なぜか多数シェアされたりしているようなので、せっかくだから記事にしておこうかと思い、多少加筆してまとめてみた。

診断後の「さてどうすれば?」問題

発達障害診断後の定番のセリフといえば

「今まで大変でしたね、これからは障害に合った工夫をしながら、周りの人の理解をうけつつやっていきましょう」
である。

発達障害に関する一般書にもこういうことが書いてあるものが多い。というか、それがほとんどだ。

診断にショックを受けるか、ほっとするか?その辺はまあ人それぞれだろうとは思うが問題はしばらくして、さてこれからどうしていこうかと考えはじめた時である。

書籍で提示されている工夫は、構造化の類いがちょっとと、あとは「こういうふうに理解をしてもらいましょう」である。つまり当事者自身(発達障害児の親御さん)が自分だけ(親御さんなら家庭の中で)でできることはわりと少ない。

そして、診断をうけるきっかけになることの多い社会適応の問題にどう対処していけばという観点からの、自力でできる「こうしてみたら」というものはさらに少ない。

これでは自分でどういう努力していけばという部分で途方にくれて当然だろう。

なぜ理解に依存したくなるのか?

ネット上の当事者の声でも、もっと社会の理解をという言う声も多いが、医療や福祉サイドが自力でできるものを提示していないから「理解してもらわねば」という方向にばかり向いてしまうという面もあると思う。

まあ、二次障害がバリバリに重いときにはまずは薬物療法や休養が必要だとは思うが、そこを多少脱したら結構できることはあって、負荷をさげるための環境調整、姿勢や睡眠、体力対策としての身体アプローチ、言語や社会的知識の未学習や誤学習の対策 そして模擬or実地の運用トレーニングなど、最近はかなり選択肢も豊富になってきたと私は思っているのだが、どういうわけだか医療も福祉もその辺あまり積極的でない。

「社会の理解を!」というのが一概に悪いとは言わないが、実際問題それだけではあまり説得力はない。自助努力が見えないと他人まかせに見えてしまいやすいので積極的に乗れないし、自分でできることが少なければ要求が過大になりがちということもある。そして過大なものは当然受け入れられない。

(このあたりは、夏前に「発達障害者(児)支援をどうデザインするか? -社会性の障害による困難には相手があることから-)」という記事でも触れた)

それで「理解が広がらない、楽にならない」と嘆いたりという方向にいく人も結構見かける。

ただまあ、声を上げる人は目立つが、声を上げない人のほうが多いのが世の常だ。

発達障害者も、発達障害児の親御さんも、実のところ「どうしていけば?」だらけなんだと思うのだ。自分では何も努力しないで全面的に周囲の理解でなんとかすべきと思ってる人はたぶん少数だと思う。

自力でとりくめるものこそが必要

そして、実のところ、二次障害があっても、ある程度頑張りどころの見当さえつけば、がんばれる人は結構多いと思う、そしてたぶんその方が二次障害も軽快しやすいとも。見通しがよくなるだけでも大違いだろう。

もちろん自分でがんばれれば自己肯定感も上がるという効果も期待できる。

よく発達障害者と定型発達者では文化圏が違うのでトラブルが起こりやすいというようななことを言う人がいるが、社会生活上問題となりやすいのは文化の差異といった側面よりも、身体的な問題(感覚面含め)や未学習、誤学習の問題のほうがずっと大きいと私は思っている

身体的な問題

感覚過敏を無理にがまんすればそりゃ疲れる。

姿勢がわるければ疲れやすいのも当然である。

睡眠の質を確保できてなけりゃそりゃ頭が空転しやすいだろう。眠れないというのもよく聞くし、寝ても寝てもだるさが取れないなどというのは、たぶん睡眠の質を確保できてないんだろうと思う。

文化的側面と未学習・誤学習という側面

発達障害者では、プロ野球の話で盛り上がるより機械ものの話で盛り上がれる人のほうが多い…これは文化の差異に近い部分だと思うけど、これ自体では社会適応上の問題にならない。

問題になりやすいのは、あまり興味のないプロ野球の話をネタに話しかけられたときの返答の表現。角の立ちにくい表現をしらない(=未学習の状態)と当然角がたつ。

その辺をしっかり分離して考えた方がいいとも思う。

しっかり指向性の差異みたいな部分とそうでない部分をわけて、がんばったほうがオトクな部分を明確にしといたほうが、がんばりやすいとも思う。

見通しが重要だからこそ

もちろん、二次障害で一時的に薬療が必要なときはあるかもしれない。ただ薬療から離れたときにどうがんばっていけばいいのか見通しがないと、そこから不安が起こるのは当然だし、そうなると二次障害も再燃しやすいと思う。

発達障害児者には見通しが大事ってのをよく医療や福祉の専門家がいうけど、それなら本人ががんばるための見通しをしっかり持てるような支援をして欲しい思う。

大筋の見通しがあれば細かいことの見通しがちょっと悪いくらいのことはわりと気にならないものだと思う。

おまけ-狸穴猫の考えるとっかかりの一歩-

ここまで書いておいて何にも具体策を提示しないのもなんなので、私自身がこうしてきたよってなところや自助会で当事者さん達と接してきた経験などから、とっかかりはこんなもんかな?ってなのを書いておこう。

身体面

知覚と身体に楽である状態ってのを教えてあげる。

不眠とか、睡眠時間確保できてるはずなのにだるいとか、それだとなにやるのも億劫になるし、疲れからの回復も遅くなる。ずっと続いてると当たり前になってしまうのでそれが問題だと意識しにくい問題。でもここはやっぱり基本でしょう。

  • 視覚と聴覚は特に優先して楽させてみる。
  • あとは睡眠の質の確保。

感覚過敏、特に視覚や聴覚は他の人との比較がしにくいせいか、過敏があってもそれに気がついていない人もけっこういる。
サングラスやブルーライト軽減ツール・アプリ、フォントの調整、ノイズキャンセリングヘッドホン、デジタル耳せん等、いっぱいツールはあるので使える場合は使ってしまうとかなり楽。

睡眠の質をあげるにはとにかく身体を緩める。 金魚運動とかあべこべ体操とか、ぬるめのお風呂とか、リカバリーウェアとか、ハーブティーとかアロマとか…いろいろあるよね。
意外かもだけど腹抱えて笑いまくるとあちこちほぐれる。爆笑系の本や爆笑ネタサイトも私はよく使ってる。

自分の身体を自分にしっくりこさせる。

感覚統合訓練が有名だけど、ボディワークとかもいいよね。いろいろあるよ、フェルデンクライス、操体法、気功、ヨガ、ピラティス…。ゆっくりってのがいいみたい。
五本指ソックスはいたり、片足立ちするだけでもかなり感覚がつかみやすくなる。

自分の身体が自分の感覚にしっくりこないと立ち座りの姿勢や歩き方もくずれやすい。姿勢が悪ければ疲れやすいのは当然だよね。

学習・認知面

学習やチャレンジを阻害するタイプのヤバい誤学習を排除する

「正解はひとつ」
社会的なことに関しては正しさなんて人の数だけあるよ。人間の思考も結構多様だから。
「みんなと仲良くしなきゃいけない」
しなくてもいいよ。基本失礼でなきゃいいんじゃないかな。距離をおくほうがいいこともある。
「金儲けは汚い(悪いことだ)」
わきゃないわ、お金がまわらくなったら世の中のあちこちがストップしちゃう。他者に価値(もの・サービス等)を提供してそれに見合った対価をいただくってのは決して悪いことではないよ。どう稼ぐかどう使うかの問題だよね。

言葉や言い回しを学ぶ

心のもちかたの本読むより言語表現の本のほうが役に立つと思う。割とメジャーな表現を知らない、使えないってこと(未学習)は結構多い。

  • 「おそれいります」
  • 「お待たせしました」
  • 「お気遣いありがとうございます」
  • 「助かります」
  • 「お気をつけて」

こういうの、使ったことないなら言うの練習してみるとかね。

とまあ、こんなところで今日はおしまい。

 

 

 

 






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段階に応じた発達障害者支援を考える

今日のEテレ、ハートネットTVの再放送(発達障がい関連)を見ていてふと思ったことがある。


それは、発達障がいの支援(サポート)は段階的であるほうがよいのでは?

ということ。

番組を見ていて感じた話のかみあわなさは出演者のいる欲求段階が違っていることによるものかなと思ったのだ。


一応マズローの5段階欲求説をあげると、人間の欲求段階は5段階に分けることができ、

生理的欲求→安全欲求→社会的欲求→尊厳(自我)欲求→自己実現欲求

という風に積み重なっていくらしい。


さて、


発達障害の当事者にはいろんな人がいる。

成人になってから診断された人もいれば数はまだ少ないが学童期に診断された人もいる。好ましくない経験をどれだけしたかというのも違いが大きい。
生育環境によってもかなりの差異が出てくる。

自己肯定感をもてなくなった人と、そうでない人では必要なサポートが違ってくるはずだ。

人付き合いで失敗を繰り返して鬱になった人に、いきなり対人関係のトレーニングはハードルが高い。

こういう人にはまずは安心・安全が必要だ。
すなわち排除されずに存在できる場を提供することこそがサポートになる。

診断後の自己理解にも段階がある。自分の障害というものを受け入れがたい状態の人もいるだろう。

こういう場合には自己理解をすすめるための場があることがサポートになる。

しかし、ある程度自己理解も進み、かつ自己肯定感があがってくるとそれだけでは満足がいかなくなってくるのは当然だろう。

そういう人には特性に応じた各種のトレーニングがサポートとしては適切だろう。


当事者各人の段階にしても直線的に進むものではない。行きつ戻りつすることもあるだろう。

だから、これがベストというものはないのだが、とりあえず上記のような段階を意識することによって、より適切な支援(サポート)になるのではないだろうか。


同じようなことが自助活動にも言える。

自助会というのもさまざまなタイプがある。

・ノンテーマで雑談をするタイプ。
・テーマを決めて話しをするタイプ。
・各種のトレーニングを含めたワークショップタイプ。
・上記の混合タイプ。

同じような運営であっても参加者によっても雰囲気は変わってくる。

いろんなタイプの自助活動があってもいいと思う、というかいろんなタイプがあった方がいいと思う。

その方が参加者が自分のいる段階に応じたサポートを得られるだろう。

また、主催者側もこういったことを意識しておけば、グループ間に軋轢を生じることもなく、必要に応じて他のグループと連携をとったりしやすいのではないだろうかと思う。





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アスペルガー症候群者から定型発達者への歩み寄りについて

風邪を引いた。どうやら息子からうつされたようだ。
もつ鍋食ってあったまったのでおいおい治る…と信じたい。


さて…


コメント欄でいただいた疑問。


「アスペルガー者から定型者への歩み寄りはあるのか?」


これは障害に関する自覚の有無によって異なるだろうとしか言いようがない。


今回はコミュニケーション面だけに限って考えてみる。


自覚の段階を三段階に分けてみよう


1アスペルガー症候群である自覚がある場合

2何となく自身のコミュニケーション能力に問題を感じている場合。

3自分には何のコミュニケーション能力上の問題がないと考えている場合。



1と2の場合は確実に定型者に歩み寄っている。
いろいろ考えていることだけはほぼ間違いない。
(打開策になっているかは別問題として。)


問題は3の場合なんだろうと思う。

きっかけがなければ、自分がアスペルガー症候群であることすら気がつかない。
そうなれば

「何で自分ばかり責められるのか?」
「何で自分ばかり避けられるのか」

などの原因を他者にばかり求めて周囲に対して怒りや恨みを持ったりしやすいだろう。
他者を振り回してしまう例もあるかもしれない。
歩み寄りというのにはほど遠い。

だが、これが責められる問題なのか?というと話は別だ。
なぜなら、障害の自覚ないのだから。

こういうケースでは本人が自分の障害に関して気づくきっかけがあることを祈るばかりだ。



さて、1.2のケースに話を戻すが、

定型者サイドの歩み寄り要求が大きすぎるのではと思うことがある。

支援者側からの言い分としてアスペルガー症候群は


「支援しがいがない障害」


と言われることがある。


一言で言ってしまえば、障害特性を十分理解していない支援者なのだなあとも思うが、


定型発達の支援者側が「感謝の態度」はじめ、「良好なコミュニケーション」というものを被支援者に求めてしまう事による行き違いである。


ノンバーバルコミュニケーションがうまく機能しないこと、
コミュニケーション自体がうまくいきにくい事



が障害の大きな部分であるにもかかわらず、意識しないとつい定型発達者はこれらをアスペルガー症候群者に求めてしまう。



当事者が必死の思いで「ありがとう」と口にしても、
支援者は「棒読みで心がこもっていない」と感じてしまう。




これはありがちな事だろう。




ちょっと待って!と言いたくなる現象だ。


誰も白杖を持った盲人に「見えるようになれ」とは言わない。


だが、アスペルガー症候群者に対しては、障害がわかっていても


「もうちょっと察しろ」
「もうちょっと愛想よく」
「もうちょっと態度で示してくれ」
「もうちょっと即時に反応してくれ」



といった要求がなされてしまう。


ある意味不思議な現象だ。


記事「アスペルガー症候群者は正直であるしかない」のコメント欄で大福さんが指摘されているように、定型発達者とアスペルガー症候群者で歩み寄り像が異なることもその原因だろう。



まあ、定型発達者の分析と努力次第で定型者の望むような姿を「ある程度」演出できなくもないが、所詮「ある程度」であるので、常に、


「もうちょっとできないのか?」
「できるんならはじめからやれ!」



と言われる可能性をはらんでいる。


すなわち「定型者への歩み寄り」が「歩み寄り要求」のエスカレートを生む訳だ。


見えない障害、そして、コミュニケーションの障害というのは、このような矛盾をはらんだ障害なのだということ。


そして、無理をして「歩み寄り」をしようとし過ぎればそれ自体のストレスで
二次障害にもなりやすい。


ここんところ、定型発達者にすべて理解してもらうというのは現実的には無理である。が、できれば福祉関係者はじめ、支援者と呼ばれる人にはもうちょっと理解して欲しいと思うのである。

アスペルガー症候群者サイドでも、この構造、理解しておいたほうが二次障害の防止のために有用ではないだろうか。


そう考える。





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