久々に東京に行って考えたこと(1)快適性への投資

お盆の墓参と親類の見舞いを兼ねて久々に東京に行ってきた。
 
三年ぶり?かな。

11日の夜の夜行バスに乗り、東京についたのが翌朝7時半。

なんと夜行バス初体験!

12日の夜には大阪に戻らないといけない…とはいえ、実家(草加)にも寄りたいし、せっかく行くのだから多少はほっつき歩きたい。朝イチの新幹線に乗っても実家に着くのは10時半頃になる。滞在中の時間の余裕を増やすには夜行バスしかない…というわけだ。
 
バスならどんなに贅沢こいても新幹線よりはるかに安いわ~ということで、20人定員のバスにしたので足は延ばせるし楽だこと。
 
途中のサービスエリアで八つ橋とうなぎパイを、手土産用に購入できたし、バスも悪くないな~と思う。

日本橋に降り立って、そのまま地下鉄に乗っても良かったのだが、体ほぐしがてらちと散歩しようと東京駅に向かって歩く。八重洲口から自由通路を通り丸の内側へ。

丸の内側の赤レンガ駅舎を横目にお濠端へ向かう。
 
建て替えなどでビルが若干高くなりはしているものの、この辺の雰囲気はあまり変わらない。

東京駅周辺と違って馬場先門の辺りまでいくと、地下街も30年前とほとんど変わっていない。
ごった返しもしていないが、かといってがらスキでもない…といったカフェに入り、一息。
 
そして二重橋前駅から地下鉄に乗り実家へ向かう。

 
久々に乗った千代田線(東京メトロ16000系)は…大阪御堂筋線の新型車両(大阪メトロ30000系)よりはるかに静かだった。


静かさにびっくりしてデシベルチェッカーを引っ張りだす。
 


chiyoda_16000.jpg

ホイホイこのくらいの値が出るのだ…この程度なら今の私なら耳せんいらずである。


 
 

快適性に対する投資ってやっぱり重要だな。
 

そんなことを考えた東京行きであった。
 


(たぶん続く)




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相模原の殺傷事件に関する報道、言論に触れて考えたこと

7月26日に起こった相模原の障害者施設での殺傷事件、あまりにもいたたまれない事件としかいいようがない。

亡くなった方のご冥福を祈るとともに、殺害は免れたもの身体や心に傷をを受けられた方々の一日も早い回復を祈りたい。

この犯罪はあってはならないものだし決して許されざるものだと私は思う。
が、この事件は本当に多くのことを浮き彫りにしたとも思う。


ここ一週間というもの、この事件に関してマスメディアはさまざまな報道がなされたし、ネット上でもさまざまな声が飛び交っていた。
多くの人がそれぞれの立場でこの事件の分析をしていたようにも思う。

情報も錯綜している。なにか腑に落ちない点がありつつも、書くまでには中々至らなかった。

 

相模原の殺傷事件に関する幾多の言論


まず、この事件に関するさまざまな意見、声明、情報のうち目についたもの幾つかを紹介しておこう。


東大の福島智教授の意見
http://mainichi.jp/articles/20160728/k00/00e/040/221000c

立石美津子氏のコラム
http://itmama.jp/2016/07/27/128333/

読売新聞原記者のコラム
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20160728-OYTET50044/2/

毎日新聞オンラインの識者の意見まとめ
http://mainichi.jp/articles/20160727/ddm/010/040/038000c

尾木直樹氏の意見(ライブドアニュースより)
http://news.livedoor.com/article/detail/11826846/

松本俊彦氏の意見(容疑者の大麻使用の解釈に関して)
https://www.facebook.com/matsumoto.toshihiko/posts/1068801746533150

東京の知的障害支援のNPO代表山田由美子氏のブログ記事
http://teamaoi2003.com/post/3121

北海道で支援サービスをやっている大久保悠氏のブログ記事
http://terakkojyuku.blogspot.jp/2016/07/blog-post_27.html
http://terakkojyuku.blogspot.jp/2016/07/blog-post_29.html

事件報道に関するまとめライブドアニュースより
http://news.livedoor.com/article/detail/11820048/

松沢直樹氏の連続ツイートまとめ
http://togetter.com/li/1005305

手をつなぐ育成会の声明
http://zen-iku.jp/wp-content/uploads/2016/07/160726stmt.pdf
http://zen-iku.jp/info/member/3223.html

この事件が浮き彫りにしたもの


いろんなことが絡み合う事件だ。

容疑者のあまりに短絡的な思考がどう形成されたのか、
事件と容疑者の大麻使用との関連性、
措置入院からの退院後のケアの問題、
措置入院自体の是非や精神疾患患者の人権の問題、
市民の安全をどう守るかという問題、
障害者施設の立地問題や障害者差別の問題、
障害福祉や介護の現場の労働環境の問題や運営体制や、福祉や介護に関する法制度の問題、
被害者の実名公表の是非などを巡る事件報道のあり方の問題。


まだある。

事件の起こったのが強度行動障害者の受け入れをしていた施設であったというのもある。それはまた、福祉の世界に根強い「絶対受容主義」という思想、そしてそれと逆方向の「極端な治療主義」という二つの思想の問題。

さらにいえば、差別思想も含め、なにかと極論に流れやすい今の日本の世情というもの、その世情の背景にある人々の不安感なども浮き彫りになったのではないだろうか。

この事件が浮き彫りにしたものはとてつもなく多い。
それは今まで日本の社会が目をつぶってきたものであることは間違いないだろう。


他害の危険から市民を守るということの矛盾

社会からの隔離

容疑者は他害の危険あるという理由で措置入院していたという。
措置入院というのはある種社会からの隔離であるには違いない。

やまゆり園が強度行動障害者を受けいれる施設であったということはどういうことか?
それは、入所者の中にはすべてではないかも知れないが、他害や自傷の危険があるという理由でやまゆり園での生活を余儀なくされていた人がいたということだ。
これもまたある種の隔離であるのだろう。

他害の危険を理由にやまゆり園にいたため犯罪被害に遭った人もいるだろう。
その場所にいなければ被害にあわなかったかもしれない。

他害の危険から市民の生活を守るべきという理由で措置入院を積極的にという意見も見受けられるが、そのことは逆に強度行動障害で入所せざるを得ない人々もまた増やすことにもつながる。

まさに矛盾である。

他害の危険を「隔離」という手段以外で減らすことはできなかったのか?


そこに立ちはだかる問題に踏み込まなくてはいけないのかもしれない。


無関心と差別と自己責任論

属性の違う他者については関心が持ちにくい…これは誰しもそうだと思う。
何かメディアで取りあげられでもしない限り属性の違う他者に情報に触れることは少ない。

「障害者のことを理解すべき」

という声は多いが私はこういった言論はいささか無茶があると思う。

職業的支援者や行政の福祉窓口の職員であればあまり無知であってはいけないとは思うが、一般の人に細かいことを知れといっても実際的でないようにも思う。

無関心であってはいけないという理解の押しつけは心理的な拒否反応につながってしまう気もする。

その拒否感は差別や非情な自己責任論に繋がりはしないだろうか?

そんな危惧をおぼえてしまう。

無関心をなくせば…という問題ではないのかもしれない。

 
 
受容主義vs治療主義

ある種の障害に伴うパニックについては当事者の心理の受容こそがパニックを減らすための最優先であるとする意見は根強い。

「行動の全面受容=心理的受容」という前提に立つ場合、特に知的障害が伴う場合は他害が生じた時に打つ術がなく、家族や福祉職への負担が重くのしかかる。

そしてそれに対抗するかのように「そうならないように治すべき」という意見もある。そういう意見を持つ人それぞれが提示する手段はさまざまだ。

(なるほど状態の改善につながりそうだと思うものから、高価なだけでかなり怪しげなものまで…だが、ここではそれについては詳しくは触れない。ちなみに、私自身は「行動の受容」と「心理的受容」は別物だと思っているし、他害を伴うパニックはなんとかした方がいいと思っているし、こと自閉症に関しては心理面だけでなく身体面・感覚面、そして学習面をより重視したほうがいいとは思っているのだが、それとて、個々の自閉症児者の状態によって、家庭の事情によって最優先とするもの(できるもの)は違うと思っている。)


受容主義に対抗する意見は、受容主義に対して強烈な非難といった色彩が強いし、排他性を伴う気がする。

そしてそのことが、「なるほど」と思える提案を受けいれにくくしているような気がしてしまう。

人間はそれほど強くはない。
「だからいったじゃないの」という強い語気が感じられると、責められている気分なって内容を精査しないまま拒否しやすくなり対立の火だねにしかならない。

(実際不毛な対立がネット上で散見される)
 

パニックを伴いやすいと言われる自閉症などの障害者の状態改善へのとりくみが遅々として進まないのには、こういった「だからいったじゃないの」的な論調の影響も少なくないかもしれない。
 


極論の背景

今回の事件、もちろんさまざまな分析は必要だし、対策は必要だと思うのだが、今回の事件に関連して、前段で述べたような論調が噴出しているような気がしてならない。

差別を憎むといったものもあるし、非常に差別的な内容を含むものもある。

とても個別に紹介することはできない。

ただ言えることは

「だからいったじゃないの」
「だからこうなるんだ」

といった批判は、それが激し論調であればあるほど

「そうしなかった人がひどい目にあっても自己責任」
「そうしなかった○○が悪い」

というメッセージを伴いやすい。それは言ってしまえば無責任な責任追及であり、ときとして攻撃性や排他性をも伴いやすい。

とはいえ、ある意味その激しい論調というのは、言っている側が言っていることを「人ごと(よそごと)」としてしまうことで自身の身を守ろうとしていることの証左なのかもしれない。

「人ごと」でなければ出てこないだろう意見が多いということこそが、今の世情の息苦しさを示しているのかもしれないと思う。


もしかしたら、問題の「人ごと化」を極端に体現したのが相模原殺傷事件の容疑者の障害者排斥思想であるのかもしれない。

守らなければならないのは?


今回に限らず、だれでも恐怖を感じてしまうような残忍な事件が起こると、犯人を糾弾する言論はもちろんたくさん出てくるが、付随してさまざまな言論がわき上がる。

そして、不可解な事件であればあるほど極端な言論が出やすくなる、陰謀論のような現実離れした言論、差別的な色合い強いもの、個人への人格批判を伴うのもの。
それらは往々にして排他的であったり攻撃的であったりする。

そして逆に穏当な意見ほど出にくくなってくる。


つまりネットを含めた各種のメディアには極論が露出しやすくなる。
 

そういった時、子ども達が事件の凄惨さだけでなくその極端な意見(の排他性、攻撃性)に触れすぎれば、不安な気持ちになることもあるだろう。元々何らかの不安をかかえている人や、被害や言論の影響が自分の身に及ぶ可能性のある人もまた同様に不安な気持ちになっているかもしれない。

実際今回の事件後に不安からか調子を崩している人が私の身近にもいる。
 

特に子ども達に関しては身近にいる人が(別に親でなくてもいいと思うが)そういったことに配慮して安心させてあげられればなあ…と思わざるを得ない。
 
もうひとつ大事なこと、子ども達、若い子達がその未熟さゆえに物事を一面的にしか考えられず、目にした極端な意見に傾倒してしまうということもまたありうることだ。そうなっていないか?というのにも周囲の年長者が注意をしてければいいのかも知れない。
 

終わりに

現時点で私自身、結論めいたものは持てていない。
ただ、出てくる情報が少ないのに絡み合いが複雑なことだけだけが浮かび上がる。

この社会の構成員の1人として「できる範囲で人ごと化せず」考えていくしかないのだろう。

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2016 自閉症啓発デーに考えたこと

今年も自閉症啓発デーがやってきた。


 


そう、今日である。


東京タワーがブルーにライトアップされたりするそうで、いろんなイベントもあるらしい…というかもう夜中近い、そろそろそういうイベントも終わった頃だろう。


 


で、啓発デーに何か書くことがないかと考えたが去年の今ころ啓発に関する思い切り長ーい記事(「自閉症啓発デーに自閉症の啓発についてマジメに考えてみる」)書いてしまって、今もほぼ考えが変わっていないので今年はネタがない。


 


せいぜいのところ、


「成人未診断層」への受診啓発をもっとやったらいいんじゃないかなあ?


という考えをちょっと強めたということろである。


 


人生の早期に診断がつく可能性はここ10年ほどで飛躍的に高まった。


だが、当然この網をすり抜ける人も出てくるだろう。


幼少期に感覚過敏や多動やパニックが日常生活の支障となる場合は早期に発見もされやすいが、表面的な多動が少なく、比較的体力があって感覚の問題が鈍麻方向の人などは、日常生活に支障が出にくく、従って親も気づかず…になりやすいと思うのだ。


 


成人になって学生時代より高度な社会的な振る舞いが要求されるようになった段階で壁にぶち当たる人は少なくないのではないだろうか。


何度も何度も壁にぶち当たってから診断を受け…というのでは、誤学習の雪だるま状態になっている可能性も高いし二次障害も重くなっている場合も多いだろう。


 


そうなりゃ当然立ち直りにも時間がかかる。


ちょっと壁にぶち当たった時点で診断が受けられれば、方向転換も比較的容易だろう。当然社会的コストも低く済む。


ってなわけで、やっぱり成人未診断層への受診啓発というのは重要なのではないだろうかと私は思うわけだ。


 


え、受け皿の問題?…うん、あるね。


でもまあ、その辺は厚生労働省や精神医療関係者に考えてもらえたらなあとしか言いようがない。


 


ってなことを、パンを焼きながらうだうだ考えていたところで今年の自閉症啓発デーは終わろうとしている。


 


 







 


 

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発達障害児の子育てをお菓子づくりから考える

最近お菓子を作ることが多くなった。

シフォンケーキ/カット

まあ、デザート系のものや小豆系ものはそれなりに作っていたが、タヌキ亭主が「クッキー焼いてくれ~」といってみたり、娘が「バレンタインの友チョコ作りたい!」といってみたり、というのがきっかけで納戸からひとつふたつと菓子作りの道具を引っ張り出しては洋菓子作りをしている。

慢性寝不足生活から足を洗ったので多少気力に余裕がてきたのも大きい(そのことについてはもうちょっと後にまとめて記事にするつもり)。

まあ最近はお菓子を作るのも楽になった。スーパーでもそこそこ材料が揃うし、百均ではケーキやチョコレートの型やトッピング材料やラッピング資材もたくさん売っていてバレンタイン前ともなるとコーナーもかなり充実する。

とはいえ、それでうまいことケーキがが焼けるかというと実はかなり厳しいと思っている。

 

お菓子作りが嫌いにならないコツ

よくスーパーで特売になる日清製粉の「フラワー」や日本製粉の「ハート」といった小麦粉を使って素人が乳化剤等の品質改良材を全く使わずに美味しいお菓子を作ろうというのは実はかなり無茶である。

ふくらむ系のお菓子なら少なくともバイオレット。できればスーパーバイオレット使うとふくらみ方がぜんぜん違う。

小麦粉だって産地や品種や挽き方なんかでかなり種類があるのだが、スーパーの店頭の小麦粉ラインナップがとっても寂しい状況だから知らない人も多いのかもしれない。結構な種類の菓子向き小麦粉が業務用中心にではあるが販売されているのだ(最近は小分け販売も結構されている)。

ちょっとは値が張るものの、市販のバカ高いミックス粉買うくらいならお菓子に向いた小麦粉を買ってしまったほうがが断然オトク、そして残念な出来上がりになることも格段に減る。

出来よりも「手作り」ということに価値を見いだすのも悪くはないが、バレンタイン近辺の時期は、無茶をしたあげく残念な結果になって苦手感をつのらせる人が出やすい時期だなあとは思う。

同じように作っても小麦粉ひとつで出来上がりにかなりの差が出る。

別に小麦粉が悪いのではない。日清のフラワーやニップンのハートはお値段手頃で汎用性が高い小麦粉である。肉や魚を焼くときに表面にまぶしたり、ホワイトソースを作ったり、ホットケーキや鬼饅頭を作ったりするのであれば何の不都合もないだろう。

ただ、ケーキやクッキーを作るとなるとちと合わないというだけだ。

素材の特性を知り、それを活かせる範囲で使うことは重要である。

小学校高学年くらいの女の子はお菓子作りにチャレンジする子が増えてくる。そこで

「知らずに無茶をする→残念な結果になる→苦手感をつのらせる」

となってしまうのはとても残念だと思う。

私の子どもの頃なら「ケーキ作りたい!」と思ったところで家にオーブンがない家庭も多く、こんなことで苦手感の生じようもなかった。何となくまねごと出来れば万々歳だった。

しかし時は移り変わる。道具も材料も簡単に手に入る時代だからこそ、素材を知ること、知ろうとすることが重要になった感はある。

 

発達障害児の子育てとお菓子作り

 

この「知らずに無茶をする→残念な結果→苦手感をつのらせる」という構造、お菓子づくりの場面以外でもよくあることだ。

まあ、ものがお菓子であるなら食わなくても生きていける、そして街にでれば上等な品も売られているのでどうしても食べたければ買えば済む。

避けて通れるものであるなら、やめておこうというのもひとつの選択である。人生そんなに無限じゃない。

 

だが、避けて通れないこと、つまり生活上必須のことはなかなかそうはいかない。

最たるものが子育てだろう。

発達障害児の育児というのは避けて通れないこと以外は難易度の高いお菓子作りと似ている気がする。

多くの親御さんが悩む

「なぜ一般の育児書に出てくる成長パターンとかけ離れているの?」

というのは、お菓子作りにおける

「なんでレシピ通り、手順通りに丁寧にやってるのにうまくできないの?」

というのとかなり似ている気がする。

そしてお菓子の場合だと「本にある手順以外に何かコツがあるのか?」あたりはわりと検討する人が多いのだが、「その素材はそのレシピに向いているのか?」「そのレシピ自体がかなり無茶では?」あたりをはずして沈没する人が出てくるわけだ。

 

さて、発達障害時の育児について考えてみよう。

  • その療育アプローチはうちの子に向いているのか?
  • うちの子のどこからどこまでが特性なのか?性格なのか?
  • その療育アプローチは本当に効果が期待できるものなのか?

など、いろいろ親として考えることは多い。

どっちが素材でどっちがお菓子か?はたまたこの場合の成果とは?とかいうことはまあいろんなとり方がありうるが、要は「見きわめの問題」「マッチングの問題」がかなり大きい。

ひとつのアプローチ方法に関して「何とかうまくいかないか?」と粘り強くトライすることを否定する気はない。そういったたゆまぬ歩みが必要なことももちろんある。

ただ、もし「どうも子育てへの意欲が低下して...」とか「なんだか療育疲れっぽい...」と思うことが多いのであれば、ちょいと視点を変えてみることも必要ではないだろうか?

「知らずに無茶をしている」というパターンに陥ってる場合もあるかもしれない。

 

重大な誤学習を放置したままSSTやっても形だけになりやすいだろうし、うまく姿勢がとれないのを放置したまま筋トレしても効果は出にくいだろう。

睡眠の質が悪い状態では何やってもぼーっとしやすくて当然だろう。

 

 

発達障害児との付き合い方も育児のコツも療育アプローチもいろんな知恵が集積されてきた。

療育アプローチのいろいろについて、類型と特徴を私なりにまとめた記事はこちら

 

どういう場合にどういうアプローチが向くのか、どういった場合には避けた方がいいのか?よくよく観察し、タイミングも含めて検討し、試行錯誤をしていく(そりゃもちろん危険性のない範囲でだが)ことで道が開けてくることは多いのではないかと思う。

 

ガレット向けの小麦粉なら、フワフワのスポンジケーキを作ることを目指すよりも極上のガレットつくることを目指すして努力するほうがはるかに楽だ。

そしてうまくできればみんな笑顔になれる。

 

=おまけ============

もちろん、レシピ本を見るだけ...でないのが前提ですよw。

=さらにおまけ===============

愛用のスポンジケーキやシフォンケーキ用がふくらみやすい小麦粉はこれ。特宝笠(とく たからがさ)という薄力粉です。

 

 




 

 

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ソーシャルスキルと料理のコツと試行錯誤

久しぶりにパンを焼いてみた。



そして、パンを作りながらさじ加減というものについて考えていた。




パンやお菓子に関して、うまく作るためのアドバイスとして「レシピ通りに」というのが非常に多い。


だが、レシピを開発する方は既存のレシピ通りにやっていないのもまた確かである。




実をいうと私はパンもお菓子も結構いい加減に作るクチだ。




そのために何をするかというと、まずレシピ通りに何度かつくり、毎回ある程度まともに再現できる状態になってから、レシピを変化させてつくり、配合の限界点を見極める。



卵三個(正味150g)でスポンジケーキを作るとき、果たして粉の量はどこまで抑えられるか?そのためにどんな条件が必要か?とか…まあいろいろ試した。



まあ、結論からいうと素人が助剤なしでやるには薄力粉60gが限界だろう、そしてその限界を実現させるには卵の安定した泡立ちと生地の柔軟性のために砂糖は90g以下に減らしてはいけないようだということがわかったのだが、それまでにたぶんスポンジを20~30台以上は焼いただろう。



ここまでやると薄力粉70~110g-砂糖90~110gくらいなら、配合を適当にやってもそれなりのスポンジが焼けることがわかり、あとは気分でいいかげんにスポンジを焼くことができる。




レシピ通りというのはある意味安全ではある。だが、レシピ通りにしかできない。




どの範囲なら大丈夫か?というのをいろんな要素を変えて試行錯誤していくことによって脳みそに突っ込んでいくというのはなにも料理の話だけではない。




「もうちょっとうまい方法ないかな?」


「このセンス取り入れられないかな?」


「ここをこうしてみたら?」




あれこれ考え、試行錯誤するのは実は非常に日常的な行為である。



お金の使い方、化粧の方法、家具の配置、部屋の模様替え、そうじや洗濯の工夫…何も試行錯誤したことがないという人は少ないだろう。




多くの試行錯誤をすれば当然「イマイチ」というレベルの失敗の発生も多くなる。




「あちゃー、イマイチ!」



と思ったら「●●というやり方はイマイチの結果を生む」という新たに入手した情報を元に別の手を考えるというのが一般的ではないだろうか。




試行錯誤が生命・身体の危険につながらないための最低限の知恵をつけておくことは必要だし、イマイチの結果が少なくするようにあらかじめある程度の情報収集してリスクを低くしておくのもいいだろう。



とはいえ情報収集だけで試行錯誤をしなければ何も生み出さない。




レシピ本を読んだだけで「さじ加減」ができると思う人がいたとしたらと超絶抱腹絶倒レベルの自信過剰だろう。





ソーシャルスキルの獲得(そのための療育も含め)も構造は全く同じだろう。さじ加減ができるようになるには試行錯誤が必要だ。




強いて違いを挙げるとするなら、人との関わりは非常に変化が多いということだろうか。同じ人に会うにしても自分の気分も相手の気分も前回と同じ状態ということはないのだから。





最近、発達障害者、発達障害児の親御さん向けとおぼしきソーシャルスキルの本が増えてきた。



そしてそれらは



「こういう場合」→「こういう対応」



というマニュアル型のものが非常に多い。これらはレシピ型ということもできる。



別にこういう形のものがすべて悪いというわけではない。




既成のレシピなのだから、試行錯誤して取捨選択するなり調整幅を見極めてアレンジして使えばいいだけのことだ。




だが、「いろいろな方法を試しているのに今ひとつ成果が…」という声はよく耳にするし、「私に(うちの子に)使える本がない」と嘆く声もしばしば耳にする。




ベストのレシピを…という気持ちはわからないでもないが、待っている間に年月は経つ。




正直なところベターなアレンジを見つけるために重大リスクだけ避けてどんどん試行錯誤するほうが早道ではないかと思うことは多い。




試行錯誤すればもれなく大量の失敗がついてくるが、その失敗を怖れすぎると、試行錯誤をし損なうという失敗がもれなくついてくる。




なにやら禅問答のようである。




…などということをパンを作りながら考えていたのだが、昨日は台所の室温が予想以上に低く、最終発酵の加温が準備していた方法(余熱中のオーブン上を利用)で思うようにできなかったので途中で急遽加温方法を変更し…というすったもんだの末に予定より30分遅れで完成したのがしたの下のパンである。



pan2016.jpg




プレーンな系統のパンをとーっても久しぶり(10年くらいつくってないかも)なので作るのが楽な小麦粉(ゴールデンヨット)に頼りはしたが、結構いい出来だった。何より焼きたてのパンは香りが最高!




終わりよければすべてよし!




 


 


↓ゴールデンヨット:グルテン量がとても多いので膨らみよく作りやすい強力粉。













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障害者差別発言との指摘のある堀江貴文氏の発言を障害者就労問題から考えてみた

扇情的な批判記事タイトルと内容との乖離から

堀江貴文氏のツイート炎上?の話がなかなかセンセーショナルなタイトルつきでFacebookでいくつか流れてきた。

「ホリエモン「障害者は働いてもプラスにならないよ!時間のムダ」」

記事のタイトルがすでに堀江貴文氏のツイートをかなりねじ曲げてるとしか思えない。

ホリエモンの障害者差別発言に非難殺到!「ついに叩く相手が障がい者になったか」「絶対に許せない」

  

どうやら「許せーん」って感じで怒ってる人が障害者福祉に関わる層や障害当事者の中にそれなりにいるようだというのはわかったのだが

…私の頭の中では、

あれ、堀江貴文氏って確かベーシックインカム賛成派だったよなあ…あれれ???

堀江氏といえば表現がおとなしいほうではないけれどそこまで不用意な発言(ツイート)するかなあ???

というような感じで疑問符がてんこ盛りなった。

で、ちょっと気になり、元を漁ってみた。

批判のきっかけになったツイートは下記の模様

それは勝手にやってくれ。ただその多くは社会的にはプラスにはならないよ。したいならやり方を考えよう RT @tookik_jp: 障碍者の人達にも社会貢献したい人は多いですよ。その場を経済活動/労働に求める人も当然います、作業だろうがなんだろうが。

https://twitter.com/takapon_jp/status/634389152738336768

これを反射的に障害者差別と捉えるのはちょっと早計だと言わざるをえない。

堀江氏は

 「したいならやり方を考えよう」

といっているのだ。

元々アマゾンの自動ピックアップシステムの話からはじまってるようで、そうなるとここで堀江氏の言っている「社会」ってのは生産活動、経済活動の場としての社会だろう。

障害者の就労と生産性、採算性

経済活動としての労働では採算性を無視することはできないのは当然だ。

だが、現在の障害者就労の多くはそれを無視した形ですすめられてしまっている部分が大きい。

法定雇用率達成だけのための雇用、補助金目当ての雇用なども横行する。そんな企業では労働する障害者を戦力化しようなどという方向性に行くことは少ないだろう。

差別解消の名のもとに無闇矢鱈に企業に雇用義務を押しつけても、賃金は低く抑えられるだろうし、生産性を無視して高い賃金を支払ってしまったらこんどは健常者と障害者との間で軋轢が生じる原因になりかねない。

誇りと生きがいを持って働くということを考えたとき、労働生産性というのを考慮しないわけにはいかないのだ。

生産性に貢献できない状態では例え賃金が得られても「飼い殺し」に等しい状態だと私は思う。

ならば、障害者を戦力化できる仕組みをつくればいいし、障害者も戦力になるべく努力すればいい。

できないことではないはずだ。

スワンベーカリー、日本理化学工業…etc.

障害者を戦力化する方向でやっている企業も出てきている

「やり方を考えてきた」企業だ。

もちろん障害者も様々である。どうしても就労が無理という人もいる。そういう人々をどう支えるかという問題は残る。

だが、それは就労問題とは切り離して国の福祉政策として考えるほうがいいだろう。

 

単純労働が機械やロボットにシフトしてきている時代である。人口の大多数が就労する必要があるのか?という問題も出てくるし、そうなれば生産によって得られた富の分配の常識というのも今後急速に変わっていくのかもしれない。

こういった情勢もふまえて考えていくと、堀江氏の発言に取り立てて障害者差別につながるようなところはないと私は思う。

むしろ、堀江氏の発言に対して障害者差別だ障害者排除思想だと声高に叫ぶ人のほうが非現実的であるような気さえする。

「じゃあどういうやり方があるかなあ?」といった方向に話しが展開するのを阻害してしまっているような気がするのだ。

こういう状況こそが、様々な障害者問題の解決を遅らせているような気がする。

障害者問題を考える環境も変わってきた

そんなことをつらつら考えているうちにこの件に関わる様々な記事が出てきた。

【検証】障害者差別発言とされているホリエモンのツイッターを順番に読んでみた(解説付き)

 

乙武洋匡氏が堀江貴文氏を擁護 差別発言との指摘に「悪意ある捏造」

”善良”で無自覚な差別主義者(ひろゆき/西村博之氏)

 

こういった記事が出てくるというあたり、10年前に比べて風通しがよくなってきたのだとは思う。

 

確かに障害者の中には悠長に構えていられないほど困っている人も少なくない。となれば、今回の堀江氏のツイートに接して、自分に結びつくような気がして過剰反応してしまう人もなかにはいるかもしれない。

だが、今、個々人が困っていることに対する対策と、社会全体として将来どうしていったらいいかの方策を考えるのはキチンと切り分けておいた方がいいと思うのだ。

両者には必ずタイムラグが生じるから、社会の変化に期待していたら、いつまでたっても不幸や不満を持ち続けるはめになる。

建設的な議論をしていきたいものだと切に願う。

 






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認知や考えが変わったら自己はどうなる?という発達障害当事者からよくきく不安に対して答えてみる

成人の発達障害当事者からときおり聞く不安に

出来ることが増えたりや認知や考え方が変わったら自分が自分でなくなってしまうのではないか?

というものがある。

直接聞かれた場合は

「別にそんなことないと私は思うねえ」

と私のもっている印象を答えておくことが多いのだが、結構深刻に悩んでいる場合もあるのかなあと感じたことも少なからずある。

「ありのままでいいんだよ」

などいわれれば、自分が変化してしまっては「ありのまま」ではなくなる気がするのかもしれない。
だが、「ありのまま」にこだわって、楽に過ごせる可能性を見落としてしまうのもまたもったいない気がする。

この疑問への説明をふと思いついたので書いてみることにしよう。

小さい頃自転車に乗る練習をした人は多いだろう。
その前後のことを思い出して欲しい。

自転車の練習をする前は

 「自転車に乗れるようになりたい」

と思っていたはずだ。

練習をはじめた段階で、自転車をうまくとり回せないことで

 「果たして自分は本当に自転車にのれるようになるんだろうか?」

という不安を覚えた人も多いかもしれない。

(そこを周囲の指導や励ましやら、乗りたいという思い、乗れるようになるはずだという信念等々で乗り越えていくわけだがその過程については今日の本題ではないのでちょっとおいておく)

さて、自転車に乗れるようになった後の考え方はどうだろう。

 「自分が自転車に乗れるのは当たり前」

と思ってはいないだろうか?

「自転車に乗れない自分」なんてのは記憶の彼方遠くにすっ飛んでしまってるだろう。

ここでちょっと考えてみて欲しい。

自転車に乗れなかった時点と、自転車に乗れるようになった時点の比較。 自分が自分であることに何か変化はあっただろうか?

殆どの人がないと答えると思う。

自己認知は変化する。
 自転車にのれない自分→自転車にのれる自分

出来ることも変化する。
 自転車に乗れない→自転車に乗れる

考えも変化する。
 自転車に乗りたい→自転車に乗れるようになるかか不安→自転車に乗れるのは当然

だが、自分が自分であることには変化がないはずだ。
行動の変化も認知の変化も考えの変化も自分が自分であることを何も変化させてはいない。

自分が自分でなくなるなんてことはないわけだ。
(考えやできることが変わるたびに自己が変化してたら人間やってけないだろうとも思うし、それは病態だ。)

「いわゆる自分を変える」というのは「自分が自分でなくなること」ではないのだ。

特性と呼ばれているような性質が薄れたら自分が自分でなくなってしまうのでは?

とか

自分が変わってしまったらいままでの考え方を形成してきた過去を否定することになるのでは?

なーんて不安になる必要はさらさらない。

一皮むけるだけのことだ。

エビ・カニだって脱皮して成長する。
人間も素直にそれを見習ったほうが成長できるのでは思う。

もちろん自分が気に入っている自分の性質・状態・行動はあえて変える必要はないだろうが、変えたいもので変えられる可能性のあるものは威勢良く変えてしまってもなにも問題はないということである。

成長期以降、あまり変化が目立たなくなるしのでいろんなことに「慣れ」が生じる。
「慣れ」は安心にも繋がることから、人間、定型・発達障害を問わず、年をとるにつれ段々変化に抵抗が生じ、、「変わること」への抵抗や不安を抱える場合があるのだと思う。

ちょいとおまけで、支援者の皆さまに。
発達障害者に「ありのまま」を強調すると、そこにこだわりを持ってしまう可能性もありますんでそこんとこよろしく。

こんなところで本稿おしまい。



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発達障害者と努力と冷やし中華の話

努力と練習と習熟と

発達障害者が言われて困惑する言葉の筆頭はこれだろう。

努力が足りない、

いったいどこまで努力すればいいのか?

必要な努力とはどういうもの?

悩みこむ人は少なくない。

いわゆるスキルに関してだが、facebookのフィードにこのことに関連する興味深い話が流れてきた。

「どんなスキルでも1万時間練習すれば達人になれる」は正しくない:研究結果 | ライフハッカー[日本版]

スキル習得1万時間説というのは、あちこちに流布していて、努力や根性が好きな人には目標設定が明確になるといった意味で好意的に受け取られる反面、他人に対して「努力不足」というレッテルを貼る材料にもなってしまいがちな側面もある。

上記の記事で取り上げられているのはブリンストン大学の研究だそうだ。

目的としているスキルによってスキル習得に練習時間の関与する比率が異なるというのはなかなか興味深いし、平均だろうが、「(意図的)練習量が技量の差の原因のわずか12%しか占めていない」という数字も、その数値の低さにかなりびっくりである。

スキルの習得には練習は必要なものではあるものの、練習・訓練以外の要素がここまで大きいとなると、「とにかく練習!」「ひたすらトレーニング」というのが合理的でないということになり、努力万能主義がはびこるのに一定の歯止めが掛けられる可能性をもった研究成果ではないかと思う。

練習量以外のどういったことが技量の差を決定しているのか?これからの研究の伸展が気になるところでもあるが、日本などはもともと努力主義のはびこりやすい土壌なだけに、練習以外の要素をもっと積極的に考えていくことは悪くはないだろう。

同じスキルに到達するのにサックリ到達してしまう人もいれば、長時間かかる人もいる。

この違いにはいろいろな要素が考えられる。「身体機能(器用さ、知覚等)」「好き嫌い」「指導者」「周囲の励まし・評価」「コツの知識量」、「動作を認知する力」、「動作を再現する力」「必要な情報を収集する力」「コツを構築する力」…。

冷やし中華から見えてくる努力の方向性

ちょっと思い出したのが錦糸卵(薄焼きの卵を細く切ったもの)。そう、細切りになって冷やし中華の上に鎮座していたり、ちらし寿司の上にちりばめられていたりするあれである。

hiyashi.jpg

卵を薄く焼いて切っただけのものであるが、これが意外にコツがある。

まず配合。味優先か見た目優先かで配合が変わる。塩か白だしあたりで味を調えるが、できるだけ細く切りたい時は水どき片栗粉少々を加えておくと張りが出やすく、細く切りやすく仕上がる。

あとは焼いてから切ればOK…とはいかないのが困ったところで焼いたり切ったりにも結構コツがいる。まあ錦糸卵の作り方はこの記事の主題ではないので、切る部分にしぼって話を進める。

焼き上がった卵を重ねて適当に折りたたんで切るわけだがそう簡単にうまくいかない。
焼いた卵は結構柔らかいのでつぶれやすいし何枚も重ねていると角度もずれやすい。お手々を猫の手にして、ちょっとずつずらしていく…ことができても意外に難航するポイント。

何度も練習して力の加減等を体得…なんてことを言わなくてもあっという間にうまくなる方法がある。

実は初心者や下手な人を見ているとたいてい包丁の刃渡りをケチって使っている。
刃渡りをケチって使えば力が必要になり、つぶれやすく、ずれやすくなる。

「刃渡りのうち最低10センチくらいは使って、力を今までより半分くらいぬいて切ってみて」

これでたいてい格段に上手に切れるようになる。

この場合、「刃渡りの使い方」という視点がなければいくら練習してもそうそう簡単にはうまくならない。
「慣れ」とか「練習」をやたら強調するひとは、できない人の動作を観察できていないという部分はある場合が往々にしてあるのだろう。

ただ、毎度コツを教えればいいのか?というとそうでもない。
「視点」を自分で見つけられるようにしないと後年自力でスキルを身につけられないとったことになりかねない。

発達障害者の場合、どうしても1箇所に注目が向くとそこからフォーカスをはずしにくいという人は多い。
上手なやり方と下手なやり方の「違い」を多方面から観察していくといったトレーニングをしていくことは療育等でも重視されて良いのではないだろうかと思う。

「どこが違う?」「何が違う?」といった問いかけというサポートがあれば、結構身につくものなのではないかと私は思っている。

努力もトレーニングも効率よくすれば負荷は減るもんね。



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AKB48握手会襲撃事件の容疑者が発達障害との報道から考えたこと

許されざる犯罪だからこそ考えてみたい

この事件のあった日、報道を目にまず思ったのは、「え、警備体制は?」ということであった。

うら若き女性アイドルを主役に握手会をするのであれば彼女らの身の安全を守ることは絶対必要なことだから、警備体制は万全なのだろうと思っていたのだが、どうやらそうではなかったようだ。

いきなりノコギリで切りつけられた被害者のAKBメンバーとイベントスタッフ、さぞ痛かったろうしショックを受けもしたろう。身体の傷だけでなく心の傷も負ったはずだ。彼女らの傷が早く癒えることを祈らずにはいられない。

事件報道の後、会場の警備体制の問題、握手会というイベント自体の問題等、いろいろな議論が巻き起こった。そして容疑者が発達障害者では?という話もちらほら出ていたのは、このブログにも「発達障害 犯罪」で検索して訪れる人がちらほらいることから知るにいたった。

そして、28日、「スッキリ!!」という朝のテレビ番組で梅田容疑者が発達障害であることが母親へのインタビューから明らかになったようである。以下のリンクはその内容をダイジェストしたj-castの記事である。

http://www.j-cast.com/tv/2014/05/28205936.html?p=all

犯罪容疑者が発達障害者であったという報道があると、発達障害に関する差別や誤解や偏見が助長されるとかいった論調をよく見かける。そして、容疑者がいじめや発達障害で苦しんでいたから…といった論調も出てくる。容疑者を受け入れなかった社会にこそ問題がとする論調も出てくる。当事者・保護者界隈からは「報道で障害名がでることで発達障害者が犯罪予備軍としてみられるのではないか?」といった不安の声も聞こえてくる。確かにどれもわからないものではない。

だが、被害者は大怪我をしている。痛かったろう、そして被害者も周囲も相当な恐怖を感じただろう。やはりどんな事情があれこれはやってはいけないことだ。許されざる行為であり、そこに疑問を挟む余地はない。当然容疑者は相応に罪を償う必要性があると思うし、同様の犯罪の再発を防ぐための方策を考える社会的必要があるだろう。

いろいろなものが絡んでいる。発達障害だけでなく、いじめ、貧困、母子家庭、孤立化、雇用環境、社会風潮、さらにはAKB商法と言われるアイドルづくりの是非、握手会のような芸能イベントにおける危機管理のあり方などなども含め、複雑にからみあう。そして複雑であるだけにどれか1つを取り上げれば他の問題が隠れてしまいやすくもある。

報道で出てくる情報も限られているし、全部を検討することはとても私にはできないが、考えられる部分だけでも考えてみたいと思う。長くなってしまい申し訳ないが、しばしお付き合いいただきたい。

今までもあった事件報道とその後に感じる違和感

マスコミを騒がせた事件で発達障害者が犯人であったケースは少なくない。 このあたりは、るーたんのちちさん がまとめてくれている。

http://ameblo.jp/ru-tan0315/entry-10278081523.html

もちろん、発達障害者以外も犯罪を犯すことがある。にもかかわらず、なぜ注目を集めてしまうのかといえば、動機が不可解な場合が多いことや、犯罪行動が無差別的だったりするためが社会に与える衝撃が強いのではないかと思う。

ただ、個々の事件報道において、犯罪行動に犯人の障害がどう関与したか?あるいは関与しなかったのか?といった報道がなされることはほとんどない。

家族関係の問題があったかとか学校環境・職場環境によるストレスがどうであったかなど様々な情報や憶測が飛び交うことはあるが、許容力のない社会(or学校)の側の問題という論調が出てくるか、障害名を挙げた報道自体が差別や偏見を助長するので問題だという論調が出てきて、何も検討がなされぬままに報道が下火になるというパターンが多い。

これで良いのだろうか?社会的な不安が払拭されないことが却って発達障害者への偏見を増やすことになりはしないだろうか?

こういった流れになりがちなのは「差別」を持ち出されることにあまりに報道が神経質であることもあるだろうが、(少なくとも表立っては)リスク因子の検討がなされてこなかったということが大きいだろう。

環境や生育の問題が取りざたされるたとしても、専門家がコメントすることもほとんどなく、それがどういった形で犯罪に関与したのかといったことが明らかにならない以上、うやむやになるしかないのはある意味必然でもある。

報道関係にだけその責任をかぶせるわけにはいかない。

犯罪を犯した発達障害者とそうでない発達障害者はなにがどう違うのか?発達障害者における触法リスクとは何なのか、そしてそれは定型発達者の場合の触法リスクと違いはあるのか?また、触法リスクを低くするための手だてはどういったものがありうるのか?そういった検討をしっかりするべき時期に来ているのではないだろうか。

こういった事件があるたび、そんな事を考えていた。とはいえ白状すると、何しろ情報が少ないし、どう考えて良いのか考え倦ねていた部分もあり、今までこの手の問題について何も語ってこなかった。

口をつぐんできた私がなぜ口を開いたかといえば、今回の事件では、かなりの情報が早いうちに流れてきて、そこにいくつかの気になるポイントが見つかったからだ。

不可解で無差別的な犯罪であることの意味するもの

発達障害者が犯したとされる犯罪のうち、こと凶悪性の高い事件では、「社会に対する衝撃」をねらったのではと思われる節があることから犯人に「社会への強い恨み」があるように感じられることが多い。だがその恨みが形成されていく過程がかなり不可解である。

「いじめを受けた」「虐待された」というような事情があったとしても(それ自体もあってはいけないが)、そういった事情を持つ人が社会への恨みを持つわけではない。PTSDやフラッシュバックに苦しむことがあるとしても、その人なりにその痛みを消化していき、反社会的行動の動機となるほどの強烈な恨みを持ち続けることは多くはない。

なぜ犯罪を犯してしまった発達障害者は「社会への恨み」をつのらせたのか?

そこには抜け出せない絶望感、ある種の強い「おわった感」とでもいうようなものが関与しているのではないかと私は感じる。

大方の人にとって人生山あり谷ありで、嫌な目にあった、あわされたとしても、多くの人がそれを適当に乗り越えたりかわしたりしながら生きていく。もしそれが社会の構造等に起因することであったと感じても、嫌な目にあわせない人(信頼できる人)との繋がりが救いになったり、そのことを反面教師にしたりバネにしたりして他に活路を見いだすことなどを通して解消したりし、趣味等の楽しみで癒やされたりして、普通の生活を送っていくことがほとんどだ。

だが、こうういった犯罪を犯してしまった人においては、ある種の「嫌なこと」が「おわった感」をもたらす決定打になってしまいやすい認知の特徴があるのではないだろうか?

今回の事件の報道から見えてくること。

冒頭で挙げたリンク先からすこし引用する。

結局、2年生の夏に退学して通信制の学校に変わった。アルバイトもして、給料は全部家に入れた。体が弱い母親を助けたいという思いが強かったという。おととし(2012年)に大阪へ行った。

  母親「『向こうは給料が高いから』って、ハローワークで自分で調べて。知り合いもいないし、都会は向かないから反対したんですけど」

大阪では警備会社に住み込みで勤務した。月給は約20万円で、3万円を残して全部母親に送っていた。

母親「私が丈夫じゃないから、楽させたいと思ったのかもしれない。言葉はあまりいわない。給料をもらうとすぐ振り込んでくれるんです」

その大阪で精神的に不安定となり、体調を崩して精神科を受診している。そこで発達障害(対人関係がうまくいかない。環境になじめない)と診断された。

母親「『オレは仕事ができないんだ』といっていましたね。自分は仕事がしたいのに、コミュニケーションとかが苦手だから友だちができない、話す人がいないと。仕事がしたかったと思うんだけどね」

  中略

母親「ハローワークも行かない。自分が何もできない人間と思っていたのかもしれないですね。仕事は休みたくないという顔した子だった。だから体調が悪くても仕事に行く。仕事しているときは生き生きしている。じっとしていたくない子なんですよ、本当は…。何がしかしたかったけれども、ひととのコミュニケーションが下手で、会話ができないから、どうしてもやりたい仕事につけない。それがプレッシャーだったと思う。誰かに認めてもらいたかったのかもしれませんね。自分がいることを。面倒見なきゃと思ってて、それがだめになったから、自分はダメだと思ったのかもしれません」

http://www.j-cast.com/tv/2014/05/28205936.html?p=all より引用】

この母親の語った内容が事実だとするなら、私の脳みその中には大量の疑問符があふれざるを得ない。

今回事件の起こったのが5月25日で、「スッキリ!!」の放送時間が朝の8時からであることを考えると、インタビューは前日だったろう。容疑者に発達障害があったという情報が出てくるのがあまりに早いのでまず驚いた。

容疑者は大阪で警備員をしていて20万の給料のうち17万を母親に仕送りしていたという。ここにまず違和感を感じる。

朝日新聞デジタルによると建設現場の交通整理の警備だそうだ。
http://www.asahi.com/articles/ASG5V3F5PG5VUTIL00D.html

 梅田容疑者は、母親とおじとの3人暮らし。通信制高校を卒業後、青森県や大阪府などでアルバイトをした。一時登録していた大阪府吹田市の人材派遣会社では、一昨年12月中旬から昨年3月末までの間、建設現場で交通整理の警備員をし、同市内の社員寮で暮らしていた。

朝日新聞デジタルより引用

建設現場の警備員で20万稼ぐということがどういう事か?現在の大阪での相場は日給6000円~7000円程度、そして建築現場というのは夜勤はほとんどないし残業もさほど多くない現場が多いことを考えれば月のうち25日働いてやっと稼げるかどうかというラインである。そうやって稼いだ給料のうち17万を仕送りとして送金するというのはいかに親孝行としてもかなり度が過ぎているのではと思う。

まして容疑者は24才の若者である
若者らしい楽しみに対する欲求はなかったのだろうか?<br /> なぜ実家への多額の送金にこだわったのだろうか?

そういった疑問が次々と浮かんでくる。

インタビュー内容から見る限り、この容疑者の母親は「病弱な親を思う孝行心」として受け止めているようだが、なにか不自然な感じを受けざるを得ない。

容疑者にとって親孝行な息子であることが絶対善として認知されていなかったか?ここになにやら認知の問題のにおいを私は感じた。

認知のゆがみが引き起こすもの

ここでちょっと認知のゆがみ問題を考えてみる。

認知のゆがみの代表的なものは10ほどあるといわれる。

 二分割思考、過度の一般化、破局思考、マイナス化思考、否定的予測癖、
 過度の責任性、すべき思考、選択的抽出、低い自己評価、拡大or縮小思考

発達障害者には認知のゆがみが生じやすいともいわれるが、定型発達者でもイライラしやすかったり落ち込みやすい人にはありがちな思考傾向でもあるし、うつ病のときなどはこういった認知をしやすいとも言われる。

  認知のゆがみに関する説明は下記をどうぞ。
   http://psycience.com/pdf/kokorobook.pdf 
  (中学校保健体育副読本「悩みはがまんするしかないのかな」6ページ)

だが認知のゆがみがあることだけでは「悩みやすい、落ち込みやすい、傷つきやすい、怒りやすい」という傾向にしか至らない。

本人が辛いのは確かだし、こういう傾向が強いのであれば解消した方が楽なのも確かだが、他者に危害を加えるほどの社会への強い恨みに直結するとは考えがたい。こういった思考に陥ったとしても一過性の心理状態として葛藤処理されて過ぎていくのであるなら、反社会的行動に至るほどの反社会的価値観の形成にはつながりにくいだろう。

しかしもし背景として現実離れした高すぎる規範意識があったらどうだろう?

規範意識と触法リスクの問題

「こうすることが正しい、善だ」という規範意識が自分の現状や社会の実態に即して非現実的で、なおかつ自身の現実と遊離すればするほど「終わった感」が強くなりはしないだろうか?

規範意識の極端な高さが犯罪の誘因となりうるという理論もあるらしい。

下記はちょっと前にツイッターで見つけてずっと気になっていたものだ。

https://twitter.com/narapress/status/425839596962717696
https://twitter.com/narapress/status/425454234801160192
https://twitter.com/ryomichico/status/435699919307812864

(最後のツイートで私の疑問に答えくださった詩人の寮美千子さんは奈良少年刑務所で実際の矯正教育に詩集づくりなどを通して協力している方である。)

(また、はじめ2つのツイートをされた松永洋介氏も奈良少年刑務所での授業を寮美千子さんとともに受け持たれた方である。/以上一文 2014/06/02追記)

規範意識といえば低下のほうが問題になることが多い。だが、確かに「自分はこうあるべき」という規範意識が極端に高すぎたり、現実離れしたものであれば、現実の自分との落差は生じやすく、こんな状態ではいけないというような焦燥感や自責感情も生じてくることは想像に難くない。絶望感を感じやすくもなるだろう。

そして「他者はこうあるべき」という規範意識が非現実的だったり極端に高いならば、他者の行動に理不尽さを感じやすくなり、怒りも感じやすくなる。他者の範囲が拡大して社会に対するものになれば「社会はこうあるべき」といった気持ちも持ちやすくなるし、そうでない社会に対しての怒りも生じやすい。

ただこれだけでは、自責を感じやすいとか怒りを感じやすいだけである。本人が心理的に快適に過ごしにくいだけだ。しかしもしこれに、懲罰的、報復的な態度をとることに対しての心理的抵抗が低いといった要因が加わったらどうだろう。他者や社会に対しての攻撃性に歯止めがかけにくくなり、他者への攻撃、触法行為に対してのハードルが低くなってしまうことは十分にありうると考えられる。

(補足:懲罰的、報復的な叱り方の多い環境で育つことによって、懲罰的・報復的態度をとることに対する心理抵抗は低くなるといわれる。極端なケースが虐待の連鎖である。)

規範意識は高ければ良いというものではないようだ。

ここが今回の事件で感じた違和感に繋がる。容疑者の極端に親孝行な行動は、実はリスク要因の1つではなかったのか?そこは考えてみる必要がありはしないだろうか。

社会適応と情報処理特性

また話を飛ばすが、発達障害者の社会適応を悪くしがちな特徴として、認知のゆがみ以外にも重要なものがある。それは、情報処理特性である。

各種のルールや価値観は容易には変更がされくい。 そして対人情報は上書きされやすい。

ルールや価値観が変わりにくいという問題はよく知られた話だが、対人情報の上書き現象とはどういったものかちょっと説明すると。ひと言で言えば「自分に向けられた人の悪い面だけを”真実の姿”と認知してしまいやすい」といった現象だ。

次のようなものである。

普段仲の良いAさんが、ある時Bさんに対して不満をぶつけてきて口げんかになった。そしてその後仲直りしようと話しかけてきた。

こういった場合、人間いろんな気分のときがあるのが当たり前だから言動にもある程度のむらはあるということで、今までのつきあい、その時のAさんの抱えている背景、そしてその後の対応などを総体としてAさんをとらえるほうが現実的なのであるが。これを「実はAさんは自分に対してこんな不満を持っているのだ」とだけ認識してしまい、Aさんに対して「信用ができない」といった情報のみを上書き的に保持してしまうといった現象である。

発達障害者の全てがこういう情報の上書きをするわけではないが、こういう現象はときおり見られる。「真実の探求」を揺れ動くとの多い人間の感情表現にまで持ち込むと起こりやすいのだと思う。

対人情報の悪い方への上書きをしてしまうクセがあると、人間関係は狭くなりがちだしとぎれやすい、被害的にもなりやすい。他人を信用しにくくなりやすい他者理解のしかたではある。ただ、これだけではやはり傷つきやすいとか、孤立を生じやすいといったことでしかない。

こういった傾向があったとしても対人交渉にあまり期待もせずそれに大きな価値もおいていないのであれば大して問題にならないものだ。あまり他人を信用せず、つきあいの範囲をあまり広くもたずに社会生活を送っているいる人は世の中にはいくらでもいる。言うなればただの偏屈な人である。

が、もしここに「人付き合い」「コミュニケーション」等に対して過大な期待、あるいは過大な意味づけがあったらどうだろう?

職業特性からうかんでくる疑念

話を今回の事件に戻そう。

報道によると容疑者は青森に戻る前に大阪で建築現場の警備員の仕事をしていてメンタル面の調子を崩したということだ。コミュニケーションに関する悩みを母親にもらしていたとある。

実は今回の報道で私の疑問がふくれあがったの最大のポイントがここである。

私は3年ほど道路や建築の工事現場で警備員として働いていたことがあるのだが、工事現場等での交通誘導警備の職場環境というのは、比較的人付き合いに関してはドライかつ希薄である。私が働いていた警備会社はそうであったし、他社から移ってきた人などから漏れ聞く話でもあまりその様子が大きく異なるということはないようだった。

時として交通量のある車道の真ん中に立つ仕事であるから、危険防止が最優先であり間違いのない意志の疎通が必要なため、言語表現もわりとダイレクトだ。車両のエンジン音や走行音、、工事用の機械の音などの騒音下で仕事をすることも多いので大きな声は必要だし、危険が伴う職種であることもあり、多少荒っぽい言葉は飛び交うことはある。

建築現場での警備では挨拶や取り次ぎくらいのやりとり能力は必要になるが、イレギュラーな対応は多くないし、駆け引きとか深読みとか空気を読むとかといった、発達障害者が苦手といわれる系統のコミュニケーション能力が要求される仕事ではないと思う。

そのせいか口下手の人は多かったし、ちょっと変った(もっといえば偏屈な)人も多かった。個々人の事情も多種多様なのでそういったものに気を止める人も少ない。入ってくる人も多いがやめる人も多く、そのため「職場に馴染む」ことすらさほど要求されない職種でもある。

体力的なきつさはあるにはある。だが、ことコミュニケーションや人間関係に関して言えばストレス度が非常に低く、いたって気楽なものだった。「身体きついわりに稼ぎわるいけど、ストレスないよね」というような話がしばしば出るくらいだった。

だから疑問がムクムクとわいてくる。

今回の事件の容疑者は会社の寮で生活をしていたとあるので、通勤での勤務とは違った側面はあるかもしれないが、母親へのインタビューでは、容疑者の悩みがコミュニケーションの問題であったようにうかがえるが、大阪での不調のきっかけがコミュニケーション問題からの職場不適応であったとは考えがたいのだ。

にもかかわらず、容疑者の悩みとして母親のインタビューの中で出てきたのはコミュニケーション面の問題だ。

もしや容疑者は職場で友人を作るべきだとか、孤独でいてはいけないとかいったコミュニケーションや人付き合いに関する過大な規範意識をもってはいなかっただろうか?

そしてそれを仕事をする上で絶対必要なものだと認識してはいなかったか?

ここに誤学習・誤認知のにおいを感じる。

もちろん、誤学習・誤認知があったとしても、社会生活を送る上で障害になりにくいもの、いたって無害なものも多いが、こと社会に関する極端な誤学習、誤認知は適応の困難さを生じやすいように思う。

フォローなき診断告知の危うさ

最近、都市部では成人の発達障害の検査、診断を受けられる医療機関はだいぶ増えてきた。 数年前にはざらだった診察まで半年待ちといった状況はだいぶ改善されつつある。これ自体は良いことだろう。

ただ、診断がおりても適切な支援につながることができず、適応状態の改善になかなかつながらないケースも少なくないと聞く。

診断をうけ、「あなたは発達障害です、今まで大変だったのはあなたのせいではありません、障害の為です」と言われてたとしても、今まで感じていた違和感に名前がつくだけのことであり、それだけで生活の何が変わるわけではないのだから当然といえば当然である。

それでも右往左往しながらでも工夫の手段を探していける余力(生活面や精神面)のある人はそこから発達障害者なりの人生をみつけていけるかもしれない。

だが、適応状態が悪すぎたり、生活環境に余力がなく、当事者に適応困難の原因となるような重大な誤学習・誤認知、現実的でない高すぎる規範意識などがあった場合、診断がついたことによって却って問題をこじらせてしまうこと可能性もなきにしもあらずだろう。

コミュニケーションに過大な意味づけや期待を持っている当事者に対し「発達障害であること」「発達障害は治らない」ということだけが伝えられ、フォローがなかったならば、それはその当事者に深刻な悩みを増やすことになることもじゅうぶんにあり得るだろう。

発達障害者の適応を困難にする要因として、社会の許容力不足や理解不足などはよく言われることである。そういった論にも一理あるとは思う。だが、適応を困難にする要因は何も社会にだけあるとは限らない。生きていく間に何らかの要因で形成された誤診念や誤学習、それにつづいて形成された規範意識などの影響も大きいと思う

だが、そういった部分に目を向けるきっかけもなく、社会の許容力や理解ばかりを叫ぶ声ばかりが大きければ、そういった声にだけ耳を傾け、「自分が苦労するのは社会の無理解のせい」とストレートに結論づけるといったケースがあってもなにもおかしくはない。

こういった、責任が社会にあるという思考こそが社会に対する恨みの萌芽となってしまうこともあるのではないか?
(もちろんこれが犯罪に直結するものなのではなく、社会や周囲に対して恨みをもちつつも反社会的行為に至ることなく生きていく人がほとんどではある。ただ、どんな障害であろうと社会が全面的に許容したり好意的な理解をすることはあり得ないので…いろんな人がいますから…もっていてもあまり適応改善につながりやすい考えではないと思う)

こう考えていくと、支援体制のさらなる拡充というのは当然必要だが、医療の側にも、診断を告げる前に適応困難を起こしやすい重大な誤診念、誤学習の有無を確認し、診断告知がマイナスにならないような配慮を確保した上で診断名を告げるといったような慎重さも求められるのではないかと思う。

まとめ

今回の事件報道からいろいろ想像をたくましくすると、「認知のゆがみから生じた社会適応力の低さ」「「誤認知・誤学習からから形成された非現実的かつ高すぎる規範意識」「懲罰的・報復的行動への心理的ハードルの低さ」「生育環境及び孤立しやすい思考に連なって生じた極端な孤立状態」などが極端に悪い方へ重なっていたところに「強いおわった感を感じる出来事・経験」や「適応状態の問題の責任を社会に求める考えへの傾倒」などがさらに影響し、触法リスクを高くし、凶行に繋がったのではないかとも思えてくる。

ここから思うのは、こういった事件に関する分析に関して、犯人なり容疑者の中に規範意識を極端に高くするような「重大な誤認知・誤学習」がなかったかという視点が必要ではということ、そして診断告知後の犯罪の場合、診断告知やその後の医療的関わりの、犯人なり容疑者の心理への影響はどのようなものだったか?と言う視点も必要ではということである。

今回の事件に関していえば、容疑者の適応状態が悪くなったきっかけがコミュニケーションに関する問題だっがのか否か?容疑者が仕事をすることやコミュニケーションにどういった意味づけをしていたのか?過剰ともいえる親孝行な行動にどういった意味があったのか?そういったことも解明されて欲しいと思う。

こういった不可解な事件にもし誤認知・誤学習の問題が関わっているのであれば、認知療法等のアプローチで矯正教育も可能かもしれない。そして触法リスクに繋がりやすい重大な誤認知・誤学習をできるだけ防ぐよう子育てや教育に何らかの工夫することによって、社会適応をよくすると共に、触法リスクをコントロールできるかもしれない。

素人考えで長々と考えてはきたが、発達障害に関わる支援サイド、医療サイドの専門家や認知の問題に取り組んでいる心理学の専門家は、誤認知・誤学習や規範意識、認知のゆがみなどとこういった犯罪の関係をどう見ているのだろうか?専門家の意見をぜひ聞いてみたいと思う。

お読みいただきありがとうございます。

 

 

 

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