「アスペルガー者のための定型発達者研究 」カテゴリ記事一覧


「障害があるように見えない」という表現について考えてみる

「障害があるように見えない」

これは発達障害者がときどき定型発達者に言われるセリフなのだが、結構これには抵抗がある発達障害者が多いようだ。


(ちなみに私個人はなぜか抵抗がない)


なんでかな?と思って考えてみるに、成人発達障害者の多くが「つらさ」というものを抱えてしまっていることに遠因があるのではないかということに行き当たった。

日常のあちこちで「つらい」のに「障害があるようには見えない」と言われてしまうと、自分の「つらい」という感覚、ひいては「障害の存在」、「障害をもつ自分自身」を否定されたように感じてしまうのではないだろうか?


ところが…、


いろいろ観察していくと、定型発達者がこのような言葉を発するのに、実は深い意味はないことが殆どだ。
せいぜいのところ、「パッと見たところあなたが自分と違うようには”感じられない”」くらいの意味でしかない。定型発達者では好意を示すのに同質性の確認をすることが好きな人が多いことを考えれば、結構好意的な表現なのである。

(そういえば同質性の確認についての記事をだいぶ前に書いたのでリンクを張っておく↓
http://maminyan.blog5.fc2.com/blog-entry-118.html


もちろん「その言葉のウラには健常者至上主義が隠されている、許せん!」などとケチをつけることも可能ではあるが、それってちょっと無粋ではないだろうか?
自然に感じてしまう感じ方にケチをつけてもしょうがないのではないかと私は思うのだ。


比較的好意的な表現に対しては、相手が気にくわないのでなければ「好意的」な返答をすればいい。かくして私は「障害があるように見えない」という言葉に対して、


「そうでしょ~、いや~何しろ見えない障害なもんでね~」

というような返し方をする。


すると結構そこから「どんな障害なのか」についての話が広がったりするから不思議なものだ。





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定型者の自己イメージとASD者のありのまま願望(2)


さて、昨日、前稿に関連してツイッターでなかなか興味深いご質問をいただいたのでちょっと続けてみる。

前回の記事はこちら

まずひとつ目、定型発達者も意識的に切り替えているのでは?というもの。

私自身が定型者でないため、真実のところはわからない。
が、いろんな方面で定型発達の方に伺ったところによると、かなり自動性は高いと思われる。ただ、新しいシチュエーションにおいてどういう振る舞い方をするか?(つまりいかに新しいレイヤーを構築するか?)といえば、それまでの経験から”類推して”意識的に選択していると考えるのが妥当だろう。

もちろん個体差はある。レイヤーの枚数の限界や、構築力において差はあるだろう。当然エラーが起こることもある(人間だもの)。

さて、ここでもう一つ問題になってくるのがレイヤーの作り方と利用の仕方である。

定型者の場合は「類推」という方法で意外に簡単にレイヤーをつくってしまう事が推測される。まあ、「ちょっと考えれば出来る」のであるらしい。

それに対してASD者の場合、「類推」機能がかなり弱いので、かなり強引に理屈をぶんまわして振る舞い用レイヤーを作るしかない。さらに利用するにも理屈をぶんまわし、かなりの部分意識的に判断していくしかないわけである。

自動化できない分これはかなり頭脳に疲労を引き起こしかねないやり方である。

多数のレイヤーを構築・利用しようとすれば、慢性的な頭脳の疲労にさいなまれることにもなりやすい。

どういう事かと言えばレイヤーの構築・利用に頭脳リソースの多くをつぎ込むあまり、他の事象へのリソースの配分が少なくなってしまう。
要するに対人コミュニケーション部分以外の様々な実行能力の低下まで引き起こしかねないということである。

というわけで、ASD者には最低限の振る舞いレイヤー以上の構築はおすすめ出来ないということになるわけだ。


衆人のなかで「ちょっと変わっているけど失礼ではない人」「ちょっと変わっているけど悪い人じゃない」程度の評価を維持できる程度の振る舞いレイヤーの構築くらいが、持てる能力を生かすためにも安全な範囲ではないだろうか?


さて、さらにもう一つ。


特に成人になってから違和感に悩んだりして診断を受けた成人発達障害者の多くが「ありのまま受け入れられること」を希求するのだろうか、という問題。

これは違和感をかかえながらも対人接触において試行錯誤をし、多数のなレイヤーを無理やり構築して適応しようとしてきた結果、失敗を繰り返しながらも過剰適応の状態に陥り、その反動として「ありのまま受け入れられること」を追求してしまうのではないだろうか?

が、これは、正直難しいのは「ありのまま」に対する定型者の生理的な抵抗があるのと、過剰適応の状態にまでなってしまった場合、前項で述べたように様々な能力が落ちていることが予想される。

となると「ありのままかつ能力が使えない状態」という事になる。

もちろん支援者の皆さんにはこの状態を見放さないで欲しいとは思うが、そのままの状態で社会に受け入れられることは難しいと思われる。

持てる能力をある程度生かしている状態での参加が社会のデフォルトだからだ。


この問題の解決策は既に述べた「変人枠の利用」である。
「ありのまま」+「ちょっとの加工(振る舞いレイヤー)」が能力のパフォーマンスを最大化するのだから。


まあ、色々述べたが「ありのまま主義からの脱却」が生き辛さを解消するための必要アイテムなのは間違いないだろう。



補足

本稿では、以下の書籍中にある、ASD者の「シングルレイヤー特性」というものをベースに考えを進めてみた。


4062597063アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか? 大人の発達障害を考える (こころライブラリー)
米田 衆介
講談社 2011-12-17

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定型者の自己イメージとASD者のありのまま願望

時折ネット上でも議論になるネタがある。

「ASD者がありのままでいたらなぜいけないの?」
「私たちはありのままの自分を受け入れて欲しいだけなのに」

というものである。

実際、私もそう思っていた時期があったりする。

自然にやっているつもりなのになぜ浮いちゃうのだろう?
とか思ったことも多い。


さて、結論から言ってしまう。


「ありのまま」は定型者にはギョッとされるのである。


理由は定型さんの思考構造にあるようだ。

模式化して考えよう。



定型発達者の自己表出構造




定型発達者の自己は多層(複数レイヤー)構造をしている。

根っこの自己の上に、複数レイヤーが微妙につながりを保ちながら存在している上に、相対する場面によってどのレイヤーを優先して可視化するか、すなわちどのように振る舞ったらいいか?を「自動的」に選択しているというわけである。


というわけで、むき出しの自己が表現されることはあり得ないのである。


ところがどっこい、ASD者は基本がシングルレイヤーである。
裏表がないという言い方もできるが、非常に単純な表出形態である。
すなわち、意識的に振る舞いを変えない限り基本むき出しの自己となる。


意識を介さないと複数レイヤー処理ができないASD者にとって、「ありのまま」願望があるのはある面当然なのであるが、むき出しの自己を表現する文化のない定型さんとしては「むき出しの自己」を見ることはは結構驚愕の事態であり、かなり気分的に「うっ」とくるものらしい。

というわけで、だいたいにおいて定型さんは

「ぶしつけ」「失礼」「素直すぎ」「押しつけが強い」

などという意味づけを自動的にしてしまうということのようだ。


こうなると定型さん相手ということがわかっている場合、不要な誤解を避ける為に、最低限のレイヤー(振る舞いレイヤーと呼んでおこう)を増築し、切り替えながら対応することが必要となってくる。


定型さんも使っているものなので、振る舞いレイヤーを使用しても、「本当の自分でないので失礼に当たるんでは」「嘘をついているようで申し訳ない」などという心配をすることはさらさらないということになる。


ありのままは個室あるいは自助会等のASD者がマジョリティになる集団においてのみに留めておいた方が
周囲との問題を生じないのではないかと思う。




余談なのだが

ASD者でも、「自分に合う職はどういったものか?」という疑問は持つ。
しかし「本当の自分とは?」という疑問に悩むということは少ないようである。

それに対し、定型発達者ではしばしば「本当の自分とは?」という悩みが生じるようである。

上記のような自己構造をとり、自動で切り替えが行われてしまうため、どの層が本当の自分か?
というような混乱が起こってしまう事によるものではないかと推測する。



補足

本稿では、以下の書籍中にある、ASD者の「シングルレイヤー特性」というものをベースに考えを進めてみた。


4062597063アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか? 大人の発達障害を考える (こころライブラリー)
米田 衆介
講談社 2011-12-17

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定型発達者の表情読み取り能力と「察する文化」

急に寒くなった。正直涼しいを通り越している。

こうなると体温調節が苦手なアスペルガー症候群者にはつらい。
着たり脱いだり、温度計とにらめっこで調節せねば風邪を引く。

困った季節である。


ところで、たくさんコメントをいただいているのに一部にしか返答ができずにいて申し訳ないです。
どうも調子がのらない…というわけで、ここしばらく散発的なお返事になるかと思いますがご了承ください。


さて…、


最近表情についての本を読んだり、表情についていろんな方と話す機会を得て、定型発達者の表情読み取り能力というものについていろいろ考えた。


行き着いたのが「察する文化は表情の読み取りに端を発しているのではないか」ということ。



定型発達者の表情読み取り能力はすごい!


はっきり言って私から見れば超能力だ。


視力にたとえて言うなら定型者1.2 私0.01だと思える。


驚くべき点を2つ上げると


・瞬時に表情を読み取っている。
・ほとんど意識せずに表情を読み取っている。



もちろん、定型者でも読み取りミスはあるものの、その読み取り性能はアスペルガー症候群者とは段違いだ。


自助会などであえて観察させていただいていると、まず、アスペルガー症候群者では表情に着目する習慣を持たない人が多い。

さらに、「表情なんてわからない」ともらす人も多い。(私も例に漏れない)



この差はいかんともしがたいものだ。


自閉をマインドブラインドネスという表現をする場合があるが、

私は自閉を「色盲」ならぬ「表情盲」と表現してもいいという部分があると思えるのだ。


さて、定型発達者の話に戻すが、


定型発達者では表情の読む能力、表情を表出する能力が高い。

→表情から様々なものを察することが苦痛ではなく当たり前。

→他者にも表情から様々な事を察することを要求するのが当然。

→察し合いをできると安心する。



こういったルートは成り立たないだろうか?


そして、集団内の表情等による「察しあい」のやりとりがいわゆる少人数集団における「場の空気」の本質であるのではないかとも考えられる。


これが察する文化の基本構造なのではないだろうか?


そう私は思うのだ。


そして、このような察する文化の中にどっぷりつかった定型者に対しては


我々アスペルガー症候群の人間は「察することができない」「うまく表情を表出できない」というアピールをしない事には「察することを要求されてしまう」危険性は非常に高いのだ。


…、というか、それに苦しむアスペルガー症候群者は多い。


このように考えていくと、何らかの手段で「それ、できませんよ!」とアピールしておく方が安全性が高いといえるのではないだろうか。


いわゆる「天然ボケ」の演出とか「鈍感」「変人」のアピール。
(「無害・できれば有益」のおまけが必要かもしれないが…)


これはアスペルガー症候群者にとって、盲人における白杖と同じ意味を持つツールなのではないだろうか?


「障害を理解して支援してもらう」…まあ、それも重要だし、そういった支援者がいてくれたら心強いのではあるが、無形の障害なだけに自ら積極的にそういった「ちったあ見えやすい無形のツール」を獲得していくというのも生きるすべにはなるのではないかと思う。


とまあ、今日はそんなことを考えた。



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秋は思索の季節?
ってなところで、

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定型発達者的「気を使いたくない」とは?

「家の中でくらい気を使いたくないよね」


この台詞はアスペルガー者からも定型発達者からも出る。


アスペルガー的に、字面通りとれば、どちらも同じである。
が、これが同じ事をいっているのかというと、ちょっと違う。


アスペルガー者の言う「気を使いたくない」はホントに気を使っていない。
あるがまま、思うがままに発言することだったりする。
下手をすると「最小限のコミュニケーションで済むこと」の場合も往々にしてある。


ところがドッコイ!


定型発達者のいう「気を使いたくない」は実はちょっと違うようだ。
まあ、いろいろ観察とインタビューによる調査をまとめるとこうなる。


「適度に気を使ってもらいながら」
「適度に気づかいをしつつ」
「それが苦にならない程度の状態」



にしたい…ということであるようだ。


要は


「自然に気づかいのやりとりができる状態」


ということである。




風邪を引いたときを想定して考えると…。


夕食の算段や片付けを快くやってくれれば
 (頼むという件で余計な気づかいをする必要がないならば)

ちょっと相手に遠慮してみたりすること苦ではない。
 (むしろ、そうしたい…する方が心理的に安定して元気が出る)



ということのようである。



本当に至れりつくせりで何も気づかいしないで済む状態になると、


「気詰まりがする」


という場合もしばしばあるらしい。


アスペルガーの星から来た我々にとっては、
この星の人々の言動は…不思議である。


さてはて、異論がでるや否や???
ということで本日ここまで。




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定型発達者は「気遣いのやりとり」で精神的活力を得る

アスペルガー的言語感覚と「いわゆる気遣い」



今日も我が家は寒い。

多少寒さは緩んだとはいうものの
全国的にもやはりそれなりに寒いようだ、



さて、寒い中出かけて夜遅く帰ってきた家族にどういう声かけをするか?


仮にうちの息子が出かけていたとして、私が


「寒かったでしょう、いま熱いお茶入れるわね」


なーんて言う言葉をかけたら…


「ネタですか?」

とか

「やめてくれ、気色悪い」


という言葉が返ってくるだろう。


「こんな遅くまで何してたの?心配するじゃない、とにかく中はいってストーブにあたりなさい」

こういうパターンもありかもしれないが、


これでも


「なに妙な芝居やってるんだ?」


という返答が返ってくるのはほぼ間違いない。

狸穴での正解は

「遅い!片付かないじゃないか、早く飯あっためて食えよ」

とか、

「早く風呂入れ」だったりする。


そう、気遣い…それは定型発達者のそれと、ASD者のそれは大違いだったりする。
だが、その差異の詳細については、今回は触れない。

今回のテーマは定型発達者と気遣いの関係である。


定型発達者的「気遣い合い」




さて、前振りはこのくらいにして本論に入ろう。
一家の主婦が風邪を引いた場合を例にとって考えてみよう。


-晩ご飯の後を想定-


 母:「なんか頭が痛いわ…」

 娘:「お母さん、大丈夫?」

 母:「うん、ありがとう、ちょっと熱っぽいみたい」

 娘:「しんどそうよ、横になって休んできたら?お皿洗っておくから」

 母:「でも…、そう、悪いわね」

 娘:「いいって、いいって、」

 母:「ありがとう、じゃ、休ませてもらうわ」



この会話のやりとりを見て「ああ、こうだったらいいなあ」と思うあなたは定型発達者の可能性は高いだろう。

往々にして、ASD者では、笑いがこみ上げてきたり、背中がかゆくなったりしがちであるようである。ちなみに私は何故か知らぬが背中が…である。

ま、その感性の違いはともかくとしておこう。


とにかく上記の会話例は、定型発達者の会話としては「ありがち」な、そして「好ましい」パターンの会話であるらしい。

ASD者がもしこの会話をしなければいけないとなったら…とりあえず直感的に


 「う、これは…疲れる…、疲れそうだ。」


という言葉が出てくるだろう。

大体、すらすらと気の利いた言葉が出てこない。
それに背中がかゆい、笑わないで言うのも大変だ。
様子からどんな言葉をかけたらいいのか判別するのに全神経を集中させなきゃいけない…

となる。


ところがどっこい!


定型さんはこの会話で疲れることはないらしい。

これだけでASD者にとっては驚きなのであるが、さらに驚愕の事実が…

実は…

 この会話で定型さんは「精神的な活力を得られる」

のである。


さて、分析を試みたくなったのは…

「夫がアスペルガーで妻がうつになる」という話しからだ。

まあ、ネット中探せば、腐るほど転がっている話しだから、
どうやら、その現象は確かにあるようだ…。

夫の気遣いというものが感じられない…とか、
「気遣い」を受け入れてもらえない…とか
会話が一方通行である…とかいうことで、
定型発達者は気力が萎えたり、不安感が募ったり、自尊心の低下が起こる。

それはまあ、事実だろう。


定型発達者が気遣い合いを好むメカニズム




さて、それはどういうことだろうか?と、考える。

上記の構図が成立するための条件を考えてみる。


すると、


定型発達者は
「気遣われること」
「気遣いを受け入れてもらうこと」
によって、精神的活力を得ている。


ということが浮かび上がってくる。

もちろん、定型発達者とて、赤の他人、全く知らない人にそれを期待することはしない。
ある程度親しいということが前提となってくる。


親密さが大になればその効力もまた大になる。
とともに、親密さが大になればまた期待も大きくなる


さて、どういったメカニズムだろうか?
例に出した母娘の会話をもう一度ひもといてみよう。


 母:「なんか頭が痛いわ…」
   聞いてもらえる人がいるという事実の確認から共感欲求の満足
   聞いてあげているという事実からの確認から娘の自己効力感UP

 娘:「お母さん、大丈夫?」
   気遣うという望ましい行動をとることによる娘の自尊心のUP
   気遣われていることから母の自尊心UP

 母:「うん、ありがとう、ちょっと熱っぽいみたい」
   感謝するという望ましい行動をとることによる母の自尊心UP
   感謝されることにより娘の自己効力感UP

 娘:「しんどそうよ、横になって休んできたら?お皿洗っておくから」
   気遣うという望ましい応答をすることによる娘の自尊心のUP
   気遣われていることにより、母の共感欲求の満足と自尊心のUP

 母:「でも…、そう、悪いわね」
   遠慮がちにするという望ましい言動をとることによる母の自尊心UP
   気遣われたということにより娘の自尊心UP

 娘:「いいって、いいって、」
   相手を許容するという望ましい行動をとることにより娘の自尊心UP
   病態が許容されたということによる母の安心感UP

 母:「ありがとう、じゃ、休ませてもらうわ」
   感謝するという望ましい行動をとることにより母の自尊心UP
   感謝されることによって娘の自己効力感UP


ということになるのではないかと考えられる。


まとめると、

会話の中で。

 自分が望ましい言動をとることにより、自尊心がアップする。
 気遣われたという事実により、気遣われる側の自尊心がアップする
 感謝されることにより、気遣う側の自己効力感がアップする。
 聞いてもらえる(コミュニケーションがとれる)ことによる共感欲求の満足が起こる。

 さらに、自尊心が満たされるので不安感が減少する

ということなのだと考える。

「定型発達者は気遣いのやりとりの中で精神的活力を得ている」

とは、このようなことである。

もちろん、「望ましい気遣い」が定型者の流儀に沿ったものでなければその効果がないことは言うまでもない。

そして、それがなければ、自尊心の低下や不安の増大が起こるということから、定型発達者はコミュニケーションの中で自己の存在意義を確認し、自尊心や自己効力感の維持をはかっている面が大きいのではないかということになる。


定型発達者とアスペルガー者の気疲れの違い




定型発達者が、ASD者なら「疲れそう」と思う会話ができてしまう背景には

「気遣いの為の注意」
「気遣いの為の情報収集」

に関わるエネルギーが、ASD者が同じことをやる場合のそれよりはるかに小さいことが想定できる。

つまり定型者では

「気遣いに必要なエネルギー」<<「気遣いをすることによって得られるエネルギー」


なのであろう。

(ASD者ではこの不等号の向きが逆になるだろう)

親しい定型者同士では「気遣いのやりとり」が比較的容易なことであるから、何もASDの特質に対する知識がなければ、「簡単なこと」としてASD者に要求するが、「簡単なこと」という前提であるが為に、それが得られない場合の落胆もまた大きいといったおまけ付きになる。


「家の中くらいホッとしたい」というのは、定型発達者でも、ASD者でも思うことのようだが、定型者がこういった性質を持つこと前提に考えれば、その意図するものが大違いなのはいうまでもない。

定型者が

「気遣いというコミュニケーションを通してホッとしたい」

のに対し、ASD者では

「余計な気を遣わなくて済むことによりホッとしたい」

のであるからだ。


とまあ、ここに至って定型者とASD者の間に生じる溝が一つ明らかになった?わけだが、
どうしたら、こと家庭内で定型発達者とASD者がお互いに精神的に疲労しないで共存することができるのかといった課題への決定打は私にはまだ見つかっていない。

だが、とりあえずは、互いの性質を知ることができれば、決して道がないわけではないのではないだろうか。


こんななところで本稿終わり。



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待望の?
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定形発達者における「協力する」ということ

暑い…



さて、本題。


「協力して物事にあたる」


ごく当たり前の事のようである。が、これが意外に物議の元である。



さて、「大人のアスペルガー症候群」という書籍で、
アスペルガー者の困った行動として、会社で、皆が忙しそうにしているのに帰ってしまう…というのがあった。


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何かと協力的でない態度をとるという問題行動の例として挙げているのだが、
この例で、泥沼にはまるとこういう会話になることもあるだろう。



「なぜ君は皆に協力しないんだ(怒)」

「え? 私、何かしましたか?」

「なんだその態度は?(怒)」

「なんだと言われましても…」

「もういい!(怒)」


なぜ、そうしてしまうのか…。
主な原因は2つだと思う。


 1.協力という言葉の意味内容の理解がが定型者の理解と違う。

 2.周りの様子に全く気がつかない。



1のケースの思考モデルを考えてみた。


アスペルガー症候群者の「協力」の理解は、
「各自あらかじめ分担した(された)仕事をこなすこと」
でしかないのではないかと考えられる、かなり静的な感じである。

(実は私もこの方が合理的だと感じてしまう)


これでいけば、



会社組織は上司が業務分担を決めて既に「協力」している状態。

分担が決められた業務に関しては全うしているので問題はない。

イレギュラー(割り込み仕事が入った、進捗の遅れ等)が起きた
ときの危機管理すべきは上司である。

上司から特に指示がないので「協力」している状態は崩れていない。

帰ろうとする。



という発想になっても不思議はない。




だが、定形発達者の考える「協力」というのはちょっと違うようだ。


何らかのイレギュラーが起きて忙しくなった場合、、
(自分に本来割りふられた業務を一旦停止しても)
自分にできることを探すか、または上司・担当者に聞いて
手伝える業務をわりふってもらい、(やれることがない場合、
つきあい残業をすることも含め)「部署一丸となって取り組む」
という体制の一部となる。


ことが「協力する」という事である。(かなり動的なイメージだ)


この理解の違いは大きい。


 アスペルガー症候群者側は「協力していないつもりはない」
 定形発達者には、「協力していないようにしか見えない」


といったねじれ現象が現実的に起こるのだ。



さらに…。


「一丸となって取り組む」が実はもっと食わせ物で、アスペルガー者にはなかなか理解できない概念だろう。(私も感覚的には解らない。)


ある集団が、同じ目的に向かって「意気込み」などの気持ちを一つにする…ということを態度で示しながら「気張った雰囲気」をキープしつつ目的に向かっていく。


ということのようである。


どうやら、その遂行後には定形発達者は何らかの快感・感動を覚えるようなのであるが、アスペルガー症候群者にはそんな感覚ないのであるからして


「なんでそんなに盛り上がっているの?」
「なんかやけにみんなで忙しそう?変なの?」
「そんなにみんな一緒でなくてもいいじゃない」



というのが本音のところだったりもする。


だが、


それが態度や言葉の端にでも出ようものなら、前述の「雰囲気」をこわす人間として、「協力的でない」と、批判の対象になってしまうわけだ。



この理解の違いにさらに、2の「気がつかない」が加わるのだから話しはもっとややこしくなるわけだ。
過集中に入ってしまっているときなんか、本当に気がつかないのだから始末に悪い。


さて、対策…。

といって、これにはとれる対策は限りがある。


1.周りが忙しそうになっているか時々チェックする。()
2.上記の理解の温度差を理解していたずらに定型者の集団意識を刺激しないようにする。
3.自分の仕事が早く終わった時点で、周りが忙しそうなら、「なにかお手伝いできることありますか?」という台詞を折に触れ使っておく。




気分的に納得できなくてもこれだけはやっておかないと、「嫌がられ」たり「排除」されることになる。

ひどい場合は、左遷、リストラなどという憂き目に遭うので充分気をつけよう。


仲の良い同僚や信頼できる先輩に「私ってどんくさくて周囲に気が回らないんです」とでも言っておき、「今日は帰っちゃ本気でやばそう」というのを教えてくれるよう頼んでおくというのも手には手だ。


おっと、忘れちゃいけない1項目。


4.過剰適応にならないように適当には定型者の枠外の行動もとっておく。

あまり合わせすぎるとストレスの元である。
適当には変な人行動をとっておかないと身が持たない。


これを実行するには悪い人じゃないけれどちょっと変な人というイメージを作っておいた方が便利がよい。


というわけで、定型発達者とは「協力」の概念が違うので、
多数派社会では「協力的」を演出しておこうというお話でした。


ちゃんちゃん。



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定形発達者は「態度・口調・表情」を通して「気持ち」が「伝えられた」気分になる

梅雨もあけたようだ…毎日暑い。
ここらで一息入れようと思ったのだが、連載中にため込んでいたモノを放出せねば。


というわけで、本日なんと3発目。
さいごは久々の定型発達者研究といってみよう。


===================



叱責される…そういった機会を経験したことのない人はほとんどいないだろう。



自分が悪いと思えば「謝る」ことになるのだが、この「謝る」が、アスペルガー症候群者にとってはちょっと曲者で、真剣に謝ったつもりが…


1 「気持ちがこもっていない!(怒)」

とか

2 「おまえ、それで謝っているつもりか(怒)」


などという反応にあって、対応に苦慮した…というかうまく対応できなかったという人は少なくないのではないだろうか?


実際、私自身、何度もやっている。

さすがに成人後あたりから、自衛策を講じるようになったが、(自衛策については後述)なかなかやっかいなものだ。



さらに2のケースで「はい、そのつもりですが…」などと答えて、さらに相手の怒りを買うなんて事もあり得る。


1にしてみても、本音のところ「じゃあどうしろって言うんだ!」と言いたくなったりする。




ところで、実は先日NHK教育テレビの「できるできるできる」という小学校一年生生活科の番組をミチャポンと一緒に見ていてふと疑問に思ったのだ…


校長先生に挨拶するという場面でのお辞儀の仕方をやっていたのだが、そのまとめとしてだろう、


「……、ほらニコニコ気持ちが伝わった♪」



という歌詞の歌があったのだが、前半部分「……」の部分は、「丁寧なお辞儀の仕方」だったのだ。



それを聴いていて…


んん?「ニコニコ」っていったいなんだ???

ええっ??どんな気持ちが伝わったんだぁ???



頭の中はでいっぱいになった。

それから、ふらふらと「気持ちが伝わる」について考えてみた訳だ。


そういえば同じNHKの教育テレビの発達障害児向けの番組に「顔の体操」ってのがあって、その時に、

「気持ちが♪上手に♪伝わるように♪~~」という歌が流れる。

(どうもこの歌、聞いててきもちが悪かったんだが…)



となると…。



やっとここで気がついた。


「気持ち」は「伝わるもの」と信じられている!のだ。


詳しく書こう。

そう、定形発達者では


「顔面や声、態度に現れたもの」から「気持ちが自分に伝えられたか」を判断しているのだ。


そして、この判断回路はどうも完全自動化されていると思われる。
つまり、いちいち「この顔だから…」なんてことは意識して考えてはいない。


ここで冒頭の話に戻るのだが、謝罪するシーンで、



アスペA「申し訳ありません」
 ↓
定形 B「気持ちがこもっていない(怒)」



となるまでの時間はとても短いからである。(ほとんど瞬間技だ!)


さらに、何故か「気持ち」に関して「伝搬」があるという前提があり、


「こうに違いない」という脳内での判断に過ぎないものを、
気持ちが「伝えられている感じる」とこれまた脳内で解釈していると考えられる。


まあ、オール自動処理なら、これを「伝搬」と「感じ」ても不思議はない!


この前提を置くと

前述のAとBのやりとりのケースでは、


Bの中にデータとして格納されている「謝罪の態度・口調・表情」以外の「態度・口調・表情」をAがとっていたために


Bが「謝罪の気持ちが伝わってこない」と瞬間技で「感じた」のだ。




ところで、アスペルガー症候群者は、他人の表情から感情を読み取るのを苦手としている場合が多い(そのあたり、顔細胞だか、ミラーニューロンだかが関連しているらしいが、ちょっとその辺に突っ込むのはやめておく)。ついでに他人の顔に関心が薄かったりもする。


となると、当然表情と感情の関連について学習することも苦手なわけで、多数派での「ありがちな表情」というものを学習しないで成長することも十分あり得る。



アスペルガー者は「無表情」「不適切な表情をする」といわれるのはそういうところなのだろう。



だが、アスペルガー者側からしてみれば、真の気持ちとは別の解釈をされるわけで、


「表情を勝手に解釈されて、とっても困る!」
「一体、どうしろっていうんだあ!」
「人の表情にけちつけんなよ!」



ということになる。

控えめにいえば「誤解」
大げさにいえば一種の「冤罪」である。


この「冤罪被害?」を防ぐのには、2つの選択肢がある。


1、「表情等が必ずしも本当の気持ちと一致しない」ことを予め周囲に説明しておく。

2、定形発達者に対しては、定形発達者に判りやすい態度・口調・表情で接するようにする。(もちろん、トレーニングは必要となる)




私は、実際問題として1は難しいと思う。
なぜなら、定形発達者の脳内での情報処理が自動だからだ。



となると必然的に2という事になるのだが、あらゆるシーンで…なんてことはアスペルガー症候群者にとって、あまりにも負荷が高すぎる。



優先順位をつけねばなるまい。


実は上記の理由が明文化できる前に「表情による誤解」を防ぐ苦肉の策として、長年2を利用してきた。その経験から言えば、次の3つを押さえておけば、他は手抜きしても大事にはならないようである。


1「謝罪する」「叱責を受けている」場面

2「挨拶する」場面

3「感謝を表す」場面」




これさえ押さえておけば、他の表情に定形発達者の了解上のミスマッチがあっても


「ちょっと変わっているけど悪い人じゃない」


という評価・評判を手にしやすい。



さて、じゃ、トレーニング。


1ドラマ等で場面ごとの表情・口調・態度の研究をする

2鏡を使いながら再現

3実地で使ってみる



ということなるだろう。
慣れないうちは多少顔の筋肉が疲れるが、まあそのくらいはしょうがないだろう。



というわけで、多少尻切れトンボにまとめておく。


「気持ちをこめて!」という言葉は

「言葉にマッチした(定型発達者にわかりやすい)表情・態度をとれ」

という意味の「暗黙の了解の表現」だということだ。




ああ、これで、「暗黙の了解」が1つ暗黒の世界から光の世界へ!


めでたしめでたし。



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定型発達者の共通認識の成立に関する一考察

ちょっと前稿で「共感」と「共通認識」の関係について説明不足の感があったので、補足として本稿をアップしておく。


さて本題、


悲しそうな顔をした人がいたとする。
それに対して自分があたかも「同様の表情」をしたときのような反応をするニューロンがあるという。

そのため、他人の悲しさを、あたかも自分が同様に悲しいかのような感じ方が健常者ではできるらしい。

(それを「共感する」というらしい。)


(ちなみに自閉者では「顔に出る感情の感知」すら難しい場合が多いようである。少なくとも私は超苦手である)

で、

「ミラーニューロン」というのがそのニューロンの名前なのだが、

元々はマカクザルでみつかった、他者の動作に「あたかも自分がやったように」反応する運動性ニューロンなのである。

発見や研究の過程などが知りたければ書籍を読んで欲しいが、とりあえず概略だけ説明すると、

その運動性ニューロンは人間においても存在することがほぼ証明されていて、人間の場合では情動においても「あたかも」自分がその感情を感じたような反応を示すことがわかっている。

で、それと共通認識がどう関係するかというと…

健常者の場合、本当に「共感」は脳内で起こっている現象のため、ある場に二人以上の人間がいて活動している場合、脳の活動として「私たち」が真に(少なくとも脳の反応上は)存在するということがいえると言うことだ。

意識上の「概念」として「私たち」が存在するのではなく、「私たち」が真に存在し、感知可能なのである。


これは私にとってはとても驚きだった。


そこで私は下記のように考えた。

健常者間において、ある場において、行動、情動に関して、「私たち」が存在するということは、すなわち認知されたものは「私たちの認識」=「共通認識」となる。

この体験を健常者は数多く積むことによって、「私たちの認識」が常にあるということを無意識に学習するだろうと。

この仮定が正しければ、

ある集団(あるいは文化)における「共通認識」というものは各個人の「感覚共有」体験に応じ:すなわち経験の多少と共感性(感覚共有能)の高さに応じ、「存在するもの」(あたかも実感できるもの)と認識され得るのではないだろうか。

というのが私の考えだ。


さらに私自身の自閉症者としての実感から類推するに、自閉者では少なからず「共通認識」が認識されにくいように思うが、それは「経験」以外に頼るものがなく、「実感」できるものではないことがその要因になっているのではないかと考える。

また、自閉症者の社会性の障害に関しては、想像力の障害が原因となっているという人もいるが、それよりはむしろ単に「共感性」の不足が原因となっているように私には思える。

===========

自閉症とミラーニューロンの働きに関してはその関連性は指摘されるが、まだまだ研究途上のようだ。ただ、健常者に関しては、研究はある程度進んでいるようである。

というわけで、健常者=定型発達者の感じ方、考え方に関しては、その研究からある程度のことがいえるのではないかと思うわけだ。
ちなみに「共通認識」や「集団意識」などが「存在する」可能性は社会学・哲学にも大きな影響を与えることは予想に難くないだろう。



参考文献:
「ミラーニューロン」ジャコモ・リゾラッティ(紀伊国屋書店)
「ミラーニューロンの発見」マルコ・イアコボーニ(早川書房)


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定型発達者はなぜ「世間」「みんな」を根拠に主張するか その2

<その1はこちら>

さて、定型発達者がなぜ世間とかみんなとか(普通ってのもあったな)を根拠に主張するのかを前回考えてみたのだが、

コメント欄で「口実としての”みんな””世間”」があるということが話題になった。

マルマルさんがそういうときの心理について、まとめて書いてくださったのでそれをまずは引用する。



ちなみに定型者が「みんな」とか「世間」とか言う潜在心理には「めんどくさい」という本音が潜んでいると、私は思っています。

■いちいち「私は」「僕は」という主張がめんどくさい。
■「私は」と言ったからには、自分の発言に責任もたされるようで、めんどくさい。
■1対1の論争がめんどくさいから「みんな」「世間」でまとめて封じ込めたい。
■「私はこう思う」などと主張して目立ってしまう事がめんどくさい。
■話を早く終わらせたいときに、つい言っちゃう傾向。



なるほど、である。


で、ここで問題になってくるのが、定型発達者(非自閉者)は「みんな」「世間」で封じ込められやすいということだ。


「みんな」「世間一般」と言う根拠で


「そうなのか~、納得」となりやすいのだ。

(時として、渋々納得ってこともあるだろうが)


その理由は、前稿でも書いたが、やはり「みんな」「世間一般」などを想定できてしまいやすいという脳の仕様なのではないかと思う。


これは自閉者ではどうしてもその傾向はグッと低くなる。
(そうだ、共感性能が低いのだ)


で、逆に腹が立ってくる場合さえある。



さて、ちょっと視点をかえて「みんな」「世間一般」等で主張する側の傾向を考えてみよう。

子供が何かをねだるときの

 「みんな持ってるから」

を初めとして、


個を主張するのが面倒な場合の自己主張の根拠としての「みんな」「世間一般」

そしてさらに集団からの要請との根拠としての「みんな」「世間一般」


一見違うように見えるが、

ここで視点をまた「主張される側」に変えてみる。

すると

「それを根拠として認めたくなる傾向」というのはきわめて連続的なモノだとは考えられないだろうか。


共感性の高い人ほど、「そうか~」となりやすい傾向にあると思う。


さらに反転して主張する側に考えを戻すと、

やはり、共感性の高い人ほど、「みんな」「世間一般」の存在を無意識に感知しやすいといえる。


すなわち、


共感性の高い人ほど、「みんな」「一般」という根拠を「本気で」主張することになるだろうと考える。


となると、口実と意識的に認識しての「みんな」「世間一般」を根拠とした主張か、本気で「みんな「一般」を論拠にするかというのは完全には弁別できないのではないかと思う。

それこそスペクトラム状になっているといったところだろう。


前稿のコメント内でマルマルさんがこうも述べられている。


定型に生まれ、生まれる前からの流れに物心ついた頃から乗って「それが自然」と生きて来たことに関しては、つい「世間は」「みんなは」と言ってしまいがちですが、…




定型発達者はあまり意識して「みんな」「世間一般」を主張しているわけではないのだ。


それを知っていおいた上で「面従腹背」なり「うけ流す」なり「意見を受け入れる」なりといった、対処を考えていかないと、いたずらに対立を生んだり、定型発達者を困惑させるだけの結果になることも少なくない。


「やみくもに反論するのは」は必ずしもアスペルガー症候群者にとってメリットを生むことではない。


<おまけ>

もちろん、この文章が読めない段階の「アスペルガー児」に対しては、
大人の側が寄り添うかたち
(すなわち、アスペルガー児の疑問を解いていくかたち)で
社会の多数派のやり方を教えていく必要があるだろう。




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