ミチャポンが「連絡帳なくなったから買ってきて~」と言ってたので、昨日スーパーのノート売り場に行った。
売り場で各種の小学生向けのノートを見るたびに、思い出す事がある。
それは私の小中学生の頃、毎学年末、白紙のページが大量に残ったノートをどうするか?と困っていたという事だ。
私はノートというものがとれなかった。
授業に出てもノートがとれないので、ノートのページの消費量が非常に少なく、その結果、毎度学年末になると
「もったいないな~、どうしよう」
という事態に陥るというわけだ。
算数(数学)のノートは問題を解く必要があるから、適当に消費する。漢字書き取り用のノートも然り。だが、ほかの教科のノートはことごとく「もったいない」状態になってしまう。
この現象をいま振り返って見るに、「ノートをとる」ということそのものがわかってなかったような気がする。
とにかく板書を丸ごと写せばいいというのにはどうにも納得がいかなかった。
また、教科書に書いてあることに関しては、何故もう一度同じ事を書かねばいけないのか納得がいかなかった。
となると、ノートはいきおい、授業の重要な部分を自分の頭で構成し直して、自分に必要な事だけをわかりやすく記述していくというイメージとなっていく。
毎学期はじめにはそれを目指して授業を聞こうとがんばるのだが、すぐに理解できたり、すでに理解していたりすることが多いと、ノートをとるネタがなくなってくる。
さらに悪いことに、ネタがある場合には、前述のような丁寧な作業をしていると時間がなくなってくるし、逆に授業を聞くことがおろそかになってしまったりする。
結果、「ノートをとらない不真面目な子」というあまりありがたくない評価をいただいて、なおかつ、「学期末もったいない現象」に悩まされるということになる。
考えてみたら「ノートをとる」という作業は結構理解するのが難しい使い回しなのかもしれない。
1.板書を丸写しする
2.自分なりにまとめる
3.重要ポイントのメモをとる。
この3つのかなりかけ離れた作業の指示を
「ノートをとりなさい」
の一言ですませているのだから、わかりにくくて当然といえば当然だ。
このあたり、たぶん定型発達の子はうまく使い分けを自然に覚えて使い分けをしているのだろう。
そして、アスペルガーな私にはそれができなかったという事なんだろうと今になって思う。
高校あたりから、授業中は3.でいいやと開き直り、ルーズリーフを使うことで、「もったいない現象」とはおさらばしたが、板書を写す系のノートをとる作業に何の意味があるのかははっきり言って未だよくわからない。
で、何が言いたいのかというと…。
ASD児がノートがとれないということに関して、ワーキングメモリーが足りないから板書が写せないのだといった話も耳にするのだが、「(授業中に)ノートをとる」ということの意味が理解(or納得)できていないためという可能性もあるということを支援者(特に学校教員の皆さん)には頭の隅においておいて欲しいなあ…と思うのでした。
そうそう、もったいない現象の果て…の、白紙のページたちは切り取られ、
たいていはお絵かきに使われたのでした。

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