ETV特集で発達障害(ASD)関連の番組(3/3(日))

NHKのETV特集で発達障害(ASD)関連の番組がある模様。

2013年3月3日(日) 夜10時
【再放送】2013年3月10日(日)午前0時50分 ※土曜日深夜

人とうまく付き合えない~いじめや虐待と自閉症スペクトラム~

http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2013/0303.html

最近、発達障害関係の番組が多いな~と思っていたがETV特集でも。

注目なのはいじめだけでなく虐待…すなわち親子関係に切り込んだこと。
佐賀の早期療育も気になるなあ。

楽しみ楽しみ。

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発達障害者の親子関係はなぜややこしくなりがちなのか?

絶賛風邪引き中なので今日は短めで。




発達障害者と親御さんとの関係って、結構複雑な場合が時々ある。


基本は相互不信と不安。


当事者側は「親はわかってくれないで口出しばかりする」という思いをつのらせ、
親側は「なんでここまで曲解するのか…」という思いをつのらせている。


ハタから見れば相互に過剰な期待をしているだけとしか思えなかったりするのだが、当事者同士は結構深刻だったりする。
それでいて、親に愛情がないわけでもなく、発達障害者側が親に愛着がないかというとそうでもないのだからまたややこしい。


何故だろうと考えていて、ふと思ったのは、幼少期にコミュニケーションがうまくとれないため、基礎的な信頼関係が築かれていないのでは?ということ。


幼少期に親子間で言語が通じなければいろいろな誤解が生じる。

結果「親は無理を押しつけるもの、わかってくれないもの」と誤学習する。
当然ストレスが生じるが、幼少期は親の手の中にいるしかないので抑えられている。

一度すり込まれるとなかなか修正がきかないのが自閉さん。
学童期になっても「わかってくれないはずだ」を前提に親と付き合い、その結果さらなる誤解や悪感情が集積する。

その蓄積が、ある程度自己表現をできるようになった思春期以降に噴出するのではないだろうか?

うん、まずは親が「言葉の通じる」存在になることが重要だ。

非言語的な愛だけじゃどうにもならないね、これ。



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なんてのがいるかも。

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「伝わる」への道のり-定型親とASD児の場合-

先週の無理がたたったのか絶賛風邪ぶり返し中の狸穴猫です。
しかし先週二つの会で勉強してきて気づいたことをまとめ挙げたい欲求に駆られて脳みそだけは活動意欲満々。


さて、いってみよう。


先週「伝わるように伝えること」という記事を書いた。これで扱ったのはは「当事者→定型者」への「伝える」の流れについてだった。


今日取り上げる「伝える」は、「定型者→発達障害児者」への流れについて。それも「定型の親御さん→発達障害児」の部分をクローズアップしてみる。


土曜日の会で特に思ったのは、「言語が通じていない!」ということ。
つまり定型保護者の発する言葉はこと自閉圏の当事者児には伝わりにくいのだなあということだ。


その「伝わらない」は生活会話レベルで多々発生しているということにもかなり衝撃を受けた。
そして、親御さんは伝わらないことにいら立ち、落胆し、つい声を荒げてしまうご自身を責めてしまう。


保護者の方の話を聞いていて「こう言えば伝わりますよ」ということを伝えたくなってうずうずしたが、残念ながら時間がなくて話すことはできなかった。
だが、いろんなことを考えさせられた。


定型の親と発達障害の子の親子関係がぎくしゃくする例はしばしば見受けられるが、その原因の多くが、日常会話レベルからの、親側の「伝わらない」と子側の「わかってくれない」のループが起こっているのではないかと思うに至った。


これはなんと悲しいことだろう。


人間誰しも「伝わる」が信頼関係の基礎だと思う。
となれば、日常伝わらないことが多くなればなるほど相互の信頼関係が成立しにくくなる。
そして、幼児期~学童期までは「伝わらない生活」でもそれなりにやり過ごせるが、込み入った意思疎通が必要になってくる思春期以降問題になってくるのだろう。


親側は「子供がわけもなく反発ばかりする」ととらえ、
子側は「わかってくれずに押しつける」ととらえてしまいがちになるのは当然といえば当然だ。

ここまで来るとなかなか修復も困難になる。


そうならないためにも日常の「伝える」が重要だと思うわけだが、



さて、日常会話ですれ違いの発生する場面を考えてみよう。


親「早くお風呂に入りなさい」

子「え~、なんで~?」
(早くっていつ?理由もよくわからないし…)

親「いいから早く入りなさい!」
(この子はたかがお風呂くらいで口答えして~(怒))
(あとがつかえてることくらい言わなくてもわかるでしょ(怒))
(続けて入らないとお湯が冷めるじゃない!(怒))

子「…」
(何でもってわけわからないし(不信)、押しつけるなよ~(怒)、怒るなよ~(怖))


とまあこんな感じである。
心当たりのある方もいるのではないだろうか?

こんな簡単な会話でもすれ違いは大量に発生するのだ。
込み入ったことならなおのことだろう。


だが、働きかけの初っぱなを変えてみるとだいぶ違う。


「後がつかえているから15分以内にお風呂に入りはじめてちょうだい」


疑問が生じても聞きやすいし、交渉の余地もわかりやすい。

さらに丁寧にしてみよう。


「お父さんがお風呂から出たらすぐにお風呂に入れるように用意しておきなさいね」

「お風呂空いたよ、10分以内に入って、早くしないとお湯さめるよ」


こんな風に二段構えにするのもわかりやすい。


正直言って、言い換えのテクニックひとつで解決する問題は多い。
我が家では「通じてないかな」と思ったらどんどんこの手の言い換えをしていく。

このような言い換えをするのは少々回りくどくて面倒くさい、「家庭内の平穏」と「信頼」の対価だと思えば大した労力ではないだろう。


だが、ここで問題が2つある。

一つには多くの親御さんにとってこの手の言い換えが非常に難しいものだということ。

二つ目は、「言い換えなしでもわかるようにならないと将来困る」と親御さんが思ってしまい言い換え作戦に踏み切れないこと。


ひとつ目の問題、これは成人当事者の知恵を生かせるのではないかと私は考えている。次世代のために親御さんと成人当事者が連携をとっていくことが重要になってくるだろう。

二つ目の問題、はっきり言って杞憂だ。

適切な言い換えコミュニケーションで信頼をはぐくみつつ、言い換えの比率を調節したりしていけば省略のある会話にもかなりついていけるように成長するものだ(多少疲れるけど)。だからここは子の成長を信じて欲しいところだ。


さて、長々と書いてきたが、親子間でコミュニケーションがとれないと色々不便であるし、信頼関係を築くにも問題が生じるしお互いにストレスもたまりかねない。

そこで親御さんには積極的に「自閉語」の習得をして欲しいと思うわけだ。初めの段階で子供から親に歩み寄ることはできないのだから。

その為に当事者の知恵が必要なのであれば、私はできる限り協力したいと思っている。





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2日ほど真面目に勉強してきた。

さて、先週の金土と二日間のお出かけのまとめを書いておこう。

まずはその1、
15日金曜日はイイトコサガシ『Eラーニング・オンライン・ワークショップIN奈良女子大学』だった。

一度イイトコサガシのワークショップ見てみたかったんだよね。(今回はE-ラーニングということで、リアルワークショップではない予定だったんだけど…)

午前中通院で天王寺に出ていたので、それが終了後家に帰らずそのまま奈良へ向かう快速電車に乗る。

前日2時間くらいしか寝てないので座席に着くと速攻眠りに落ちた。目が覚めたら何やらどこかの駅、表示板を見ると「奈良」とあるのであわてて起きる。乗り過ごさなかったのが正直奇跡的である。

駅の案内所で奈良女子大学への道を聞き、地図を見ながらつらつら歩けば20分ほどで正門に到着。しかし会場のある建物の入口がわかりにくく、15分ほど大学内で道に迷った挙げ句やっとこさ会場に到着。

さて肝心のワークショップだが、E-ラーニングに必須であるPC環境にアクシデントが発生。サーバーがダウンしてしまったらしく、ほとんど試す間もなく終了。このため急遽イイトコサガシの代表の冠地氏によるリアルのワークショップに変更になった。

コミュニケーションワークショップというから何をするのかな?と思っていたが、実にうまいことコミュニケーションを引き出すワークだった。緊張の取り除きからスタートして、コミュニケーション体験へと進む流れもスムースである。

印象的だったのは冠地氏の喋りと動作が非常に動きに富んだものだったということ。解説によると演劇の要素が入っているということで、なるほどと納得。

終了後の懇親会も含め、とても勉強になった。

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その2 
土曜日は、大阪市の城東区社会福祉協議会主催の「発達障害について考える会」に行ってきた。

企画に関わっているFB友からのお誘いで行ってきたのだが、これは純粋な当事者会ではなく、保護者の会も兼ねたような、当事者+保護者混成の会。

集まった人数は50人ほど。はじめ混成で4グループに分かれてディスカッション、途中から当事者と保護者が別れてさらにディスカッション。

保護者数>当事者数の会に参加することは滅多にないので私にとってはとても刺激に溢れていた。

ディスカッションはとにかく、「親御さんの困り感」がひしひしと伝わってくる。
なんというか、「ここまで定型者には自閉さんの言葉がわかりにくいのか?」というのが印象的であった。

そこで思ったのは、次世代の自閉症児者のためには、今成人の当事者が何らかの発信をしていくことも役に立つんじゃないかなということ。

そういう機会が作れたらいいなあ。

内容には関係ないが部屋がとてもいい感じの部屋で残響や反響がなかったので人数が多いのに音声過敏が出なかった。ああいう部屋で集まりができるのはいいなあ。


====================

二日とも、アスパラガスの会の運営にも役に立つかもという部分が多くあり、とても勉強になった。

それはよかったのだがとりあえず、眠い。
夜中に起きざるを得ない私の生活パターンで午前中の外出が続くことは即寝不足を意味する。
夕食時に空けるためカレーの作り置きをするなどの下準備も必要だ。
おまけに木曜は授業参観があったり、通院があったり、宅配便の待ちがあったりと用事が満載だった。
その甲斐もあってか?案の定、ろくに寝ていない上に

というわけで、今日はたっぷり昼寝をとって寝不足解消するつもり。



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伝わるように伝えるということ

ちょっと昔から考え続けていることを思い出した。


ASD者のもつ「伝わるように伝える」ということに関する困難のこと。


このブログ、数百記事書いたが、1記事だけ文のスタイルがまるで異なる記事がある。下記だ。


http://maminyan.blog5.fc2.com/blog-entry-29.html


この記事、私のブログの中でとても反響の多い記事だ。数年前に書いたものにもかかわらずいまだにコメントをいただくことがある。


だが、この記事、自然体で書いたものではないということを白状させていただく。


長年の定型発達者研究?によって、どうすれば伝わりやすいかというのはある程度想定がつく。その知恵を総動員し、背中がかゆくなる!としか言いようがない違和感と罪悪感を「伝えるため」に押し殺して書いたものなのである。


これは異文化に向けたものだ!と自分に言い聞かせながら「伝えたい一心」で文章表現を加工した。


たぶん定型発達の方には私がなぜ「違和感」や「罪悪感」をもつのか感覚的にはわからないだろうと思う。


違和感…、これはかなり生理的なもののようで、私にも正体がつかめない。とにかく背中がかゆくなりそうにむずむずしてくる、下手すると笑いたくなってしまう。


罪悪感…、これは文体の極端な加工によって人を欺いていることによる罪悪感だ。


先に挙げた記事、私の素のままの文体で書けばものの10行でおさまってしまうだろう。そして、たぶん伝えたいことは全く伝わらない。逆に反感すら買いかねない。


自分の伝えたいことを定型発達者に「感覚的」に伝わるようにするためには、自分の感覚の方を押し殺すことが必要になってくる。


ASD者は往々にして「失礼」な言い方をすると言われる。そして、その場合だいたい伝えたいことは伝わらない。


定型発達者に感覚的にわかりやすいように表現を加工すれば言いたいことは伝わるが、ASD者の内部には、違和感や罪悪感がおりのように残るし、ASD者の中に生じるそういったものは伝わらない。


ものごと、伝わるように伝えたい…だが、これは結構困難であり、苦痛でもあるのだ。


ASD者が素の言葉で語るとき、批判、否定の意味を持たせるつもりがなくても定型発達者にはそういった受け取り方をされることが多い。


どういうことかといえば、ある事象に対し「これ、困ってるよね~」くらいの意味しか持たせたつもりがないのに「許せない!!」「腹立たしい!」と言っているように受け取られるということである。


そういった構造を理解していなければ、その受け取り方の違いによって、双方の間に横たわる溝が深まってしまう場合すらある。


それを避けるために定型者に受け取りやすい表現にすること、これはどうしても伝えたいことがある時は必要なテクニックだ。だが、それは決してASD者にとって自然なことではなく、困難を伴うことなのだ。


そのことをどうやったら定型発達者に伝えられるのだろう?
そして、ASD者はどこでどれだけ表現について配慮すべきなのだろう?


そんな事を時折考える。




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段階に応じた発達障害者支援を考える

今日のEテレ、ハートネットTVの再放送(発達障がい関連)を見ていてふと思ったことがある。


それは、発達障がいの支援(サポート)は段階的であるほうがよいのでは?

ということ。

番組を見ていて感じた話のかみあわなさは出演者のいる欲求段階が違っていることによるものかなと思ったのだ。


一応マズローの5段階欲求説をあげると、人間の欲求段階は5段階に分けることができ、

生理的欲求→安全欲求→社会的欲求→尊厳(自我)欲求→自己実現欲求

という風に積み重なっていくらしい。


さて、


発達障害の当事者にはいろんな人がいる。

成人になってから診断された人もいれば数はまだ少ないが学童期に診断された人もいる。好ましくない経験をどれだけしたかというのも違いが大きい。
生育環境によってもかなりの差異が出てくる。

自己肯定感をもてなくなった人と、そうでない人では必要なサポートが違ってくるはずだ。

人付き合いで失敗を繰り返して鬱になった人に、いきなり対人関係のトレーニングはハードルが高い。

こういう人にはまずは安心・安全が必要だ。
すなわち排除されずに存在できる場を提供することこそがサポートになる。

診断後の自己理解にも段階がある。自分の障害というものを受け入れがたい状態の人もいるだろう。

こういう場合には自己理解をすすめるための場があることがサポートになる。

しかし、ある程度自己理解も進み、かつ自己肯定感があがってくるとそれだけでは満足がいかなくなってくるのは当然だろう。

そういう人には特性に応じた各種のトレーニングがサポートとしては適切だろう。


当事者各人の段階にしても直線的に進むものではない。行きつ戻りつすることもあるだろう。

だから、これがベストというものはないのだが、とりあえず上記のような段階を意識することによって、より適切な支援(サポート)になるのではないだろうか。


同じようなことが自助活動にも言える。

自助会というのもさまざまなタイプがある。

・ノンテーマで雑談をするタイプ。
・テーマを決めて話しをするタイプ。
・各種のトレーニングを含めたワークショップタイプ。
・上記の混合タイプ。

同じような運営であっても参加者によっても雰囲気は変わってくる。

いろんなタイプの自助活動があってもいいと思う、というかいろんなタイプがあった方がいいと思う。

その方が参加者が自分のいる段階に応じたサポートを得られるだろう。

また、主催者側もこういったことを意識しておけば、グループ間に軋轢を生じることもなく、必要に応じて他のグループと連携をとったりしやすいのではないだろうかと思う。





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克服かありのままかという議論-NHKの番組から考えたこと-

さっき珍しくテレビを見た。

我が家には現在ワンセグ携帯以外にテレビを見ることができる機材はないので。携帯のちっちゃい画面で見たわけだ。

何を見たかというとNHKのEテレ(教育テレビ)のハートネットTVの再放送。
発達障害に関する討論番組だ。


テーマが「克服かありのままか?」というもの。


見ていて何かしっくり来ない。

出演者個々の意見はまあわからなくないでもないもの。

なのになぜかしっくり来ない。


何がしっくり来ないのか?うーんと頭をひねり、ちょいと狭い個室にこもって
出てきたらひらめいた。(よくあることだ)


テーマ自体がしっくり来ないのだ。


そう、克服ができないから障害なのだというのが抜け落ちてる。



発達障害者では障害によって苦手なことやできないことが多々ある。
定型発達者が通常しない工夫をすることによってできることを拡大することが可能な部分もあれば、工夫が不可能な部分もある。


仮にできることを拡大できる部分についてがんばって工夫したとしても、それは障害の克服ではないだろう。効率のよい工夫という代替手段を獲得したにすぎない。


要は1下肢を失った人が高性能の義足をつけて歩行可能にしたようなものである。義足に相当するものが発達障害の場合は無形であること、そして、代替手段の獲得後、定型発達者の行動・言動と表面的に差異がなくなってしまう事から、あたかも「克服」したように見えてしまうのだろう。


本来、

「生活していく上で工夫するかしないか?」

という議題であるべきところを健常者側から見た外見での「克服」を持ち出し、

「克服かありのままか?」

としているからややこしくなるのだ。


その結果、当事者からも「克服したら健常者になっちゃう、それは本来の個性をつぶすことでは?」というような意見が出てしまい、無用な当事者間対立を生んでしまう。

車いすか義足かの選択肢がある場合、どちらを選択するのも自由であるように、工夫するもしないも当事者の自由意思に任されるべきなのだから、実は議論の余地はないのではなかろうか?

そんな事を考えた。




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アスペルガーと思いこみと二次障害

思い込みは二次障害のもと



自助会を運営しているとさまざまなアスペルガー症候群者(ASD者)に出会う。

アスパラガスの会を始めて3年半、延べ参加者数は数百人に及ぶ。
常連さんもいるし、たまに参加する人もいる、1回か2回の参加の人もいるわけで、実数でざっと200名くらいには会っただろう。

何らかの生きにくさを抱えての参加者は多い。

話していて、彼らの生きにくさの大きな部分を占めているのが「思いこみ」である事に気づかされる。

「自分はこうあるべき」→なのにできない。
「他人はこうあるべき」→なのにそうではない
「社会はこうあるべき」→なのにそうではない。

等々。

もちろん、元々の障害のせいでできない事がある場合もあるのだが、それ以外の部分でのこういった「思いこみ」が自身を苦しめているといった印象を受けるのだ。


傍目から見れば、勝手に思いこんで勝手に生きにくくなっているように見えるかもしれない。


しかし、思いこむには大抵それなりの原因があるし、アスペルガー症候群者の特性として、一旦思いこんだら修正がききにくいという特徴がある。

当事者がつらくなるような思いこみをはずしていくことが二次障害からの回復には必要なのだろうと思うわけだ。


思い込みを修正するというアスペルガー支援



ここに来てやっとまとまった。


二次障害を起こしている当事者に必要な支援は、

・当事者自身を苛む無用な思いこみを拾い上げ
・それを生きやすく合理的な考えに置き換えていく

ということなのではないだろうか。


と、同時に、これから育っていくASD児においては、

・無用な思いこみの原因となるいじめ等を体験しないですむようにする事や、
・一旦思いこんでも修正がきくように思考トレーニングをすること

がその教育において重要なのではないかと思うのだ。





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