発達障害児と夏休みの宿題のラストスパート

夏休みの宿題のラストスパートは家庭教育のチャンス

そろそろ夏休みも終わり。

「夏休みの宿題は計画をたてて取り組みましょう」と学校の先生がいくら言おうが、ぜんぶ計画的に取り組んで夏の終わりに焦らない…という子は、発達障害児では少数派ではないかと思う。

夏休みの友(ドリルの類)は結構早めに済ませる子でも、読書感想文、自由研究、工作、絵日記などが残っていたりする場合もある。

やり方がピンとこないものほど残りやすい。

親にとってはやれやれ…ではあるが、ちょっと見方を変えると、家庭教育の一大チャンスである。

ある程度負荷のかかることを自力でやりきったら達成感はわくし、自己肯定感が上がるのは当然である。自分のやるべきことを責任もってやり遂げる体験ができるこのチャンスを使わない手はない。

というわけで、娘(5年生)の宿題ラストスパートで使った方法とその背景となる考え方を紹介してみる。

宿題発掘からラストスパートまで

まずは宿題を発掘する。夏の初めに一応宿題チェックはしておく必要はあるだろう。

「そーいや、夏休みの宿題ってどんくらいおわってんの~?」

とゆる~い雰囲気で聞く。 親が関われる時間は限られるので、時期はそこを勘案してのタイムリミットより数日前。

発掘するときに「宿題終わったんでしょうね~!!」と責める口調でやるのは反発や落ち込みを生じるだけだ。

「大丈夫、夏休みの友は終わったし~、あとは工作と読書感想文だけ~」

と悠長なこたえが返ってきてもこの時点では個別のチェックはしない。

そして三日後、もう一度きく。

「宿題どーだい?おわりそう?…そういや宿題って何と何があったんだっけ?」

「えーと、あれとこれと、そういえばあれまだだった…、うわあ、あれもまだ仕上げが!!」

こんな具合にやるべき宿題を発掘。発掘できたらメモ程度でいいのでリストをつくる。

残りが多かろうがここで怒るのは得策でない。ガハハと笑いながら

「そうか、じゃ、とっととやろー」

とほんのちょっとだけ背中を押す。

本人が「私って、なんでこんななんだろう」なんて落ち込み始めたら、

「それ考えてる間にやったほうが早いと思うよ」

とだけしれっと言う。 

「なんで今までやってなかったの~」

なんて怒っても、余計落ち込むかパニクるだけで、処理速度が大幅ダウンするだけ。

慰めるつもりで

「夏休みの宿題多いよね~」とか「なんでこんなに多いのかしら...」

なんて言おうものなら、宿題だすほうが悪い…という解釈から自分で責任とることを学習しそこねかねない。

 

怒らず騒がず慰めず そして、自分でやらせる。

 

自分でやるための道筋をたてる手助けだけするというのが、夏休みの宿題追い込みの鉄則。

 

さてやりはじめたら、リストアップした項目を線で消しながらすすめていく。

部屋にこもると横道にそれやすいならリビングでやるほうがいいかも。

 

これで首尾よく最終日までに宿題が仕上がれば

「間に合ってよかったねえ!」

と一緒に喜んで一件落着。

 

せっかくの達成感がしぼんでしまうだけなので

「もっと早くから取り組んでたらこんなに焦らなくてすんだのに…ブツブツ」

ってな小言は言わないほうがいい。

 

間に合わなかったら…、子どもが泣こうがわめこうが

「そりゃー、やりはじめが遅かったらそうなるねえ」とサラッと言ってのけ、新学期に送り出す。

(かつて息子が小学生のときに一回だけやりましたねねえ、これ)

 

夏休みの宿題、親が管理してやらせるのは小学校低学年までだと思う。それでもちょっとずつはしごをはずしていく。

高学年は基本放置で生温かく見守っておき、最後だけちょっと背中を押す感じ。

 

小5の娘の宿題ラストスパート、ほぼこんな感じで片付けたけど、息子が小学校の頃もやり口は同じでしたねえ。

ってなわけで、今年…はもう間に合わないかもだけど、もしかしたら来年役立つ人もいるかも…と思い、書いてみた。

 

 

 

 






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発達障害者における過度の関連づけや被害的思考を防ぐには

ここ数日ネットを賑わせているホリエモンこと堀江貴文氏への批判の件について、昨日障害者就労の問題からちと考えてみた記事をアップしたが、今日になってまた関連のおもしろい記事を発見。

 

「批判の9割は被害妄想」という記事に対して発達障害や統合失調症の視点から補足してみた(メンタル発達インフォ)

 

ちょっと引用する。

 

人間には自動思考というものがあります。自動思考とは、「○○であれば、△△である」という思考のことです。先日の堀江氏の「障害者差別問題」を例にすると、 生産性を上げろ、と言っている人物がいる ↓ 生産性を上げろと言っているということは、その人物は障害者を差別する考えを持っているに違いない(太字部分が自動思考によって導き出された考え) と考える人がいると考えられます。従って、発達障害や統合失調症がなくとも、妄想(勘違い)は起こりえます。人には誰にでも勘違いや妄想はありますよね。 (メンタル発達インフォより引用)

 

上記でメンタル発達インフォの荒川氏はの自閉症スペクトラムと統合失調症についての言及と、その他の被害的な勘違いについて述べられているのだが、私は荒川氏が「その他」に分類した「自動思考によるもの」にも自閉症スペクトラムの問題が反映しているのではないかと思うのだ。

 

自他の境界が思考に与える影響

自他の境界(自他の区分)が明確な人とそうでない人では、ある事象の自分への関連づけ方は大きく異なるだろう。

 

自他の境界が不明確になればなるほど、被害的な受け取り方をしやすく、自分と関連ある事象と受け取りやすく、人の言動をチェックせずに真に受けたり(ひいては騙された感も強くなる)しやすいと思うのだ。

このあたり、ちょっと前に記事自閉症スペクトラム児者における自他区分の問題について考えてみる(2)に、図解つきでぐだぐだ書いてあるのでよろしければどうぞ。

 

誤学習が思考に与える影響

もう一つ、被害的な考え方をしやすい理由として、誤学習があると思う。

誤学習はまあ思い込みの一種だが、何かの「やり方、考え方」での不便になりやすい思い込みと言っておこうか。

なかでも面倒なのが「正しいものは必ず1つ」というもので、理系分野などではそれが真理の追究といった方面に花開くこともあるので誤学習といえないのだが、社会的な場面に「正しいモノは1つ」を持ち込むと途端に様相がかわり、コミュニケーショントラブルの原因にすらなるので「誤学習」になってしまう。

本人にとっては「正しいことを主張、指摘した」つもりでも、傍から見るとどうみても「余計なお世話」だったり「関連つけすぎ→被害的」に見えてしまう、という現象が起こる。

このあたり、ちょっと前にツイートしてトゥギャッターでまとめてある。

 

トゥギャッターまとめ 「発達障害者が被害的になりやすい理由とその解決策について考えてみた」

これはもうちょっと詰めてそのうち記事にするつもりでいたのだが、まあまたそれはそのうちということで。

 

「ちょっとまて」の習慣化と自分の身体の明確化

正直いって、上に挙げたような「思い込み」の多発は不幸でしかない。

本人にとってみても怒ったり悲嘆に暮れたりすることが多すぎれば心身疲弊するだろうし、周りにとっても要らん手間がふえるわけで面倒くさい。

ということで、何らかの対策は必要だろう。

誤学習対策の「ちょっとまて」

これは習慣づけという部分が大きい。「ちょっと待て!本当にそう関連づけていいのか?」と立ち止まるクセをつけておく。そして、すぐに結論を出しすぎない。定型児ではほぼ教える必要がないものだが、判断を保留したほうがいい場合があるということは自閉症スペクトラム児には意図的に教えておいたほうがいいところだと思う。

 

自分の身体の明確化

身体感覚と認知は結構結びついていると思う。自分の身体が認識しにくい(コタツに入ると自分の足があるのかわからなくなるとか)状態では自他の境界を思考だけで認識することになり、身体感覚としっかり結びついている場合よりも判断エラーが起きやすくなるだろう。

私がボディワーク類をすすめるのはそういう理由でもある。

 

ってなところで今日はこの辺で。

 

 

勘違い…問題があったりなかったり…いろいろです。

 






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障害者差別発言との指摘のある堀江貴文氏の発言を障害者就労問題から考えてみた

扇情的な批判記事タイトルと内容との乖離から

堀江貴文氏のツイート炎上?の話がなかなかセンセーショナルなタイトルつきでFacebookでいくつか流れてきた。

「ホリエモン「障害者は働いてもプラスにならないよ!時間のムダ」」

記事のタイトルがすでに堀江貴文氏のツイートをかなりねじ曲げてるとしか思えない。

ホリエモンの障害者差別発言に非難殺到!「ついに叩く相手が障がい者になったか」「絶対に許せない」

  

どうやら「許せーん」って感じで怒ってる人が障害者福祉に関わる層や障害当事者の中にそれなりにいるようだというのはわかったのだが

…私の頭の中では、

あれ、堀江貴文氏って確かベーシックインカム賛成派だったよなあ…あれれ???

堀江氏といえば表現がおとなしいほうではないけれどそこまで不用意な発言(ツイート)するかなあ???

というような感じで疑問符がてんこ盛りなった。

で、ちょっと気になり、元を漁ってみた。

批判のきっかけになったツイートは下記の模様

それは勝手にやってくれ。ただその多くは社会的にはプラスにはならないよ。したいならやり方を考えよう RT @tookik_jp: 障碍者の人達にも社会貢献したい人は多いですよ。その場を経済活動/労働に求める人も当然います、作業だろうがなんだろうが。

https://twitter.com/takapon_jp/status/634389152738336768

これを反射的に障害者差別と捉えるのはちょっと早計だと言わざるをえない。

堀江氏は

 「したいならやり方を考えよう」

といっているのだ。

元々アマゾンの自動ピックアップシステムの話からはじまってるようで、そうなるとここで堀江氏の言っている「社会」ってのは生産活動、経済活動の場としての社会だろう。

障害者の就労と生産性、採算性

経済活動としての労働では採算性を無視することはできないのは当然だ。

だが、現在の障害者就労の多くはそれを無視した形ですすめられてしまっている部分が大きい。

法定雇用率達成だけのための雇用、補助金目当ての雇用なども横行する。そんな企業では労働する障害者を戦力化しようなどという方向性に行くことは少ないだろう。

差別解消の名のもとに無闇矢鱈に企業に雇用義務を押しつけても、賃金は低く抑えられるだろうし、生産性を無視して高い賃金を支払ってしまったらこんどは健常者と障害者との間で軋轢が生じる原因になりかねない。

誇りと生きがいを持って働くということを考えたとき、労働生産性というのを考慮しないわけにはいかないのだ。

生産性に貢献できない状態では例え賃金が得られても「飼い殺し」に等しい状態だと私は思う。

ならば、障害者を戦力化できる仕組みをつくればいいし、障害者も戦力になるべく努力すればいい。

できないことではないはずだ。

スワンベーカリー、日本理化学工業…etc.

障害者を戦力化する方向でやっている企業も出てきている

「やり方を考えてきた」企業だ。

もちろん障害者も様々である。どうしても就労が無理という人もいる。そういう人々をどう支えるかという問題は残る。

だが、それは就労問題とは切り離して国の福祉政策として考えるほうがいいだろう。

 

単純労働が機械やロボットにシフトしてきている時代である。人口の大多数が就労する必要があるのか?という問題も出てくるし、そうなれば生産によって得られた富の分配の常識というのも今後急速に変わっていくのかもしれない。

こういった情勢もふまえて考えていくと、堀江氏の発言に取り立てて障害者差別につながるようなところはないと私は思う。

むしろ、堀江氏の発言に対して障害者差別だ障害者排除思想だと声高に叫ぶ人のほうが非現実的であるような気さえする。

「じゃあどういうやり方があるかなあ?」といった方向に話しが展開するのを阻害してしまっているような気がするのだ。

こういう状況こそが、様々な障害者問題の解決を遅らせているような気がする。

障害者問題を考える環境も変わってきた

そんなことをつらつら考えているうちにこの件に関わる様々な記事が出てきた。

【検証】障害者差別発言とされているホリエモンのツイッターを順番に読んでみた(解説付き)

 

乙武洋匡氏が堀江貴文氏を擁護 差別発言との指摘に「悪意ある捏造」

”善良”で無自覚な差別主義者(ひろゆき/西村博之氏)

 

こういった記事が出てくるというあたり、10年前に比べて風通しがよくなってきたのだとは思う。

 

確かに障害者の中には悠長に構えていられないほど困っている人も少なくない。となれば、今回の堀江氏のツイートに接して、自分に結びつくような気がして過剰反応してしまう人もなかにはいるかもしれない。

だが、今、個々人が困っていることに対する対策と、社会全体として将来どうしていったらいいかの方策を考えるのはキチンと切り分けておいた方がいいと思うのだ。

両者には必ずタイムラグが生じるから、社会の変化に期待していたら、いつまでたっても不幸や不満を持ち続けるはめになる。

建設的な議論をしていきたいものだと切に願う。

 






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58回アスパラガスの会参加登録開始のお知らせ

皆様こんにちは。

次回第58回アスパラガスの会のご案内です。

第58回アスパラガスの会開催概要



とき:2015年月9月26日(土) 午後2時~午後3時45分

ところ:JR大和路線・近鉄道明寺線 柏原駅徒歩数分の公共施設

参加費:100円(通信費・資料代等)

申込期間 2015年8月24日(月)~2015年月9月13日(日) 

テーマ:自慢歓迎!みんなの恋愛談義(アンコールテーマ)

昨年初めて取りあげたテーマで、開催前は参加者があるのか?どういう流れになるか等、ちょっと心配しましたがフタを開けてみたら意外に盛り上がり、ぜひまた!という要望もあったのでアンコールテーマとして取りあげさせていただきます。
リア充の方もそうでない方も、ふるってご参加くださいませ。

定員:25名(先着順)

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発達障害者、発達障害児の親御さんが、診断がついてから途方にくれがちな理由を考えてみた

一昨日フラフラと連続ツイートをしたのを勿体ながってトゥギャッターにまとめたのだが、なぜか多数シェアされたりしているようなので、せっかくだから記事にしておこうかと思い、多少加筆してまとめてみた。

診断後の「さてどうすれば?」問題

発達障害診断後の定番のセリフといえば

「今まで大変でしたね、これからは障害に合った工夫をしながら、周りの人の理解をうけつつやっていきましょう」
である。

発達障害に関する一般書にもこういうことが書いてあるものが多い。というか、それがほとんどだ。

診断にショックを受けるか、ほっとするか?その辺はまあ人それぞれだろうとは思うが問題はしばらくして、さてこれからどうしていこうかと考えはじめた時である。

書籍で提示されている工夫は、構造化の類いがちょっとと、あとは「こういうふうに理解をしてもらいましょう」である。つまり当事者自身(発達障害児の親御さん)が自分だけ(親御さんなら家庭の中で)でできることはわりと少ない。

そして、診断をうけるきっかけになることの多い社会適応の問題にどう対処していけばという観点からの、自力でできる「こうしてみたら」というものはさらに少ない。

これでは自分でどういう努力していけばという部分で途方にくれて当然だろう。

なぜ理解に依存したくなるのか?

ネット上の当事者の声でも、もっと社会の理解をという言う声も多いが、医療や福祉サイドが自力でできるものを提示していないから「理解してもらわねば」という方向にばかり向いてしまうという面もあると思う。

まあ、二次障害がバリバリに重いときにはまずは薬物療法や休養が必要だとは思うが、そこを多少脱したら結構できることはあって、負荷をさげるための環境調整、姿勢や睡眠、体力対策としての身体アプローチ、言語や社会的知識の未学習や誤学習の対策 そして模擬or実地の運用トレーニングなど、最近はかなり選択肢も豊富になってきたと私は思っているのだが、どういうわけだか医療も福祉もその辺あまり積極的でない。

「社会の理解を!」というのが一概に悪いとは言わないが、実際問題それだけではあまり説得力はない。自助努力が見えないと他人まかせに見えてしまいやすいので積極的に乗れないし、自分でできることが少なければ要求が過大になりがちということもある。そして過大なものは当然受け入れられない。

(このあたりは、夏前に「発達障害者(児)支援をどうデザインするか? -社会性の障害による困難には相手があることから-)」という記事でも触れた)

それで「理解が広がらない、楽にならない」と嘆いたりという方向にいく人も結構見かける。

ただまあ、声を上げる人は目立つが、声を上げない人のほうが多いのが世の常だ。

発達障害者も、発達障害児の親御さんも、実のところ「どうしていけば?」だらけなんだと思うのだ。自分では何も努力しないで全面的に周囲の理解でなんとかすべきと思ってる人はたぶん少数だと思う。

自力でとりくめるものこそが必要

そして、実のところ、二次障害があっても、ある程度頑張りどころの見当さえつけば、がんばれる人は結構多いと思う、そしてたぶんその方が二次障害も軽快しやすいとも。見通しがよくなるだけでも大違いだろう。

もちろん自分でがんばれれば自己肯定感も上がるという効果も期待できる。

よく発達障害者と定型発達者では文化圏が違うのでトラブルが起こりやすいというようななことを言う人がいるが、社会生活上問題となりやすいのは文化の差異といった側面よりも、身体的な問題(感覚面含め)や未学習、誤学習の問題のほうがずっと大きいと私は思っている

身体的な問題

感覚過敏を無理にがまんすればそりゃ疲れる。

姿勢がわるければ疲れやすいのも当然である。

睡眠の質を確保できてなけりゃそりゃ頭が空転しやすいだろう。眠れないというのもよく聞くし、寝ても寝てもだるさが取れないなどというのは、たぶん睡眠の質を確保できてないんだろうと思う。

文化的側面と未学習・誤学習という側面

発達障害者では、プロ野球の話で盛り上がるより機械ものの話で盛り上がれる人のほうが多い…これは文化の差異に近い部分だと思うけど、これ自体では社会適応上の問題にならない。

問題になりやすいのは、あまり興味のないプロ野球の話をネタに話しかけられたときの返答の表現。角の立ちにくい表現をしらない(=未学習の状態)と当然角がたつ。

その辺をしっかり分離して考えた方がいいとも思う。

しっかり指向性の差異みたいな部分とそうでない部分をわけて、がんばったほうがオトクな部分を明確にしといたほうが、がんばりやすいとも思う。

見通しが重要だからこそ

もちろん、二次障害で一時的に薬療が必要なときはあるかもしれない。ただ薬療から離れたときにどうがんばっていけばいいのか見通しがないと、そこから不安が起こるのは当然だし、そうなると二次障害も再燃しやすいと思う。

発達障害児者には見通しが大事ってのをよく医療や福祉の専門家がいうけど、それなら本人ががんばるための見通しをしっかり持てるような支援をして欲しい思う。

大筋の見通しがあれば細かいことの見通しがちょっと悪いくらいのことはわりと気にならないものだと思う。

おまけ-狸穴猫の考えるとっかかりの一歩-

ここまで書いておいて何にも具体策を提示しないのもなんなので、私自身がこうしてきたよってなところや自助会で当事者さん達と接してきた経験などから、とっかかりはこんなもんかな?ってなのを書いておこう。

身体面

知覚と身体に楽である状態ってのを教えてあげる。

不眠とか、睡眠時間確保できてるはずなのにだるいとか、それだとなにやるのも億劫になるし、疲れからの回復も遅くなる。ずっと続いてると当たり前になってしまうのでそれが問題だと意識しにくい問題。でもここはやっぱり基本でしょう。

  • 視覚と聴覚は特に優先して楽させてみる。
  • あとは睡眠の質の確保。

感覚過敏、特に視覚や聴覚は他の人との比較がしにくいせいか、過敏があってもそれに気がついていない人もけっこういる。
サングラスやブルーライト軽減ツール・アプリ、フォントの調整、ノイズキャンセリングヘッドホン、デジタル耳せん等、いっぱいツールはあるので使える場合は使ってしまうとかなり楽。

睡眠の質をあげるにはとにかく身体を緩める。 金魚運動とかあべこべ体操とか、ぬるめのお風呂とか、リカバリーウェアとか、ハーブティーとかアロマとか…いろいろあるよね。
意外かもだけど腹抱えて笑いまくるとあちこちほぐれる。爆笑系の本や爆笑ネタサイトも私はよく使ってる。

自分の身体を自分にしっくりこさせる。

感覚統合訓練が有名だけど、ボディワークとかもいいよね。いろいろあるよ、フェルデンクライス、操体法、気功、ヨガ、ピラティス…。ゆっくりってのがいいみたい。
五本指ソックスはいたり、片足立ちするだけでもかなり感覚がつかみやすくなる。

自分の身体が自分の感覚にしっくりこないと立ち座りの姿勢や歩き方もくずれやすい。姿勢が悪ければ疲れやすいのは当然だよね。

学習・認知面

学習やチャレンジを阻害するタイプのヤバい誤学習を排除する

「正解はひとつ」
社会的なことに関しては正しさなんて人の数だけあるよ。人間の思考も結構多様だから。
「みんなと仲良くしなきゃいけない」
しなくてもいいよ。基本失礼でなきゃいいんじゃないかな。距離をおくほうがいいこともある。
「金儲けは汚い(悪いことだ)」
わきゃないわ、お金がまわらくなったら世の中のあちこちがストップしちゃう。他者に価値(もの・サービス等)を提供してそれに見合った対価をいただくってのは決して悪いことではないよ。どう稼ぐかどう使うかの問題だよね。

言葉や言い回しを学ぶ

心のもちかたの本読むより言語表現の本のほうが役に立つと思う。割とメジャーな表現を知らない、使えないってこと(未学習)は結構多い。

  • 「おそれいります」
  • 「お待たせしました」
  • 「お気遣いありがとうございます」
  • 「助かります」
  • 「お気をつけて」

こういうの、使ったことないなら言うの練習してみるとかね。

とまあ、こんなところで今日はおしまい。

 

 

 

 






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【書籍】治ってますか?発達障害/南雲明彦・浅見淳子著

今日は「治ってますか?発達障害」という本を紹介

ずいぶん思い切ったタイトルである、いや、もうちょっとはっきりいってしまおう。

挑発的ですらある(「相変わらず」をつけるべきかもだが)

だが、この本は発達障害当事者に、そして発達障害児者に関わるすべての人に目を背けてはいけない様々な問題を突きつける本だと思う。

 

 

著者のお一人である南雲明彦氏は発達障害の一種であるディスレクシア(読字障害)の当事者で、次世代のために講演等さまざまな活動されている方。もうお一人は「自閉っ子シリーズ」を出している花風社の浅見淳子氏。

そして途中ちょっとだけ「自閉っ子の心身をラクにしよう!」の著者である栗本啓司氏が登場する。

 

 

版元である花風社は発達障害に関する本を多く出している出版社だが、かなり挑戦的な内容のものも多いし、目から鱗的な本も多い。

 

治ってますか?という問いかけから

正直なところ、タイトルだけで「え~?」と避けてしまう人もいるかもしれない。

まあ、医者も支援者も「治らないので周囲の理解で生きやすくしていきましょう」ってなことを言う人が結構多いので「発達障害は治らない」を信奉する人が出てくるのは必然ではある。

だが、昔不治だといわれた疾患や障害でも、治るものは数多く出てきているし、治らないまでもかなりの機能改善が可能なもの増えてきている。「発達障害は治らない」を前提とする支援が主流という現状は私は違和感を感じる。

 

そしてよくきく「ありのままでいいよ」、「周囲の理解を」というセリフが決して発達障害児者をラクにしないという現実。さらにラクに暮らせる方法、ツールをかたくなに拒んでしまう当事者の存在。

この本はそういった発達障害児者界隈や支援業界にあるさまざまな矛盾を、まあ見事にバッサリと斬ってくれている。

 

「うんうん、治さなきゃいけない部分はあるんだよ」</p>

「そうそう、生きづらさなんていらないわあ!」

「ホント、いらん支援や大きなお世話がはびこってるよな~」

 

と、頷きながら一気に読んだ。

そして読了後、私の脳みそからポンと出てきたのは「痛快!」という単語だった。

まあ、私が痛快と感じるということは、ある一群の人たちに辛辣なのであるから、かなりグサッとくる人もいるかもしれない。反感を持つ人もいると思う。

 

戦いつづけてきた人のもつ説得力

著者のお一人の南雲氏はディスレクシア(学習障害の一種、主に読み書きがしにくいといったもの)の当事者である。

読み書きの問題をきっかけに二次障害や引きこもりも経験したという(このあたりはLDは僕のID ―字が読めないことで見えてくる風景にも詳しい)。

だが、南雲氏はディスレクシアだが現在は本も読めば文章も書く方である。

もちろんはじめから易々と読めたり書けたりしたわけではない。努力を重ねて読めるようにしたのであり書けるようにしたのである。

そしてこの本の中で南雲氏はかなり辛辣に「ありのまま主義」を批判する。

もがいてきた人だからこそ、南雲氏の「ありのままではいけない」という言葉には重みがある。

(おまけだが、南雲氏のツイッター発言はなかなか本質をつく発言が多くて楽しい。氏のツイッターアカウントは @nagumo11

 

「土台づくりが大事」と語る南雲氏がどう障害と向き合ってきたか、どうやって自己肯定感を自ら育んできたのか?どうやってできることを増やしてきたのか?それを読むだけでもこの本はかなりの価値があると思う。

 

「私は(うちの子は)ディスレクシアではないから関係ない」と思われるかもしれないが、障害とどう向き合うか?そして支援機関、支援者とどうつきあっていくのか?どうすればできることを増やし、自己肯定感が上げられるのか?これは自閉症スペクトラムもAD・HDも共通の部分だろう。

 

発達障害のある人生をどう生きるか?

「治ってますか?」というかなり挑発的な言葉には
「さあ、どうする?障害だからと(自分の、子の)人生あきらめる?それとも人生切り開く?」という、目を背けてはいけない問題を突きつけるような気迫を感じる。

悩んでいる人も多いと思う。

しかしビビる必要はないので安心して欲しい。

 

とりあえずどこから?という場合のヒントになることも栗本氏の登場する章を中心にちりばめられている。

身体とのつきあい方、各種ツールの取り入れ方などなど...。

なかなかがんばれない人へのアドバイスまであるところなど、けっこう親切である。

 

 

発達障害界隈にある不思議な「治す」アレルギー

発達障害関連で「治る」や「治す」って用語を出すと「治るというのはけしからん」とか「治る治らないというより個性としてとらえたほうが...」「結局軽いか重いかでしょ」って方面に話がすべりやすい。

「治るか」を問題にしてはいけないような風潮すら感じる。

 

それってちょっと異常な状況ではないかと私は思うのだ。他の難治性疾患で、「治る」「治す」という用語をつかうと批判がとんでくるなんていうのは私は聞いたことがない。せいぜいのところ「胡散臭くない?」程度だ(そして胡散臭いかどうかは年月がたてば自ずとわかる)し、個人レベルで治ったという話をきいても「よかったねえ」or「いいなあ」で終了だ。

 

「治る」「治す」といった用語への過剰とも思える反発はどこから来るのだろう?

 

そして発達障害の症状が変化する人はけっこう多い。私にしても子どものころあって今はない症状もある。ならば症状の何と何がどこまで治りやすいのか?何と何が変化しにくいのか?を検討する必要はあるだろう。

 

そして今の発達障害の定義にある症状は本当に一次障害なのか?特にASDではコミュニケーションとか社会性なんてのが診断定義に含まれるあたり、実はかなり怪しいと思う。

「治す」「治る」という用語への反発が阻害している議論も多いと思うし、本来可能な努力を放棄する言い訳になってしまっていることもあると思う。

 

この本は、そういった風潮に対しても真っ向から勝負を挑んでいる本でもあると思う。

そして、発達障害児の子育て、発達障害児者の支援において真に大事にすべきことはいったい何なのかを読者に問いかけてくる本でもある。

「周りに理解してもらいましょう」「がんばらせてはいけません」だけの支援に疑問を感じている方には特におすすめの本だろう。

 

 






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