まあ、学校という場は、とかく同質性を求められる場なので、アスペルガーにとっては最悪の場所であるからして、ある程度は仕方ないかなと思ってはいたが、本人相当深刻そうである。
今日は、彼との議論の最中に、話題にのぼった定型発達者の性質について書いてみよう。
結論から先に書くと、タイトルの通り。
定型発達者は自他の同質性の確認をせずにはいられないものである。
定型発達者の人付き合いを見ていて思うのは、何につけ自他の同質性確認が核になっているということだ。
2歳児ですらそれがある。
以下は娘の通う保育所での一幕である。
ソフトブロックを手にかかげて1人がもう1人と目を合わせると、そのもう1人も同様にブロックを手にかかげて同様の姿勢をとり目を合わせ、にこっとする。
そこにはコミュニケーションというものが存在するのは確かではあるが、その本質は「自他の同質性の確認」である。
(ちなみに我が娘はそのコミュニケーションの輪の中にはいない…やはりか)
年をとろうが定型発達者のコミュニケーションの多くは「同質性の確認」に費やされる。趣味、関心事、悩み事、話し方そのもの等々、バリエーションは増えていくが、同質性の確認によってまずは最初のコミュニケーションが成立していく。
定型発達者にありがちな共感的表現等はコミュニケーションの過程で「同質性の確認しやすさ」を増強させている要素に過ぎないのかもしれない。
さて、話を戻す。
アスペルガー者サイドからの見方をあえていってしまうならば定型発達者の同質性の確認の作業とそれに費やすエネルギーを見ていると
定型発達者は自他の同質性確認強迫がある!…と、言ってしまいたくなるのである。
年代ごとや属する集団ごとに同質性の確認手段は違ってくる。
「同じ話題を話せる」「同じ(同種の)ものを所有する」等々…まとめていってしまえば「同じ地平にたつ」といったところだろうか。とにもかくにも同質性を確認しなければ定型発達者は不安に陥りやすいのだ。
さて、ここにアスペルガー症候群者が周囲から浮いてしまうポイントが隠されている。
アスペルガー症候群者には自他の同質性の確認強迫がないのである。また、定型発達者が同質性を確認しようとするコミュニケーション上の働きかけをしても定型発達者が期待するような(定型発達者が安心するような)コミュニケーションデータを定型発達者に渡すことはない。
かくて定型発達者にとって、素のままのアスペルガー症候群者と会話することは、「定型発達者の自他の同質性確認欲求(強迫)」を満たすことののない、非常に不安感を覚えることになってしまうのだ。
基本的な対定型発達者対応として、アスペルガー者はこういった定型発達者の性質を理解して、同質性の確認行動に水をささないようにさえすれば、無用に定型発達者の不安(表面的には怒りとして表れることも多いが)を煽らなくてすむので無駄な軋轢を避けられるだろう。
ところで学校生活で周囲とうまくいかないといった経験を持つアスペルガー症候群者は少なくない。
こと学校社会では学年という枠で一見「同質性」が保証された社会であるので定型発達者(児)は他者に対して非常に激しい同質性(の確認)を要求してくる。
これがアスペルガー者(児)のいじめられやすさや、アスペルガー者(児)が周囲とうまくいかなかったりする原因の一つではないかと考える。また、「違和感」が常態であるアスペルガー者にとって同質性の確認要求自体が苦痛になりやすいといったこともある。
多感な思春期のアスペルガー者にはハイレベルの「同質性の要求」が永遠に続くように思えてくるのも致し方ない。
だが定型発達者も歳を経るごとに「異質性」に対して耐性がついてくるという成長をとげる。次第に「同質性の確認」は部分的なもので済むようになってくるのだ。
何をいいたいのかちょっと散漫になってきたのでここらでちょっと強引に締めくくる。
思春期のアスペルガー者諸君に告ぐ!である。
「ま、とりあえず頭で理解しておきゃじき慣れるよ、定型発達者は鬼でもなければ蛇でもない、彼らもまた成長し変わっていく、成長しかたが君らと同様でないだけだ」
ということだ。
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