定型発達者的「相づち」に対し、アスペルガー者が感じる違和感について

「定型発達者の迷惑性について」
という記事を先日アップしたが、コメント欄で実に有意義な、様々な議論がなされた。

なかでも「定型発達者における相づちの機能・役割」について、かなり突っ込んだ話しが定型の方からいただけたのは非常に意義深かったと思う。



ところで、そろそろ終息か…と私がおもっていたころ。

トラネコさんから下記のような疑問が提示された。


ところで、相槌が苦手な方は、相槌をうたれるのは好きですか。
私自身は、相槌をうたれた時の変な感覚って何だろうとも思っていたのです。
頷かれるのも同様で、耳を傾けるという姿勢の間は話し続けていたのが、
頷かれて、身構えてしまったりします。
いつも必ず、ではないんですけれど。




これはちょっと考えてみる価値のある話題ではないかと思い、コメント欄でこっそり続くにはもったいないと、記事にして取り上げてみた。


で、私のことをいえば、定型発達者はやけに相づちや頷きが多いなあと、若干の違和感を普段から感じている。

ぶっちゃけていえば…「そんなに、うん、うん言わなくてもいいよ」という感じなのである。


「多すぎ」なのだ。


最近は歳もとったので「定型さんはそうするもの」と、あまり違和感に対して気にしないようにしていたが、

こちらがあまり同意や共感を求めていない時にも、定型発達者の皆さんは共感を示したがるように思うし、「同情」も派手に示してくれる。


その違和感に関しては一度記事にしている。
「ミチャポンのアスペルガー疑惑」の最後の方の児童相談所職員との電話のやりとりである。

違和感はあるのだ。
特に過剰な同情的・同調的相づちには「ホントにわかってんの?」と聞きたくなる。


突っ込みを入れたくなる

といったほうが正確かもしれない。


で、話しを元に戻すが、トラネコさんの発言に対してマルマルさんが


会話に込める欲求度が、あまり無い、ということでしょうか。
「聞いてくれるだけで良いので、反応は要らないよ」という解釈でよろしいのでしょうか。




と書いてらっしゃるが、これに対し、私個人はこう思う。


相手に情報が正確・確実に伝わっているのかは気になるし、場合によっては感想や意見も欲しいが、会話中の相づち・頷きなどが多すぎると、それに気をとられて肝心な事話しそびれそうになるし、また、相手に聞き漏らされていないかの方が気になってしまう。


そして、(私から見て)過剰に同情的・同調的相づちに関しては、「本当にわかっているのか疑いたくなってしまう」こともままあるのだ。


だいたいそう言うときは、こっちの欲しいのは意見・見解だったりするのに「聞いてあげた」というような顔をされることで、不可思議な思いに駆られたりするし、たまには不愉快にならざるを得ない場合がある。



というわけで、当事者サイドから見た相づちの感じ方に関するご意見、それに対する定型発達者の方の感想等いただければありがたいです。





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コメント

あいづち・・
私は診断を受けていませんので、非定型者として発言していいのかどうかちょっとためらいますが(&周りにいるだれが「定型」でだれが「非定型」かもわからないし)、自分が「非定型」、私から見て「なんかへん」に見える「ふつう」の人たちを「定型」であると仮定して、発言します。

私の場合、ほんとうに共感したり、同意した上での「そうそう」「そうだよねえ」という相槌をもらうのは、うれしいです。(その相槌の後、相手の見解が述べられ、話が深まることが多いように思う)

が、相手と違う意見を述べているのに、「そうそう」「わかるわかる」などと受けられると、困惑し、混乱します。

また、事実について述べたり、質問したりしたときに、「あなたの気持ちわかるわ~」などと言われると、きょとんとしたり、むっとしたりします。
「どんな気持ちのこと?」と聞き返したいけれども、これはまずかろうと思って我慢しています(私の気持ちがわかったら、そんなこと言うわけがないし)。

中身のない相槌を打たれると、相手に受けとめられたというよりは、ないがしろにされたという気がします。

多くの「ふつう」(定型?)の人たちの会話では、「そうそう」「そうなのよ」「わかるわ~~」という相槌が飛び交っていながら、話がまるでかみあっていないということがよくあるように思うのですが、「ふつう」(定型?)の人たちは、そういうの、気持ち悪くないのでしょうか?
とても不思議に感じます。

また、あきらかに違う意見が出ているときに、「結局みんな同じなのよ~」と、無理やり「同じ」ことにしようとする場面もよく体験しますが、これもとても不思議です。

相互理解は、互いの「違い」を明確にすることから始まるのではないかと思うのですが、「ふつう」(定型?)の人たちの多くは、「違い」を明らかにすることを怖がっているようにみえます。相手を理解したいという気持ちが少ないのでしょうか・・・
(「理解」という言葉の意味が私が思っているのと違うのかもしれませんが)

いかに「定型」同士であったとしても、ものごとに対してまったく同じことを考えているはずはないと思うのですが。



マルマルです   「並べてみました」
定型発達者は、
○相づち&頷きを、無意識で反射的にしている。

○相づち&頷きがないと不安、孤独、不快になる。

○相づち&頷きを得られないと、非常に話づらい。

○相づち&頷きが無い会話は不自然と感じる。

○話を真剣に聞いてない時でも、相づち&頷きをする時がある。(生返事)

○相づち&頷きを制止されたら、苦痛であり、そのことに意識が集中して話の内容が解らなくなる可能性大。

○相づち&頷きの無い質疑応答は、人間味の無い機械的なやりとりに感じる。

○大げさな相づち&頷きは、サービス精神の表れとして歓迎される場面が多い。

○理屈、理由、指導無く、自然に身に付いた所作なので、身に付いてない人の方を不思議に感じる。



そういえば、友人のアス君の話を頷きながら一生懸命聞いていたつもりが、後日、彼の日記に「不信感」と記されていたことが解り、ショックを感じたことがありました。
狸穴猫さんの「相づちへの感想」で「こういうことだったのか」と思い当たりました。
マルマルです。  「質問」
会話を「真珠のネックレス」に例えると
話は真珠で、相づち&頷きは真珠をつなぐ糸だとします。

糸で真珠はつながれていますが、糸は目に触れません。

定型発達者には、そのくらい相づち&頷きは、自分の意識に触れていないものです。

糸の方が、目立つ、気になる、というのは感覚過敏によるものなのでしょうか?

定型発達者同士でも「なんで、そんなところが気になるの?」という、
その人だけが感じる不快感や違和感や恐怖感はあります。
しかし、「そのひとだけがたまたま」という、とらえかたで
「その人の持つ感覚過敏」として容認されます。

もしアスペルガーの方に、相づち&頷きが、
耳障りで邪魔なものと感じる方が多いのなら、相づち&頷きは、

真珠をつなぐ糸ではなく、
真珠の間にはさまった石みたいな異物として、
クローズアップされ感覚を刺激するのかなぁと思いまして。

こういう例えは、的外れでしょうか。
当事者です。
そもそも目を見て話さない私には
「相手がうなづいているかどうかどうかが、見えない」ことが多いです。
うなづきは気になりませんね。

相槌は「私はあなたの話を聞いています。理解しています」というボディランゲージ(音でていますけど)と解釈しています。
目を見て話せる当事者には余計な情報となるのかもしれませんが、私のように相手に対して横向いて話す癖がある人間には「相槌」は必要です。

定型者の相槌の多さは、親が会話を聞くときに相槌をたくさんするのを見ているから、それを幼少期に学習しているだけだと考えています。当事者は何らかの理由で学習できなかったと。
もう一度 マルマルさんへ
マルマルさんへの私の前回の返信は、変ですね。
うまく答えられないかもしれませんが、
もう一度、答えさせてください。

マルマルさんは、最大の優しさを伴って、
相槌は、かえって迷惑ですか、
黙って聞いているだけの方が良いのですか、
と尋ねて下さったのですよね。

お尋ねを、二つの要素に分けてみました。
一つは、「聞いていますよ」の合図としての相槌も
無い方が話しやすいですか、という問い。
もう一つは、「共感しているよ」という意思表示は
煩わしいですか、という問い。

「聞いてますよ」の頷きにもウッと詰まってしまうのは、
私が変なんだろうと思います。
会話であることに直面して困惑するとか、
独り言形式の方が言い易いなんていうのは、
私自身が解決すべき課題ですよね。
ですから、「聞いてます」の合図まで控えて下さらなくて
結構です。
なんか、興奮している子供が宥め方に注文つけてるみたいで、
恥ずかしいです。
 
もう一つの「共感しているよ」の意思表示の方ですが、
これが現在の私の悩みでもあります。

共感志向の強い人達にとっては、共感を示すことは、
たぶん、優しさの現れなんですよね。
共感・交流の輪に入れてあげるよという、お誘い。
相槌の中には、同調と同意を分離して、
同意の言質を与えずに同調を装う、
そんな高度技術もあるとは、前回のコメント群で知りました。
ところが、共感志向の強い人達のなかには、
意図的に、同調と同意を分離させない場合もありますよね。
共感を目指すには分離しない方が良いのだという
善意もあるように思います。
 
日常会話でも、テーマに沿った展開を求めてしまう私は、
同調と同意を混合されると反発を覚えます。
ただ、反発とともに、反発する自分に寂しさも
感じてしまいます。
会話での共感志向への反発は、生活全般のなかでの、
私の共感能力の無さと繋がっているのだろうと。
その寂しさは、そういう私の中にある言葉の体系とか、
意味の体系とは何なんだろうという疑問にも
繋がっていきます。

また、話がズレて私の想い語りになっていますね。
済みません。

マルマルさんの、友人の話を一生懸命に聞いたら、
「不信感」という反応だったという話。
御友人にとっては、共感を示されるよりも、
また、いわゆる「傾聴」を示されるよりも、
直球の返球が欲しかった場面かもしれませんね。
でも、もしかして、マルマルさんにとっては、
意味に意味で返すよりも、共感を示す方が
大切だったのではありませんか。
あともうひとつ気がついたこと
就職活動のときに言われたことです。

あなたの話や文章は無意味に長く、聞く気力、読む気力を維持できない

これは私だけでしょうか。

定型の人は「結論」が知りたいのであって、途中の仮定は知りたいなら質問すると私は解釈しています。
当事者の中には聞かれてもいないのに、結論を言わずに、延々と前置きを話す人が多いように私は感じています。

対策として、短く簡潔に会話を済ませることを挙げてみます。そうすると「そっけない人」という評が経つことはありますが、うなづかれる機会が減るからです。
うなづきは相手の会話の途中に挟まるものなので、ひとつのセリフを短く切れば、相手はうなづきの変わりに質問や自分の話をしてくれると私が思っているからです。
うなずきができなくていつも「お前、聞いてるんか?!」って言われます。
仕事では、脳内マニュアルでやってたりもしますが、本当に自分で理解してうなずいてるとは思えず…。


逆にうなずいてはいけないときにやってしまって誤解されることもあります。


どちらも、オートマでできない故の失敗ですね。


まぁ、わかってないのに同調的なうなずきをされるのはムカつきます。
それだったら、まだ「わからん」って言われたほうがマシですね。
マルマルです。  「逆転」
「同調と同意を混合されると反発を覚える」
というトラネコさんのご意見で、もう一歩見つめ直しました。

定型発達者は、
同調と同意をものすごくザックリと、大雑把にとらえています。
「同調と同意と、どう違うんだ?」と感じる人が圧倒的に多いと思います。

という私も、その違いがよく解っていません。
そこで手元の辞書で調べたんですよ。
すると、同調にも同意にも「態度・意見を同じくする、同じ意見・賛成の意味」
と、同じ解釈がありました。

一般的には、同調と同意の区別無く、発信し受け取っているのが
「普通でリラックスしている」状態で、
それを「どちらかに使い分ける」という感覚は
「非常に、神経を研ぎすまし、緊張する」ということになると思います。

それは「注意深く」を超越して「敏感」のさらに上の「過敏」にまで
集中力を高めなければならない作業です。

定型発達者のリラックスが、アスペルガーの方(全員ではないが)の神経にさわるポイントのひとつに、相づち&頷きがある、ということですよね。

これは、大きな発見です。
会話は人間関係の基本ですから、
アスペルガーの方(と認識したら)まず「相づちとか頷きって、気になる?」
と聞いてから会話を始める、ということは大切と感じました。

聞いても、実行出来るかどうか・・・。
「ここでは、頷いて良いんだろうか、同調ととられるか同意ととられるか、どうなんだろう」と、迷っているうちに、話は進み、内容がよく聞けてなかった。
ということになりそうです。

あれ? これってどっかで聞いたフレーズだなぁ。
そうか、私がアスペルガーの人にとってのアスペルガー者になっちゃうんだ。

定型発達者も、アスペルガーの方の注文に合わせて会話する。
という体験をしてみると良いですね。

そうすれば、意に添わぬことが、いかに苦痛で混乱するか、実感できて、少なくとも「違いを認める」という気持ちの幅は広がると思います。

同調と同意
「同調」と「同意」を敢えて分けるとするなら、「同調」とは場の雰囲気を創り上げる行為で、
「同意」とは「理解」し「共感」する事であるのかも知れませんね。
そう考えると、「理解」することなく「同調」すると言う事は十分あり得る事です。

また、「同調」とは「理解」であり、「同意」とは「納得」であるとも言えるかも知れません。

これらの異なる解釈は、デジタル的に一方が正しくもう一方は誤っていると言うものではなく、一見同じ様に見える言葉や行為に、異なる二つの解釈・意味が存在するのだと思います。
同調・同意における混乱は、多義的なモノを一義的なモノとして捉える・理解(誤解?)するが故ではないでしょうか?

話は変わって、非常に個人的な見解ですが、前者は女性的コミュニケーションであり、後者は男性的コミュニケーションであると感じます。
私の場合、会話の中でただ黙って聞いてい
ると、相手の話が止まるという事が度々起こ
りますね。

こちらはちゃんと聞いてるのですが、相手の
方は黙っている私を見て「普通はここで相槌
があるはずなのに・・・。この人私の言ってる
ことちゃんと聞いてるの?」などと考えるよう
で、私が「はい」なり「うん」なり返事を返す
ことでようやく話が先に進むという場合も
あります。

相槌をしないと「ちゃんと聞いていますか?」
などと非難するような感じで聞かれた事もあ
って、相槌を打たない事が健常者にとって大
きな違和感としてこちらに対して不信感を抱く
元になってしまうのだと気が付きました。

それからは、一つの区切りごとに相槌を意識
的に打って相手を安心させるという事が会話
の作業の一つになっています。

同じ障害を持った人と会話した事がないので
こういった意識的な相槌で相手を安心させる
必要がない、自分のあるがままの会話という
ものがどういうものになるかはっきりとは分か
りません。

しかし、健常者との会話に感じるのは、相手
の話を聞く時に時には話の内容よりも相槌を
打つ事が目的なのではないかとさえ思える
時がある事です。

それはまるで餅つきを連想させられます。

「相手が杵(きね)で餅をついたなら即座に水
で濡らした手を臼(うす)に入れて餅をこねる」

杵で餅を打つのが相手の会話なら、即座に
餅をこねるのが相槌のような感じです。

健常者の場合、会話の内容の理解以前に
この相手との餅つきが目的といった部分も
あるようで、相手が会話の内容を100%
把握できたかどうかはっきり分からなくとも
この餅つきがちゃんと行われた事で相手と
の共感が得られたという満足や安心を覚え
るようです。

それに対してアスペルガー症候群などの
広汎性発達障害の人間の場合、会話に
おいてこのような餅つきを一切求めてお
らず会話に対して求めているのは

「自分の話した内容を相手はちゃんと
解釈できているか?」

という頭での理解度だけです。

ですから相手に相槌という「餅つき」をされて
も、「餅つき」を重要視してそれに気を取られ、
自分の話をちゃんと聞いてくれていないように
しか感じられず、相手に対して不信感を抱いて
しまう事になるのでしょう。

また、「会話の理解」に必ずしも直結してい
ない無意味な相槌というものを会話上の邪
魔なノイズであるようにしか感じられず、相
手にそのノイズを出されると違和感と不快感
を覚えてしまう。

ここから分かるのは、健常者と広汎性発達障
害者では「話を聞く」という事一つとってもその
意味には天と地ほどの開きがあるのだろとい
う事です。

同じ場所に立っていてもお互いに見て
いるもの聞いているものがまるで違う。

健常者が会話の中に見るのは相手との
「間」です。

そして相手との「間」を心地よく保つ為に
無意識、あるいは意識的に相槌が使わ
れる。

最初にそういった相手との心地よい「間」
の安心感があってその次に会話内容が
ある。

しかしアスペルガー症候群などの人間が
会話の中に見るのは「言葉」です。

ですから言葉を理解しているかどうかが
会話の命でありそこには相手との間など
存在しない。

だから相手との「間」を優先する健常者の
会話を「自分の話をちゃんと聞かないで
とにかく相槌をしている」ようにしか見えず
不信感を抱いてしまう。

ですからアスペルガー症候群の方は健常者
と会話する場合、相手は「間」という自分には
感知できないものに基づいて相槌を打っている
と理解して会話する必要があるでしょう。

別の例えで言えば健常者は会話の中で
「能」を行っているのです。

「よぉー!」と掛け声が上がれば「ポン!」
と小槌を打って返す。

それによって心地よい適度の「間」が保たれ
お互いに安心感、信頼感が得られる。

そういった事が最初にあってその次に会話
内容がある。

言葉の理解が全てで「間」などを感知でき
ないアスペルガー症候群の人間には相槌
は意味不明で言葉の理解の上では邪魔な
存在でしかない行為ですが、健常者はこう
いう世界の中にあり、こういったものが会話
の根幹を成しているのだと、

「自分の目には見えない何かがあり、
それに基づいて相槌というものが打た
れている」

のだと理解して聞けば「相槌ばかり打って
自分の話をちゃんと聞いていない」という
誤解を抱かなくて済むのではないでしょうか。

逆に健常者の方はアスペルガー症候群の
方から相槌が返ってこない事で違和感を感じ
たり、「本当に話を聞いてるのか?」と不信
感を抱く場面もあると思いますが、その人は
ちゃんと話を聞いている、ただ自分たちとは
会話の根幹が違うだけなのだという事を理解
して頂ければと思います。
難しい
診断では「違うと思う」と言われたので完全ASでない参考意見ですが、僕自身は相槌が多くても気になりません。逆に全く無くても気になりません。
しかし、意図や意味が正しく伝わっているか気になります。それを確認するのは相槌の有無のときもあるし、相手から返ってくる「質問」や「言い替え」だったりもします。

「そうだよねぇ」よりは
「あなたが言いたいのはこういうことだと思うけどあっている?」
「私は気にならないけれど、あなたが気にしているのは○○という所なのかな?」
という相槌の方が誠実さを感じます。

あっていなくても相手の理解度合いや感覚の違いを確かめることが出来るし、相手が理解しようとしてくれている姿勢を感じることが出来ます。
定型発達者にも、相槌や頷きがかなり多い人や、逆に少ない人もいますね。多い人は口癖で言っている場合もあるでしょうが、自分の考えと相手の考えの間に区別が無く、相手の考えるとおりに考えて相槌や頷きをしている、そういう人があるように思います。悪い言い方をすれば、自分の考えがあまりないんですね。ウケウリして同じ様に考えているから相槌や頷きが多い。少しもわかっていないということはないでしょうけど、感想や意見を言うのは難しいでしょうね。自分の考えを主張することが他人との対立をうみ、周りから嫌われるようになるとでも考えているのでしょうか。誰にでも良い顔をしている人も同じですよね。加藤諦三という方が「だれにでもいい顔をしてしまう人」という本を書かれています。
皆さまコメントありがとうございます。
たくさんのコメントをいただいて有意義なお話ができてうれしいのですが、今、実は内職の締め切り前なもんで(つまりケツに火がついた状態)コメントのお返事には数日間のご猶予ををいただきたく、ご了承お願い申し上げます。

ご意見、ご感想などあれば、引き続き書き込みお願い致します。
マルマルです。「お疲れさまです」
お仕事がら、目の疲れと肩こりに留意されて下さいね。

東洋医学の一つの定義に
「午前1~3時は、肝臓が血液の浄化をする時刻」という説があり
「この時間に、起きて仕事や考え事をしていると血液の浄化が滞り、
朝、疲れが取れてないと感じるような疲労蓄積になる」そうです。

眠れなくても
「横になって目を閉じ、寝ているよ~と体に思わせるだけでも」
良いそうです。
お仕事がら、生活サイクルがら、難しいかも知れませんが
疲れが取れないときは、試してみて下さい。
(相槌について。定型発達主婦の生態)
はじめまして。知的障害児の母で定型発達?だと思います。
私は相槌うちまくりですね。相手が話のネタを提供してきた時や聞いて欲しい事があるのと言って来た時は「聞いて欲しい」「同調されたい」ので程々の意見でいいんです。
話の途中でヒントは言い合いますが、答えは自分の中で考えたらいいじゃない~?的で結論はいらないんです。うだうだ話して美味しい物食べて、適度な付き合い、程よい距離感でランチとかしてますよね。世の中の主婦達は。
大人になっても「ママ友」なるものがあり、近所付きあいとか適度にやり過ごす「術」に笑顔と相槌を使います。
だいたい、大した話ではなく誰かの事をネタにして噂話してるようです。
心の中の不安を和らげる手段でもあります。
そして大抵の事は日が経つとどうでもよくなり、一晩寝ればおさまっていることが多いです。
定型発達者(主婦)はこのような感じです。


何かの参考にしてください。
合図
相槌・頷きの間隔度合いには個人差があると思いますが、私の相槌の一番の意味合いは「貴方の話しをちゃんと聞いていますよ」「今の所までは貴方の言いたい事理解しましたよ」の合図です。

因みに反論をしたくても取りあえず「貴方の言いたい意味は理解しましたよ」の合図として「うん」と相槌します。言葉の途中で反論しては相手が全て言いたい事を言えないまま、話しの方向がそれてしまうからです。
ですから自分は話し途中で「でも、それは~」と相手に話しの主導権を持っていかれるのは嫌なほうなので自分はなるべく最後まで聞く方です。
そうでない方もたくさんいます。
この辺は人それぞれですね。
また同調、同意も話し途中で「私もそう思うよ~」とは挟まず「うん」にします。
なぜなら話しの流れ、言いたい気持ちに一呼吸おかせ、やはり話しの主導権をを切ってしまうから。その場合は「そうね」と手短にします。
これも人それぞれで
「私も同じ意見だわ~どうのこうの」と話しだす方もいますね。

ですから、自分の場合は同じ「うん」の中に同調、同意の場合は「うんうん」にしたり、間隔せまく相槌うったりしてると思います。
いずれにせよ本当に相槌は人それぞれだと思いますし、私の場合は「間」での相手への関係性と話しの内容重視と、同時にやってる気がします。

今まで考えたこともないのですけどね。

話し聞いてなくて、適当に相槌ってオバチャンたち数人の会話に多いですよね。オバチャンたちは人の話し聞かず、話題がズレようが自分の言いたいことが喋れれば良いと思わせる会話耳にします。今、オバチャンと限定しましたが、よく目につくという意味であってそうでないオバチャンたちもいます。私も人のことは言えないことがありますが。

逆に相手に相槌をしてもらわないとやはり聞いているのかいないのか不安になります。
電話などで相槌が聞こえないと特にそうです。
だから、やはり自分の場合は相槌・頷きは「聞いているよ」「今の部分までは(同意、反対に関わらず)理解した」の合図ですね

マルマルです。  「電話」
Rさんのご意見で、思い当たりました。

友人アス君と電話で会話すると、相づちが入らないので
話の途中で何度も「聞いてる?」と確認します。

「聞いてるなら、聞いてるって言ってよ」と言ったら話の折々で
「聞いてますよ」「はい、聞いてます」
と答えるので、段々イライラしてきて「うん、で良い」と言ったら、
その「うん」が聞こえないほど小さくて、
再び「聞いてるの?」と繰り返しになります。
話をよく聞こうとするほど、相づちを忘れてしまっていたのですね。

そういえば・・・
電話でのアス君の会話は、こちらが強引に入り込まなければ
ずっと一方的に「、」がないテンポでつらつらと続きます。

これはもう、会話ではなく、お経のように唱えられている
ような感じがします。

電話での「相づち」は是非とも欲しいですね。
Re:マルマルです。  「電話」
私の場合、まさにこの通りです。

私の話を健常者が聞いていたら、私
と会話しているというより「ラジオが流
れている」ように感じるのかな?と思っ
たりします。

つまり1人で何もない空間に向かって
話しているようにしか見えない。

これは相手との相互作用が無く全て
が一方通行になってしまうという事から
来るのでしょう。

相手の言葉に対して返事をしているが
それは「言葉を相手にして話している」
のであって目の前の人間と話をしている
訳ではない。

そこには言葉の意味や解釈はあるが
人間は存在しない。

だから1人言を話しているも同然で、1人
言だから健常者には呼吸も間も場の流れ
も無い単調なお経のように聞こえてしまう。

逆に相手の話を聞くときも聞いているのは
相手の「話」ではなく相手の「言葉」なので
相槌は起こらない。

相槌とは生きて呼吸している人間同士の
間で会話した際に自然に発生する作用で
すが、そもそもアスペルガー症候群の人は
会話の際に「今ここに生きて呼吸している
人間」とやりとりしている訳ではない。

アスペルガー症候群の人が会話でやりとり
している相手は「言葉」という生きてもいな
ければ呼吸もしていない「意味・解釈」なの
で相槌という作用など発生しようがない。

こう考えるとアスペルガー症候群の人にとって
の会話とは

「一方的にラジオを聴き、そしてその内容に
対して考えた事を一方的に自分の口という
スピーカーから発信する」

それは人間の存在が介在しない言葉の
やりとりで会話・・・つまり「人と会って話す」
という事とはかけ離れているものでしょう。

ですからアスペルガー症候群の人の場合
人と会ったり、電話でやりとりするよりイン
ターネットで掲示板に書き込んだりする方
が直接人と会って話すより自分の意思を
スムーズに伝えられるのではないでしょうか。

ネットでのやりとりなら人間の存在という
要素を排除した純粋な言葉の意味や解釈
のみのやりとりを行え、その方がアスペル
ガー症候群の人にとっては健常者の相槌
などの理解不能な行動などで混乱せずに
済み、やりとりの際の負担が軽くなるから
です。
ぷ☆さんの意見はいい例だと思います。
すみません、引用します。

>私は相槌うちまくりですね。相手が話のネタを提供してきた時や聞いて欲しい事があるのと言って来た時は「聞いて欲しい」「同調されたい」ので程々の意見でいいんです。
話の途中でヒントは言い合いますが、答えは自分の中で考えたらいいじゃない~?的で結論はいらないんです。うだうだ話して美味しい物食べて、適度な付き合い、程よい距離感でランチとかしてますよね。世の中の主婦達は。
大人になっても「ママ友」なるものがあり、近所付きあいとか適度にやり過ごす「術」に笑顔と相槌を使います。

人間関係の基本は「誤解」であると私は考えています。

そして、その誤解は
「私の言うことは理解してもらえる」
という考えから成り立っており、また自分も相手からその誤解を要求されます。

なので、自分の誤解を誤解でなくするためには合わせ鏡である相手が必要であり、そのお互いが自分が受け入れられているという心地よい画像を写し続けることによって人間関係は成立します。

それが
「共感」
というものであり、実は決して本当に相手の言っている
「言葉の内容」
に対して意見同意するものでなく、その合わせ鏡を成立させるために予定調和を行う、つまり
「私の話は聞いてもらえている」
という誤解をお互いがお互いに与え続けることだと私は考えます。

そしてアスペルガーの最大の問題はこの
「自分もまた誤解しされるもの」
であるという原則を理解できないことではないでしょうか。
そしてそのことがバロン=コーエンのいう「SAMの欠陥」だと思います。

であるから予定調和を壊して相手の誤解を打ち砕いてしまう、だから問題であるのではないでしょうか。


「聞いてるよ」の合図
診断済ASですが、あいづちのことは、たんなる「聞いてるよ」の合図として、あまり悩まないでやってました。

外人も英会話で「んふー? んふー? リアリィ?」とか盛んにあいづちを言ってますよね。

ただ、あいづちうつのを私が忘れてポカーンとしてしまい、相手に「聞いてるの?」と言われて「ごめん、ちゃんと聞いてる」と謝ったことはあります。

幼少の頃の私は、あいづちは全くできていなかったです。同い年の子供と対等な会話ができなくて、私が言いたいことを一方的に話すような会話になっていて、その頃は相手の話をあいづち打ちながら聞くという技術や配慮はもっていませんでした。
引用して頂きありがとうございます。
定形おばちゃんとして付け加えるなら、相槌と笑顔の裏の「計算」のお話。〔ランチ編〕
相手の話を聞いて、適度に聞き、いつ、どのようなタイミングで「自分の話題」に差し支えなく展開させるかという技を持つ。おばちゃん達が培ってきた、空気の流れを読み時々笑いも含ませ、和ませる技術で笑顔で心理的駆け引きをしている。
計算か反射神経か…?。
小学生の子供を持ってみると,一人や二人はもしやあなたは…(AS)と思われる保護者もいる。
子供絡みで集まりが多いので、大変だろうなといつも思ってます。定形発達であっても特殊な世界ですから大変…。
続き→あと、相槌をしながら「聞いてます」的なふりで相手に心地よく話を続けさせる手段。退屈な話の時など、相槌をうつタイミングさえ間違えなければ「今晩のおかず」の事だって考えていたってオッケーなんです。
今晩のおかずの事を考えながらも、相手の話題のポイントさえ押さえていればある程度は的に合う返答が出せます。
おばちゃん集団の話題がコロコロかわるのは頭の中で話題の比重や消去法を巧みに操る脳をもって計算しているのではないかと思います。
はじめまして
はじめまして、従兄弟が診断済ASですが、私は超マイペースの定型の女です。

井戸端会議の類は好きではないので、必要がなければめったに参加しないのですが、やむを得ない時は、難なくこなすことは出来ます(好悪とスキルは違うので)。

うなずきや「そう」「うん」などの軽い合図は、相手の話しをちゃんと聞いていますというサインとして使います。
読書の時にページをめくるように、自然にやってしまいます。
また、
「あなたの気持ちわかる!」とか
「そうでしょうね~」
などの積極的肯定は、必ずしも相手と同じ気持ちになったからではなく、相手と違う気持ちや違う考え方があったとしても、相手が主張しているような考え方や感じ方が理解できた時(自分の身にひきつけて共感した時だけじゃなく、小説やドラマの登場人物のような理解であっても)や、自分と感じ方や考え方は違っても、それはそれでユニークで面白いとか、自分とは違っても尊重できるものだと感じた時にも使います。

ASの従兄弟相手にも、彼の考え方と私の考え方はまるで違いますが、彼であればそうだろうな、と思えば、「そうだろうねー」とか「ああ、そう思うのわかるよ」、とか言ってしまってました……汗。
(特に彼との会話は、私が聞き役になることが大半なので、それだけで会話が成り立っていることも多いです;)。

定型同士の会話における積極的肯定の頻出は、字義通り捉えると、確かに同調や共感が過ぎて気持ち悪いかもしれませんが、その程度の意味合いのことも多いと思っていただければ幸いです。
マルマルです。「恋の羅針盤」
まかろんさんのコメントで、気づいたことですが

定型発達者が、なぜ相づちが必要で心地良いかというと
「会話に寄り添ってくれている」という安定感だと思いました。

相手の意見や意志本体に反対であっても、会話の部分に
「あなたにとっては、そうだろうが」「そこのところは、理解出来るよ」
と言う場合には、瞬間に気持ちが寄り添い「(そこは)そうだね」
と相づちを打ってしまいます。

「でもね」
一端は、寄り添いますが、やはり自分の意見に持って行きたいときは、
否定形の言葉を発し、改めて相手と向き合います。

「うん、うん」は同調・同意・同感のサインで
「う~ん」は、違和感や迷いのサイン
「でも」は、否定のサイン

「うんうん」は、貴方と肩を並べて同じ方向を見ている
「う~ん」は、立ち止まってしまった
「でも」は、向き合った

言葉で説明しなくても、相づちは、
相手の気持ちの位置や距離を瞬時に示してくれる羅針盤です。

その羅針盤は、会話と同時に勝手に機能し始めます。
勝手に機能するから、無意識に使ってます。

この羅針盤を持っていると「寄り添い」は安心で心地良い
「対立」は緊張し不快感、といった感情がもれなく付いてきます。

羅針盤を持たないと、位置や距離はつかめず、
それに付いている感情もつかめません。

友人アス君は、羅針盤を持っているフリをします。
それは、こちらが「相づち」いう羅針盤を強要したからです。
機能しない羅針盤をアス君は、一生懸命使います。
そのソフトな声でにこやかに、好意を持つ女性に
「うん、うん」「なるほどね~」と相づちを入れるので、
相手は「意見や気持ちが寄り添った」と、うっとりします。
うっとりした瞬間に、話題が全く変ったり、飛んだりするので
相手は、ポカンとします。

アス君は、会話迷子になったのです。
アス君は、張り切るほど迷子になりやすいのです。

アス君は、相手を置き去りにして違う道へ暴走し、
相手と離れたことに気づかず
相手に背を向けたまま、熱弁は走り続け・・・
相手はそのつじつまの合わなさ具合に
軌道修正のすべが解らず
ついには怒って席を立ってしまいます。

「せっかく頑張って、相づちを打ったのに、またフラレてしまいましたよ」
とガックリのアス君。

ごめんよ。





マルマルです。「ごめんなさい」
同じコメントを、間違って再度送ってしまいました。
すみません。
RE:マルマルです。「ごめんなさい」
後の方のを削除しておきますね。
はじめまして!
こんにちは!

こちらのブログ、いつも拝見しております。

今回の記事を読んで思ったことを定型の立場から少し書かせて下さい。

定型にも色んな方がいらっしゃると思いますが、私の場合は、
無意識のうちに相手の顔色などを伺いながらおしゃべりをしています。
(ビクビクするという意味ではありません)

私自身の感覚で言うと、ある程度の間隔で相槌を打ってくれないと
「私の話ってつまらないのかな?」「興味ないのかな?」と心配になります。
相槌って、その話がつまらないのか、もっと聞きたいのかの
判断基準にもなると思うんです。

私の場合ですが、相手が無反応だと「きっと聞きたくないんだな」と
感じてしまうことが多いです。

ちなみに、私も相手の話を聞く時は相槌を打ってます。
「ちゃんと聞いてますよ」「先を続けて」の合図のようなものです。

また、さほど面白くない場合でもある程度なら興味のある振りして適当な相槌は打ちます。
そっちの方が人間関係が円滑に進むからです。
(頭の中では全然関係ないことを考えてたりもします)

“面白くもないのに、興味のあるフリをする”
そんなところが定型の分かりにくさなのかもしれませんが…。

また、同情的・同調的な相槌に関してですが、
これも一概には言えませんが、本当に分かっている場合もあると思います。

例えば、相手のお話を聞いて、無意識のうちに自分に置き換えて考えてます。
世間話の場合、「あぁ、大変そうだな。きっと私でもそういう気持ちになるだろうな」と
想像した結果、「分かるよ、その気持ち!」と相手に伝えてしまうんです。
細部まできっちり理解してるかどうかは別として、
おおまかな気持ちを「共感」してる“つもり”なんです。


私の夫はアスペルガーです。(最近診断を受けて分かったことです)
今まで、夫と話していても共感してもらうことが少なくて辛い思いをしてきました。
それが、病院の先生と話すうちに「奥さんも大変だったでしょう」と言われ、
涙があふれました。

もちろん、先生は私たちの全てを知っているわけではありません。
本当に細部まで分かっているかどうかよりも、そう言ってくれる優しさが嬉しいものなんです。

今まで夫と話してても、ろくに目を合わせないし相槌も少ない。
だから自分の話には興味がない(私自体に興味がない)と思って過ごしてきました。
でも、色々と調べているうちに嫌いでやっている訳ではないということが分かってきました。

こちらのブログでアスペルガーについて学んだことが多いです。
今回の記事でも、いろいろと勉強になりました。

アスペルガーについての説明はどこにでもありますが、
アスペルガーの方から見た定型の分かりにくい行動が書かれたものは
なかなかありません。

また、こちらにお邪魔すると思います。これからもよろしくお願いします。
私にとっての相槌の意味
はじめまして、サイと申します。
自身が自閉症ではないかと思い、自閉症について調べてる時にこのサイトを見つけ、それ以降、症状の勉強として参考にさせていただいています。
まず、私の立場から説明しますと、ASの診断は受けていません。ただ、AC(アダルトチルドレン)の自覚があり、もしかしたら、ASかADHDの可能性もあるのではないかと思っていることを先に述べさせていただきます。

会話中の相槌についてですが、私の場合は会話への参加と、自身の理解にテンポをつけるという目的をもって意識して行っている時期がありました。

会話への参加という意味は、相槌を打つことにより会話に加わるタイミングを見計らうということと、会話に加わっているという意志表明の意味合いを持っていると考えています。
会話に反応を返さないことはただ、そこにいないものとして扱われているようで、だんだんとコミュニケーションの輪から外されていくと考えています。そして、普通の方々はこれを意識の外で理解していて自然と行えるのだと思います。また、コメントの行いづらい話題でも反応として返せるため、相手が勝手にしゃべってくれたり、逆に質問を投げかけてもらえるために私の中ではそれなりに意識して行っている部分もあります。

また、自身の理解のテンポとは、会話中に話の区切りでうなずきや「うん」などの反応をすることで自信の集中を会話に移そうとしての行動です。これに関しては私自身、会話の途中でも別のことを考え込んだりすることがあり、これが悪い癖であると考えた末につけた癖であります。

ここまで、意識して人と会話する人はいるのかどうか私自身わかりませんが、私にとってはこのような要素も持ち合わせています。よろしかったら、考察や議論の参考にしてもらえたらと思います。
あんにゃもんにゃさんへ
やはり過剰な同調には違和感はあるという事ですね。
会話の上での「受け止める」といった行為が定型発達者と非定型では異なる事が原因のような気がします。

定型者は「違い」よりも「同じ」を重要視する(というか、同じでありたいという欲求が強くある)ような気もしますね。
マルマルさんへ
いろいろコメントありがとうございます。

相づちを止められると苦痛というのは目からウロコでした。


あと、特に羅針盤の話しは特に興味を引かれました。「自動で動き出す羅針盤機能」というのは、アスペルガー者にはないように思います。

羅針盤の動作に「もれなくついてくる感情」から…対立を怖れる気持ちもわくのでしょうか。

っと、会話をネックレスに喩えると、うまく説明しきれないのですが、金具でつながったビーズという感じですね。接続金具に違和感があると、全体が気になってしまうというところでしょうか。

「気持ちに寄り添う」というのは理解が難しいです。
「受容」ということなのかしらん。
hatiさんへ
会話時に目を合わせないという当事者の方も多いですね。
視線情報が「混乱のネタ」ということでしょうか、それとも「どこをみていいかわからない」という事なのでしょうか。

そういえばうちの中では「目を合わせて会話」があまりないですねえ。

前置きが長いというのは、確かにあると思います。
アスペルガー者では「前提からしっかり理解してほしい」という、会話に対する思い入れが比較的強くあるのかもしれませんね。

それだけ「理解されない」感がふだんから強いのかもしれません。
トラネコさんへ
会話時に会話が「テーマに沿った展開」になること、つまり構造的である事を求めるのはアスペルガー者としてはそう珍しい事ではないと思います。

私は定型発達者的な雑談よりも討論・議論的なものの方が楽です。

これには、「意見の対立」に「感情の対立(不快)」がもれなくついてこないという、なかなかおいしい特性があるせいではないかと思います。

ただ、定型発達者との日常会話では定型発達者の特性から、「テーマに沿った展開」を求める事が難しいというだけではないでしょうか。

あまりご自身を責められませんように。
奈良人さんへ
相づち打ちそこねて「お前(あんた)きいてんの?」は電話での会話でよく亭主と「二人して」やっています。

(それでも年中電話しているのだから不思議ですが)

そんなこともあり、相づちがオートマチックになっていないってのは本当にそう思いますね。

「わからないということ」=感情的対立という図式が定型発達者の中にはあるような気がします。
まうさんへ
うーむ、アスペルガー者の場合、一義的が楽…というか、一義的な解釈になりやすいというのはあるのかもしれません。

そういえばアスペルガー脳は超男脳とも言われますね。
takkantさんへ
聞く事に集中すると相づちが止まってしまうということは私もよくあります。
(それだけ意識しないと相づちができないということでもあるんですが。)

定型発達者の日常会話は「相づちそのもの」で成り立っているというのは私も時折感じます。

会話そのものがある種「同調行為」であるといった側面が強いのが定型発達者の特徴なんだと思いますね。
ズンドさんへ
ズンドさん、こんにちは。

>「あなたが言いたいのはこういうことだと思うけどあっている?」
>「私は気にならないけれど、あなたが気にしているのは○○という所なのかな?」

これって既に相づちの域をはるかに出ているような気がするんですがぁ。

私も確かにこっちの方が話していて気が楽ですけど…。
annoさんへ
定型発達者の日常会話が「同調行為」そのものだとすると「意見・考え」が前面に出てこないことは十分にあり得ますね。

非定型サイドから見ると、自分の考えがないように見えてしまうかもしれません。

個々人と話すと、それなりに考えはあるようですが、持っている「考え・意見」が「薄い」というか「軽い」というか…(うーん、何といったらいいのだろう)そんな印象に見えてしまうことはよくあります。
ぷ☆さんへ
結論を追求しない会話…なんですねえ。

同調的会話が「心の中の不安を和らげる手段」というのもびっくりです。

それにしても、相づちを適当に打っていれば「晩ご飯のメニューを考えていてもOK」というのは、シングルタスクのアスペルガー者にはできない芸当です。

話しの聞き方に、マルチタスク型とシングルタスク型の違いがあるせいで、会話に求めるものが違ってくるというのは十分あり得ると思いますね。
R(アール)さんへ
確かに「合図」…ということなら納得できます。

それ以上が非定型者には難しいところです。
さかいさんへ
つまるところ定型発達者は互いに「理解して貰えている」という幻想世界に生きていて、その中で会話というものを行っているが、アスペルガー者はその幻想世界の中の予定調和を乱す存在だから問題だとということですかね。

まあ、しかし、さかいさんのおっしゃる「問題」を「問題」とするのは定型発達者側の論理ですよね。

私には単に定型者求める「理解」が「感情的理解=共感」主体である事とアスペルガー者の求める理解が「意見・考え・事実の構造の理解」主体であるという違いにあるとしか思えませんが…。

Samなど、難しい用語の事はわからないので今度バロン・コーエンの本でも読んでみます。
のらさんへ
真剣に聞こうとするとつい相づちを忘れる…というのはよくやります。
相手が家族に限られますけどね。

一歩外に出たらかなり緊張して相づちを打っている狸穴猫です。
まかろんさんへ
>「あなたの気持ちわかる!」とか
>「そうでしょうね~」

これが多分に「想像力の働き」によってなされるということがよくわかりました。

「自分の身に引きつけてならわかる」とか
「ドラマのあのシーンならわかる」とかいうさまざまな”前提”をおく事は非定型者には難しいように思います。

「○○さん(相手)ならそう考えても不思議はないから」、

では、あいまいすぎて?、共感的相づちは自然には出てきません。

そこが「想像力の障害」といわれるところなんだと思います。
さこちさんへ
定型者と非定型者の家庭内共存は本当に難しい問題ですね。
頭で理解していても定型者側が「反射的に悲しくなる、辛くなる」ということはよくあるようです。

定型者では「同情的共感」=「優しさ」という図式があるんですね。

「優しさがない」といわれると非定型者としては多少の反発を覚えますが、その図式が理解できれば、少なくとも相手に寄り添うことは可能であると思います。

ご主人との相互理解が進むといいですね。
サイさんへ
相づちは私の場合も意識しないとできません。

会話に加わっているという合図というのは、できるかできないかは別にしても、とっても理解しやすいです。

会話に集中するために相づちを意識して打つというのは十分ありえることだと思います。特に一対一のケースではよく私もやりますから。
マルマル「相づちから派生した質問」
狸穴猫さんの
『「気持ちに寄り添う」というのは理解が難しいです。
「受容」ということなのかしらん』
というコメントで考えました。

友人アス君も私も映画と本が好きなので、その話題がよく出ます。

アス君「容疑者Xの献身は良かったですよ。最後は泣けたなぁ」
私「そーでしょー!(共感が嬉しくて喜ぶ)」
アス君「頭脳勝負の偏屈で無表情な男が、最後に感情が
咆哮となってほとばしるシーンは感動しました」
私「そうそう!(共感が嬉しくて喜ぶ)」
アス君「最近の日本映画のレベルの高さは、場面の随所で
見られます。例えば・・・(作品ごと細かな場面を羅列する)」
私「ふんふん・・・なるほど(感心して聞き入る)」
アス君「そういうば、この監督があの作品を制作した年の映画事情は・・
(延々、カタログ的な情報披露を続ける)」
私「あぁ・・・・ふぅん・・・・・・そう・・・・・」

アス君の独壇場に、だんだん飽きて来て、たいくつになり、
ついには苦痛になる。

同じ映画を見て、同じシーンに同じ感動、同じ感想を持った。
ここまでは良い。
でも、その感動や感想を、分かち合う、ということが無いような気がする。

「僕はこの場面で感動しました」に「私も」と寄り添っても
「(さて)あの俳優は・・・」と、独りで先に進んでしまう。

一見、会話に不自然さは無い。
でも、いつのまにか私と会話をしているのを忘れているの
ではないか、という「突き放された感じ」がする。

顔はこちらを向いているけど、意識はどちらを向いているのか?

このプログで、どなたかが
「ASは、人ではなく言葉に向って話している」
とおっしゃっていたが、こういうことなんだろうか。

アスペルガーの人は
聞いてもらいたいから話すのではなく
話したいから話すのでしょうか?

アス君はいつも言う。

「僕は、映画や本を見ると、いつもマルマルさんならどういう
感想を言うだろうと思っちゃうんですよ。
この映画は一緒に見たかったな、と思うんですよ」

でも、アス君は、私の感想を聞いてくれたことなんて、無いよね。

私にも聞いてよ(私にも寄り添ってよ)
私の相づちに気づいてよ(私を見てよ)
私のたいくつに気づいてよ(私を無視しないで)

こちらには、言葉の意味とか、間違いの指摘とか、
表現のこだわりとか、とことん突いてくるのに
なんで、アス君は、こちらの言いたい事に
見ざる、聞かざる、言わざるになっちゃうの?

やっぱり、「話したいだけ」「聞きたいだけ」なんでしょうか?





RE:マルマル「相づちから派生した質問」
>このプログで、どなたかが
>「ASは、人ではなく言葉に向って話している」
>とおっしゃっていたが、こういうことなんだろうか。

これは私がコメント内で言及した事ですね。

会話がラジオを聴いているような感覚である事
、ラジオを聴いている時、そこには相手の言葉
はあってもその言葉を話している本人は居な
事、その為に相手の存在を無視した会話にな
ってしまう事。

こういった傾向に対して

>でも、アス君は、私の感想を聞いてくれた
>ことなんて、無いよね。

>やっぱり、「話したいだけ」「聞きたいだけ」
>なんでしょうか?

簡単に言うと、

「私の言葉、意見は聞きたくても私という
人間には全く関心がないのか?」

という解釈になってしまうのは止むを得ない
と思います。

しかしあえて言わせて頂くと「人間に関心が
ない」という事とは少し違うのです。

「関心がない」のではなくただ単に「そこに
その言葉を話している人は居ない」だけ
なのです。

>こちらには、言葉の意味とか、間違いの
>指摘とか、 表現のこだわりとか、とことん
>突いてくるのに なんで、アス君は、こちら
>の言いたい事に 見ざる、聞かざる、言わ
>ざるになっちゃうの?

例えばラジオを聴いている時にDJがおかしな
事を言っていたら「それは違うよ」みたいな
突っ込みをラジオの前で入れる事はあるかも
知れません。

しかし、ラジオの向こう側の人間が自分に対
して

>私にも聞いてよ(私にも寄り添ってよ)
>私の相づちに気づいてよ(私を見てよ)
>私のたいくつに気づいてよ(私を無視しない
>で)

などと考えていると想像できるでしょうか?

つまり目の前に居る人間の存在というもの
をロストしてしまっているというのが本当の
ところなのです。

これは「目の前に人が居るのがちゃんと見え
ている、だからその人の存在を認識している」
とかそういうレベルの話ではないのです。

例えばテレビを見ている時そこに人間は
映っていますし、目の前まで近づく事も
出来ます。

しかし、だからと言って本当にそのテレビの
ある場所にその人が居るとは誰も思わない
はずです。

その人の姿や言葉は捉えられても「存在」を
捉えられないというのはこういう事なのです。

ですから、今回のマルマルさんのような
指摘をされたとしても当事者からすれば、

  目が見えていなくてその人が居る事に 
  全く気が付きようがないような状態で

  「なんで目の前に居るのに気が付いて
  くれないの?私の事なんてどうでも
  いいの?」

と言われてしまったも同然なのです。

本人にしてみれば目の前に居ない
(存在を感知できない)以上、それで
正常なのですからどうしていいか分か
らなくなってしまうはずです。

それでも何とか相手の指摘に対して
自分を改善しようと「居ないもの」に
対して気を遣うのですがそんな事が
うまくいくはずもなく、そういった全て
の行為は「間違い」で「間に合わせ」
のものとなってしまいます。

聴覚で言葉を認識でき、視覚で姿形を認識
できる事とその人の存在そのものを認識で
きる事とは全く別の話なのです。

高機能の広汎性発達障害者は知能指数は
高いし、高い技能を有する場合も多いのに
なぜ人との間でだけはこれだけさまざまな
問題が生じるのか?

それはこの「人の存在そのものを認識できな
い」という事こそが広汎性発達障害の根幹だ
からです。

逆に言うと人の存在を捉えられないからこそ
言葉に支配されてしまうという事が起こるの
です。

例えば最初はマルマルさんが出したAという
話題について話していたとします。

しかしAに関連するBという情報が絡んできた
時、今度はBという情報に対する話題にスイッ
チし、さらにそこでCの情報が出た時Cの話題
にスイッチして・・・

ここで起こっているスイッチとは人の存在を
ロストしている事で今目の前にある言葉に
体と頭が支配されてしまうという事です。

自分の発した言葉に自分自身が支配されて
しまう。

本来人に意思を伝えるというのが「主」であり
言葉はその手段に過ぎない「従」のポジション
にあります。

しかし人の存在をロストしてしまっていた
場合、言葉が「主」となり人が「従」となって
しまうという逆転現象が起こる。

人の為に言葉があるのではなく言葉の為
に人がある。

だから、映画で監督の話になったら、監督に
関する情報に支配され、それをただひたすら
「出力」し続ける。

そしてその監督の活躍した時代背景に話が
及ぶと今度はそれに支配されそれをただ
ひたすら「出力」し続ける。

「常に、今目の前にある言葉が主人でそれに
従う立場にあるのが広汎性発達障害の人間」

まさに「初めに言葉あり、言葉は神なりき」
といった状態ですね。

だから例えば「適当にやっておいて」という
言葉が分からない。

「適当」という時、そこあるのは「あなたの
その時の気分で」という事です。

つまり「主」となるのは「人の気分」です。

しかし言葉が主人の広汎性発達障害の
人間は人の存在を捉えられないので
「人の気分」というものがどういうものか
分からない。

そして辞書には「適当っていうのはどれくら
い」か具体的に書いていないので従いようが
ないという訳です。

そんな広汎性発達障害の人間の話相手が
健常者であった場合、目の前に居る自分が
突き放されて放置されているように感じるは
ずです。

しかし本人は突き放してもいないし、放置
してもいません。

人の存在がロストされた状態ではそもそも
「話相手はそこに居ない」のですから、話題
がずれてるとか相手が退屈だとか気が付き
ようがないのです。

だって居ないんですから。

(何度も言うようですがこの場合の居ないとは
「頭で声や姿を認識していても体で、体感で
人の存在を捉えられない」という事です。)

むしろその状況で気が付くならその人は
超能力者です。

だから当人にとってはしごく真っ当な会話を
していると感じているはずです。

ただ、「話相手の顔が何故かどんどん
不機嫌になっていっているように見え
るけど何故なのかな?」くらいは思って
いるかも知れません。

簡単に言うと広汎性発達障害の人間は
「生まれつき全身麻酔がかかった状態
だが、意識ははっきりしていて頭もしっ
かり働いている」状態であると思えばい
いかも知れません。

「頭で映像や音声は捉えられるが体で、
体感で存在そのものを捉える事が出来ない。」

しかも、生まれてこの方それ以外の状態を
味わった事がないので、自分が全身麻酔が
かかった状態で生きているなどとは思いもし
ない。

そして周囲の健常者も広汎性発達障害の
人間が全身麻酔がかかった状態で自分と
会話しているなどとは考えもつかない。

「全身麻酔のかかった状態から出る行動の
全てを全身麻酔のかかっていない状態で
出たものとして捉えようとする。」

これが健常者の広汎性発達障害の人間への
接し方の問題点です。

そして

「自分の体に全身麻酔がかかっていて
自分の感受性はそこから発生している
事に気が付かず、健常者の言動の全て
を全身麻酔のかかった自分の感受性で
図ろうとする」

というのが広汎性発達障害の人間の健常
者との接し方の問題点です。

(実際健常者の自分へのアドバイスを聞く
と自分に対して「超能力者になれ」といっ
た無理難題を吹っ掛けているようにしか
思えない事も度々あります。)

マルマルさんもアスペ君と映画の話をして
いる時に自分はアスペ君の近くには居ない
のだと、そしてアスペ君とは手紙でやりとり
していてアスペ君はマルマルさんに宛てて
書いた手紙を読み上げているのだと思って
話を聞いてみてください。

そう考えて聞けばマルマルさんがアスペ君
に対して抱いている誤解のほとんどは解け
るのではないかと思います。
物語にだけ反応
私はドキュメンタリー番組が好きです。
感動的な番組に、よく涙します。
 
涙脆い私が、目の前で一緒に観ている人について、
その人の内部にあるかもしれないドラマには、
全く関心を抱かない。

変ですよねえ。
こういう私が語るドキュメンタリー評も変ですよね。
でも、嘆いていても駄目ですね。
狸穴猫さんのように積極的に対処するためには、
具体的な対策法ですよね。
ちょっと話がそれますが
他人から私(AS?)への「相づち」については、そんなに違和感を持っていませんので、今ひとつわかりません。ただ、他人からの相づちに対しては、「相づちより思ったこと言ってよ」と思い、自分が他人(たいてい定型者なのでしょう)に相づちを打つと、自分が思っているより喜ばれるようですが。
それより、コメント中の「会話そのものがある種「同調行為」であるといった側面が強いのが定型発達者の特徴なんだと思いますね。」に反応してしまいました。実はそうだったんですね。最近やっとわかってきました。いつもそれにものすごい違和感を感じてきました。「そんなやり取りの何が楽しいの」って。
日記、少しずつ読ませていただきます。
マルマルです「ものすごく良く解りました」
takkant さんの、ご説明、思いっきり理解しました。
「映像や音声は認知できるが、人の存在を体感できない」
「AS人の喋りはあなたへの手紙を読みあげていると、思って下さい」

そうかぁ~。
そういうことが・・・あるのですね。
だから、アス君は
好きな女性の前で、彼女がどれほど素敵な女性かを熱弁して
彼女がどれほど素晴らしい女性かを本人に紹介している
ような喋り方になっていたんだなぁ~。

お手紙朗読・・・。
「弁」ではなく「読」。

会話いう概念にとらわれ過ぎていました、ワタクシ。

そして・・トラネコさん。

ドキュメンタリー番組には泣けるが、
人のノンフィクションには反応しない。
だからアス君は映画で号泣しても、
友人の悲話には淡々としていたのですね。
映像じゃないですもんね。

あ~、もう、すごく謎が解けちゃいました。

プリントアウトして、アス君に困っている友人にも見せよう。

本当に、ありがとうございました。

RE:マルマル「相づちから派生した質問」
崖の上のポニョを娘と亭主と3人で見に行ったときの話し。

タヌキ「わけがわからん映画だったな」
私「宮崎駿だからねえ、ま、画像はきれいだったな」
タヌキ「最近の映画館はいいな、座席もゆったりしているし…、スロープもあって障害者対応になっている」
私「おなかすいた、下おりてなにか食べよう」
タヌキ「夫婦割引がきくのものもいいな、また何か見に来るか」
私「そうねえ、それより腹減った」
タヌキ「何スクリーンあるんだ、この映画館」
私「結構ありそうだよ、あ、12もある」
タヌキ「ポニョも公開してすぐはいくつかでやっていたんだろうな」
私「今はもうすいているからね」
タヌキ(予告パンフの一枚を見て)「今度これ見に来よう」
私「気が向いたらね」
タヌキ「何食べる?」
私「その前にトイレどこだ」


いわゆる定型発達者的会話ではないだろう。

寄り添ってない、寄り添ってない!

だが、これで話しは問題なく成立しているし、はっきり言って仲いいんですよ。

正直、いつもの会話はもっとひどい。

メチャクチャ話しはとぶしタヌキは勝手な見解を適当に述べる。
私は勝手に何かを主張する。

遠慮ってものがない。

相手に(いわゆる)寄り添おうとして、多少でも遠慮しているとアスペルガー症候群者相手に会話は成り立たないなあ…とおもう。

いらんものはいらんと主張しても、アスペルガー者が気にするものかどうか…

たとえ見解に反論しても、「ふーん、そう言う見方もあるんだな」と思うだけだったりするだろう。


アス君は「感想」と言っているが、実は「見解・評論」を聞きたいのかもしれない…

それが出てこないので、延々と自説を披露しちゃうのかも。

そんなことを考えたのでした。

マルマルです「狸穴猫さんに、ビンゴ」
狸穴猫さんのおっしゃる通りです。

私は、担当医や福祉関係者に向けて、
アス君をより理解してもらおうと「アス君レポート」
を書いて提出しています。

アス君にも、相互理解の助けになろうかと思い、
読んでもらっています。

でも・・・アス君に感想を求めても、
自分の見解や評論めいたことばかり言うので、
受け流し? 嫌なことは見て見ぬふり?  逃避?
と、感じていました。

違っていたんですね~!
見解、評論をお手紙を読むように語っていたのですね。

会話がすれ違っていても仲良し。
という関係が、実在するのですもん。

会話が合わなきゃ話にならん。
会話が合わなきゃ仲良くなれん。

こんな世界は、
定型発達者だけのもんだったんですね~。

こりゃ、一度、こういう視点でNHK大河ドラマか、月9ドラマでもやってもらって、日本中の定型視聴者に、理解して欲しいもんだ!

すぐ側の遠距離をなんとか、縮めたいなぁ!
横レスごめんなさい
狸穴猫さんのブログなのにすいません。

マルマルさんの知り合いのアス君や
takkantさんの超長文の意見を、
AS全体の特徴だと
ひとくくりにされると、困ります…。

ASに診断された人でも
定型と普通に会話する人もいるので。

極端な意見をもつASの人が
自論、自説をAS全体の意見のように吹聴して
定型がまともにそれを信じて
ASを理解したつもりになるのが
本当に、ツライです。

更に横レスです。
nさん横レス失礼します。
アスペルガー当事者です、初めまして。

横からしゃしゃり出て失礼ですが、一つ気になりましたので意見を申し上げます。

結論から言わせていただくと、マルマルさんの知人のアス君のお話やtakkantさんの自論を真に受ける定型者は少ないと思いますよ。
(※お二人のご意見をマトモに受け取るべきではないものという意味ではありません)

定型者って、ASが思っている以上に総括的に物事を考えられる人たちだと思います。
定型者がマルマルさんやtakkantさんの文章を読んでも、「へーそうなんだ、でもアスペっていったって人それぞれじゃない?」と考えるのではないか、と推測しています。

何事につけても「すべての人がそうではない」という前提は定型の間では暗黙の了解であるような気がいたします。

上記の意見はあくまで私の経験上に過ぎませんので、定型者をよく理解しているわけではありませんが・・・。
私も当事者ですので、nさんが心配する気持ちも分かります。
定型者でありながら一つの意見を鵜呑みにする、偏見に満ち溢れた人はたしかにいます。
そのような人たちは相手にしなければよいのです。
愚かな人は放っておきましょう。





マルマルです。nさんへ「ツラくさせてごめんなさい」
私は、友人アス君の対応、アス君と周囲への対応に、
悩んだり混乱していたものですから、つい当事者さんからの
解答に、喜び過ぎたかもしれませんが。

アスペルガーの方100人居れば、症状やタイプが100通りある、
ということに知識はあります。

ですから、ひとくくりに他の方もアス君と同じと、
理解しているわけではありません。
ただ、コメントしていただいた内容に、
長いトンネルから突然出たような、
まるで目の前がぱぁっと明るくなったような、
気づき納得があったものですから・・・・喜び過ぎたかも
すみません。

takkantさんも、私の質問に対して
アス君の解説をしてくださったのだ思います。

実はアス君のほかに、もう1人アスペルガーの方を見ました。

私の義父が入院している病院の看護師さんです。

入院当日の夜、仕事帰りに義父を見舞うと、
点滴の管がはずれ、薬液がふとんにポタポタと垂れて、
おまけに朝から紙おむつを交換してなくて、
尿が溢れ出て、背中もびっしょり濡れている状態でした。

義父は、すでに会話がままならないほど老化衰弱
しているので、苦しげな顔をするだけでした。

私は、急いでナースコールを押しました。

部屋に入って来た担当看護師さんは、状況を見るなり
「うぇ~っ、やられたぁ! 臭っさ~い!」と叫びました。
私は、唖然とし、猛然と腹が立ちましたが
「着替えさせなくてはいけませんね」と怒りをこらえました。
そしたら、その看護師さんは
「それは夜勤の者がするので、そのままにしといて下さい」
と部屋を出て行きました。
私1人では、義父を起こす事もできず、
廊下に出て別の看護師さんに助けを求めました。

別の看護師さんは手際良く、寝間着やシーツを交換してくれ、
体を拭いて、真っ赤にただれた皮膚に軟膏を塗ってくれました。

ほっとして、お礼を述べ、義父の傍らに座っていたら、
看護婦長がかけつけて来ました。
「担当看護師が、看護師にあるまじき対応をしてしまい、
本当に申し訳ありません」と何回も頭を下げてくれました。

看護婦長と入れ替わりに、
その担当看護師が入室してきて謝りました。
「すみません。聞こえているとは思わなかったので」

私は言いました。
「もしかして、あなたは臭いという言葉を、
聞こえないほどの小声で言ったつもりなの?」

「はい」

「では、自分の声がどれだけ出ているか、
気がつかなかったのね」

「はい。私はつぶやいたつもりでした」

「大きな声で叫んでいたわよ」

「そうですか・・・」

「それにね、看護師なら、臭いとか思っても、
口には出さないものなのよ。
さっきも、(聞こえたとは思わなかった)って言ったけど、
これも心の中で言うべき言葉なのよ。
あなたは、自分の思ったこと全部、口から出ちゃってるわよ。
気がついてないの?」

「気づいていません」

私は、そのことを看護婦長に告げました。
看護婦長は
「あの子は、ミーテイング中でも、不意に離席して、
話をよく聞かなかったり、患者さんとの間でいろいろトラブルが
あるので、困ってはいたのですが」と困惑顔。

そこへ、騒ぎを報告されてかけつけた病院の理事長。

私は、迷わずアスペルガーの診断を受けるように提案しました。
看護婦長も理事長も「アスペルガー?」
と怪訝な表情でした。

後日、理事長から
「あの看護師にアスペルガー診断が下されました」
と報告された私は

「なら、彼女に罪はありません。
彼女には、とっさの判断や、患者さんとのコミュニケーションは
荷が重かったでしょう。
もし彼女が看護師として在勤することが許されるなら、
周囲や上司がアスペルガーのことをもっと理解して、
彼女の良い面を引き出して活躍させてあげて下さい」
と言いました。

その後、その看護師さんがどうなったのかは知りません。

が・・・、アスペルガーであることで仕事や、今後の可能性が
つぶされてしまうのは、本意ではありません。

ただ、その看護師さんの患者への心の叫びが
「まぁ大変、どうしましょう」ではなく
「臭っさ~! 」だということは問題でしょう。
看護師としての、性格や適性に欠けるかも。

私は、定型発達者の立場として、
「定型発達者に分かりやすい」アスペルガーの人の
世界や価値観の伝え方を探っています。

違いの羅列ではなく、アスペルガーの人の
感じ方はこうなのだ、という具体例です。

定型発達者も100人居れば100通りの個性があります。

でも「例えば~」という一例をつかむことで、両者の違いの
「質」は感じられるのではないかと思っています。

事実、takkantさんとトラネコさんと狸穴猫さんのコメントを、
定型の友人に電話で伝えたら、アス君のことで悩み込んでいた
友人は「目からウロコだわ」と、すっかり声が明るくなりました。

これが、彼女の理解や興味の第一歩になるでしょう。

こうやって、アスペルガーの方にひとつことつ教えていただき、
疑問難問を解いて行く道を歩んで行きたいと思います。

はからずもnさんに、不安、不快を与えてしまった事は
申し訳ないですが、
どうかnさんも、今後いろいろ教えていただけたら嬉しいです。





看護婦なのに「くっさー」と大声で言うような人が
アスペのもうひとつの例ですか…。
_| ̄|○
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マルマルです 「不快を理解に好転させるために」
上記のnさんのコメントにお答えさせていただきます。

そうです。
人の対応に対し常識的に考えて(定型が一般的に)、
とても理解や納得ができない、不可思議さや混乱や怒り」
を感じた場合、「なんてひどい人だ!」「常識も良識も無い人だ!」と、
決めつけるのではなくて「これは、どういうことだろう?」
と考えることの大切さを、私はアス君から学びました。

看護師さんの例でいうと
・点滴がちゃんと設置できてなかったり、朝からおむつ交換が
  出来てなかったのは、
  看護師の怠慢なのか、
  集中力がそれたり応用力が機能しなかったのか?
  それは、たまたまなのか?
  原因となるものがあるからなのか?

・ひどい言葉を発したのは、
 その看護士の生まれつきの性格なのか、
 生まれつきの特性のせいなのか?


今までは、そういう判断の選択が私には無かったのです。
不可解と思ったことに「こんなこと聞くこと事態、失礼かな」
と、質問して良いのかどうかも解らなかったのです。

アス君の存在や当事者のブログを通して、
人に対しての判断の選択枝が広がったのは、助かりました。

それは「許せない」と思う感情が、
「そういう訳だったのね」と理解に好転するからです。

大人同士のコミュニケーションの疑問は、
不快な場面から生まれます。

ですから、私の質問内容は、時としてアスペルガーの方を
不快な思いにさせてしまうかも知れません。

でも、それは「理解したいから聞く」ということであって、
非難や軽蔑をしているのではありません。

相手の顔色、心情を推し量りながら会話している生活とは
一線を画して「このブログはズバリ聞ける場所」として、
とても貴重です。

友人アス君は、
「その質問には不快感をかんじるなぁ」と
自分の感じた不快感のみにとらわれ、それだけを主張し続けたり、
その不快感の理論を展開してしまうことが多いので、
狸穴猫さんのブログを通して、なんとかアス君やASの人の、
感覚や考え方を少しでも知って理解したいと思っています。




2008/11/28(Fri) 09:26 秘密さま
ま、いいんでない(^0^)ですぅ。
climbmasaさんへ
やっぱり何か話したら「うん、わかる~」よりも、具体的な見解聞きたいってのはありますね。

会話=同調行為に関しては、前も一度書いたのですが定型者が「チーム(群)感覚の維持」で安心感を得ていることに関係すると思います。

これからもよろしく。
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自閉症という名の個性
ASという障害があることを知ったとき、何故単独の障害ではなく自閉圏にはいるのだろうと思っていましたが
会話と頷きのコメントを読み少し納得できました。

我が子の療育施設へ通っていた頃自閉症児も何人かいました。

そのお子さんたちのお母さんから「人と物」の区別が(感覚的に)つかない。と仰ってましたが、自分より小さな子がいても、その向こうにある玩具を目指し突進、ぶつかることがありました(ADHDと被っているかもしれませんが)
また、小学生の親御さんから聞いたことがあります
「太っている人を見るとデブと言ってしまう。相手がどう思うかを考えず事実だから口にしてしまう」「初語は身近な「人間」よりテレビから覚える」と。
もちろん年齢が上がるにつれ成長もしますし、生きていく上でのマイナス面だけでなく人より長けた能力もあるので今は穏やかに過ごしていることと思います。
余談ですが、生まれたばかりの赤ちゃんは自分と他人との区別がつかずおっぱいをくれる手も、オムツを替えてくれる手も、イナイイナイバーの目の前の顔も、全て「自分」だと思うそうですね。
そのうち感情が分化し自分と違うもの(人)が自分に心地良いことをしてくれる→この人(お母さん)が好き。となるらしいです。
そういえば、療育先で見た自閉のお子さんは親に抱っこされるのを嫌い、目を合わさずを思いだしました。
自閉症の方々とASの方々は全く同じではありませんがコミュニケーションが困難という点で語ってみました。

狸穴猫さんのブログや皆さんのコメントは様々で自分の枠にとらわれないよう勉強になります。
さまざまな意見があり非常に興味深いです
>RE:マルマル「相づちから派生した質問」

>崖の上のポニョを娘と亭主と3人で見に
>行ったときの話し。

このやりとりを読んですごく楽しくなってしまい
ました。

事実の羅列とただ一方的に言葉をぶつける
ドッジボールの応酬

まさに私の自然体そのもの。

しかし健常者相手にこのような話方をすると
「酷い」とか「冷たい」とか「私を無視してる」
とか色々言われてしまうので、このような
自然体の会話はまずできない。

だから、あるがままの会話が出来る人が
身近に居るのが羨ましいです。

>横レスごめんなさい

>極端な意見をもつASの人が
>自論、自説をAS全体の意見の
>ように吹聴して 定型がまともに
>それを信じて ASを理解したつも
>りになるのが 本当に、ツライです。

まずASの例を一つ挙げさせて頂きます。

『昔の職場で「あの人は本当に酷い」と数人の
人が話していたのを聞いた事がありました。

職場の同僚の実家から電話がかかってきて
それを受けた人が伝言板に「○○さんのお父さ
んが危篤」と伝言メモを貼っていたというのです。

「ありえない!」

「同僚のお父さんが危篤って伝言板にメモだけ
貼って放ったらかしとか理解できない!」

「お父さんが危篤なんて当人にしたら仕事な
んかしてる場合じゃない。一刻も早く駆けつけ
なければならない状況なのに何で最優先で
連絡付けてあげないの!メモだけ貼って
放置って、どういう神経してるのかしら!?」

などという言葉が飛び交っていました。

私はこの非難されまくっていた人はASで
あろうと推察しました。

恐らく本人にしてみたら「不在の場合は伝言板
に電話の用件をメモして貼っておく」という仕事
を忠実に遂行しただけのはずです。

しかしその人をASである事を理解できなけ
ればとんでもない行為としてこのように非難
の的となるでしょう。』

例えば上記のようにASの特徴を挙げ、健常者
との違いを指摘したとします。

しかしだからと言って「ASとは職場の同僚
宛てに父親の危篤の連絡が来てもメモを貼
っておいて放置しておくもの」などとは考えて
はいません。

当然、すぐさま同僚と連絡を取りお父さんの
危篤を伝えるASの方もいるでしょう。

例は例であって全てではないのは大前提
です。

ただこちらとしては健常者の方が障害の
根幹を理解しやすい例を挙げているだけ
なのです。

ASの方の中には健常者の中にうまく溶け
込んでいる人もいるでしょう。

会話の中でうまくお芝居が出来て、辻褄を
上手く合わせられて、何の問題もなく会話
をやり過ごせる器用な方も居るはずです。

しかし、仮にそのような器用な方の例を挙
げたとしても健常者の方にとっては障害を
覆い隠され、障害の本質が見えにくくなる
だけなのです。

下手をすると

「へー、ちゃんと普通に話せるんだ。じゃあ
健常者と全く同じだね。障害なんてどこに
もないね。つまりアスペルガー症候群って
いうのはちょっと人見知りしやすい人ってこ
となんだね。」

などという結論になってしまいまかねません。

ですから例として挙げられるのはどうしても
うまくお芝居を出来ない不器用な、あるがま
まで健常者と接してしまっている当事者とい
う事になります。

しかし、健常者の前で上手くお芝居を出来て
ボロを出さない人であっても根っこでは同じ
問題を抱えていて、ただそれを健常者にバレ
ないように上手く覆い隠せているだけだと言
えます。

ですから健常者の前でうまく立ち回れる
器用なASの方であってもこれら不器用な
ASの方が引き起こすトラブルの例を核の
部分では自分の事として捉える事が出来
るはずです。

(もし「いや、私はASだがこんな人達のような
問題は一切ないし、こんな人達の行動は全く
理解できない。私は健常者と普通に話せるし、
健常者の気持ちがちゃんと理解できてる。こん
な人達をASの例として挙げるな」と感じられた
のであれば、その方はアスペルガー症候群で
あると誤診されている可能性が高いでしょう。)

>自閉症という名の個性

>そのお子さんたちのお母さんから「人と物」
>の区別が(感覚的に)つかないと仰ってま
>したが、

私は先のコメントで健常者の方が理解しや
すいよう「全身麻酔のかかったような状態で
ある為に人の存在を捉える事が出来ない」
と例えました。

これを医学的見地に立って解説すると
「全身性代謝異常」という事になります。

「全身性代謝異常」によって健常者が普段
「肌」で感じ取り捉えている事が捉えられない。

その為健常者の行動を全て頭で捉え、理解
しようとしてしまう。

健常者の方であれば良く分かるかと思い
ますが、人とのやりとり一つでも頭だけで
行われている訳ではない。

評論・分析の類であれば「肌」など不要で
頭だけで全て行えるるのでしょうが、人との
やりとりは

「息遣い」
「雰囲気」
「気配」
「気持ち」
「間」

このようなものを「肌」で感じ取り行われて
います。

つまり「人の存在」とは物とは違い、頭で認識
するだけでは捉えられないのです。

頭で「人の体」という物質は捉えられても、
「人の存在」までは捉えられない。

ですから人とのやりとりとは肌で「人の存在」という
ものを感じ取る事が不可欠となります。

広汎性発達障害の場合、この「肌」で感じ
取る部分が「全身性代謝異常」によって
阻害されこのような体感を抜いた頭だけの
情報で人と対する事となるのです。

>「太っている人を見るとデブと言ってしまう。
>相手がどう思うかを考えず事実だから口に
>してしまう」「初語は身近な「人間」よりテレ
>ビから覚える」と。

このような事も「肌」で感じ取る体感を抜きに
して人を頭だけで捉えた結果起こる事と
言えます。

これらの行動を頭だけで見る場合、ただ事実
を正確に挙げているだけで何の問題もない
という事になります。

しかし健常者の場合、これらの言動を頭
だけでなく 肌で相手の気持ちを感じ取った
うえで出てきたものと判断してしまう為、
「とても失礼な事を平気で言っている非常識
な人」という捉えられ方される事となります。

そしてこのような問題は高機能自閉症と
言われるアスペルガー症候群の場合も
同様に発生します。

何故なら知能指数がいくら高くとも「肌」で感じ
取れないという点では全く同じだからです。

広汎性発達障害の人間が、「肌」で感じ取
った事を元にして動いている健常者を見た
場合、「あまりにも非論理的な行動ばかり
で理解不能」としか思えないでしょう。

逆に健常者が「全身性代謝異常」によって
人を「肌」で感じ取れず頭だけで行動する
広汎性発達障害の人間の行動を見れば、
「分析や評論、事実の羅列ばかりで気持ち、
心というものが一切伝わってこない」という
事になるでしょう。

しかし当事者にとって見ればその感覚が
普通な訳ですから、「あなたには「肌」で
感じ取れていない体感があるのだ」と言
っても決して理解できず、

「風が吹けばちゃんと肌でその事に気が付く
んだから、私は肌で感じ取れてるぞ」

と考えるはずです。

こればかりは健常者の体になって実際に
その体感を味わえない以上どうしようも無
い事なので、色盲を指摘するように

「信じられないかもしれないが、あなたには
見えていない色があって他の人にはその色
が見えている。

他の人はそのあなたに見えない色を元に
して行動しているのだ。

そして、あなたは自分には見えていない色
があると気が付かず他の人の行動を見て
いるから、他の人がなぜそういう行動をす
るのかどうしても理解できない。

逆にあなたの行動を他の人は色盲ではない
人の行動として見ている為、あなたがただ
普通にしているだけで非常識な行動だと言
われてしまう。」

このような指摘の仕方をするしかないでしょう。
話を戻してすみませんが…
マルマルさんの「相づちから派生した質問」と狸穴猫さんのご主人との会話の例を読んで思いつきました。

会話Aパターン

 事実や情報
  ↑  ↑
  人  人

事実や情報についての各個人の意見・要求を言い合うことで相手の考えていることを推測し結果共感(や差異を理解することでの相互理解の深まり)を感じる。


会話Bパターン

  事実や情報
   ↓  ↓
   人⇔人

このタイプがいわゆる「定型」や「女性的」会話なのではないかと思うのですが…補足説明はうまくできません。

会話Bパターンは直接のやりとりを重視している。
会話Aパターンは事実・情報を反射板のようにつかって相互にやりとりする。

どうでしょうか?


このモデル化手法で先のマルマルさんとアス君の会話を図示してみる…

会話Cパターン

  事実や情報
  ↑   ↓
  人→×人

右の人は左の人から自分に対して矢印が無いことに落胆する。

左の人は、右の人からの上矢印が無いことに何か不自然さを持つか、持たないか…

僕が左の人の立場なら、
「まだ聞きたがっているみたいだ。もっと情報を出そう!」って思うかも。

ただし、あまりに好きなことなら、相手のことを考えずに自分が話すことだけが目的になる。自分の考えを表現することで、ただそれにうっとりしてしまう(=暴走)。という状態も考えられます。
続き
書いたんですが消えてしまいましたv-13

えーっと…先のモデルを言いかえるとこういう風にもいえるのではないかと。。


会話Aパターン:
相手を直接見ているわけではないが、
相手から出てくる情報と自分から出てくる情報を
糸の様に絡み合わせてその形を楽しむ

会話Bパターン:
自分のもつ情報を直接相手にぶつけ、
相手からの反応を見て楽しむ
(これを相互に行う、或いは片方はほかの事を考えている)

僕としてはある意味パターンBの方が相手のことを見ていないようにも思えるのですが…
ここで唐突に個別ケースへの適用ですが
アス君が延々とカタログ情報を出してくるのは、マルマルさんからも同じくらいの長ーい糸が出てきて美しく絡み合うのを期待しているのではないかと思います(僕ならそうするから)。

でもこちら側に見合うだけの糸が無かったり、すでに興味が別の方向に行ったのであれば、「ところで」って切り出して別の話題に変えればいいのだと思います。別の話題で糸が絡めば、それはそれでいいので、絡みそうな話題を次々出す。

相手が絡めることを望んでいれば別の話題に移るだろうし、もう少し話したいと思っているのなら「気が済むまで話してもいいから、後でこちらの話も聞いてね。」って言えばいいように思います。


と、ここまで書いてきて気づいたのですが、「おばちゃんたちの会話もコロコロ変わる」というコメントがありましたよね?これと「話題を変える」は一緒なので、今まで書いてきた仮説に自信がなくなってきました。。
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パターンの差異
実は発達障害の診断(検査)を受けた事がある定型だったりするのですが、人間関係の構築においては、「会話パターンB→会話パターンA」と言う移行パターンが一般的でしょうね。
なぜなら、人間関係の始まりの多くはお互いが赤の他人同士であり、互いの心理的距離は遠く、それを近付ける為の共通項(会話パターンAの為の共通の話題)も知らない場合が殆どだからです。
つまり、会話パターンAは会話パターンBがなければ(一部の例外を除き)成り立たないと言う事です。言い換えれば、会話パターンAは心理的距離の近い、より深いコミュニケーション形態であると言えますね。

で、深いから難しいのかと言うと、そんな事はなかったりします。
既に多くの手順や場数を踏んで大概の事は許し合える関係であるという状況ですから、あまり相手を気に掛ける必要もなく、話題に集中し、楽しさを共有する事が出来たりしますね。
変な言い方をすれば、「オタク的コミュニケーション」かと。
RE:話を戻してすみませんが…
パターンモデル、わかりやすいです。

うちはもっぱらAパターンの反射型ですね。

で、ふと思ったのですが、Bパターンには「感想」という概念がくっついてくるのではないかと推測します。

やりとりしているものの中心は「感想」という概念でくくれるものなのではないかと…。

で…「感想」という概念はわからないんです、私…というところで、新しい記事を起こしてみました。
まう?さんのコメントになるほどと思います。
まう?さんは、心理的距離感が近い場合、定型の方でも会話Bパターンになる可能性を書いておられます。
「オタク的コミュニケーション」とも書いておられますが、同じ趣向のもの同士であれば、初対面でも会話パターンA的な話が成り立つことを示唆されていているように思います。

心理的距離感を遠い順に実例に置き換えてみると…

  遠
  ↑
1.店員や駅員
  ↑
2.初めて会う人
  ↑
3.近所の人・取引先の人
  ↑
4.会社の同僚・長い付き合いの人
  ↑
5.ごく親しい友人・同じ趣味の人
  ↑
6.家族
  ↑
7.自分(近)

もっと細かく分けられそうですがとりあえずこれで。

僕の場合、1.と話すのは苦になりません。
2.3.辺りに難しさを感じます。初めて会う取引先の人などは特に。

対策として取っているのは一気に4.5.レベルにつめてしまう事。
周囲の人は僕を「フレンドリーな人」と思っておられるでしょうが、
実は遠距離でもなく近距離でもない「中距離」な関係が持ちにくいように思います。

ひるがえって一般的に考えてみると、「中距離」との会話が難しいのは定型の人でも同じかもしれません。
が、「難しくても出来る」のか、「全く出来ない」のかの違い、あるいは「中距離として感じる幅」に違いがあるかもしれません。

この違いは「人と物の区別が出来ない」ような重度の人であれば、より顕著に現れるように思います。
たしかNHKの番組で
相槌の量を少なくした場合と
相槌の量を多くした場合で
実験が行われていましたが
後者のほうが会話がスムーズにできるとの結果でした
視覚過敏のせいか、
頷きが多いと目がちかちかして
会話に没頭できなくなることがあります。
私は動きに気をとられます。。。

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