アスペルガー症候群者には『感想』というものがわからない…かも?

アスペルガー症候群者ではあいまいな概念が理解できないという。


テンプル・グランディン女史は「幸せ」がわからないということがどっかの本に書いてあった。


ところで、私にもどうにもわからない概念がある。


「感想」というものだ。


http://maminyan.blog5.fc2.com/blog-entry-231
上記の記事のコメントで、マルマルさんが、

でも・・・アス君に感想を求めても、
自分の見解や評論めいたことばかり言うので、
受け流し? 嫌なことは見て見ぬふり?  逃避?
と、感じていました。

と書いていた。

そこで私は旗と気がついた。…というより思い出した。


「感想っていったいなあに?」なのである。

(ついでだが、小学校の時、読書感想文は大の苦手であった)


いつぞや、どこぞのグループワークを受けていて、
それの最後の提出用評価用紙の末尾に「今回の感想」という欄があった。


これがこまった。


で、しばらくは無記入ですましていたが、ある時、ワークの終わりのフリートークタイムに司会の心理職の人にこう持ちかけた。


「意見ならわかるけど、感想と言われるとわからないんですぅ」

と。

他にも何人からか同意見が出た。


つぎの回からプリントは「意見・感想」と表記が代わっていたのでほっとした。


さて、話しはちょっっととぶが、この「感想」といいうのが、定型発達者の会話の中心にあるような気がしないでもないわけだ。


ある事象について感想の言い合い…そして、その同質性の確認作業が会話の根幹にあるとするなら、アスペルガー症候群者が「会話に乗れない」のも当然かもしれない。


もし当事者の多くが、私と同じように「感想というもの」がわからないとしたら、「感想の言い合い」について行けるわけもない。


まあ、、人間亀の甲より年の功とはよく言ったもので、定型のお母さん達と話しをしていて何とか話しをつなぐ事はできるようになったが、「でっち上げ感」がぬぐえないのはそう言う事かもしれない。


http://maminyan.blog5.fc2.com/blog-entry-231
この記事のコメント中でズンドさんが提示してくれた会話パターンがある。
(以下引用)

会話Aパターン

 事実や情報
  ↑  ↑
  人  人

事実や情報についての各個人の意見・要求を言い合うことで相手の考えていることを推測し結果共感(や差異を理解することでの相互理解の深まり)を感じる。


会話Bパターン

  事実や情報
   ↓  ↓
   人⇔人

このタイプがいわゆる「定型」や「女性的」会話なのではないかと思うのですが…補足説明はうまくできません。




この「パターンB」でやりとりされているものの多くが「感想」なのではないかなあと考えたら納得がいく。



ちなみに、タヌキとしゃべっているとき、息子としゃべっているときは「意見、見解」の言い合いなので「でっち上げ感」はない。



果たして、他の当事者の皆さんが「感想というのもの」がわかるのか…ちょっと知りたいのであった。

え、もちろん、定型発達者の皆さまの「ご感想」も聞きたいところです、はい。







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コメント

崖の上のポニョから
狸穴猫さんもご主人も感想を述べていると思いますよ。

短いながら
・わけわからん映画だったなぁ=(思った感想)
・宮崎駿だからね=(思った感想)
・映像は綺麗だった=(感じた感想)
・そうだね=(同意の感想)
・何か食べよう=(~したい意見)
・トイレ行きたい=(~したい意見)

ついでにコメントを読み狸穴猫さんがアスペルガー症候群者には「感想」がわからない…かも?これもコメントから感じたから疑問を生じた感想に入ると思います。

一人の中では意見と感想は1セットのような気がします。
例えば日常会話にも「寒い(感想)からエアコンをつけよう(意見)」「お腹すいた(感想)から何か食べよう(意見)」や可哀想(感想)だから涙がでる(行動)など
それが会話となるとかみ合わないように見えるのは自分のペースで進めているからだと思います。
我が夫婦や我が家でも狸穴猫さんたちのポニョ的会話のようなことはありますよ。
皆が自分のペース(相手より自分の意見)で進めているとき等。

どなたかが仰ってましたが、それこそ親しい間柄だからだと思います。

感想文は自分も苦手で「~だから何?」とたいして感想を持てないこともありましたし、一応感じるものがあってもそれをどう言葉に表現したらよいかわからない場合もありましたから。

「幸せ」がわからないとの著者も感じてはいても「これが幸せ」と結びつかないのかもしれませんね。「幸せ」って自分で決めるものだと思うので健康であるだけで幸せと思う方もいるし、もっと裕福でないと幸せじゃないと思う方もいると思いますから。

今回は狸穴猫さんの欲しい、知りたいコメントと違うような気もしますがすみません。


上記で終わろうとしましたが、ふと思いましたこの「今回は狸穴猫さんの~………」という部分が言葉だけでなく相手が存在し肌で感じる部分なのでしょう……か。
自分がその時にいだく気持ちはあるでしょう。ただそれをどう表現し、相手に伝えていったらよいのか。その点はアスペルガーの方が苦手とする部分なのでしょうね。
取り上げていただいてありがとうございます
AS症候群と定型群の違いを「感想」という切り口から考えようという試み、新鮮であり、かつ真相に近づけそうでとても興味深く思います

先のコメントでR(アール)さんは「狸穴猫さんもご主人も感想を述べている」と指摘されておられます。この部分をよく読んでみましたが、矛盾点は無い=正しいご意見だと思いました。

では何故、狸穴猫さんは「感想とは何か?」ということが分からないのか?ここを突き詰めていけば何かが見えてくるように思います。

「感想」という言葉が表す意味については辞書を見れば書いてあると思いますが、書いてあることをどのように捉えるか、また何をもって「これは感想」と判断できるのか。この違いや類似点を探せばよいように思います。
感想とは
体験した物に対しての「快・不快(おもしろい、つまらない、悲しい、楽しい、感動した、驚いた等)、願望、疑問、評価」などを漠然と、とりとめもなく言うものが感想ですね。
(※ただし感想文の場合は、漠然とした中から書き手自身でテーマを設定し、文を組み立てる必要があります。)

一口に「感想」と言っても、上のようにいろいろな種類の精神活動を含んでおり、
「意見」や「要望」のように一定の方向性を持っている言葉ではないため、
「言葉の意味自体がよく分からない」、「意味としては分かるが実感ができない」
「漠然としすぎていて何を書いたらいいか分からない」
というASの人はいそうだなあ、と思いました。

他にもASのタイプによっていろいろ理由がありそうだなと想像します。

たとえば、言葉や言語表現が苦手だと、自分の体験を言葉に変換することが
大変なのかもしれません(作文からまず苦手)。
また、人によっては自分の状態を把握・自覚することが苦手という
メタ認知の問題もあるかもしれません。

といっても別タイプのことは私はよく分かりませんが(^^ゞ

私の場合、「感想」は問題なく分かるし、実感もできます。

たぶん、グループワークで「感想欄」があったとしても、
その中で自分が言いたいことに焦点を合わせて、
たとえば、「意見」を言いたいなら「意見」を書くことが出来ると思います。

(「感想」と「他者とのコミュニケーション」とのからみとなると、よく分からないので現段階で何も言えないです。テーマ部分だと思うのに、すみません)
 ↑
あ、「そのものごとについてよく分からない・考えが定まらないから何も言えない」、ということは、ASにも、ASでない人にもありそうですね。
感想とは漢字を紐解けば

「感じて想った事」

となります。

ついでに言うと「思」という漢字
は上の「田」が脳を意味し下の
「心」と合わせて一つの漢字と
なります。

つまり、「思い」というのは

『心で感じ取った事に頭が耳を傾ける様子』

という事を意味しています。

感じた事、想った事、思い・・・。

これらの表出が「感想」という事になります。

「わけわからん映画だったなぁ」

この言葉にしてもそれが「思い」から出たもの
であれば、「心」の感じたものが「田」(脳)を
経由して、それが口から飛び出してきたもの
で感想であると言えます。

しかし、それが「思い」から出たものでなけれ
ば「訳の分からない映画だった」という評論、
事実の指摘でしかありません。

そういう意味では

「宮崎駿だからね」
「映像は綺麗だった」

も出所が頭であった場合、それは事実の指摘
でしかありません。

つまり「心」という起こり無しに「田」(脳)から
直接出てきたものは感想ではないのです。

それは意見であり、分析であり、事実の指摘
であり、評論でしかありません。

そして健常者が「感想をお願いします」と言っ
ている時求められているのはまさに「あなた
がそれを見た時、読んだ時、その話を聞いた
時の心の起こりはどうであったか?」という
事なのです。

「面白かった」という感想の言葉一つでも、
そこに聞き手が観るのは相手の驚愕、躍動、
わくわく感、胸が躍る、満足、などといった心
の起こりであり、そんな心の動きに感じ入って
、聞き手は「そっか、良かったねー」と自分の
心でもって応えるのです。

つまり聞き手は面白かった事柄ではなく
面白かったと語る本人の心の動きを見て
いるのであり、ここでの主役は話している
人の心という事になります。

しかし広汎性発達障害の人間が「面白かった」
という時、それは「その事柄は面白いもので
あった」という報告であり、評論であり、意見で
あって、健常者はそこに相手の心の動きを見て
取る事が出来ません。

そこでは心ではなく「事柄」が主役であり、
「その事柄がいかに面白いか」という事だ
けが延々と語られ続けます。

健常者にしてみれば「いつまでも事実の指摘
や評論が続くだけで、話している本人の心の
起こりが全く見えてこない」という事になります。

論文の発表であれば発表者の心の起こり
など誰も問題とせず、論文の内容が正しい
かを頭でもって測られます。

これは意見、評論なども同じでこれらの場合
は「建設的な意見」であるか「適切な評論」で
あるか、その正しさが聞き手の頭で測られま
す。

しかし、感想では「事実の指摘」を求めている
訳でも「建設的な意見」を求めている訳でも
「正確な評論」を求めている訳でもありません。

感想を聞くというのは

「あなたの心を見たい。そしてあなたの心が
感じた事を私の心でもって汲み取りたい」

という事なのです。

ネットでアスペルガー症候群の方のこの
ような話を見かけました。

『社交的な微笑を浮かべることができるよう
に鏡に向かって自己訓練したし、「ハロー」
と「さようなら」みたいな挨拶をオウム返しし
て何とかしのいできたが,誕生日に誰かが
おめでとうと言ってくれたとき、私はどう言
っていいかわからず,その日は最悪な一日
となった。』

健常者の方であれば「何が分からないの?
普通にありがとうと言えばいいじゃない」と
思うかもしれません。

しかし当事者の方であれば、「これはそういう
話ではないんだ」という事が分かるでしょう。

健常者の「おめでとう」という祝福の言葉に
対して心の起こりを全く持たない自分。

この自分への祝福の言葉の前では、意見も、
評論も、事実の指摘も何の役にも立ちません。

だから、ここにあるのはどうしていいか分から
ない自分の姿だけ。

その時、自分の中にある欠落というものに
嫌でも気づかされる事になるのです。

いくら訓練を積んで「ありがとう」と返せる
ようになり「心の起こり」をでっち上げられ
るようになったとしても、その欠落を消し
去る事は決して出来ないだと本人には
分かっているのです。

今回の「感想が分からない」という話には
この「誕生日に誰かがおめでとうと言って
くれたとき、私はどう言っていいかわから
ない」という話と同じものを感じますね。
感想を言ったつもりが…
事実しか述べてなくて、「あなたの考えはないの?」って言われたことがあります。

狸穴猫さんのこの記事を読んで納得できました。


『私には、感想って概念はなかったんだぁ~。』


って。


「こうしてほしい」っていうのが意見、「そうおもいました」って言うのが感想なのかなと漠然なところでしか違いがわかりません。。。
標準装備ではないのでは?
先ほどから、「感想」についてコメントを投稿しようと思っているのですが、言葉で表現できません。

もしかしたら、「感想」が自分の思っていること、感じていることを相手に言葉を使って的確に表現することだとするならば、私にはそれを伝える技術が標準装備されていないのではないかということに気がつきました。

それならば、今までの私が言語コミュニケーションで数々の失敗をしてきたことに対しての疑問が少し解けていくようです。

考えるヒントをありがとうございます。
マルマルです。「失恋の謎も解けるかな」
いや、もう「相づち」に次いで「感想」が考察のテーマに
なろうとは、夢にも予感にも思いませんでして
私とアス君の間には、こういうことが壁になっていたんだな
と、一つ一つに魅き込まれます。

私の疑問は、奈良人さんのコメントに答えが
見えているように感じます。

アス君に映画や本やメールの「感想」を聞いても、
「評論」「見解」「分析」ばかりで
「結局、どう感じたのよ?」と「心の起こり」が解りません。

心の起こり・・・ワクワク、しんみり、ドキドキ、きゅん、
                      ウルウルなどの起伏です。

このことはですね、恋多きアス君の致命傷として
いつも失恋という結果に結びつくのです。

2年前からアス君は、
私の友達のテイガタ子ちゃんに夢中でした。
その夢中ぶりは「過集中」と「絶対服従」のスタイルで、
様々な悲喜劇を巻き起こしてきました。

テイガタ子ちゃんに出会って、アス君の口癖は
「大切な人」「会うだけで幸せ」になりました。
テイガタ子ちゃんも、あまりのアス君の熱中ぶりに、
ある日、質問しました。

「いったい、私のどこが好きなの?」
「え?・・・・・・・・・・・」

ここにつまずき、失恋の坂道を転がり落ちて行きました

私のどこが好きか?
これこそ、ヒトクセある質問です。
定型者だって「どこったって・・・・全部・・だよ」
なんてことしか言えないような難問です。

この質問で難しいのは「好き」という想いや感情の説明。
ですから、「感情」の「想い」 つまり
「感想」を聞かれているのです。

アス君は「ウッ」と詰まりました。

「答えられないの???  あれほど好き好き言ってるのに」
から
「言えないってことは無いってことで、つまり好きではないのよ」
とされ
困ったアス君は、私に聞きました。
「好き・・って、好き以外に何て言えば良いんでしょう?」

「アス君は、あれほど映画や本や人の評論や分析はするのに
どうして、ここが好きということが伝えられないのかな?」

うん??・・・伝える?

そうか、批評や意見や分析は、一方的なご披露でよいが
「感想」は、相手に求められて伝える作業でもあるから
難しいのかな?

それ以前に「感じる想い」という感覚がない・・・
ということでしょうか?

アス君は、失恋しました。
男性友人が「失恋した今のご感想は?」と聞きました。

アス君は
「あるほどの 菊投げ入れよ 棺の中・・・・という夏目漱石の、
 秘かに想っていた親友の奥さんが亡くなったときに詠んだ
句が あります。じんわりと哀しみが込み上げてくる良い詩だ
と思いますが、まさにその境地です」
と答えました。

男性友人は
「おまえさぁ、いっつもそうだけど、自分の気持ちを言うのに
いちいち、誰かの詩や句や格言を引用しないと言えないのか?」
と、あきれていました。

自力でスラリと、
彼女をどう思ってる
彼女のどこに魅力を感じるか
言えたら、失恋しないのになぁ。






主観あるところに感想あり
「…」と言えば、ゴルゴ13(デューク東郷)の「…」には万感の思いが込められているとか…。

で、件の「崖の上のポニョ」の会話は感想であると思いますね。
なぜなら、これらの感想(敢えてこう書きます)には、主観的な判断が入り込んでいるからです。
たとえば、
狸穴猫さんの「宮崎駿だからね」と言う言葉の根拠が分かりません。
(批判的な意味合いでなく、純粋に分からないと言う意味で)
まあ、好悪の念も含めて、「宮崎駿に対する何らかの意識があるんだろうなぁ…。」と想像する事は出来ますが…。
つまり、「感想」と言うのは、「主観を含んだ言葉」と言う意味合いの大雑把な言葉なのだと思います。
私達の会話はBパターンなのですが、感想を脚色してさらに他言するので、事実と違う噂が流れたりするんだな…と思いました。
だから、女性週刊誌のような読み物があるのかな…とも思いました。
続き→噂話とかは、でっち上げがほとんどですよね。

こっちの世界は歪んでますか。
ちょっとした疑問
関係するかどうかは分かりませんが、もうひとつ。
自分にとっては、今回の狸穴猫さんの文章が既に「感想」なんですよね。

これは、狸穴猫さんが「感想」を認識できないだけなのか、受け手が定形故にイメージで脳内に仮想狸穴猫さんを創り上げ、それを基に行間から感情の動きを読み取っている(誤解している)のかは分かりません。
個人的には前者であるのかなとも思いますが、どうなんでしょう…。

おまけに、
論文を読んでも人(書き手を)を感じますね。
もちろん、かなり漠然としたイメージでですが。
余計???になっちゃった
takkantさんのコメントを読み仰りたいことはとても良く理解できました

理解したら余計わからなくなりました???
で、私個人の見解及び感想はですね
・わけわからん映画
・宮崎駿だから
・映像は綺麗だった
この三つが心で感じた物だろうが頭が出どころだろうが

・わからないものはわからない
・(○○監督ではなく、とりもなおさず)宮崎駿だからねは、宮崎駿だから
・映像綺麗な物は綺麗
それを感想と呼ぶんじゃないかと…??

主観が入るとコメントされてたのは、まう?さんでしたっけ?そんな感じだと思います。
以上三つのセリフを
心で認知=感想?
頭で認知=事実や評論?
しかし結論(わからん・綺麗)は同じ…う~ん、「わけわからん」の次に突っ込んだ話がストーリー自体理解不能だったのか、伝えたいテーマなりがわからなかったのかに進むんだと思いますが…
狸穴猫さんは今までの経験から宮崎駿はわからない映画が得意(変な表現ですが)だと知ってるから「宮崎駿だからね」と考えた。経験から宮崎駿ならあり得るだろうと頭の中で結びついたのが、それがもう感想なのでは…なぜらな人によっては「宮崎駿なのにおかしいよね」かも知れないわけで…
頭から出たとしても「汚いよね」ではなく「綺麗だった」発言した
それが感想なんだと思います。

映画評論でも何の評論でも分析でも、先ず自分の中に「よい・悪い面白い・つまらない」と基本感想があり、それを指針として評論、分析が成り立つのではないかなぁ~??

ん~ホントにわからなくなりましたが、例えばアスペルガーな人によっては「この色使いの組み合わせなら。この部分が○○色だから綺麗と言おう」=「綺麗だ」
「デブと言われたら怒るべきだ」=「失礼な!」と理屈で言葉を発してるわけではないと思うんですよね。
ちゃんと「感」じる「想」いはあると思います。その度合いに大小はあるにしても。

その最たるものがアス君の恋愛で(マルマルさんアス君をお借りします)頭で「この人優しい・良い人」と認識したから恋愛するわけでなく(そんなことしてたら良い人は沢山いるので体がいくつあっても足りないですね)「好き」と言う出どころは「心」でしかないものが恋愛だと思いますが頭が出どころの「好き」ってあるのでしょうか??
因みにアス君は夏目漱石の言葉を借りてちゃんと「じわじわと哀しみが~…」と感想言えてますよね。引用して一番わかりやすい感想を。
感想、、、
初めまして。以前から何度かこのブログを見ていますが、今回のテーマはなぜかとても惹かれるものがあったので、コメントさせていただきます。

私は自分でその傾向はあるんじゃないかと思っていますが、未診断です。なので、ASなのか定型発達なのかはハッキリしませんが、、、、。

感想は苦手です。昔からです。
感想文は何を書いていいのかわからずあらすじの抜粋になっていたし。

映画を見ても、大好きなクラシックのコンサートに行ってもお芝居を見ても、何かは思うのですが、それが言葉にならないことがほとんど。ひどい時には映画に行く→夕飯を食べに行く、と予定が決まっていたりすると「さあ、終った、次はコレだ!」と次の予定に気持ちが行ってしまったり。

自分は何かを感じることが人より弱いのかな、、と悲しく思うことさえありました。

初めから「感想」を決めている事もあります、、、
「コレを見た友達は、いいっていってるから、いいに違いない」で、なんかあたしには面白いと感じなくても面白いところを探していたり、何も思ってなくても(こっちのほうが多い)「面白かった」と言ったり。一緒に見た人が「つまらなかった」と言ったらそれにあわせてみたり。

だから、他の人が言う映画やなんかの感想は「なんて表現力があるんだろう。とっさの会話であれだけ言えるなんてスゴイ」って思うことばかりです。

だけど、確かに何かを、初めから決めていないけど、大きな何かを感じることは確かにありマス。
だけど、それを「人に話す」となると「よかったよ」とか簡単な言葉でしか言えないんですよね。
「どう良かったの??」と聞かれると「う~ん。いえないけど、よかった」としかいえない。。。

だから、あたしの場合は感想を「言葉にするのが苦手」なのかなって思いました。
考えてみたら、子どもの頃から「自分の気持ち」自体を言葉にするのが苦手で、自分の想いが伝わらないことが多々あったような気がします。

ちなみに感想とは少し違いますが、心療内科で毎回「この2週間はどうでしたか??」と聞かれて毎回何をどうこたえていいのか悩み、即答ができません。

長々と失礼しました。
takkantさんは「心の起こり」を全く持たないといわれ、マルマルさんは「感じる思い」という感覚がないとも言われていたようですが、自分の考えは少し違うのです。「感情がない」のではなく、感情が未分化や未発達の状態、言い換えれば「感情を知らないだけ」なんじゃないでしょうか。何も感じないのではなくて、感じることもあるんだけれど、それをどう表現したらよいかわからない。エヴァンゲリオンに次のようなセリフがありますよ。「ごめんなさい、こういうとき、どういう顔すればいいのか、わからないの」「笑えばいいと思うよ」このセリフを思い出してしまいました。マルマルさんのお話に出てくるアス君にも、同じようなことは言えると思います。「いったい、私のどこが好きなの?」って言われたんですよね。アス君は熱中するあまりに、感情が暴走し、恐らく、好き、好きばかり言っていたのでしょう。ですが、彼女としては、自分のこと好きなら、もっと色んな愛情表現をしてほしい。それで、「あなたはいつも、好きです、好きですって言っているけど、一体、私のどこが好きなの」みたいなこと言ったんでしょうね。「好き」の説明はいらないと思います。それより自分の気持ちを伝える手段方法の乏しさが問題だったのでは?感情をいろいろと表現していかないと、感情の分化、発達はないでしょうから、アスペルガーの方にとっては難しい問題ではありますよね。
マルマルです。「感想・感情・意見」
皆さんのコメントで改めて
「感想の定義や守備範囲は広いな」と知りました。

Rさんの「自分の哀しみを夏目漱石の詩を借りてわかりやすく
感想を言えてる」というコメントで
「確かに、ある意味、イメージはしやすい」と思いました。
でも、アス君は自分の感情を聞かれた時に、
ほとんど日本の文豪や、ドイツの詩人や、フランスの作家や
アメリカの哲学家の詩や説や句を引用するので、
感想というより解説を聞いているような印象になります。

後日、テイガタ子ちゃんに
「私がフッちゃったからアス君、落ち込んでる?」と聞かれ
「夏目漱石のこんな詩の心境らしいよ」と伝えると
「何それ。相変わらず、まわりくどいなぁ」と言うので
「僕の恋が死んじゃったみたいで、恨みや怒りより、
さよなら、もう会えない人という静かな心境です。
という感想じゃないかな?」
と通訳します。すると
「じゃ、そう言えばいいじゃない。なにも、わざわざ夏目漱石を
引っ張って来なくてもさ」
となる訳です。

ととさんのコメントで
「何かは思うけどうまく言葉にならない」
これが「感想にならない」原因かと思いました。

annoさんのコメントは、まさしくその通りだと納得です。
テイガタ子ちゃんは「どんなふうに好きか」「どこが好きか」
アス君の「好き」を、もっと明確化したかったのだと思います。
アス君の、文学や言葉への洞察と解明の姿勢は、ものすごく前のめり
ですから、感情を表現しにくい人だなんて
思いもよらなかったのですね。

テイガタ子ちゃんは
「そんなら、私も俳句か詩で自分の気持ちを伝えたら、
アス君には通じたのかしら?」
と、首をひねっていました。

狸猫穴さんとご主人の会話にも「感想になってるよ」
ととれる部分はあります。
ただ・・・定型者が、これを感想と受け取ると
「えらい、そっけないなぁ」と感じるでしょう。

私は、人の感想文を読むと、書いた人の感受性の豊かさや、
どんな場面に、より強い感情を持つ人か、
その人の価値観も感じられます。

アス君の感想文を読むと、確かにそれらしきものは書かれてあります。
が「で・・本当のところ、どう感じたの?」という物足りなさを感じます。

感想(文)は、自分の心の描写ですから、それを言葉にするのは、
得意、不得意もあるでしょうね。

私の周囲にも「うん、おもしろかった」と一言、言い切り型のタイプの
人はいます。
明らかに表現力不足です。

表現力が無いのか、
表現しても感想になってないのか
感想という概念が無いので、自分が言っていることが
感想かどうか解らないのか

「感想」は意見や見解や分析と重なっているものなので
単体としての見極めはできないのではないでしょうか。

アス君のような「お喋りなアスペルガー」の人には、
こちらが「当然、感想など表現たくみに言えるだろう」と
勘違いしやすいです。
選択盲、分離脳
無理に言語化するべきなのでしょうかね。

AS脳は右脳と左脳をつなぐ脳梁が細いといわれていますが、右脳と左脳をつなぐ脳梁が切断された分離脳の人に、その右脳にのみ「歩く」という指示を出します。すると患者は立ち上がって歩き出しました。左脳に何故歩き出したか尋ねると「コークを取りにいったのだ」と答えたそうです。脳梁が切断された分離脳ですから、言語脳の左脳は右脳に「歩く」という指示があったことは知りません。左脳が指示とは別の勝手な理由を作りだしたのです。分離脳患者の研究から、左脳には、我々の自己イメージや信念体系と合う様に、自己の状態や環境から受け取る情報を解釈して適当な話を組み立てる部位があると見られています。

また、オスロの心理学者ペッター・ヨハンセンが行った心理実験では選択盲というのがあります。その心理実験は、男性には女性の、女性には男性のポートレート・顔写真を二枚を見せ、どちらか魅力的に感じる好きな方を選んでもらいます。一旦写真を返してもらい、もう一度写真を渡して、何故そのほうが魅力的と感じたのか尋ねると「あごの形がよい」「黒髪だから」などと答えてくれます。しかし、写真は選んだ人ではないのです。
 実験ではヨハンセンが、写真を巧妙にすり替え、選んでいない写真を「あなたが選んだのはこちらでしたよね」と言いながら差し出してます。当然「いえ、別の方です」と言うと思いきや、ほとんどの人が入れ替えに気付かず、得々と例えば「髪が長いから」「イヤリングが素敵だから」など語ってくれるのです。本当はその人を選んでいないのですから、そんな理由100%嘘。でもそう言う。間違えに気付かないだけではなく、間違えた前提でその場で理由をひねくり出す。その上、嘘の理由を言っているということすら気付かず、選んでいない人の方が気に入ってると思っている。これを「チョイス・ブラインドネス、選択盲」というそうです。

ですからアス君が(マルマルさんアス君をお借りします)、テイガタ子ちゃんの好きな所を言語化しようとすると、本当の思いとは違う、適当な事を左脳が勝手に作り上げてしまうのではないでしょうか??

私のWAISの検査では、知覚統合POのIQが凹になっています。これは、私の感じたこと思ったことを上手く纏めて言語化する能力が低いことを反映した結果だと納得しています。感想を書き出したりすると、前段で言っていることと後段で言っていることが違ったり、話が明後日の方に飛んでいたりします。

ASといっても、POの高い方は別なのかもしれません。無理に言語化する必要はないというか、すべきではないのでは?

ただ、感情や情動のセルフモニタリングは意識してやっています。その場に不適切な情動、怒りなどが表面化しないようにコントロールする必要がありますから。
こんにちは。
こちらのブログのコメント欄は、理論的に説明することが好きで得意な方たちだと判断しましたので、私は感覚が違いますので参加はしないでおりました。
私は診断は受けておりませんが、小さいころからの問題、そしてここで読んでいてもその根本のところの感覚がまさにASだと思っているものであることをまず自己紹介しておきます。
そして、心のことについても分析して理屈で考えるところがありながらも、反面、大人になってからですが芸術的な面での好きなことを発見し、それを通して感じるということを養われてきたと感じているものです。
そして、感覚的な表現もし、共感の表現もまあできるので、ここに書かれているASのタイプの説明とは少し違うところもあります。
しかし、根本的なところがまさに、ここで説明されていることと同じであることは力説してから本題に入らせていただきます。
「脳が偏っているので、ある部分はまったく機能しないが、非常に秀でているところもある」のがASであると判断しておりますが、そういう意味では、私はある面でだけですが、感じるという感覚が、定型の人よりも鋭いところがある人間だと思っています。
ただ、変なのですが、人の状況を察するというようなことについては鈍感なのは、ここに書かれているのとまったく一緒です。

本題ですが、感想は、私も昔から苦手だったと思います。
感想文は、話の説明を書いて最後に、面白かった、と一言書くだけのようなものを提出していたような。
そのころは、何かを感じるということが現にないから、書けなかったと思います。

それもありますが、感想を求められると、余計かけない、というのもあると、今思います。

今は、昔よりも、感じる感覚が鋭いです。
しかし、言葉で表現しようとすると、感覚は消えてしまいます。
だから・・・・ASの人というのは、もともと感覚はあまりない上に、理論で考えると余計にするりとその感覚は逃げてしまうのではないかと思うのです。

私は、ここのブログの方たちのように、まったく理論で理路整然と説明する能力がありません。なので、説明が下手なのはお許しくださいね。

感想をいえないのは二通りあると思います。
感じないからそもそも無理。もしくは、感じるけど言葉にならない。

感想を求められたり、いおうとすると、理論で考え始めますよね。
理論というのは左脳を使うものですよね。
言葉にするというのは左脳、感じるというのは右脳が働くときいています。
右脳でまずは感じてから、それを左脳で言葉にするんじゃないでしょうか?(脳について専門の知識があるわけではないですが)
それが両方とも連動してうまくできてはじめて、感じてそれを言葉にできると思います。

ですが、そもそも感じなければ、言葉にもなりません。
まずは、言葉にするというプレッシャーなく、感じる練習をすることが大切ではないかとおもっています。
感想をいおうと思った時点でもう、左脳で考えると、右脳が働かなくなるような気がします。

感じるの自体が、ASにとってはどうすればいいのかはわからないことは重々承知です。
ここのブログは、感じることではなく、理論で理解することを目指しているブログであり、それもとても助けになることも重々承知ですので、私が出る幕ではないと思い、今までコメントをあまり書きませんでした。

でも、定型の心の動きというわからないものをなんとか理解しようと努力しているのであれば、感じるということを体験する努力もする価値はあるのではないかとおもっています。
どなたかが書かれていたように、表面的なやり取りを覚えても、ぼろが出ます。
表面的な技術は持っていると助けにはとてもなると思うけれど、同時に、感じる方面も覚える・・・少しでも開発する努力もしたらどうかと思うのです。
「ASというのは、脳の発達の障害なんだからできないの!努力でそれができれば苦労しないわ!」・・・といわれそうですが、
ひとそれぞれの程度があって、それができそうな人もいらっしゃるのではないでしょうか。
私は開発されましたから。

感じることができそうなときに、理論で考えては、その感覚はふっとんでしまいます。それは、定型のヒトだってそうではないかと思います。
感想・・・と身構えようとすると、感想は逃げてしまいます。

たとえば何かに対して、不快を感じることはあるでしょう。
誰かを、いやなやつと感じたり、何かをいやだと思ったりするとき、それが感覚だと思います。
少しずつではあっても、それは磨かれて行くのではないかと、私の体験を通して思います。

ただ感じる。
その練習とは、たとえば前も書きましたが、たとえば自然をただ見て感じてみるのです。
空を見て、「あーきもちいい。」それだけでいい。その言葉もないほうがいいぐらい。
「対ヒト」ではないほうが、きっとうまくいくかと。
何かをみているとき、または聴いているとき、体がどんな感じがするか、自分に意識を集中しているのです。言葉で分析をせずに。
言葉での分析は、どうしてもしたいなら、十分に感じた後にするのです。
でも、できれば言葉にしようとしないで、言葉が自然に出るようになるまで待ったり、それこそ小説などの中に、はっとする文章を見つけ、こういう表現があるのか・・と気づいたり、自然に任せるのが良いような気がします。
ヨガのようなものも、感じる練習になる気がします。
こういうのを感じることは、幸せを感じる豊かな心にもつながります。
定型のヒトにとっても非常にいい練習です。
現代は、こういうのが失われていますから。

心って、とても表現しきれないものです。
感じることが少なすぎて表現できない場合もあるでしょうし、大きくても言葉にできないこともあるでしょう。
だからこそ、昔から芸術家もいて、絵で表現したり、言葉で表現するのが得意な人が、本を人に読まれたり見られたりするものではないかなと思います。

「理論で考える」派の方たちの中に混じりこういうことを書くのは少し場違いで理解されないかな、とは思いましたが、違うタイプの人間の意見もたまにはどうかと思いまして。

ちなみに、自分も、ある一定のこと以外の点では、非常に鈍感で、感じるのは苦手です。
たとえば、いじめのような目にあっていてもたぶん人よりも気づかないし、自分が体がつらくても気づかづやってしまってダウンするほうです。
自分の感情、つらいと思っているとか、そういうことに鈍感です。
だから、”感じるということが「わからない」感覚”も、は、十分にわかるつもりです。
でも、何かひとつでいいから、感じることができるものができると、定型のヒトの、ヒトとヒトのコミュニケーションのときの心地よい感覚とかも、より類推することができるような気がするのです。
私の場合はそうです。
あくまでも類推の域なのかもしれませんが。
それよりなにより、より、幸せになれる気がします。

はー・・・また全精力注いでこれを書き、消耗したので、又しばらくお休みさせていただきます。。。。

(あ、これ下書きかいてる間に、右脳、左脳にツイいてのコメントとあったようですね。
まねしたわけではないです。。。)

言葉にできない感想がある
こんにちは。
私は、ASに診断されているけれど、感情は強いタイプです。子供みたいに、「わー、楽しい」「好きー」「きれい」みたいな感情はいっぱい沸き起こります。

そして、一般的なASが得意だという、論理とか暗記がホトホトダメなタイプなんです。感想文も、子供の頃は得意だったんです。その反面、論理的で難しい文章を書かなくてはいけないと思うと、ものすごく苦労します。

一般的なASのパターンとWAIS-3(発達障害検査用の知能検査)の結果や得意不得意が逆なので、私の意見はAS全体を知るには参考にならないかもしれませんが、こういうタイプの人もASに診断されているのだと知って下さるとうれしいです。

さて、感想についてですが、私の場合は、感情や感想や感動は沸き起こるのに、それを他者に伝えるための上手な言葉がスラスラと出てくるタイプではないんです。言葉じゃなくて、絵なら、その感想を伝えられるのに、ってもどかしくなります。じっくり考えないと、自分の心にピッタリフィットする感想の言葉が出てこないことがよくあります。

「♪らーらーらー ららーらー ことーばにー できなーいー(高音)」って歌があるけれど、ちょうどそんな感じです。
(歌にもなるくらいだから、定型の人でも、感動はあるのに、他者に伝える上手な言葉が浮かばないことってあるんでしょうね)

ASの人の中には、本当は胸の中にちゃんと感想はあるのに言葉がうまくでてこないせいで、他者から「この人って感想も無いの?」と誤解されてしまう人や、「自分には感想がない」と思い込んでしまってる人もきっといるんじゃないかと思います。
マルマルです。 「感想もコミュニケーションの手段」
ビゲ達磨さんのコメントの『チョイスプランドネス選択盲』
アス君の会話にものすごくあります。
そのせいで、会話が混乱のラッシュです。
はぁ~、・・・・そうでしたか。

Yさんの「感じる感覚は鋭いが、察することには鈍感」
これアスペルガーの方のひとつの基本でしたね。
だから「求められた感想には、相手がどういう気持ちで聞いているか?
を察することが出来ないので、自分なりの感想が、そりゃ感想ではない、と否定されたりする」になるんですね。

のらさんのコメントで
「感想の表現や伝え方の手法は、人それぞれ」と学びました。
アス君が、偉人や有名人の言葉を引用して、自分の気持ちを伝えるのも、認めてやらにゃあいかん・・と。
しかしコレ、感性が合う人でないと、なかなか伝わらないことでもありますよねぇ。

アス君は、小学校1年生の時、運動会の感想文に
「競技ごとに、白組○○点。赤組○○点。と羅列し、総合点で赤組が勝ちました、と書いた」と言っていました。

アス君は、友人の社交ダンスコンテストを見に行き
「どうだった?」と感想を聞かれ
「あなたとペアを組んでいた男性の手が荒れていました」
と答えたらしいです。

そんなアス君が、失恋の感想を、自分の気持ちに一番近い
夏目漱石の詩を「選択・提示」して伝えようとした努力は、
感性の成長とも言えるでしょうね。

感想は、身構えたらよけい言えない、書けない。
建て前や、その場に合わした言葉づらでは「でっち上げ感」や「不快な違和感」を強く感じる。

それは、定型者が、非常に鈍感な部分です。
「思っても無いけど、感想として言う、感想文のように求められたら、その場の思いつきををひねり出す」
感想の真実をつきつめたら、定型者の感想は、自然に湧き出る感想もあるが、社交辞令的に聞く場合もあるし、取りあえず言っとく、という場面も、求める相手の心情に合わせて言う場面もあるし・・・

感想に対して正直でありたい
感想とはなんぞや

と、一度、考えた方が良いですね。

感覚的ではあるがロジカルなもの」以外は上手く同期出来ず口にしにくい。
感情だって感覚ロジックの先にあるもの。
だから「感情的に感じた事を書け。それが感想だ。」て言われたって、どんなにごまかして同期出来ないものをそれらしく並べ立てたてみたって、並べるという繋がりを作る時点でどこかロジカルさが残るものになる。
まるでどんなにフレームレートをあげてもビットレートをあげてもどこかデジタル臭さの残る高画質動画しか生成出来ないDVDレコーダーのようなもの。
基本的にOSが違う事を痛感させられる。

私も感想文は苦手だった。
言葉にすらならなくて癇癪を起こした。
ロジカルな感覚を解析して言葉に出来るようになってからは急に用紙が足りなくなるようになった。
でも書いていたのは感想のつもりで実は単なる演算結果とそれに至る過程とその根拠の記述だったようです。

感情だって感覚ロジックの先にあるもの。だから「感情的に感じた事を書け。それが感想だ。」て言われたからそのロジックを、ログを書き出しているだけ。
もとい、そのような表現しか満足に出来ない。
ある人とそういう構造によるナチュラルな会話をした時、わが事のような物凄くリアルな内面感覚を伴う会話が出来た事がある。
彼も「私と同じように感じていたと打ち明けた」。
そして、彼も当事者かつ私と同じように重度者に顕著な行動特性を多数持ち合わせていた。

彼は私と同じOSとハードウェア構成なのだと、話を進める毎に確信していった。

話題がどんなに飛び飛びになっても、そこに飛ぶに至る根拠や関連、ロジックが容易に見えた。
たとえ見えなくなっても他に飛んだ話題から見る事が出来たし、見えなくなった際の補足が(普通なら回りくどいとか言ってくる話し方)私には言語以上、感覚ロジックにダイレクトに入ってきた。

一般定型の中では例え血が繋がっていようと絶対に感じる事のなかった、深くデータリンク、シンクロする感覚があった。


ちなみに、格言なり例えなりから自分の状態に近いロジックを持つものを選び出しそれを引用する事で表現するのは私たちにとってはナチュラルな表現の一つです。

とはいえ私は山岸氏に偽物扱いされた身なので、自閉症ではあってもアスペルガーではないかも知れない。
Yさん、のらさん 情趣のある文章ですね。
Yさん、のらさん 私には到底書けない、行間に情趣のある文章ですね。うらやましい。

一生懸命語りかけている女性(違っていたらごめんなさい)の顔が浮かんできます。

さてAS的な不躾な感想・疑問ですが
私は言語性IQ>動作性IQですが、お二方とも逆の動作性IQ優位型と拝察します。私の知る動作性IQ優位の方はADHD、自己正当化ADHDで、表情や声の音調など非言語的なやりかたで、私に働きかけてきます。

自己正当化ADHD、ドラエモンのジャイアンのようなタイプですので、私を配下にしようとする働きかけです。言語性優位ASですのでこういった非言語系のメディアでのコミニュケーションは苦手、不感受です。それがこの方とのトラブルを招いています。

動作性IQ優位では、どんな悩みが主なんですか??

大変不躾で失礼な質問ですが、分からないことは尋ねずには済ませらないASです。
あの…、「感想」という言葉ですが、この言葉が使われる場面は限定されてるはずですよね。
その限定された場面で語らないと、なんだか分からなくなるのではないでしょうか。

言葉は、単に意味が同じであればいいということでなく、使われ方も問題になるはずなんですが…。

・「本を読んだ感想」「映画を見た感想」…作品
・「○○に参加しての感想」…イベント
・「○○を体験しての感想」…特別な体験・イベント

これら「作品・特別な体験」については、「感想」という言葉を使いますが、

・「今日の天気についての感想」
・「あなたのどこが好きかという感想」

だとちょっとヘンです。
冗談としてならともかく、一般的にはこういう使い方をしません。

すでに「感想」という言葉から離れ、何かについて「思う・感じることを表現する」こと全般の話になってしまっている気が…。(それはそれで有意義なのですが)

私は、グループワークで、数人の人が「感想」という言葉で困ってしまっているという事実が、
とても気になるし、どうしてなのか知りたいなと思っています。
ヒゲ達磨さん、
ありがとうございます。

>Yさん、のらさん 私には到底書けない、行間に情趣のある文章ですね。うらやましい。

>一生懸命語りかけている女性(違っていたらごめんなさい)の顔が浮かんできます。

このようにいっていただいて、鳥肌が立つほどうれしかったです。
ほんとです。
照れました。
実は、すごい勇気を出して、こわごわ書いていたので・・・。

・・そして・・、「うれしいです」、と書いた上の文のように、何かにすごく大きく感じて、いえるのが、私の、特徴なんでしょう。
(ASの方の中には、こういう感情表現をきくのが苦痛になるタイプの方のいるかもしれないとおもうと、ここにあまり感情表現を書くのは申し訳ないと思うのですが・・・)

おっしゃるように、お会いする方には、表情や非言語的なもので語りかけている気がします。なので、こういうところでの文章よりも、会って話すほうが、まだ得意です。言語は少なくてすむので。


そして・・・・ぜんぜん失礼ではないです。
何が悩みかというご質問に、お答えしてみます。
これまた理論的にはいえなくて申し訳ないですが。
私の困っているのは、・・・

たとえば上のように、うれしいときにうれしいといい、とても人に好感を持っていただけることが多いです。
悪いことはいわないようにするという配慮はできるので。

そして、そうするとむこうもコミュニケーションしてこようとしてくださいます。どんどん・・・
どんどん・・・です。
でも、私にとっては、それが苦痛になることが多く、結局閉じこもり、その人とはなれたりするパターンになり、結局は孤独になるのです。

たぶん相手の方は、好意を持つからこそ、そして私に興味を持つからこそいろいろいってくれたり、こちらのことをきいてくれたりしているのだろうとは、頭では思いますが、それがたとえば、けなされているように思えたりお説教しているように思えたり。
とにかく話をたくさん聴いていると私はもういっぱいいっぱいになりますし。
なのに、私はしゃべらないタイプで聞き役が多くなってしまうもので、相手のほうがしゃべる時間が長いのです、悪循環ですね。
適当に聞き流せず、一生懸命答えたり真剣に心からの相槌を打ったりしゃべってしまうせいもあると思います。
私は話を聞きながらも、もしくは話をしなくても、私はいつも相手を感じています。やな感じ、いい感じ、それ以上に、言葉では表現できないいろいろな個性を相手から感じています。人を感じること自体は好きなんです。
でも、感じすぎるせいなのかナンなのか、容量オーバーになってしまうのです。

共感できる部分に心からの相槌も打ててしまうので、話が続き、気づくと私が疲れてしまっているのです。
(愚痴になってますか?)
これは、「ASの話に定型の人が疲れる」という、ここでよく書かれているお話とは逆だなーとおもいましたが。
でも、相手の人も、しゃべりすぎて疲れているかもしれませんね。

でも私は、話の内容を理解する能力はたぶん低いのでしょう。
どうも相手が意図していることと微妙に違う受け取り方をして、私が誤解して一人で傷ついていたり、相手を嫌いになってしまいます。
誤解しているつもりは私にはないので、どの部分が誤解かはわかりません。ただ、「またゆがんで受け取っている」、といわれたことがあるので、そうなんだろうなと。

ここでの討論も、実は全部ちゃんと読むのはとても難しいので、読めません。
疲れてしまうのです。

見た目が、ほんとに普通に見えるらしく、自分で言うのも恐縮ですが、どうも雰囲気とか行間からとか、どういうわけか、同じように感性の鋭い定型の、特に男性から好意を持っていただけることも多く、相手は、もちろん私をASとも想像がつかないし、まったく普通のつもりで接してくださっています。
普通に話す分にはいいのですが、だんだん親しくなるとちぐはぐとしてトラブル的になります。
主に私が傷ついて怒ります。そんなときの、トラブル解決の方法もまたASっぽく、そういうときだけは急に理屈人間になり、理屈で攻めてしまうのです。
相手はびっくりです。ずっとおとなしかった私が、急に理論で攻撃してくるので。
めったにありませんけど。
たいていは、だまって私が閉じこもって、離れる口実を作って我慢してさよならです。
いやなことがあったときにうまく相手に伝えてやめてもらったり、断ることをうまくできたり、うまくけんかして又関係を続けていけるようになるのが課題です。
会話からするっと逃げる技術も身につけたいとおもっています。
(機会があったらそれ、定型の人に教えていただきたいですよ)

男女問わず、好いてくださる方は多いのに結局一人ぼっちです。
さみしいです。

私はジャイアンのようなタイプなんですねえ。。(笑)
私から見ると、ジャイアンはあまり敏感なタイプには見えなくて、あまり同じ仲間っていう気はしないですけど・・・あ、それは論点からずれていることですか?ゆがんだこといってたらごめんなさい。

どうしたら言語性優位タイプと動作性優位タイプとがコミュニケーションがうまくいくのでしょうねえ・・・
難しいですね。
私のようなタイプは、あまりたくさん言葉を並べられるととにかく「もういやだ!!」となるとは思います。
私なら、ただ、黙ってみていていただいたほうがとても休まります。のんびりマイペースな私の気持ちの動きをのんびり、あまり私のことばかりに集中せずに待っててくれる人が好きです。
沈黙になってもぜんぜん苦ではないです。
言葉の機関銃になって、理屈で責められている、もしくは攻められている感じになるとつらいです。
私の世界を壊されるのが嫌いなのかもしれません。

それと、マルマルさんの言葉

「思っても無いけど、感想として言う、感想文のように求められたら、その場の思いつきををひねり出す」
感想の真実をつきつめたら、定型者の感想は、自然に湧き出る感想もあるが、社交辞令的に聞く場合もあるし、取りあえず言っとく、という場面も、求める相手の心情に合わせて言う場面もあるし・・・ 」

これを読んで、びっくりしました。
感想とは、心に正直なのが当たり前と思って、疑いもしませんでした。
ちょっとショックですらあります。
考えてみれば知識としては、定型の人はその場限りのことを言う、それは知っていたはずなのに、こんなところにも出るとは・・・
ASの人たちは、共通して言えるのは、自分に正直ということなのですかねえ・・
私は、自分の心には、できる限り正直でありたいです。・・・
自分に、できるだけうそはつきたくはないです・・
「人を傷つけないための配慮」でとしてのやむを得ないうそ以外では。。。。。


忌避感?
狸穴猫さんが、意見・見解とは別に「感想」を想定する意味が、
いま一つ分かりません。

私なりに、背景を推測したいと思ったのですが、

  「ポニョ」の後の会話を感想と見做さない

   家族間の会話は、意見・見解の言い合い

   読書感想文が苦手だったのは小学校

   グループワークでの「意見ならわかるけど」

この言い回しに共通しているのは、
肯定的感情の叙述を強要してくる雰囲気への
忌避感ではないでしょうか。

「何かご意見は?」と「どんな感想?」では
期待されているものが違いますよね。

「感想」という言葉は曖昧ですけれど、
多義性のなかから「意見」を選択させないルールが、
問い掛けの内にあるのではないでしょうか。



私自身の場合は、本音を言っていいかどうか、
一応、気にします。
暗黙の強要がありそうな気がする時は、
なるべく在り来たりパターンを、でっち上げます。
本音が許されると思ってしまった場合は、
意見・批評、思いつくままに口にしてしまい、
相手に、どう聞こえているのか無自覚になりがちです。
Re: 余計???になっちゃった
全く仰る通りだと思います。

言葉だけを見れば全て感想として通用
するものです。

実際、文章で言葉を読んだだけでは区別の
つけ様がありません。

つまり「私は感想が分からない」と告白さえ
しなければみんな「この人は感想を言って
いると受け取ってもらえる」という事です。

だから「私は感想が分からない」と告白せず
黙っていれば完全に見逃されます。

ですから言動の起こりがどこから来ているか
最終的に分かっているのは本人のみという
事になります。

もし周囲が「今言ってるそれが感想だよ」と
言っているのであれば別にそういう事にして
話を終わらせても別に構わないとも言える
かもしれません。

しかし、言わなければ誰にも分からない事を
あえて告白するのには重要な意味があると
私は考えます。

何故かというと、広汎性発達障害の人間が
発している言葉の出所の区別がそれを聞く
健常者につけられないという事は、本人が
単なる事実の指摘をしただけにも関わらず、
相手を馬鹿にしたとか誹謗中傷したである
とか全く別の捉えられ方をしてしまうという
事も起こりうるからです。

簡単に言うと、

「宮崎駿だからね」
「絵は綺麗だった」

という言動をちゃんと自分の感想を言ってい
ると健常者に受け取ってもらえるというとい
う事は

「あの人くさいね」
「あの人汚いね」

という単なる事実の指摘を「その人の本心」と
して受け取られるという事でもあるのです。

Rさんのお言葉をお借りすると

>頭から出たとしても「汚いよね」ではなく
>「綺麗だった」発言した それが感想なん
>だと思います。

は同時に

>頭から出たとしても「あの人くさいね、汚いね」と
>発言した、それがあの人の本心なんだと
>思います。

になるのだという事です。

感想ではない言動でも黙っていれば感想と
受け取ってもらえるという事は、単なる事実の
指摘を「その人の本心の表れ」と受け取られ
てしまう事とワンセットなのです。

こう考えると健常者が広汎性発達障害の
人間の言動に対してさまざまな誤解を抱
く事になるその構造がよく分かります。

だからこそ、黙っていれば健常者が勝手に
良い方に解釈してくれる事柄に対しても、
「分かっていないものわ分かっていない」と
ちゃんと告白しなければ、結局最終的に誤解
とトラブルの元になるのだと私は考えるのです。

そして私が今回コメントに記した内容は
完全に狸穴猫さんの「感想が分からない」
という告白に基づいています。

狸穴猫さんの言動が感想ではなく、意見、分析、
事実の指摘になってしまうという前提に立っての
コメントです。

ですから狸穴猫さんから「私はちゃんと感想を
言っていた事が分かりました。あれは全部私
の感想ですね」とコメントがあれば、「宮崎駿だ
からね」「絵は綺麗だった」も全て感想という事
になるのです。

しかし、健常者の方であればもっと別のところ
で広汎性発達障害の人間の「感想が分から
ない」という事の本質に気が付くかもしれま
せん。

文章で感想文を読むのではなく、本人に
感想を直接聞いてみればいいのです。

そしてその感想を聞いていて自分の中に何
か響くものがあるのかその体で直接受け取
ってみるのです。

その時広汎性発達障害の人間が感想を
どれだけ言葉巧みに述べても全く心に響
いて来ない事に気が付くかもしれません。

「楽しかった!」という感想一つでもそれが
「思い」の篭ったものであれば体に、心に
こだまのように響いてくるものです。

しかし、いくら感想を聞いても心に何も響い
てこない、まるでNHKの教養番組を聞いて
いるように頭で言ってる事は分かっても体や
心には何も伝わってこないし、何の反応も
起こらない。

聞いているうちに次第に退屈になってきて
あくびが出そうになる。

しかし、何故退屈になってくるのか、何故
何も響いてこないのか分からない。

こういう問題を考える時「感想が分からない」
という告白を健常者の方が聞けば、なぜ何も
響いてこないのか思い至る部分があるかもし
れません。

ついでにannoさんのコメントにも答えてみたい
と思います。

私は「心がない」などとは決して言っていま
せん。

「心の起こりがない」という事なのです。

起こりがないとはどういう事かと言うと、

「本来この場面で体からポン!っと飛び出し
てきてくれるはずのものが飛び出してきてく
れない」

という事です。

だから一々頭で自分の中にあるもの解説
を行わなければならなくなってしまう。

「あるほどの 菊投げ入れよ 棺の中・・・・
という夏目漱石の、秘かに想っていた親友
の奥さんが亡くなったときに詠んだ 句が 
あります。じんわりと哀しみが込み上げてく
る良い詩だ と思いますが、まさにその境地
です」

といった具合にです。

本来(汚い例えですが)うんこが飛び出すように
「悲しいですよ!」とポン!っと一言口から飛び
出してきてくれないばかりに、頭が出張ってき
て自分の中のものに対してこんな長ったらしい
解説を延々と述べる事となってしまうのです。

このように、自分の中のものを相手に直接伝えら
れず、頭で橋渡しして間接的に解説する事が普通
になっている人間に感想を求めると、「え?・・・感想??」
と戸惑う事になってしまうのかも知れません。
Yさん、御返事ありがとうございます。
Yさん、御返事ありがとうございます。

桃里さんには、話題を限定するように注意されているのですが、訊かれたら答えなくては気がすまないASの特性だと御勘弁ください。この特性がトラブルを招くのは重々承知しているのですが・・

>どうしたら言語性優位タイプと動作性優位タイプとがコミュニケーションがうまくいくのでしょうねえ

同感です。定型の多数派の方を見ていると、男性が言語性優位、女性が動作性優位と感じます。ですからこの課題は「♪男と女の間には、深くて暗い河がある。誰も渡れぬ河なれど、エンヤコラ今夜も船を出す」by野坂昭如ですけど

>私から見ると、ジャイアンはあまり敏感なタイプには見えなくて、あまり同じ仲間っていう気はしないですけど・・・あ、それは論点からずれていることですか?ゆがんだこといってたらごめんなさい。

ジャイアンの特性は、人間関係の上下を鋭く察知・感受するところ。私が話題にしたジャイアンはジャイアンの中でも少数派、動作性優位のタイプですので多分Yさん周辺にはいないと思いますので、>同じ仲間っていう気はしない<といのは歪んだ感じ方ではないと思います。

>とにかく話をたくさん聴いていると私はもういっぱいいっぱいになりますし。・・感じすぎるせいなのかナンなのか、容量オーバーになってしまうのです。

ということなので、短めに、数回に分かれるかもしれませんが、「今夜も船を」出してみましょう。

① Yさんの文章には、歌が感じられる。

詩・ポエムのほうの歌ではありません。息遣い、リズムというものが感じられます。黙読の際にも、多くの場合、声帯などは微弱に動いている、声は出さないが音読していますから、読み手の私の呼吸が書き手のYさんに同調します。このような身体的な同調は、情緒的共感性に関連し「相手の内的状態の理解 」を助けるそうです。つまり、息遣い、リズムというものが感じられるYさんの文章は、読み手にYさんの内面的状態を感じさせるわけです。

これは、文章の論理的整合性などを重んじてしまう私の文章には無いもので、Yさんのコミニューケションの大きな武器ではないでしょうか。

つづく
annoです。私は「心がない」とは言っていませんよ。「心の起こり」を全く持たないと言われていたので、それはきっと、「感情がない」という意味なのだろうと思ったわけです。心の中に、何も沸き上がってくるものや、込み上げてくるものがない。そういうの、「感情がない」といいませんかね?
横レス・議論などはご自由にどうぞ。
一応ですが…

横レスのやりとり・議論などはご自由に!但しケンカはなしよ、です。

で、仕事のほうのケツに火がついた状態は脱したのですが、狸穴猫、別件で時間がとれず、コメントのお返事ができなくなっています。
すごい数のコメントなので今回はマトコメあるいはマトコメがわりのつづき記事になってしまうかもしれません。
どうかご了承下さい。

また、これ以降もご意見ご感想などありましたらどうぞご遠慮なく!
対象の差異と根拠
感想についてぼんやり考えている時、ふと思いついた事があります。
それは、『発言者の「意識の対象の差異」が感想と意見・要望などを分けるのではないか?』と言う事です。

この「意識の対象の差異」とは、『意識の対象が「自分自身」であるか否か』の違いであり、自分に意識が向いた言葉が「意見・見解など」で、人・モノ・出来事などのありとあらゆる「自分自身でない何か」に意識が向いた言葉が「感想」なのだと思います。
とは言え、意識の全てがどちらかに向くと言う事はないでしょうから、分類法としては『どちらの比重がより高いか?』と言う相対的なものになるのでしょう。

また、受け手側からこの分類法を考えてみると、受け手側からは発言者の言葉がどちらであるかを(明確に)判断する事はできないと言う事になります。
そこで、受け手側からの分類法を考えてみると、『根拠が明確でない(にされていない)、あっても感覚的な言葉』が「感想」で、『根拠が明確である(にされている)言葉』が「意見・見解」と言う感じになると思います。

あと、話題に上っている質問としての「感想」と言う言葉ですが、それが意図するものは、「明確な根拠は必要ありません(求めません)、思った事、感じた事を気楽に言葉にして下さい。」なのだと思います。
一言で言えば、「相手をリラックスさせる為の(「意見・見解」の)言い換え」ですね。
マルマルです。  感じ+見解=感想
昨日、アス君とお茶しながら
「アス君のエピソードで感想という言葉を書いたら、それが発端で、皆さんから意見や見解がたくさん寄せられてるから、アス君も見なさいよ。小難しい心理学や脳医学の本より、ずっとリアルで、身近で、多角的で、的確で、本当にためになるよ」
と言いました。

言うなり、アス君はかすかに笑ったので「えっ?」と思ったら
「アス君で、アスクル(明日来る)という文房具の宅配便を思い出して、アスクン→アスクル・・で可笑しくなっちゃったんですよ」

少し以前の私なら怒り出していたでしょう。
でも、このブログでいろいろ学んだ私は、もう怒りません。
落ち着くのを待って、アス君に聞きました。

「俳句の行間から、喜怒哀楽の感情がくみとれるアス君には、俳句で例えた方が解りやすいの?」

アス君は告白しました。
「僕は、あの句を読んだ時、実は何も感じなかったのですよ。
でも、大好きな夏目漱石の句だったことと、その句についての
解説があったので、その句の背景を知ったことで、記憶しました。
じんわりした哀しみ・・・この表現も、僕が感じたのではなく
評論に書かれてあった言葉なのかも知れません。」

私は、あきれて
「あんたの意見は、いつも後になって実は、実は、とその根拠が出て来る。なら、初めからそう言えば良いじゃないの!」
と(やっぱり)怒ってしまいました。

アス君は
「結局、僕の言ってる映画や本の感想も、実はどこか借り物なのかも知れません。パンフレットや評論欄に書かれていた内容が、いつの間にか自分の感想として定着しているようです。僕の中には、感じというものはありますが、それが感想まで熟さないようです」

「感じ」+「見解」が「感想」なのかな、と感じました。
感じる感覚機能と、それを言語化する機能が、うまくかみ合ってこそ、感想というものになるのではないでしょうか?

こんなアス君は、20歳の時、ある出版会社が主催した読書感想文コンクールに、夏目漱石の「山椒魚」という作品の感想文を書いて応募したら入賞し、著名な作家や文芸評論家が列席する授賞パーティーに招かれたことがあります。

そこで、憧れの文芸評論家に、声をかけられたそうです。
「かなかな良い作文だったね」

「作文?  感想文コンクールに入賞したのに?」

後で、主催関係者に
「ほとんどの審査員が君の文章を却下したんだけど、小説・山椒魚の大好きな審査員が1人居てね、その人がとにかく君を押したんだよ」

アス君は「その夏目漱石フェチの審査員のおかげで、作文にもかかわらず入選したんですよ」と喜び一転、つならなさそうでした。

コンクールですから、審査員は、本の内容についての、視点の鋭さや洞察力の深さやなどが、どんな感受表現で書かれているか、厳しく見極めたでしょう。

作家志望だったアス君の書き物を読むと、確かに「感受表現」に乏しい・・というか、見当たらないのです。

洞察力や分析力は・・・能力
感受表現は・・・・センス

と、とらえると、力づくではなんともしがたい、その人の持ち味が必要になります。

感想には「その人特有の、その人らしさ」が伝わって来なければ、感想とは受け取られないのでしょうね。

ですから、どんなに言葉足らずでも
その人らしさが出ていれば、それはその人の感想です。

ほら、ヒゲ達磨さんがYさんに書いているコメント。
ヒゲ達磨さんの、自分の欠落感も、Yさんへのうらやましさも、ちゃんと感じられて、これも立派な「感想」として受け取れますよ。



つづき
危ない、危ない、
>私のようなタイプは、あまりたくさん言葉を並べられるととにかく「もういやだ!!」となるとは思います。
というYさんに、言語性優位ですから言葉をたくさん並べて、>けなされているように思えたりお説教しているように思えたり<されるところでした。

私が話題にしたジャイアンは、私の子供の母なので彼女には
>いやなことがあったときにうまく相手(私)に伝えてやめてもらったり、断ることをうまくできたり、うまくけんかして又関係を続けていけるように
なって欲しいのです。娘もこの点が上手くなく、将来、上手に夫婦喧嘩できるのか?不安なのです。(まだ小学生なのに、なんという親ばかでしょうかネ。)このままでは、悪いお手本ですから、私のとっている方法は、アサーティブ(攻撃的でもなく、受動的・非主張的でもない「適切な自己主張」・アサーション)というものです。

積極特異型ASの私は自尊他尊がナチュラルなスタイルなのですが、これでは彼女を押さえつける非言語的メッセージになります。この圧迫は私が望んむ物ではありませんので出来るだけ意識して他尊自尊でやっている、私が自分で変えられるのは自分の態度だけですからまず自分の方を変えてやっていると、彼女は少しは攻撃性を出してくる、以前のように突然キレルことが少なくなりました。ただ、これ、相手もアサーティブに理解がないとなかなか効果が無いんです。

彼女は依存型ジャイアンですから、ナチュラルには依存性による他尊自尊で心の中に不満、私に圧迫され「けなされ否定され、半人前のように説教される」という感じ、ジャイアンが最も嫌う心理的な劣位に置かれるという不満が鬱積して、あるとき突然爆発するのがナチュラルな経過です。それがすくなくなった。本人が自尊他尊を意識的にとるようになると、本来の他尊自尊とバランスして結果的に自他共に尊重でよくなるのではと、上手に喧嘩をできるのでは期待しているのですが、甘いですかね。
今回も、とても興味深い内容なのでコメントさせていただきます。
私自身も、感想はとてつもなく苦手です。
小学校のころも本を読んで感想文を書くという時間があったのですが、タイトルのみを書いて内容は全く書けませんでした。
 さすがに夏休みの宿題とかの関係上どうしても書かないといけないのですが、その時に書いたのが文に対しての部分部分を抜粋しての感じた1行のコメントみたいなものでした。
 ですので、狸穴猫さんの意図とは違いかもしれませんが、なんとなく状況に共感を覚えます。
 
 おそらく、狸穴猫さんは映画の作りについての感想は出てきてもシナリオについての感想がとても薄かったのではないかと思います。
 私自身も、映画や演奏会に行っても構成についての感想・評価は言えますが、そこで表現されるシナリオ・意図についての感想はとても薄く、よかった・よくなかったといった感想が大半です。

「宮崎駿だから・・・」というのも、おそらくシナリオが見る側の心情・認識に重きを置いている映画が多いため、意図の理解の困難さゆえにわけわからないという状況になりやすいのではないかと思います。
ヒゲ達磨さん、「たくさん言葉を私に言ってはいけない」、と、私に対してご配慮、ありがとうございます。さすがですね。
私のよいところを分析してそれを利用する方法を教えてくださるようでしたので、けなされている感じはしなくて楽しみにはしていましたが。
でもどうでしょう、いざいわれてしまったらやはり、威圧感を感じてしまったかもしれないし・・・わかりませんが。
でも、それとはまったく別の次元で、文字を読むことに今少々疲れもありますので、ご配慮がありがたいところもあるかも。

でもですね、「私の文は、言葉が歌になっている。読み手であるヒゲ達磨さんが同調している」という分析をいただいて、すっきりとしてうれしかったですよ。
自信もつきました。ほんとにありがとうございます。
今まで、なぜかほめていただくことは多かったのですが、お世辞だろう、とも思いましたし、『華がある』というようなあいまいな表現がおおくて、理論的にそうやって分析していただいたことはないので、何が良いのかよくわかっていなかったのです。分析していただくというのは、すっきりするものですね。
私が、動作性IQ優位型というものだとわかったのもすっきりしました。ここにでてくる方は、言語性IO優位型、のかたが多いのでしょうね。
私だけではなく、すべてのAS、又、定型の方にも言えることだと思いますが、自分の持ち味、得意なものを生かしていけると良いですよね。もちろん、できないことを少しできるようになる努力もしつつですが。

ヒゲ達磨さんが、私に同調している、と書いてくださったあの文章で、私は確かにヒゲ達磨さんが私に同調してくださっているのを、行間から感じました。
あのとき文章の雰囲気が、ほんの少しですが、いつもと違ったように感じました。
これはまさに、同調しているからなのかな、と思いました。つながっている感じを持ちました。まさにそれはもう、非言語的なコミュニケーションができている感じがしてうれしく思えていました。
ヒゲ達磨さんは、非言語的なコミュニケーションが苦手と書かれていたのに、私の非言語的なものを感じ取ってくださるんだなと思いました。

ヒゲ達磨さんの文章は、私にとっては攻撃的には思えないですよ。
ただ・・・すみません。私の知らない難しい単語(自尊他損とか、その他もろもろ)もありますし、左脳のあまり動かない(?)私は一生懸命読まないとわかりません。いやな感じ、とかはなくて、一生懸命かいてくださっているのがつたわってくるので、読みたい・・・、と一生懸命読みました。
奥様のこと、けんかができるようになってほしいと思われる気持ちも、わかります。子供さんのこと心配される気持ちも。
じっとヒゲ達磨さんは、奥様のことを理解したうえで対応を考えてやっておられるんだな、とも思いました。

この文章は、もしかして私への助言を暗に書いてくださったのかも知れず、答えは求められていないのかわかりませんが、
一応私のおもったことも書いてみます。
奥様とうまくいく方法として、書かれているのは、「自尊他尊」と、「他尊自尊」に気をつけることがキーワードとして書かれていました。
そのキーワード自体がよくわからないのと、私が苦手な議論の仕方なので、同じ土俵でうまく答えられるかわからないのですが、・・・
お互い自分の意識の持ち方に気をつけて、相手への言動の際にちょっと配慮するのは、効果があるのかもしれないとはおもいます。(現に奥様は、変わられたんですものね)
奥様も楽になったのではないかと想像します。
ただ、私のように感じやすい人間としては、表面の言葉の奥の、本心というか、本来のものを敏感に、ちょっとした言葉とかで察知してしまいます。
本来のものは変わらないと思うので、いやな感じを持つことがゼロになることはないとは思いますが。
でも、そういうふうにお互いに努力をしていくということそのものが、愛情があるからだと思うんです。私なら、相手が努力してくれていることに気がつけば、その部分に愛情を感じて、たとえなにかでカチンとくることがもしあっても、スーッと一瞬で消えるかも・・
私は、身近にいる、ある方を思いだしていってるのですが。
その人は、本来の奥底にあるものは一生懸命抑えて、私にあわせてくださっているのがわかります。とてもありがたいです。
自分をちょっと抑えてまであわせてくれる、このことのありがたさ。それに気がつくことができるようになる前と、できるようになった後では、私はまったくいろんなものの見え方が変わりました。
それは私の成長だと思います。
相手のしてくださっている私への努力とか私への愛情を察することができると、いろんなことをもっと大きな目で見ることができるようになったのです。
だって、こちらにあわせるのって、相当のエネルギーがいると思いますから。(マルマルさんの、アス君への努力もそうだと思いますが)
ありがたいことです。

奥様も、ヒゲ達磨さんの努力に気づいていらっしゃるとよいなとおもいました。

ちなみに、私は、上に書いた以外でも、察してくださるおかげでいい関係でやっていけてる方がいます。
敏感なかたっていますね。
心理学の知識も、ASの知識もなくても、こちらの様子から、私がどんな人か、何がいやかを徐々に察知してくれるひとがいて、そういう人とだけ、今、関係が続いていて、ほんとにありがたいことです。

うまくけんかするために、今私が思っているのは、難しい理論でもなんでもなくて・・、

定型の人の中で、けんかとまでは行かなくても、早い段階で明るく「ちょっと~、○○じゃないの~」とか、すごく軽く冗談みたいに文句をつける人とか、いますよね。
そうやって、深刻ぶらずに早い段階で言えるようになってみようとおもっています。そういう台詞を盗んでみようとおもっています。

私は、どうしていやといえなかったりけんかできないんだろうと考えてみました。
いろいろほかにも理由はあるかもしれませんが、
人としゃべっていると、ついつい人の気持ちのほうがわかってしまって(伝わってくるので)自分の心のほうが押しつぶされていることが多いのですよね。
人がどうしたいと思っているかの気持ちを察知すると、どうしても私は相手の気持ちになり、それを優先してやってあげてしまいたくなる。それは瞬間的、反射的なものです。
反射的なので、心の奥底の自分の気持ちに反していってしまうこともあり、あとから、『何であんなこといってしまったんだろう・・今思えばぜんぜんやりたくないのに、相手がやってほしそうだから、やってあげたくなってしまった』ということがよくあります。
誤解のないようにいいますが、決していい顔をしたいからから、とかではないです。
感じ取ってしまうから、という反射的なものです。
自分が無理していることに自分で気がついていなくて、だいぶたってから、たまってしまって本当の自分が悲鳴を上げて爆発すると思うんです。
だから、気をつけているのは、何かを了承するときも、なるべく一呼吸置いて、できれば考える時間をもらって一人になって考えて自分の気持ちを確かめて、自分はそれをしたらつらいのか、つらくないのか、いやなのか、いやじゃないのか、いやだけど我慢してやっても大丈夫な程度か、を自問自答する癖をつけるようにはしています。
自分の気持ちを大切にすることを意識するようにはしています。
そして、「いやだ、これをしてしまったらあとから爆発してしまうだろう。それほどに、いやだ」、と思ったら、爆発するよりは断ったほうが良いですから、うまく、相手を傷つけずに断るうまい台詞とかを人から盗みたい、とおもっているのです。
もしかしたら健常者同士のやりとりでも、誤解が絶えないのでは?
ここにコメントされた内容はある意味、
健常者と広汎性発達障害の関係
の縮図のようで興味深いですね。

コメント内容は3パターンに分かれている事
が分かります。

①当事者の「感想が分からない」という告白
に基づいてコメントしたり(私の事ですね)、
「感想が分からない」という事に同意している


②十分感想になっていると思いつつも当事者
が「感想が分からない」と言っている事に重点
を置き、「言ってる事が分からない」とコメント
を保留されている方

③自分の中の判断基準に照らし合わせて
言動が感想になっているか判断してコメント
されている方

これは

①の場合は当事者の中の動きに留意
したコメント

②の場合は自分の判断基準で当ては
めつつも、当事者の中の動きというもの
に重点を置いたコメント

③それを聞いた自分の判断基準に当ては
めて、それが感想になっているかを判断し
「今あなたが言っているそれが感想ですよ」
としているコメント

となるのでしょうか。

これは同時に①→②→③となるにつれ
当事者の中ではなく外でどう映っている
かを重点にしてコメントされているという
事が分かります。

そして一番多いのは③のコメントです。

だから「感想が分からない」という事がどう
いう事か、というやりとりではなく「狸穴猫さん
の言動が感想になっているかどうか」という
議論に話がすり替わってしまっているのでは
ないでしょうか。

その言動が感想になっているかという議論
など、どなたかが言っていたように結局は
「主観が混じっていれば感想」という事に
なるのでこういう判断基準に照らせばほぼ
全てが感想ですから、実は全く不毛な議論
なのです。

焦点は狸穴猫さんの言動が自分の判断
基準で感想に合致しているかではなく当
事者の「感想が分からない」という実像で
あり、その時の中の動きがどうであるのか
という事であるはずです。

しかし、その実像が置いてきぼりにされて、
「その言動が基準に当てはめて辻褄が合っ
ているか?」という事が実像と=にされてし
まっているのが問題だと私は思います。

最近精神科医の誤診断が問題になっている
という事が新聞の記事になっていました。

そこには精神科医が患者の実像ではなく
DSM-4の診断基準に当てはめて診断
するようになった事が原因としてあると
記事に書かれていました。

またそれが原因でアスペルガー症候群の
人間がうつ病と誤診断されてしまう事が多
いとも書かれていました。

ここで「それが感想じゃないですか。あなた
は感想を言っていますよ」という③のコメント
を見かける度、「あなたはうつ病ですよ」と
アスペルガー症候群の人間をうつ病と誤診
断している精神科医のコメントとダブって
見えてきてしまいます。

そして今回③のコメントが多く寄せられてい
る事に広汎性発達障害の人間が社会の中
で健常者と共に生きていく事で起こる困難
や障害の大きさを再確認させられました。

健常者同士でやりとりする場合でも、基準に
当てはめて相手を判断すれば誤解が生じや
すいのではないでしょうか?

「あの人は私を馬鹿にしてる」
「あの人に誹謗中傷された」
「あの人は私を傷つけた」

なども、実は相手は何とも思っていないの
に自分で当てはめた基準で勝手に判断して
いるだけの場合もあるのではないでしょうか。

その場合その人そのものに傷つけられた
のではなく自分の判断基準で自分を傷つ
けてるだけという事になります。

もしこのような事を健常者の方の多くが
行っているのならば、例え同じ健常者同士
であっても毎日誤解とトラブルが絶えない
ように思えます。

健常者の中でうつ病が増加し、精神科医が
繁盛しているのもそういった背景が大きいの
ではと何となく思いました。

そして同じ健常者とのやりとりでも相手を基
準に当てはめて判断して、相手の実像を見ず
に誤解してしまう事が多いのであれば、広汎
性発達障害の人間と関わった場合、どれだけ
大きな誤解を抱く事になるか?

それを考えた時、非常に危険なものを私は
感じました。

広汎性発達障害の人間の場合は非常に
シンプルな世界の中で生きています。

「綺麗も汚いも自分が捉えた事実であり事実
以上の意味などない」

こういう世界です。

そしてその自分の捉えた事実を正確に解説
する事が最も重要なことです。

(ここでいう事実とは「信号は青色」という
ような万人にとっての絶対的事実を指す
訳ではありません。「自分はそれを綺麗
だと捉えた」という事実を指しているのです。)

しかし健常者は「綺麗」という広汎性発達
障害の人間の捉えた事実の指摘に対して
自動的に色々な肉付けを行い色を添えて
くれて、

「それがあなたの感想ですよ」

と誤解してくれます。

そして「汚い、くさい」という自分の
捉えた事実の指摘に対して自動的
に色々な肉付けを行い色を添られて
しまって、

「あなたの誹謗中傷で私は深く傷つきました」

と誹謗中傷だと誤解されてしまう事も起
こります。

これが職場ならこういった事が元で最悪、
無視やイジメなどを健常者から受ける事
も起こりかねません。

当事者としてはそういう非難に対して
口を開けてポカーンとするしかありません

「なんでそうなるの??」

としか考えられません。

実は私は「健常者の前でうまく辻褄を合わせ
れるようになってうまくやり過ごそう」というこの
ブログのスタンスには少し反対でした。

それが両者の相互理解を妨げるように
思えたからです。

しかし、ここのコメント欄を眺めるうちに自分
の身を守る為にはある程度は辻褄合わせ
をするのも止むを得ないのかなと考えを改め
る事にしました。
マルマルです。 「感想VS感想」
takkantさんのコメントで、
定型者が、いかに感想を無防備に、
また作為的に述べているか、思い当たりました。

私は、ヒゲ達磨さんに「ほら、感想が言えてるじゃなすですか」と、(気づいて欲しい・励ました)、というメッセージを送ったつもりですが

なるほど・・・・

自分の判断基準が、ときに相手を混乱や間違いに導いてしまうことにもなり得るんですね。

アス君も「それは違う」とか「それで良いのよ」と言われながら会話していますが、これはもう、判断している側のすごく傲慢な行為だったんですね。

定型者は「自分の考えや、感覚を述べるのが感想」と、ものすごく大まかにとらえています。

ただ、その感想にも、さまざまな配慮や思惑が付くことも多いので「それ、本音の感想?」と疑わしい場面もあるのです。

テレビのコメンテーターなどがその筆頭です。

全ての事柄に、感心を持って感想を言えるはずもなく、
当然「わかんない」「何も感じません」という事も多々あるのです。
でも、コメントするのが仕事なので、感想を求められると「感想というスタイルの言葉」を並べます。

アス君も感想を求められると「そうですねぇ~」と、自分なりの言葉を並べるのですが、相手の勝手な判断基準でふるいにかけられ「それでは感想になってない」と言われてきたんですね。

実は、私の仕事はライターでして、
それも飲食店を取材することが多いのです。

店の店主は
「食べてみて、感想を書いて下さい」と料理を出します。

私は、客でも評論家でもなく
「その料理をいかにおいしそうに書くか」の立場ですので
ひとくちスープをすすって
「うわぁ~、コクが深いですねぇ。喉越しがすごくなめらかでうつとりしますよ」
と感想を述べ、そういうふうに書きます。

それほど感動してなくてもです。

それは、店主(クライアント)と、自分の良好な関係を持たすための感想。
読者に関心をもってもらい、来店してもらうための感想。

自分の、本当の感想ではないのです。

でも「う~ん、普通ですね。よくある味です。もっと言えばこの味はあまり好みではありません」
と、本音の感想を言えば、人間関係も立場も失ってしまうから。
takkantさんの、最後の行にある、保身のための感想です。
(やむなく、という意識もありません。完全麻痺ですね。)

それはもう、感想ではなく建て前という別のモノになっているのですが、
店主は「取材した人も、すごく良い感想を言ってくれた」
となるわけです。

アス君のストレートな感想も、批判だとか失言だとか、ベツのもの扱いされてきたんですね。

感想は、言う側と聞く側で、感想として伝わる場合と、伝わらない場合があるのですね。

このこと事態が「感想ってなあに?」

感想の定義を絞り込めない原因かもしれません。

これは、私の素直な感想ですが(自分ではそう思う)
takkantさんの視点は、定型者にとって、とても気づきの多いものだと思います。

コミュニケーションとは?
まず、『言葉の解釈と言うのは、受け手側に委ねられている。』と言う事を知って欲しいなと言うのが感想ですね。それがたとえ誤解であれ、「自らの言葉で相手を傷つけた(受け手がそう言っている)」と言う事は甘受した方がいいでしょう。
その上で、謝罪や真意の説明と言った対応を取る事になります。
これらは、言い換えれば、「相手に真意を伝える能力がなかった為、相手を傷つけてしまった。」とも言えます。そう考えると、「受け手側の問題」だけではなく、「発言者側の問題」でもある事が理解し易いかも知れません。

もちろん、言葉の解釈を受け手に委ねているとは言え、一般的な理解の枠を超えた「言い掛り」とも言える反応もあります。これについては非は受け手側にありますが、これは周囲の第三者の判断に委ねられていると思います。

非常に個人的な見解ですが、発言に対しては「資格と覚悟」が必要だと思っています。
何か(特にネガティブな)発言をする際には、「その発言を受け入れられる立場に自分がいるかどうか?」を考え、「その発言の結果を受け入れる覚悟があるかどうか?」を考える必要があると思います。
そういう意味では、自閉圏の人達がよく言われる「定型発達者の誤解の理論」には違和感と矛盾を感じますし、ズルイと思う事も多いですね。
RE:コミュニケーションとは?
自ら本論から外れてしまいますが、ちょっとだけ、

「誤解」じゃなくて「理解」であるところがコミュニケーション問題の根っこだと考えます。

ですから「定型者に誤解をされる」という主張は確かに私もずるいと思いますね。

(但し定型支援者の書いた本に「誤解される」という表現がよく出てくるという矛盾もあるので、そこのところはさっ引いて考える必要があると思います)


しかしながら、

発言の結果が、受け手側の判断に委ねられる条件というのは「相手もほぼ自分と同じように様々なものを感じるであろう」という大前提に立つものだと思います。

定型者にとって「ネガティブと理解されるもの」がPDD者にとって「ネガティブな意味合いを全く持たない」ということも多分にあり得るのです。

ですから、この問題の解決法はPDD者が定型者のありようを知ることだと考えます。そしてそれに関する資料は全くといっていいほどない!


だからこそ私は、

「定型者のコミュニケーションのありようや、理解の形態をPDD者に”わかるように”分析し、伝えたい」

そう強く思います。
Yさん、またまた駄文ですが・・
Yさん、
至らぬ駄文ですみません。「自尊他尊」、「他尊自尊」というのはアサーティブの方の用語です。

「他尊自尊」というのは
>人としゃべっていると、ついつい人の気持ちのほうがわかってしまって(伝わってくるので)自分の心のほうが押しつぶされていることが多いのですよね。
人がどうしたいと思っているかの気持ちを察知すると、どうしても私は相手の気持ちになり、それを優先してやってあげてしまいたくなる。それは瞬間的、反射的なものです。
反射的なので、心の奥底の自分の気持ちに反していってしまうこともあり、あとから、『何であんなこといってしまったんだろう・・今思えばぜんぜんやりたくないのに、相手がやってほしそうだから、やってあげたくなってしまった』ということがよくあります

この、まず相手の事を優先して、尊重して、自分のことが二の次になってしまっている。決して自分の事をないがしろにしているわけではないが、一日は24時間・身体は一つですから、結果的に自分を粗末にしてしまっている、>自分の心のほうが押しつぶされてしまっている<状態のことです。その結果、>本当の自分が悲鳴を上げて爆発する<

この逆の状態が「自尊他尊」。その結果は、相手が爆発する。

アサーティブという考えやコミニューケーション技法を生んだ背景の一つに、1980年代の英国のウーマンリブ(死語)、女性解放運動があります。様々な抗議行動、運動で法律や制度的な女性差別は撤廃されて、なくなりました。さて、それで英国女性が職場で家庭で自分の気持ちや意志を表に出して生き生きとなったかというと、そうはならなかった。何故か自分の気持ちを言えない、伝えられない。自分の感情や意志を上手に言葉などに出来ない。出来ないから伝えられない。何故なんだろう?どうしたら正せるだろう?ということが生まれた背景にあります。

何故?への答えの一つが女性の多くが「他尊自尊」。受動的・非主張的。

どうしたら正せるだろう?「自尊他尊」つまり女尊男卑の攻撃的な自己主張では、それまで男尊女卑で女性が受けてきた思い・苦痛を男性に与えるだけです。

自分も相手も傷つけないで(私はこれを自他共に尊重といっています)、自分の思いなどを表現、伝えて、(攻撃的でもなく、受動的・非主張的でもない「適切な自己主張」)自分も相手も100%満足は出来ないが納得できる状態を作るための思想や技法としてアサーティブ・アサーションが作られてきた。

これは、ASなど発達障害者の目指す状態だ、少なくとも私がめざす状態なので、学んで納得できる部分は受け入れて変えています。色々、気付かされました。その一つが、自分の気持ちを感情をきちんと把握する必要性やそれを出し入れしなければならないことです。(この部分は長くなるので、今回は、はしょります。)

既に貴女は、
>だから、気をつけているのは、何かを了承するときも、なるべく一呼吸置いて、できれば考える時間をもらって一人になって考えて自分の気持ちを確かめて、自分はそれをしたらつらいのか、つらくないのか、いやなのか、いやじゃないのか、いやだけど我慢してやっても大丈夫な程度か、を自問自答する癖をつけるようにはしています。
自分の気持ちを大切にすることを意識するようにはしています。
そして、「いやだ、これをしてしまったらあとから爆発してしまうだろう。それほどに、いやだ」、と思ったら、爆発するよりは断ったほうが良いですから、うまく、相手を傷つけずに断るうまい台詞とかを人から盗みたい、とおもっているのです。

と アサーティブ・アサーションの方向を向いていると私には感じられます。
>「相手もほぼ自分と同じように様々なものを感じるであろう」という大前提

これを成り立たせているのが、リズムや呼吸など、語調などの非言語系のメディアによる同調などのコミニューケションでは??。
感情に隠れているかもしれない論理
こんばんは。ASの大福と申します。私の場合について書きます(他の人はどうなのかわかりません)。

 私の場合、「相手に沸いた(と思われる)感情そのもの」よりも、「相手に沸いた(と思われる)感情そのものの、背景にある(と思われる)論理」に関心が向いてしまいます。
 私が論理の構造を知りたいという思いにとらわれている一方で、相手は「感動や感想そのものを、分かち合いたい」という思いを持っているのだと思います。
 私のこういう態度が、相手には「無視された」とか「突き放された」というふうにうつっているのだと思います。
 
 おそらく、私の中に次のような思い込みがあるのでしょう。

・人間の感情には、たいていの場合それなりの論理が含まれている(「これこれだから」好き・嫌、というふうに)。

・人が映画や音楽などに気持ちが動かされるという場合には、それまでの人生経験の中で、「好き・嫌などの感情や似たような思いを」をもったことが契機となって反応している。

・「おもしろかった」という感想を相手も自分も持ったという場合でも、相手の感じた「おもしろさ」と自分のそれとは違う。
 「どこが、どのようにおもしろいのか」を説明するとなれば、強く惹かれた部分や説明する際の論理展開や表現方法などが、おそらくは違ってくる。
 これらの背景について、話をするのも聞くのもおもしろい。同じ感想をもたなかった場合でも、背景について話をするのも聞くのもおもしろい。
教えて下さい
唐突ですが、次の質問の答え如何で次へ繋がる私の考えが違って来ると思うので、その前に理解しておきたいと思います。ですので質問させて下さい

感想ではなく頭で認識した事実を述べているタイプとご自分を理解されている方に伺います。尚、お互いが分かり易いように極論でお尋ねしますね


1) 初めてAさんと合いAさんのことを「汚い、くさい」と認識したら……言うべきでないと判断し、その事については何も言いませんか?事実なので言いますか?

2) 同じAさんから「私の印象を教えて欲しい」と頼まれたら……それでも言うべきでないと判断し別に受けた印象を教えますか?事実なので正直に、汚いくさいことを教えてあげますか?

3)逆に初めてあったAさんからご自分が「汚い、くさい」と言われた場合Aさんがアスペルガーだったら……事実を言ってるので不愉快にはなりませんか?それとも特に何の感情も持たず「そうなんだ」と受け入れますか?

全部でなくても結構ですが、私が一番知りたいのは3)番めです

以上宜しくお願い致します
ヒゲ達磨さん
ご説明ありがとうございます。
いま、ざっとさらっと読んだだけでっすが、自尊他尊の言葉、私がなんとなくイメージしていたこととあっていたようでした。

今実は、ひどい頭痛です。昨日パソコン画面の見すぎで、目の疲れからです。しばらくパソコン見ること、できません。
またそのうち、ゆっくり文章読ませていただきますね。

それから、この場を借りて、皆様に・・・・私と、ヒゲ達磨さんの個人的な、まったく外れた会話をここでさせていただいたこと、お許しくださいませ。
ASでも、相手との関係性に過敏すぎるほど過敏なタイプの例として、こんな人もいるということも表現できたらという思いもあり、書いていたところもありました。
他人の悪口を言うのは、成人ASの特徴ではありません。
定型発達者でも心が未熟な人達は「ブス!」とか「くっせー」とか言いますよね。

また、ASが悪口を言うときは、悪気がなくただの事実の指摘として言ってるので理解してあげましょうというのは、ASの甘えと、定型側の間違った理解です。

幼児の頃は私も太ってる人に悪気を全くなく「でぶちゃん」と言ったり、はげの人に「あの人はげてるー」などと言ってましたが、そういうことを言うと親に怒られて、なぜ悪いのかも教わって、絶対言わないようになりました。

社会に出て働いたり結婚しているASの人は、ASの弱点を必死で治してきているんです。

他人の悪口を言うのがASの特徴のように理解されて、それを悪気が無いので許しましょう、みたいなおかしな理解や配慮はやめてください。
マルマルです。「おかしな理解をしないように」
上記のnさんのコメントを読みました。

nさんのように、幼児期に、親に怒られてその理由も説明されて身に付いた人は、ASでも定型でも、問題ないと思います。

私は、アスペルガーの友人アス君が、
争いを好まず、ニコニコ友好的で、口調もソフトで、知的なものの言い方をして、気前が良くて、人を学歴や肩書きで判断しない性格で、良識的な家族に育てられて高学歴で成人しているにも関わらず


「あ、肩にゴミがついていますよ」という指摘と
「歯並びがガタガタです」という指摘の
質がわからない、という点が不可解でした。

「悪気が無い」ということは、アス君の表情や、言い方で伝わって来ます。
だからこそ、不可解でした。

友好的に微笑みながら、親切そうな声で
のっけから「歯がガタガタです」と言うアス君と、言われた相手。

まず、アス君の言動の背景や根拠を知らなければ、アス君にとっての理解しやすい注意や忠告ができません。

そして、言われた人には「悪意は無い」と「アス君の特性」を説明しなければ、アス君を理解してもらえません。

狸穴猫さんは、当事者の立場で、AS者の感覚と定型者の感覚を照らし合わせ、少しでもASの方に理解しやすい解説書のようなものを作成できたら、という気持ちで、具体的なテーマを投げかけ、沢山の意見から、導きになるような見解を探っていらっしゃると、私は思います。

私は、定型者の立場で、ASの人と定型の人の通訳としての関わりをしたいので、このブログで学んでいます。

ですから、失言や悪口を言うのがASの人の特徴で、仕方ないものだ、とは全くとらえていません。

他の方も、その時のテーマに沿って自分のコメントは投じるけれど、前後のコメントにも感じることや発見はあり、個人別に様々な解釈や納得が生まれていると思います。

要は、このブログで知った事、考えた事を、現実のコミュニケーションの場でどう生かせるか、ということなのではないでしょうか。

私が「あ~納得しました。こちらが傲慢でした」とコメントしても「アス君を全面的に受容し、許して甘やかす」ことにはなりません。

まずは、知ること。次に理解すること。その次に「どう伝えよう」と考えています。

ガガーン
「感想」と「意見」って、違うんですね。
意見=感想、だと思っていました。
目から鱗が落ちそうな記事です。
自分で気づいていないズレがあるのかも・・・
コメントも含めて、ちょっとずつ読んで理解したいと思います。
ガガーン・・・ ←これが、感想?
感想得意です
はじめまして、こちらのblogいつも拝見しております。小学3年生のアスペ男児の母親です。
少しびっくりしたので、コメント書かせていただきます。
我が家のアスペ君。感想が得意です。事実を書き連ねることは不得意でアドバイスがないと一行もかけませんが、ひとたび感想になると自由に文章を書くことができます。
たいがいは、形容詞と感嘆符しかない文章ですが、気持ちは伝わってきます。(ひどいときは擬音だけです・・・それこそ、ガガーンとかです)
いろいろなアスペのパターンがあるとは思っていましたが、感想というだけでこんなにもたくさんの意見があるとは、もっといろいろな目で発達障害を見ていかねばならないと感じました。
狸穴猫さんの記事も、皆さんのコメントもとても勉強になりました。
ありがとうございます。
はじめまして。
ASを疑っていた定型発達者です。
アス君って本当に存在するんですか?
マルマルさんの妄想のキャラクターではないんですか?
ライターですから妄想を信じ込ませるように書くのもお得意でしょうし。
社会の縮図
ASの方にもいろんな人がいるし

定型の人にもいろんな人がいる

まあ、社会ってこんなもんですよ
マルマルです。「アス君は実在しています」
バツバツさんへ。

アス君は実在しています。
本人にも了解を得て、このブログで彼の言動を引用させてもらってます。

妄想で、アス君のASの特性の疑問点や問題点を質問したら、
きっと「それはASではないよ」というお答えをもらうでしょう。

私は、自分の文章力で、定型向けに、自分なりにとらえたASの
方との触れ合いを綴りたいという夢を持っています。

でも・・・知れば知るほど、理解すればするほど、
書き物に対してはペンが止まっているというのが現状です。

もっと、もっと、ちゃんと繊細にとらえないといけないな、
と痛感します。

でも、アス君に対しては、とても寛容になれました。
前よりずっと落ち着いて対応できるようになったのは、
このブログのおかげです。

確かに、実際お会いしていないまま、コメントしているので、
そういう疑いも生じるかも知れませんね。

アス君も「答えるだけで100万円」という字面を本気にして
「ダメだよ、本気にしちゃ」と注意されてます。
ネットで、そういう不信や疑問を持つのは、当然、と思っていた私自身
が疑われると、なかなかビックリするのは自分勝手かも知れません。

前々からの、皆さんとのやりとりを見ていただけたら、私の姿勢が伝わってもらえるかも知れませんね。
ヒゲ達磨さん

頭痛より復活し、今読みました。
なるほどなるほど、よくわかりました。
わかりやすいです。
まさにほんとに、私が考えていたこととおなじだったのですね。理論的な説明と、感覚的な説明の違いというだけで。

>自分の気持ちを感情をきちんと把握する必要性やそれを出し入れしなければならないことです。

この必要性、私も同感です。
私の場合、「自分の感情」と、「他人の感情」の区別の必要性も感じています。共感しすぎてどちらの感情かがわからなくなりますから。

ヒゲ達磨さんとは、いろいろ興味深いお話ができそうではありますが、こういう場なので今回はこの辺で。
ありがとうございました!
私は日常生活で、今後もこのことを努力していくときに、ヒゲ達磨さんを思いだすことでしょう。
RE:RE:コミュニケーションとは?
ともすればただの言い掛りとも取れるコメントに対し丁寧なレスを頂きまして、ありがとうございます。

実感として理解できているかは怪しいですが、「PDD者が誤解を受ける(受け易い)」と言う事は理解できますし、事実だと思います。ただ、それらの事を「理解できる(している)」と言う事と、PDD者から「(勝手に)誤解(している)」と言われる(思われる)事が「不快ではない」と言う事は、(定型者としては)違うのだと思います。

まあ、この点に関しては、個人的な体験とそれに付随する感情を、「定型(や健常者)」と言う不特定多数が該当する言葉を使って普遍的なもののように語る行為の弊害でもあると思います。(これすらも誤解だと言われそうですが…。)
もう少し、「限定的な範囲での話にすれば、変に誤解されないのに…。」と思うこともしばしばですね。(誤解される方も、誤解して腹を立ててる方も、お互いに不幸ですから。)

あと、「発言の結果が受け手の判断に委ねられる」については、「自然災害」的な部分もあると思います。(誰にでも平等に降りかかるものの、その後の対処には個人差が出てしまう所など似ていますね。また、そういうものだと思うしかない所なども。)

相互理解の架け橋としての狸穴猫さんに期待していますので、今後ともよろしくお願いします。
RE:教えて下さい
基本的に初対面の人にそう言った事は言わないですよ。

言われて不愉快になる人が多いということを親の教育によって学んでいるからです。(幼少時にはだいぶ失敗しています、人の容貌・印象についての「いわゆる」ネガティブ発言について、親にさんざ「やってはいけないこと」と言われてますから)


印象を教えて欲しいと頼まれたら…

うーん、初対面ならやめておきますね。(何回か会っている人なら言っちゃうかもですが)



ただ、自分が言われた事を想定したら…

あら、どこか私、臭いかしらん、靴下かなあ…洗濯したし、風呂にも入ったし…何でだろ?と、ただただ考えてしまいますね、きっと。

不愉快になるという感覚は多分ないです。それよりも相手に不快感を与えてしまったかなという事の方が気になります。

ことによると、相手に「どこがどう?」と聞いてしまうかも…。

ただ、もし、自分に非がない(臭くない)強い自信があったら、不愉快になるというより、不当な事を言われた事に対する反発・怒りは感じるでしょうね。

それにしても…「不愉快になる」ってなんだろう?ああ、また疑問が1つ…。
感想と意見と人格
はじめまして。
いつも拝読させていただいてます。
アスペと疑わしき(未診断)者です。
こちらのブログは
自分がコミュニケーション取れない(取りにくい)
不可解な部分を、わかりやすく解説してあり、
定型さんと共に生きるヒントがココにあるのではないか?
と参考にさせていただいてます。

さて、今回の記事について
ちょっと合点がいったことがありましたので
コメントさせていただきます。

たとえば、友人とラーメンを食べに行って
意見、感想を言い合った際に

私としては
「ここのお店のラーメン、おいしくなかった
(私の口には合わなかった)」
との意見を述べたつもりなのですが
(批判先はラーメン屋さん)
友人にとっては
「このラーメンをおいしいと思う、あなたが間違っている」
(批判先は友人)
と受け止めてしまうらしいのです。

結果、友人が
「自分はこの店のラーメンの味をおいしく感じた
(私の味覚にはあった)」
という意見を述べるために
「このラーメンの味がわからない、あなたの人間性がおかしい」
という意見が出てきたりするのです。

もしくは、遠まわしに
私が好きなラーメンをひとつひとつ持ち出して
「このラーメン屋さんが好きな人間は、人間的に間違っている」
などど逆から攻められたりもします。

ラーメンの味について、意見しあいたいのに
ラーメンの味を感じる人間の人格の優劣
の話に取り変わってしまう。
こんな経験が度々ありました。

(この例え話は、意見するターゲットが
ラーメンであったりTVドラマであったり俳優さんであったり色々です)

もうこうなると、正直に意見感想を述べることは
(よっぽどの相手でないと)できなくなります。

そこの部分について「会話Bパターン」を見て、至極納得したので
(長く取りとめのないコメントですが)
コメント させていただきました。

人間の会話の解釈は、本当に難しいです。

☆あと、もし自分の解釈がアサッテの方向で
間違っているようでしたら、ご容赦ください。
感想について、私の考えをもう一度書いてみます。

おそらく話の流れは無視する形になるだろうとは思いますが、お許しを。
別の視点から。

先日ちょうどよいできごとがありました。

先日、うちの子供がテレビをみたあとに、寝ようとしたときに、顔がゆがんでいました。
私は、泣くのを我慢していると感じ、「そういえばさっきテレビを見ていたな」、と思い、『感動したの?』ときくと、「そう」といい、我慢していたなみだがぽろぽろ。

テレビでは、ある難病の子供さんが、一生懸命生きて、人に感動を与えたお話だったようです。でも最後には死んでしまったようです。
(私は見てないのでわかりません)

子供は、その時点で、自分がどうして泣いているのか、どういう気持ちなのか、自分の感情というものがはっきりはよくわかりません。ただ、顔をゆがめていました。
なんかすごく感じるけど、これをなんと呼んでいいのか言葉にできるほどわかっていません。

以前も、感動したときに『僕、弱いから泣き虫』といっていました。
泣くのは「悲しい」というきもち、「傷ついた」という気持ちなのだという過去の体験から、同じかなと思ったのでしょう。
そこで私は、「違うよ、それは弱いからではなくて、”感動”という気持ちなんだよ。」と、気持ちにラベルを貼ってやりました。
悲しい涙とうれしい涙がありますよね。それをまだわかっていなかったのです。
「そういう感じる心があるというのは大きな財産なんだよ。」というようなお話をしました。
弱いんじゃなくて、いいことなんだよ、と付け加えてもおきました。
子供が、「泣くというのは否定的なもの、悲しいときのもの、いけないこと」、と思うことをするようになってほしくなかったので。
おさえずに、自分の感情をそのまま育てていてほしいので。

そうすると、ほっとしたようにうなずいていました。そのときはそれでおわりました。
そのとき子供の中では、それまでより一歩だけ進んだとおもいます。
感動、という感情を実際に体験して、それにラベルをつけてもらって整理できたとおもいます。

そして先ほどの話の、テレビを見た後の話ですが、今回は、もう、感動して泣いているというのはたぶんわかっているようです。
でも、それがどういう気持ちなのか、もっと分化する気持ちを、私はじっと探ってみました。
どんな感じ方が正しい、ということはありませんから、子供自身がが何を感じているのか、じっとみて想像して探ってみました。
同じ感動は感動でも、どういう感じなんだろう・・・と。
『一生懸命生きたのにあの子が死んじゃって、悲しいから涙が出てくるの?』ときくと、首を横に振りました。
「病気なのに、一生懸命生きていたから・・・・」と、「・・・」の部分がありながら、理由を話してくれました。
点々の部分を私は想像して「死んじゃったことが悲しいんじゃなくて、病気なのに一生懸命生きているのを見て、力をもらったの?」とききましたら、うん、といいました。
感動を与えてくれた子が死んでしまった悲しみに焦点が合っているのではなく、一生懸命生きる姿に何かを感じたようです。生きる力をもらった・・といえばよいでしょうか。
私の言葉も、ほんとに子供に適切だったかどうかはわかりませんが、近いものではあったのだと思います。
でもそれ以上にいうと、もう私の主観が入り、言葉で子供の気持ちを邪魔すると思ったので、多すぎるラベル付けをすると、頭で考えてしまうと思ったから、あとは私は黙りました。

そして子供に、「そうやって何かを感じるというのはすごくいいことだから、これからのあなたにとってとても大きなものになるから、今はそれをいっぱい感じておいてね」というような話をして、そっとしておきました。
子供はひとりでその後も泣いていました。
そのとき自分の気持ちを味わってくれていたと私は信じています。
それがすぐには何かにならなくても、今後生きていく上で、何かの形になってあの子の役に立ったり心の力になったりしてくれると思っています。
それがどこで生きるかは、私にも誰にもわかりません。

こうやって、少しずつ感情が分化していくのだとおもっています。

何か感情が出てきたときに、初めてそれに少しずつラベルを貼っていく。
少しずつ、です。

だから、感情を理解したければ、言葉が先行ではなく、感じることが先、と考えています。
感想、という概念は、そのもっとあと。
だから私は、あまり議論はしたくなくて、ただ感じる練習を・・・と前も書きました。だから、議論にも参加していません。

これを読んで、よくわかると思ってくださる方もいれば、ぜんぜんわからない、何を外れたことをいってるんだ、といやな感じを持つ方、いろいろだと思います。
それもそれでよいとおもっています。
私にもし、やな感じを持ったら、それが感じです。それも立派な感想。ラベルが大雑把なだけで。

人は誰にも共通していえることだと思いますが、
「少しずつ、少しずつ、自分の気持ちに気づく、自分の気持ちを大切に見守る」ということをしていくとがいいとおもうのです。
自分の心のために、大切な姿勢だと思うのです。

議論からは外れた意見で恐縮ですが、一人でも何かを感じてくださる方がいれば幸いです。
狸穴猫さんありがとうございました
本当は会社等でおこる発信側の意図と受け取る側の意図の誤解を探る事で何か見えればと思ったのですが、仕事体系が個々に違うので分かり易い例題にしたのですが、狸穴猫さんの誠意を持っての回答を読み、ちょっと極端だったかなと反省しています
え~と、例えば定型者が幼児(悪気がないと明らかにわかる)から言われた場合は一瞬嫌な感情があっても受け流す事ができます。が、この幼児の場合は感情(感想)から来たものでなく悪気がないんだから仕方ないと上下関係に基ずくもので、それがAS成人の場合相手が大人なので定型者がそこで基本機能が違う(失礼だったらすみません)から定型側の意見を押し付けるべきでないと考えるのは対等な関係を無視する事になり返って失礼だと思ったのですよね
ですので狸穴猫さんも「誤解より理解」と仰ってましたがAS者定型者双方が押し付けるのでも、全て受容でもなくやはりこの場が相互理解の場になれば良いなと私も思っています。
定型同士でも悪気ない発言が悪気にとられることは往々にしてあります。やはり受けてに委ねられついるのが現実としてありますよね。例えば汚いくさいも言いにくいことを敢えて親切心から言ってくれる場合もあり相手との関係性や距離感で受け取る側次第となりますよね。でからすから発する側もイントネーションや表情で誤解のないよう伝える努力はしてます。
大体のそれはやはり空気感となるのですがその空気感がAS者は不得意なのかも知れませんが、定型同士でも誤解の後の対処で修復できたりはしています。
はなからわかろうとしない人もいますけど、そう言う方は段々相手にされなくなってしまいますよね。何を言ってもダメだ!と。
何だか「感想」から離れ世間話のようになってしまいましたが、たとえAS者同士でも定型同士でもお互いが入れ替わる事は出来ないのだから、特に「感想」のように形にならない物は難しいですね
私的にはに「感情」は心の揺れ(大小あっても)が入るもので「感想」は「人により違って来る認知」と「感情」双方含めて「感想」だと捉えています。

そうそう因みに私、汚いくさいと言われたら恥ずかしくなるかも知れません
追記です。

感情を感じることができるようになったからといって、それを何でもいってしまうと、トラブルの元になります。
子供もそうです。
人が嫌がることをでもいってしまうときがあり、そのとき子供に悪気はないです。
そのとき、子供の感じたことを否定はしないスタンスで大切にしてやりながらも、
「それを言うと、相手はこんな風に傷つくんだよ、だから口では言わないようにしようね」と、例を示して教えてあげるようにしています。根気よく。
あくまでも、子供に湧いてきた感情を否定することなく。

これは、ASの人にもそういうスタンスでいるのが良いのでは、と私はおもっています。
感情は自由なので・・・・・

長文失礼。
RE:追記です。
Yさんの「追記です。」を読んでの横レスですm(_ _)m

私の子供(高機能自閉症)はあまり他人に失礼なことは言いませんが、家で私に対しては、他の子供のことを愚痴ったり、相手の欠点や態度を批判的に語ることがあります。
そういう時、「思ってもいいし、ママに言うのもいいよ。でも本人には言わないんだよ」と伝えています。
すでに「何が失礼にあたり、何が失礼にあたらないか」をある程度習得できている(または定型発達者とその点ではそれほどズレがない)子供だからできるのだろうなとは思っていますが…。

ソーシャルスキルは大事ですが、「思ってはいけない」「絶対に言ってはいけない」という方向にならないように、気をつけています。
もしいじめなどの明らかな被害を受けても、「相手が悪いと思ってはいけない」「人に言ってはいけない」と誤解したらヤバイですし、特定の人(信頼できる人)になら言うことができるということは、相談スキルとも関係することだと思います。
メンタルヘルスを考えても、安全な場所で思ったり言ったりできることは、プラスに働くかなあと思います。
訂正です
先ほどのコメント

×「定型の意見を押し付けるべきでない」

○「定型の意見を唱えるべきでない」

です
価値観の違いに無関心?
マルマルさんのコメントの中で、アス君が
>「あ、肩にゴミがついていますよ」という指摘と
>「歯並びがガタガタです」という指摘の
>質がわからない、という点が不可解でした。


と書かれていた点について、私の感覚を踏まえた仮説を書きます。

α:肩にゴミがついている
β:歯並びがガタガタ

これらの質の違いが分からない
   ||
アス君は両者の違いがないと感じている。
両者の違いがないから同じ感覚で言っている。

多くの人の感覚では「歯並びガタガタ」というのは欠点なのですが、アス君の場合は欠点とは思っていない。だから質に違いを感じないのではないでしょうか?

僕も歯並び悪くても生活に困らないならそれでいいと思います。もし僕が言われても腹は立ちません。

別の例におきかえてみます。

α2:背が高いですねー
β2:背が低いですねー

通常の感覚ではα2は褒め言葉の様に思えますが、女性で服のサイズに困っている方に言えば褒め言葉ではなくなります。
仮にこちらが背が高い女性が好みで褒め言葉のつもりで言ってもです。

皆さんそんなことは既にご存知であり、「不要なことを書いているのではないか?」という心配も出てきましたが、書きかけたので書いちゃいます。

アス君に限らず、「自分の感覚・価値観と他者の感覚・価値観は一緒でないこともある」という事は意識しないといけないのだと思います。AS側、定型側に限らずです。

ただ、定型の方が数が多いからそういうことを考える場面が少なくて済んでいるだけ、AS側の方がツボを押してしまうことが多いだけなのではないでしょうか?

このこと(2個前の段落)は狸穴猫さんが定型の謎を探り、マルマルさんがアス君の謎を探っている事、ひいてはヒゲ達磨さんの仰る「他尊自尊」に通じると思うのですがいかがでしょうか?

Yさん、桃里さんも書かれていたような教育をうけたASであれば幸いなのですが、そうでない人もいると思います。僕もそうだったと思います。

アス君が持つ分析力でαとβの違いを考えれば、必ず別な観点が見えてくると思います。ただしそのためには第三者の感覚、アドバイスがないと気づけないとも思います。

相互の感覚の違いは、どちらかが正しくてどちらかが間違いというものではないと思います。「こういう考え方をする人もいるのだ」と気づいて、応用していければ…と、僕自身頑張ろうと思います。

…余談ですが、『「臭う」とか「目ヤニがついている」と急にズバリと言うことで、エキサイトした議論の腰を一旦折って、冷静になるきっかけを与える』という方法を取る人が存在することを6年前に知りました。当時はただ腹が立っただけでしたが。
マルマルです。 「アス君初見」
ズンドさん、コメント有り難うございます。

タイムリーなことに、今日はアス君、このブログを初見しているはずです。

本依存のアス君は「相手のことを少しは知ろうとする努力もしなさいよ」と言うと、様々な心理学や脳医学の本を読破し、本の内容を怒濤のごとく披露するので困惑していました。

一方的な知識の収拾ではなく「解らないことがあれば質問する」という行為が、なかなか出来なくて・・・。

ASの方の感覚を学べて、私自身、本当にありがたいと思っています。

ズンドさんのコメント、アス君に生かさなければと思います。
ゴミと歯並びの違い
マルマルさん、どうもです。

この記事のコメント欄ではいくつもの流れがあり、みなそれぞれに有意義なのですが、最初から読まれると僕が書いたのにたどり着いていただけるか、やや心配です。

僕が書いたことは
  ↓↓
>「相手のことを少しは知ろうとする努力もしなさいよ」

この言葉に集約されているのですが、僕なりの理解で分解したのが先のコメントです。つまり意図することは同じことです。

他の人の考えることは謎が多いですが、仮説を作って当てはめて実験すれば少しずつ謎は解けるように思います。

かく言う僕の謎解きは…亀の歩みです。
(「あゆみ」という名前のメス亀じゃないですよ)

ところで、ゴミと歯並びの相違点と類似点について、僕の考えを書くべきかどうか…書かないでおこうと思ったのですが、アス君が見てくれるなら白色で書いておきます。

α:
ゴミがつくのは不可抗力である。
本人に非はない。
ゴミは取り除くことは出来る。
回復が容易
ゴミがついている恥ずかしさは一時的

β:
歯並びガタガタは不可抗力である。
本人に非はない。
歯並びを整えるのは困難
(場合によっては手術が必要)
歯並びが悪い恥ずかしさは長く続く

なお、それぞれに対する「恥ずかしさ」は人によって異なる
「失礼なことを言う」について
 こんばんは。AS当事者の大福です。私は、「表情・しぐさなどの非言語性情報のやりとり」に特に困難を感じています。
 横道にそれる内容ですが、「失礼なことを言う」という話題について書きます。

 「太っている」という言葉に対して、私の中には次のような思いがあります。

・私以外のメンバーの間では、「太っているのは恥ずかしいこと」という価値観が共有されている。この価値観は、「太っていると言われた人や言われた人の近くにいた人の、表情の変化など」や「太っているという言葉をかけた人の、口調や表情など」から、「学びとったと意識しない状態で、学びとった」と思われる。一方私は、それらの非言語性情報のやりとりに難がある。

・私に関して言えば、「太っている」ということと「恥意識」とが結びつくということじたいが、感覚として分からない。「太っている」ということは、「その人の特徴のひとつにすぎず、それを超えているわけでもそれ未満でもない(恥とかよいとか悪いとかいった、価値判断がくっつかない)。また、「誰かが太っている」ということで、私が不利益を被るとも思えない。他人に不利益をもたらすわけでもないのに、「太っている」ということに、わざわざネガティブな価値判断を付けることのほうが、失礼な行為である。

 つまり、「多くの人は、太っているのは恥と感じてその感じ方に基づいた行動を取っている」ということが、私の実感とは結びついていないのです。単なるパターン的知識にすぎないということです。そして、パターン的知識に基づいて、「人前で、他人の容姿についてネガティブなことは言わない」という「行動組立技術」を得ました。
 
 しかし、「本当の社会性」と「パターン的知識やそれに基づいた行動組立技術」とは違うんだなという思いが、私の中にはあります。
 例えば、ダイエットに成功した人を見て、「ほめようという思いが、自然には浮かんでこない」ということがあります。ほめたとしても私の実感と結びついていないため、セリフ棒読み調になったり大袈裟な芝居となったりワンテンポ遅れたりします。
 ただし、「太っていたころはひざに負担がかかって、外出がおっくうだった。だけどダイエットに成功して、散歩が楽しめてうれしい。」というような背景を知った場合には、「やせてよかったですね」と思えます。

 「臭い」という言葉の場合は、「太っている」という言葉の場合とは、私に関していえば違います。
 「臭い」ということが、「個人的な快・不快」だけではなく「他のメンバーのフェアな共存を侵す」原因となることがありうると、思うからです(においが原因で、他人の集中力を侵すなど)。
アン・サリー
>アス君に限らず、「自分の感覚・価値観と他者の感覚・価値観は一緒でないこともある」という事は意識しないといけないのだと思います。AS側、定型側に限らずです。

これ、「心の理論」ですよね。他者の考えや信念、好みについて理解する「他者の心を理解する心」であり、それが働いていれば、当然 「一緒でないこともある」ことは分かっている。

=人間も3歳頃までは、自分の考えていることは母親の考えていることと同じだと、素朴に信じている。しかし、4~5歳になると、自己の考えと他者の考えとは、必ずしも同じでないことに気づく。=

この心の理論の獲得状況を調べるのは、「アンとサリー」です、様々なレベル、難度の問題がありますよね。同じくAS、発達障害者と言っても、解けるレベルは様々だから、「心の理論」・ 「一緒でないこともある」ことの理解、獲得状況が違う。アス君はどうなんだろう??

もっとも、心の理論を獲得している定型発達者のなかには「私の考えが世間の常識」「私と考えが違うのは、非常識で許せない」と考えの違いを非難してはばからない、「心の理論」がないように見える人もいる。かれらは、「違いがある」ことに気づく基礎能力はあるのに、なぜ、違いがあることを許せないのだろう??
マルマルです。「拝啓  狸穴猫様」
私は、ASの友人アス君の通訳の役割をやってみようと、本を読んだり精神科医の説明を聞きに行ってましたが、このブログを見つけて、リアルな現場感を伴って明快な説明をいただき、喜んでいます。

アス君もやっと「見る」に至りました。

が・・・アス君から一端去ったテイガタ子ちゃんが
「アス君ともう一度対峙するためにASについて学びたい」
と、戻ってきてくれました。

絶対服従、底知れぬ執着心、イヤミを言っても嬉しそうな笑顔、好きと言いながら突然指摘する肉体の欠点・・・テイガタ子ちゃんこそ、混乱の渦に飲み込まれ悩み、対応を間違い、アス君は大混乱し、そのことでアス君の古くからの友人に非難されてきた経緯を持ちます。

(アス君の小・中・高校時代からの友人は、アス君のことを定型者と思い込んで、私が説明しようとしても「何を訳の解らないことを言うんだ!」と聞く耳をもたないのです。「変ったキャラはあいつの個性、それを障害なんて言うあなたの方がおかしい」と)

前置きが長くなりましたが、テイガタ子ちゃんがアス君のことで「差し迫った悩みの質問のコメント」をするのは可能でしょうか?

それはテーマの流れの妨げになることにもなりますし。

ご検討をお願い致します。

RE:マルマルです。「拝啓  狸穴猫様」
メールでお返事させていただきますね。もうちょっとお待ちを。
桃里さん、コメントありがとうございます。
桃里さんのとっておられるやり方、態度に共感します。なるほどなるほど。

ズンドさん、コメントありがとうございます。
そうかもしれませんね。
難しいのでしょうね。

ただ・・・、お二人とも書いてくださったくださったその部分の話は枝葉の話で、私のコメントの伝えたかった主旨は、そういうことではなかったんですけど・・・(汗)上のほうのコメントだったんですけど・・・。
でも、とにもかくにもコメントありがとうございました。
RE:「失礼なことを言う」について
言葉には、それ自体の意味以外に様々なモノ(別の言葉やイメージ)が付随しています。
そのいい例が、「連想ゲーム」ですね。
ある答え、例えば「肥満」と言う言葉を回答者に答えさせる為に、同じチームのメンバーが様々な言葉を投げ掛けます。なぜ、そんな事が出来るのか?と言えば、冒頭の様に言葉には様々なモノが付随しているからです。
その中には、当然ネガティブな言葉やイメージもあります。
そして、ある特定の言葉には、それらの「ネガティブな言葉やイメージ」を連想させ易い言葉があるのです。

「太っている」と言う言葉はこの傾向が強い言葉だと思います。
(「自己管理ができない」「だらしない」「暑苦しい」等々)
もちろん、ポジティブな言葉やイメージを連想させる事もありますが、特定の個人に適用される特殊で例外的な事例だと思っていた方がいいと思います。
おおむね、「太っている」事を気にしていない。むしろ「売り」にしている場合が多い様に思いますね。ホンジャマカの石塚などはその最たる例ではないでしょうか。
(とは言え、本心かどうかは分かりませんから、その本人を目の前にして、「太っている」と指摘するのは得策ではないでしょう。)

また、これらの「価値判断」については個人の意思ではなく、個人の集団、いわゆる「世間」とか「社会」と言われるモノが作り上げているのだと思います。前段の「連想」もそうですね。
具体的には、「平安美人」や「家長制度」、「礼儀作法」などでしょうか。
ですから、個々人がどう思おうとも、「そう言うものです」としか言い様のない側面があると思います。

それぞれに、ごもっとも
大福さんの仰りたい事とても良くわかります 価値観の違いを象徴する国がありますよね

太っている女性が美人とされ「太っている」と言われると女性が喜ぶ国

これは、まう?さんが仰る「集団の価値観」ですね

しかし大福さんが言いたいのは「違いを認める」ことだと思うのですが、日本は特に皆と同じ事が安心の国なので集団の価値観に対し「自分は自分」と考えられる人は少ないかも知れません(最も太り過ぎは健康上よくないですけどね)

そしてそれは「相槌」と「共感」にも繋がるのかも知れません

自閉症者を含む知的障害の団体がヨーロッパへ旅行した際、支援者がホテル従業員に障害がある事を告げた所「noproblem」と答えが返り、何故わざわざそんな事を言うのか不思議そうな顔をしたという本を読んだことあります。

日本は障害のある人々にとり住みにくいかも知れませんね

しかし、「AS者が幸せに暮らして行くには」と考えたとき、間違いでない自分の考えを通して自分が損をし、生き辛くするか、それでも多数に合わせる(自分を抑える)方が辛いと考えるかは当事者の方が決めれば良いのだと思います

そして、どなたかのコメントにあった「人の気持ちや考えを尊重しない定型者は何故いるか?」ですが

やはり人間本来の欲求が先立ち自分優先、自分を抑えられない我が儘だったり、いつもは他尊でも周りの環境で自身が自暴自棄になっている時などだと思います。
私も場合によっては自尊になること多々あります。恥ずかしながら…

狸穴猫さん、コメント欄が違ってしまいますがご自身が大変な時にコメントを入れてたりしたのですね。有難うございます。早く落ち着きますように。
マルマルです。「違いがあることを許せない」
ヒゲ達磨さんのコメントで、「自分の考えと違うものに対しての否定の仕方」を考えました。

ひとつに、自分の価値観への強い固執があると思います。
宗教戦争なども「他者の価値観を許せない」
というところから始まっているのではないかな・・と。

もちろん、善悪のボーダーラインを著しく逸脱してはいけませんが、自分の正義・自分の正論・自分の経験という自分の価値観を絶対的なものであるかのように押しつけてくる人は、よく居ますね。

そんな時、私は「あなたの世間は狭いなぁ」とか
「経験の幅が狭いんだよ」と感じていました。

でも、そんな私もアス君の感覚や言動の根拠を知らない期間は
「アス君の考えはおかしいよ!」と断言していました。
認めることなんか絶対できませんでした。

アス君のようにものを見たり、感じたりする人がいるわけが無い、という思い込みがありました。

ですから、アス君の価値観を真っ向から否定し、
こちらの価値観をアス君に強要していました。

医師にASと診断され、本を読み、アス君と照らし合わせても、どこか頭の中の知識で留まり、実感として「違いを受け入れる」気持ちは薄かったと思います。

この場合、上記のまう?さんのコメントにあるように、多数派の形成した社会感覚が身に染み込んでいる自分の多数派感覚を優位に感じていたからです。

そしたら、このブログに入って来たら、多数派と少数派の立場大逆転ですから、優劣感など吹き飛んで、「ああ、こういう文化もあったんだ」と、アス君の存在は「劣」ではなく「同」になりました。

自分とは違う、ということに対して、見下しの気持ちがなくなりました。
もちろん、困惑、疑問はたくさんありますが、否定や撥ね付けは間違いだと気づきました。

まう?さんがおっしゃっている、世の慣習を初め、マナーとして「そういうことを言うべきでない」「そういう時はこう言うべき」という社会的感覚は、無意識のうちに身に付いた部分も多いので、成人しても身に付いていない人は「どこかが違う」ではなく「どこかがいけない」と判断していました。

「自分との違い」を否定、批判する前に、その根拠や背景を知る努力をしないと、認めるに至らないので、頭ごなしに自分の価値観が絶対と主張している人は、
「違いを理解するノウハウを知らない」のだと思います。





Yさん

ごめんなさい、枝葉だとは分かっていつつ、横レスOKと言うことで、興味のあるところだけ反応してしまいました(^^ゞ
でも、これでは「やりとり」にはなっていませんよね。
少し気を抜くと、すぐこんなふうに枝葉をとりあげてしまいます。(申し訳ない…)

Yさんを戸惑わせてしまってごめんなさいです。
桃里さん
ありがとうございます。
そうだったのですね。主旨の誤解ということではなかったようで、うれしく思いました。
ところで、このコメント欄の主旨から外れますので、ここには書きませんが、
うちの子も、他人に不快なことをいうなどの面ではなにもないし、感想の点でも問題はないのですが、他の面で問題があります。
ちょうど最近学校の先生とお話したばかりです。
今後、診断を受けてみたほうがいいのか、それにより、周りの反応とか、本人の気持ちはどうなのかとか、学校の理解は得られるかとか(どうも理解がなさそう)、さまざまなことで今ちょうど悩んでおります。
今後母親として子供を守っていくために闘いかな・・・・と、気が引き締まっているところです。
また何かの折には、経験者として、お母さんとしてなにか、桃里さんからも参考になるお話お聞きできたらうれしいなとおもいます。そのときはよろしくお願いいたします。
つかず離れず
定型の方々の日常的会話(発声による会話)は
①同じ群れに属しているという仲間確認と順位確認
②情報・意見の交換
という二つの機能を果しているとおもます。

実際には、純粋に①だけ②だけというのはなくて、どちらかに重みがかかっている。「感想」というのも①に重みがある時と②の場合では意味合いが違うのではないでしょうか。

例えば、子供を、崖の上のポニョにつれていったとして、
子供「面白かったね、お父さんはどうだった?」というのの”感想”は同じ家族という仲間確認の①に重みがある。
だから、自分は詰まらなく感じても、子供の面白くて楽しかったという感情に寄り添った、仲間確認が出来る返事、例えば「絵がきれいで、良かった」といった返事が適切。

②に重点がある場合は、相手と異なるつまり寄り添っていない見解や意見を述べても構わない。

問題なのは、定型の方々の日常的会話にはA・・①が漏れなく付いていること。B・・それによって常時、仲間確認(相手もほぼ自分と同じように様々なものを感じるであろうことの点検)とC・・順位確認をおこなって誰がその場を仕切るか、といった対人的距離の調整を行っている。D・・AS者は対人距離のとり方が固定的で、密着か否かの2価しかないことが多い。つかず離れずが難しい。

11/15の疑問文の分化とASの陥りやすい罠(後編)でのやり取りで、定型の方々は①を同調というものでやっているのではないかと私は気付かされました。

>観察していると大事なのは呼吸、リズム、
タイミング、流れなどで言葉が川の流れの
ようにスムーズに流れて、同じリズムの中
でみんなが一体となっている事が最も重要
でそれを妨げたり途中で流れをぶった切ら
れる事を最も嫌う傾向にあるようです。

=非言語的コミュニケーションには、身体的動作(表情、視線、姿勢、身ぶり、服装)、近言語(声の大きさ、アクセント、話す速さ)、空間(対人距離)などがあり、いずれもコミュニケーションにおけるメッセージであり、意図的なものと無意識のものとがある。この機能には、・情報の提供、・好意をあらわすなどの親密さの感情表出、・発言の交代を促すなどの相互作用の調整、などがあげられる。例えば、Matarazzo,JDらは、面接の場面で、面接者の発言時間が、被面接者の発言時間に影響を及ぼすというように、一方のコミュニケーションパターンが相手の行動に影響して、相手もそれと近似したコミュニケーションパターンを示すというSynchrony傾向を指摘している。さらには、面接者の「うなづき」が被面接者の会話を促進することを示した。
コミュニケーションにおける相互作用は、即座にお互いが判断し、対応するものであり、言語化されたメッセージよりもむしろこれらの非言語的コミュニケーションの果たす役割が多い。医療者は、患者の語りや不安の内容に応じて、即座に妥当な微笑やうなずきなどが自然にでるものでなければ、来院者には、共感の態度としては伝わらずむしろ欺瞞として反感を招くことになる。 =深井穫博(深井保健科学研究所)

私は、動作性IQ劣位ですから、自分としては>即座・自然<に非言語的コミュニケーションはできない、苦手。
相手の感情が見えないだけでなく、自分の感情や情動のセルフ、・モニタリング能力も低いから、相手の感情に寄り添った適切な返事に困る。
無理に返事をしようとすると、フリーズしたり、優位な言語脳・左脳が適当にでっち上げてしまう。それは、相手の感情が見えていないのだから、不適切なことが多い。
(私の場合は、防衛的攻撃性で大声になったり、何?何故だ??の連発することが多い。相手だって自分の感情や考えを突き詰めて、考え抜いて表現しているわけではないので曖昧であり、大抵は答えに窮する。それは相手には侮辱された、馬鹿にされたという屈辱感を与えるらしい。)
それで①の仲間確認と順位確認と言う点では、仲間ではない⇒敵対的と取られ、
相手の感情を受容していない、否定していると受け取れる返答⇒尊大、威張っていると解釈され、攻撃されるなどトラブルをまねいているのでしょう。

逆に、動作性IQ優位では、Yさんの表現をお借りすれば、(無断ですみません)
>感じすぎるせいなのか、容量オーバーになってしまうのです。共感できる部分に心からの相槌も打ててしまうので、話が続き、気づくと私が疲れてしまっているのです。 <
>ついつい人の気持ちのほうがわかってしまって(伝わってくるので)自分の心のほうが押しつぶされていることが多い<
>人がどうしたいと思っているかの気持ちを察知すると、どうしても私は相手の気持ちになり、それを優先してやってあげてしまいたくなる。それは瞬間的、反射的なものです。反射的なので、心の奥底の自分の気持ちに反していってしまうこともあり<
>「自分の感情」と、「他人の感情」の区別の必要性も感じています。共感しすぎてどちらの感情かがわからなくなりますから。 <
この取り違え(心理的投影)や抑圧(それへの防衛的攻撃性)などが原因で、>どうも相手が意図していることと微妙に違う受け取り方をして、<という認知の歪みが起きて
>私が誤解して一人で傷ついていたり、相手を嫌いになってしまいます<
それで
>だまって私が閉じこもって、離れる口実を作って我慢してさよならです。<
>だいぶたってから、たまってしまって本当の自分が悲鳴を上げて爆発する<。
>そういうときだけは急に理屈人間になり、理屈で攻めてしまうのです。 相手はびっくりです。ずっとおとなしかった私が、急に理論で攻撃してくるので。 めったにありませんけど。 <

言語性優位・動作性劣位タイプ、動作性優位・言語性劣位タイプどちらも難儀ですな。

ところで、非言語的コミュニケーションで図られる同調について調べてみました。コミュニケーション Synchronyで検索したしただけですけど、私には色々興味深いことがわかりました。

例えば、
=意見の異なる2者が話し合いによって妥協点を見出す条件(聞き入れ条件)を設定し、一方、話者が相手に対して受容的
構えを持たない対話として、意見の異なる2者が自らの意見を相手に主張する条件(意見固持条件)を設定した。
収録された15分の対話音声から発言長、反応潜時(話者交替の後に発話する話者の、相手の語りの終了に応答して話し出すまでの沈黙時間)、相槌頻度を測定し、それぞれが同一ペアの2者の間でどの程度2者間で一致しているかを、条件間で比較した。
その結果、すべてのパラメータが、聞き入れ条件における方が意見固持条件よりも互いに一致していることが示された。 =
http://syasin.hus.osaka-u.ac.jp/jjisp/006/pdf/nagaoka.pdf

定型の方々を相手に、妥協点を見出したり、互いの見解を深め合うような議論・話し合いをしようと思ったら、相手よりも長からず短からずの長さで、相槌も同じような頻度でうって、話すペースも相手にあわせた方が生産的らしいですね。そうしないと、内容に関わらず、定型の相手は「自分の意見を受け入れていない」「意見を押し付けられている」と感じるようです。定型者は無意識に出来るらしいが、我々は半ば意識しないとできないからな。

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感想・感覚・感情~AS者にとって感想はコミュニケーションの手段にするのはむつかしい
☆感想 あることについて、感じたり思ったりしたこと。所感。感懐。 「読後の―を語る」「―文」「高遠幽深なる関係を―する/欺かざるの記(独歩)」 ☆感覚 (1)目・耳・鼻・皮膚・舌などが身体の内外から受けた刺激を感じ取る働き。また、感じ取った色・音・におい・温..
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