定型発達者における「感想」のありようから

この記事は、先日書いた、
「アスペルガー症候群者には感想というものがわからない…かも?」の、その2に相当するので、よろしければ前回の記事からお読み下さい。


前回の記事ではたくさんのコメントをいただきありがとうございました。
おかげさまをもちましてだいぶ定型発達者における「感想」というものが少しずつ見えてきた。


で…感想…やっぱり実感はわかない。


というのが「感想」と解釈されるらしいというのはわかりました。


が、これ(2行前の一文)は私の中では「見解」に入るものです。


さて、本論に行きましょう。


===================

(1)定型発達者における「感想」というもの


ある事象に対して感じた事、思った事を述べたもの…これが「感想」辞書的表現であるが、


さらにこれに、「感情、感覚をともなっている」と定型発達者が解釈するものが「感想」として取り扱われるようである。


アスペルガー者(PDD者)が「感想」を伴わない「意見」「見解」として表現した文章において、定型発達者はかなりの確率で「定型発達者的に感想とおもわれるもの」を自動的に抽出してしまうことが十分にあり得る。


(2)コミュニケーション手段としての感想


定型発達者において、「感想」はコミュニケーションの一手段として機能しているため、「仲間確認」に使われる事もままある。

それだけに、定型発達者との会話において「対立する感想」を述べる事は、「仲間確認」の阻害要素となるため、注意が必要である。

ここでなぜ注意が必要かということに着目してみると、定型発達者においては「感想」「見解」「意見」の境界があいまいで、ある種これらは「コミュニケーション手段の1つ」として統合されたものであるといったことがいえるかもしれない。


(3)定型発達者は感想がない会話には不全感を感じやすい。

定型発達者は「感覚」「感触」等、感想に類する発言を言い合う事をコミュニケーション手段の1つとしているため、そういった会話の中で、感覚的用語がない「意見」「見解」のみの発言をするととまどい、かつ、意見、見解のみの発言に対して、物足りなさを感じるようである。

特に自身のことについて問われているのに「意見」「見解」のみで返答すると、「自分のこととして考えていないのでは」「他人事みたい」という感触を定型発達者に与えるようである。


(4)定型発達者の発する「感想」は一過性が強い。

どうやら、「そのとき」「その場での」といった限定性がかなりあるようである。


(5)「感想」という用語を「意見」「見解」を表すときもある。

意見・見解というと固くなるのでその印象を和らげるために「感想をお願いします」などという使い方をすることもあるようだ。


===================


さて以上5点を、定型発達者の感想の捉え方の特徴であるとするなら、


うわさ話、悪口、陰口の類も「感想」を用いたコミュニケーションとして成立することは、言うまでもないだろう。そして、それが比較的一過性のものであることも理解できなくもない。


===================


さて、不毛な対立を起こさないためのコツは上記から見えてくる。


◆何かについての感想を定型発達者と語るとき

1 「感覚的用語」を多用すること。
2 対立する感想はできるだけ言わない事。

◆何かについての感想についての記述を求められたとき

「感想」にこだわらず、「意見」や「見解」を書いてしまっても実質上問題はない。
また、「感覚的用語」が入っていると読む方は感想として理解してくれる。


===================


まあ、実際、感想をといわれてしまうと、アスペルガー者の場合「意見」だの「見解」だのを言ってしまうか、でなきゃ「言葉にならない…」ということも多々ある。


自動的に「意見」「見解」が先に脳内に浮かんでしまい、「感覚的なもの」は後回しになって、あとからぼーっと感じ入ったりすることも多々あるだろう。この辺は「自分の感情・感覚が自分でつかみにくい」というアスペルガー者の特徴としてあるのではないだろうか。


ついでに言うなら定型発達者とは違う「感想」をもつことも多々あるので、コミュニケーション手段としての感想というものについて行けない部分はある。


「聞き役に徹しておく」というのも、ある面かしこい選択だろう。


ま、実際のところ、ブログでは結構主張もするが、私は実生活においてはほとんど聞き役に徹している。「相づち」をうつのが関の山というのもあるが、その方が、妙な対立を起こしたり、妙な誤解を受けなくて済むということを経験的に学んできたような気がする。


==================


とまあ、こんなところかなあと、皆さんのコメントを読んで短めにまとめてみました。







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はいそうです。
ですが…
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コメント

マルマルです。「質問しても良いでしょうか」
狸穴猫さんの、感想のとらえ方は、定型者にとっても、すごく解りやすく納得がいくものと思います。

それを日常で生かそうとした場合・・・・・・

定型者複数が、暗黙の了解のもと、ある一定の軽量感を保ちつつ感想を述べ合っている時に、1人のAS者が見解や知識に片寄った重量感ある話をして、その空気の違和感に気づかない場合、

定型者は、どういう言葉がけや説明の仕方をすれば、ASの方は理解しやすいのでしょうか?

「こう言ってもらうと解りやすい、納得しやすい」
という、言い方のコツ(?)はありますか?
RE:マルマルです。「質問しても良いでしょうか」
想定外の質問ですぅ(^^:)

基本的には子ども(小中学生)のうちに親がトレーニングして直しておくって感じのことなんで。

まああとは「3分ルール」(3分以上自分だけで話し続けない)をあらかじめ設定しておくとか…。

それ以上思いつきません、ごめんなさい。
これに関しては狸穴さんの3分は有効だと思います。

後、これは私が友人から指摘され実際に試してみてある程度効果があったのが

「その前の人が話している話のテーマ、内容、かねべている感想の言葉の数からそれない返事のみする」

本当にそれに対して真剣に反論意見しなければならないことなら話は別ですが、単なる世間話であれば

「私アコード次ほしいんだよね~」

「あ、私も~、あの車いいよね~、重厚感があって」

よい例

「私もそう~、燃費もいいしね~」(すみません、これは今例題で出しているので実際は知りません)

:その言葉の内容にレベル的にそれていない、見解に対しては1フレーズしか用いていない(他の人と同レベル)

悪い例

「そうなんですよ~、あのアコードは何年の型のエンジンはいまいちですが、小回りが利いて(・・・延々続く)」

:ここで出ている「アコード」は単なる話のつまである→本来の目的は話がうまく回転させるためのもので真剣にアコードを買いたいから意見を聞いているためではない

なので「本来の内容」と「見解を述べられる数」にずれが生じている
RE:マルマルです。「質問しても良いでしょうか」
>定型者複数が、暗黙の了解のもと、ある一定の軽量感を保ちつつ感想を述べ合っている時に、1人のAS者が見解や知識に片寄った重量感ある話をして、その空気の違和感に気づかない場合、

この違和感とは、AS者が自分の感想・意見やらを押し付けようとしているとしていると他の定型の方が感じて、起きる防衛的心理、攻撃性が生み出す雰囲気(何、偉そうに・・と心中、舌打ち)でしょうか?

AS者は、多分、話題を展開して盛り上げようとして、材料に見解なり意見なりを披露しているのだとおもいます。私はそうでした。

ですから、AS者のその意図、気持ちをまず認める発言を前置きにする。そうすれば、AS者も認められたと安心できますし、周りの方の防衛的心理を和らげることが出来るのではないでしょうか。

ついで、具体的な問題点、長過ぎるとか、微に入り細にわたるとかを言って、意図に反して逆効果である、少なくともマルマルさんはそう感じると指摘する。

マルマルさんはそう感じることは、否定できない事実ですから、AS者も受け入れざるを得ない。客観的に見て「意図に反して逆効果である」という言い方だと反発する可能性があります。

最後に、短めにしてくれとか簡単にといった提案をしたらどうでしょう??

これ、私がこういう話し方なら素直でないと折り紙つきのヒゲ達磨でも受け入れられるのにと思っている話され方です。ご参考までに。
マルマルです「大きな驚きと発見です」
上記の、狸穴さんの「要望が思いつかない」
さかいさんの「自分の工夫と努力」
ヒゲ達磨さんの「ご提案」
なな、なんと皆さんは無欲(←適切な表現が浮かばない)
な方ばかり!

定型者は、ASの方に比べ、とてつもなく多くの要望を背負って人と対峙していることを、思い知りました。

なぜなら、定型者は
「どうして欲しいんだ?」 「どう受け止めて欲しいの?」「何に例えると解りやすいかな?」などと問いかけられることや、顔を覗き込んでもらうことが、大好きだからです。

定型者は
「ちゃんと聞いて欲しい」「好感を持って欲しい」「理解して欲しい」「認めて欲しい」「優しくして欲しい」「信じて欲しい」「受け入れて欲しい」「良く評価して欲しい」「賛同して欲しい」
・・・・・・欲しい、欲しいの固まりです。

ですから、相手から「どうして欲しい?」と聞かれると
「自分に関心を持ってくれた」と喜んだり、安堵したりして
「このチャンスに言わなくっちゃ」と感じるのです。
(本音と裏腹に意地を張って、声かけを振り払ったり、言わない事もありますが)

ASの方は・・・・・・・どうやら、そんな欲はあまり無さそうです。

「そんなに遠慮せず、さぁさぁ、何でもおっしゃって」
という感じでもなさそうです。

私は、ASの方々が定型者に、多くの不可解や戸惑いと共に多くの不満や憤りを感じていると思ってましたので、ASの方も「こう言って欲しい」「こういうふうに説明して欲しい」「こういうふうに判断して欲しい」「こういうふうに受け入れて欲しい」という
個々の「こういうふう」と「して欲しい」が
具体的に山ほどあると思ってました。

なんか・・・定型者の欲深さというものを、
すごく感じてしまいました。



欲深い私
 ごめんなさい。私は、欲深くかつ道徳的にきたないコメントを書くASです。

 狸猫穴さんの「3分ルール」やさかいさん・ヒゲ達磨さんの「本来の内容と見解を述べられる数にずれが生じているかどうか自分で考える」という、具体的な対策は有効だと思います。そして、それらの対策を「本人が自力で考え付くことが困難」ということもありうると思います。

 ただし、私のような欲深い人間は、それらの具体的対策を知る前に次のようなことを考える必要がありました。

・「空気の違和感に気づかない」ことについて、「良い・悪い」という道徳的観点から考えても、本人の思考や行動は変わりにくい。
 善悪よりも、「気づかない(と他人に思われた)場合、本人が損をする。損をするのはバカバカしい。」という方向で考えた方が思考や行動を変えやすくなるかもしれない。

・「道徳」と「処世術」が矛盾する場合、人間はえてして、「処世術」を選ぶものである。「善悪」よりも、(置かれている場面での)社会的環境にうまく順応(「適応」とは限らない)するための戦略的な行動をとるものかもしれない。
 「何の見返りもないのに他人のために働く」といったような人間性は、おおかたの人の心にはないのかもしれない。

・「集団内の人間関係や、誰が誰に対して好意・敵意を抱いているかをよく察知・理解する」のは、「集団をまとめるため」ではないのかもしれない。「集団の内部でできるだけ波風を立てないようにする」ためなのかもしれない。つまり、「集団内部の秩序や安定性が揺らぐことで、自分に火の粉がかかってきては困る」からかもしれない。
→「自分からは控えめにし、波風を起こさないタイプ」が「望ましい人」とみなされるのかもしれない。

・人間の行動が、常にその人の本心から行われているものとは限らない。周りの状況からやむなくそういう行動をしている場合もある。また、第三者から強制されて、渋々やっている場合もある。

・「定型者複数が、暗黙の了解のもと、ある一定の軽量感を保ちつつ感想を述べ合っている時に、1人のAS者が見解や知識に片寄った重量感ある話をしていたとする。
 ここで、構成メンバーの中には、実は内心では「話題を展開して盛り上げようとして、材料に見解なり意見なりを披露しようという思いなのかもしれないな。別に目くじらをたてるほどのこともない。許してやってもいいではないか。自分についていえば、逆に、その人独自の意見や見解がわかっておもしろい」と思っている人が、ゼロとは限らない。しかし、それを他のメンバーがいる場所では、なかなか口に出しては言えないものかもしれない。
 というのは、そこで「あのAS者は困った奴だ」と他の人に調子をあわせておかないと、今度は自分自身が「他の人の意見に同意しない困った奴」と思われてしまう危険性があるから。
→極端な話、仮に、その集団のメンバー全員が内心では、「AS者による独自の見解を知るのも面白い」と思っていたとしても、「『他のメンバーは、AS者は空気を読んでいない嫌な奴だと思っているに違いない』という実態のない思い込みが、本当の現実を作り出してしまう」ということもありうる。
 
 これらのことを、私の場合は、社会学や心理学の本によって知りました。
テーマとズレてすみません
マルマルさんの発言は、いつも、いつも、いつも、いつも、私の心の中に、ガラスを釘でひっかいた時の音を聞いた時に似た感じを残していきます。

「ちゃんと聞いて欲しい」「好感を持って欲しい」「理解して欲しい」「認めて欲しい」「優しくして欲しい」「信じて欲しい」「受け入れて欲しい」「良く評価して欲しい」「賛同して欲しい」

という欲求が、ASに診断されてしまうような人間に、本当に全く無いとでも、お思いなんでしょうか?

定型にはある複雑な感情が、ASにはないとでもお思いですか?

私は、そういう欲求は、ありますよ。
ありますが、欲求は求めるだけでは得られないと知っていたり、ある種類の人に対しては「何を言ってもムダだ」とあきらめているだけです。

マルマルさんは、ASの理解者になりたいとおっしゃいますけれど、あなたがASの人間をひとかたまりの群像として見ようとしているうちは、決して、ASの人のただひとりの理解者にもなれるわけがないと断言します。

マルマルさんが引き合いに出すアス君とやらも、狸穴猫さんも、さかいさんも、ヒゲ達磨さんも、そして私も、みんな別個の人間なんですよ。

私はASに診断されてしまうような人間ですが、自分とよく似ている考え方や感じ方のASの人の発言は、色々な掲示板や当事者ブログを読んでも、それほど多く出会えるわけではありません。
出会えた時は、心の底から嬉しいと思うし、そういう書き込みやブログは貴重だと思います。

むしろ、「この考え方には私とは全然違う」「この感じ方は私とは違う」と思ってしまうような発言に出会うほうが確率的に高いんです。

狸穴猫さんのブログのコメント欄には殆ど現れないですが、ネット上には「この考え方は大嫌いだ」「こんな感じ方は最悪だ」と私が思うような発言をするASの人もいます。(当事者として自己主張をしたいASの人達の中には、凶悪殺人者や性犯罪者に共感して自分の心の友のように思ってる人達や、成功している人や自己実現している人や幸せな人に嫉妬して恨みがましい言葉を書く人達がいるのですが、そういう考え方や感じ方のASの人を私は大嫌いです)

さらに、違うけれど反発は感じなくて、感心したり、目からウロコが落ちる考え方をするASの方もいます。「この考え方や感じ方は私とは全然違うが、興味深いし、面白いと思う」「この考え方や感じ方は私とは全然違っていて、興味深く、いい考え方だと思う」と思えるようなASの人もたくさんいます。

さて、私が大嫌いな考え方、感じ方、生き方をする人を、WAIS-3という知能検査の結果(得意種目と不得意種目の差が激しすぎると発達障害者と見なされる)と幼児時代に発達障害者的な奇行があったというだけで、同じ診断名をつけられて、一緒に見なされることは、とても、苦痛です。

マルマルさんに限らないのですが、「私はASの人に理解があります」という主張をしながら、ASの人をひとくくりの人間と見なそうとする人達(心理士や精神科医や療育者にもそういう種の人はいます)の発言を読んだり聞いたりすると、私は、精神的苦痛を覚え、頭痛がしたり、吐き気をもよおしてしまいます。

マルマルさん、あなたの発言の傲慢さも気づいていますか?

お返ししますよ。
「狸穴猫さんのブログのコメント欄で、皆がある一定の軽量感を保ちつつ感想を述べ合っている時に、1人のマルマルさんという自称定型発達者が、見解や知識に片寄った重量感ある話をして、その空気の違和感に気づかない場合」
にそっくりあなたは当てはまっていますよ。

マルマルさんには、どういう言葉がけや説明の仕方をしても、一生理解できないでしょうけどね。

あなたに言ってもどうせムダだと、私は思っています。

それでも言わずにいられないのは、マルマルさんの発言や考え方を変えたいとか、変えられると私が確信しているからでは全くなく、ウィルスを排除したいと白血球が自分を傷つけながらでも動く防衛本能のような感覚です。
マルマルです。
nさんのコメント
誰だって個別の感受性や能力がある。
ひとくくりに感じられる表現は非常に不快感をともなう。

という点2に、私は配慮不足の感想を述べてしまったのですね。
本当に、ごめんなさい。
デリカシーの無い感想でした。

真意をつかんでないのに
「解ったように言うな!」ということですよね。
それは、相手のおごり・傲慢・偽善として非常な苦痛や絶望感につながる・・・これは誰にもあることだと思います。

では・・・
「じゃ、こういうとき、どうすればいいの?」
「どういう言い方にすれば、抵抗が無い?」
と聞いた時
「例えば、こういう言い方をして欲しい」とか
「あなたのコメントのこの部分は」という
何かこちらのヒントになるような具体例などをいただくと
とても解りやすいのです。

大福さんのコメントは、集団心理の「見えない影響」「自己防衛の潜在意識」の視点を広げてくれました。
ありがたいことです。

でも・・・私の投げた
「私はどうしてあげたら良いんでしょう」
というボールは、ささやかにヒゲ達磨さんが投げ返してくれましたが、
「あなたには、こうして欲しいのよ」という
ASの方の要望がとても希薄な感じがしたのです。

それは、ASの方の分析力の鋭さや、洞察力の深さや、表現力の巧みさや、視点の多角さからの、ものすごく豊かな情報量に比べ、ASの方からの具体的な要望が、極端に微量な印象を受けたからです。

定型者のコミュニケーションの取り方の根底には「どうして欲しいのか?」という察知機能が常に動いていて、ついそこを知りたくなるのです。

私個人の印象で「まるでひときくくりのように」感想を述べてしまったことは、本当にいけませんね。
反省します。

でも、nさん
私はASの方を弱者と思っていたことを、このブログを通して「大間違いの狭い偏見」だと知ったんですよ。

今は、平等の異文化だと、とらえています。

だから、いろんなことを知りたいのです。
教えてもらいたいのです。

アス君のことも「定型者の専門医の上から目線の診断と断言」より、当事者の方のコメントから、知識としてより実感を伴う納得で受け入れられました。

「この医者、本当は解ってないんじゃないの?」
と、不信感まで感じるようになりました。

「解ったように言わないで欲しいな」

私が、専門医に感じた事を、私がnさんに感じさせてしまったのですね。

本当にごめんなさい。


伝える、伝わる
そんなふうに謝らないでくださいね。私は、マルマルさんをどれだけ傷つけても、自分の言いたいことをオブラートに包まないで書くという強い意思で書きました。客観的に判定したら、悪いのは私ですよね。

さて。ASの人が集団の中で浮いて空気が読めてない発言をしていることをわからせたい時にはどういう言い方をすれば、わからせられるかについてですよね?

私は、AS代表者として発言する資格はないので、AS代表者としてではなく、私ならどう思うか?ということで答えますね。

「あなたのためを思って言うけれど、あなたの発言は、集団の中で浮いていて空気が読めていないからああいう発言はやめたほうがいい」みたいな言い方は最悪です。そんな言い方だと、心に響かないのです。

「はぁん、『あなたのためを』と言ってるけれど、本当は自分のためじゃないか。 自分がASの人の発言を嫌いなのを、集団全体の『空気』のせいにしたり、あなたのためを思ってるかのように言ってるんだな」と、その人の欺瞞に気づいてしまってウンザリするんです。

もしも同じことを言うのなら
「私は、あなたがさっき言ったような発言は好きではないので言ってほしくない」と、言ってほしいです。主語を「私」にして、話してほしいのです。そのほうが、よっぽど伝わります。

ただ、私の意見をAS全体の意見だとは思わないでくださいね。
私の発言を、アス君にも当てはまるとも、思わないでくださいね。

私がインターネットのASの掲示板や自分のブログで自分の体験談や思いを書いた時、「ASに相手のことが考えられるわけがない。オマエは定型だ」「ASは文脈が読めないはずなのにあなたは読めているからあなたはASではない」「ASは想像力がないはずなのに、そんな仕事(私がついた仕事)につけるわけがない。夢のようなことを言うな。ASは能力がないんだから単純労働しかできないはずだ」「定型発達者のくせにASのふりをするな」と、発達障害や精神医学の勉強をしている人や、ASとして当事者発言している人から批判されたことがありますから。

それに、私は「ASの代表者」として発言するASの人達のことも、あまり信用していないんです。ついでにいうと自分の意見を「定型の代表者」として発言する人のこともね。

マルマルさんが一番理解したいアスペルガーの人は、仲のいいアス君のことでしょう? 直接、アス君に聞きましょうよ?
「私がどんなふうに言ったら、アス君がみんなの前で空気読めない発言するのを、やめる気になってくれるの?」とでも聞いてみてはいかがですか?

私とアス君は、同じASに診断された人間であっても、今までのエピソードから想像するに、感じ方や考え方、得意種目と不得意種目が全く違うので、私の「私ならこういう言い方をされると嬉しい」「私なら、こういう言い方をされると理解できるけど、こういう言い方をされると反発を感じる」というのが、それがアス君にあてはまるかどうかは、わかりません。ほとんど当てはまらないのかもしれませんよ。
強いて言うなら
ストレートに伝えて欲しいって要望はありますねえ。

「みんなのため」「あなたのため」発言にはすぐ胡散臭さを感じます。この感受性は鋭いですよ。

さてと、私としては、n(仮)さんの書いておられる、よくありがちな「お前はアスペじゃない」発言、というものの方に興味がとんじゃいます。

やっとうちでもお一人書く方(どどさん)がいらっしゃったけど。あの類の書き込みは何でかなあと。

人格障害等の二次障害で攻撃的になっている人なのかなあと、まあ、そんな風にとりあえずは理解していますが…、

あとはやはり二次障害でアイデンティティが不安定なケースも考えられるかな…、すると「アスペルガー」という文字にアイデンティティを求めてしまうとか…。

と、まあ、私の場合、欲求が「知りたい」方向に大きく片寄ってしまうのでした。

ついでに、元発言に対するコメントが欲しいなというのも欲求のうち(笑)
マルマルです。
nさんのコメントを読んだ時、私の無防備な感想のどこがnさんをこんなに、怒らせたり苦しめたりしたのか、一瞬、唖然ボー然となりました。

でも、私の表現の仕方がどこか、nさんの過去のつらい思いの数々を、思い出させたり刺激してしまったのだろうと思う事にしました。
思う事にした・・というのは「自分を納得させ、落ち着かせた」という意味です。

予想外に、nさんからそこの部分の背景まで説明していただき、実際嬉しいです。ほっとしました。

それに「一般的には・・」というニュアンスは、受け入れには反感や違和感を伴う・・ということにも共感が持てました。確かに「多数派からの上から目線」を感じるものだと気がつきました。。

「あなたの意見に、私の意見で返す」
これは、会話においてのフェアな感覚と姿勢として、私が忘れていたものかも知れません。

アス君のことはアス君に聞くべき。
これは、本当に正論です。
でも、アス君は、
「あなたは、どうして、こういうことをしたの?  言ったの?」
「どういうふうに解釈したの?」
「どう、思う?」
「それは、聞き間違えたの?」
様々な質問に対して「答え」ではなく、客観的な見解や、有名人の言葉の引用や、脳機能の説明から話を始めてしまい、なかなか・・・・こう・・・うまく解答らしきものが得られないのです。

ですから「困ったらケムに巻いてごまかす癖」とか
「また、お得意のへ理屈が始まったよ」などと
言われ続けて来ました。

その不満は、たまに友人達の「何気ない一言」とか「無頓着な言い間違い」とか「良かれと思って言った」タイミングで爆発するのですが、私も含め周囲は「いったい何がどう逆鱗に触れたのか」さっぱり解らず、ただただその突然の一方的な迫力に「驚いただけ」「ショックを受けただけ」で、怯えて離れて行った人も居ます。

ですから、理解の幅を広げたいので、このブログで学ばせてもらっています。

成果は確実にありました。
「反発や、拒絶や、押さえ込みをせず、
その背景にある原因や要因を知る」
という、私(と、このブログを見ている友人たち)の
意識と姿勢の変化が、双方にある種の穏やかで
冷静なひとときを生み出しました。

ただ、狸穴猫さんのコメントにあるように
その反応の有り様が、ASの特性なのか、二次的障害の表れなのか、トラウマなのか・・・そういう判断範囲の広がりもある、ということは、つい最近知りました。

本を読んでも、医者に聞いても、本人に聞いても「解らない」「掴めない」ことが、当事者の方々のコメントやアドバイスにより、個々人により感じ方や捉え方の違いや個性はあるにしても、私がからきし思いもよらなかった「根底や背景の部分」を知ることは、何よりも大切と感じました。

「こういうことに気がつかず、ごめんね」
「いや、僕の方こそ暴走してしまいました」
こんな会話が出来たことを、本当に嬉しく思いました。

さて・・・狸穴猫さんの元発言の「3分間ルール」

実はこれ「私へのルール?」と思ってしまった点もあります(笑)。
アス君のことを少しでも理解してもらおうと、周囲にやっきになって喋りまくってしまい「おまえ、うるさい」「ちょっと黙ってろ」と注意されたこと何度か。

ただ、周囲には、私が何を意図してどんな気持ちでこの場で言いつのっているか、は理解されているので「何を独り言みたいな演説しているんだ」とか「話が見えなくなった」とか、そういう混乱はきたさなかったのですが。

子供さんへのアドバイスのひとつとして「時間」の感覚や「返事」の習慣付けなどは、とても大切有効だとおもいます。
ただ、成人のASの人に「3分間ルール」は、会話の流れや主旨からどんどん離れて行く3分間になる可能性大なので、なかなか難しいかなと思いました。


nさんと狸穴猫さんのコメントをみて、「うんうん、私も『私は・・がいやだからやめてほしい』という言い方ならわかる、『あなたのために』『みんなが・・・』といわれると、むっとするなあ」とうなずいていたところです。

これに対して
>「一般的には・・」というニュアンスは、受け入れ>には反感や違和感を伴う・・ということにも共感>が持てました。確かに「多数派からの上から目>線」を感じるものだと気がつきました。。

とマルマルさんが書かれているのをみて、少しずれているような気がしました(nさんや狸穴猫さんがどう感じられるかはわかりませんが)。

私の場合は、「一般的には・・」「みんなが」というような言い方に「上から目線」を感じるから反発を感じるのではなく、そういう言い方に嘘や責任逃れが入っていると感じるので気分が悪くなるように思います。

「『一般』『みんな』って誰のことを指して言っているの?」と聞きたくなります。一人称単数を使って話してほしいと思います。

ところで、マルマルさんの最初のコメントについて伺いたいのですが、とくに興味がない話題について、ある一定の軽量感を保ちつつ感想を述べ合うことをしている人たちは、そのとき楽しいのでしょうか。あまり楽しそうに見えない場合がよくあるのですが。


感想・意見・見解についてはよくわかりません。

私の場合は、なにに触れても感じることはとても多いのですが(だから外に出たり人と会ったりするととても疲れます)、感じたこと、考えたことを「意見」にまとめるのには非常に時間がかかります。

あるものごとに対する見解を持つにいたるには、たくさんの資料にあたらないと、できません。というか、そんなもの、持ったことがあるかどうかもよくわかりません。資料に没頭しているうちに、ほかのことを考え出してしまうので。

感想文って、感じたことをそのまま書くのではだめな場合が多いようなので、苦手です。

言葉を使わずに感じたり考えたりすることが多いので、感じていること、考えていることに合う言葉を見つけるのに苦労します。
マルマルです。
こちらが「理解しようとしてした質問」が「尋問」になってしまうこと。

一般的・・というニュアンスが「自分の本心を隠す、嘘や言い逃れ」の隠れ蓑的な感じがするということ。

はい。
意味を取り違えてはいけませんね。
nさんの、教えてくれた本、さっそく取り寄せて読んでみます。
ありがとうございます。
なかなか、すぐにうまく理解できず、申し訳ないです。

あんにゃもんにゃさんの質問ですが

「楽しいときも、つまらないけど仕方なく話につき合っているときも、あります」

相手や周囲に「合わせる」ことが優先順位の上にきてしまうので、楽しくない時もあります。
お互い様
まあ、一般化についてはお互い様でしょうね。
個人的には「定型」と言う言葉はあまり好きではありません。
多くの場合、「定型」と言う言葉の後にはあまりいい(個人の定型発達者としてそう感じる)言葉が繋がって来ない事もありますが、それ以外に、「定型」と言う言葉を使う必要がない場合も多いのではないかと感じるからです。個人の経験や体験を語っている場合は特にそうですね。「定型」と言う言葉は必要なく、「周囲の人」、「学校・会社の人達」でも問題はないと思います。
(とは言え、絶対的な母集団の差があるので、多くの定型の人達の一般化と比べれば説得力はあるのかも知れません。)
ASの方達がよく言われるのと同様に、定型と言っても千差万別です。
そういう意味では、どっちもどっちかと思いますね。

で、『「一般」とか「みんな」と言う言葉が使われた「注意」や「忠告」が嫌。』と言う事ですが、「出来る事ならそんな事は言いたくない。」というのが周囲の人達の本音だと思います。
非常に大きな精神的コストが必要ですし、新たな揉め事の種にもなりかねませんからね。
「それを背負ってでも言う必要がある。」と考えた一人が当事者に言う訳ですから、ある意味「代表」なんですよ。(理由は、老婆心だったり、我慢の限界だったり、好感だったりすると思います。)
特に、「暗黙の了解」などに関わる事については、「個人の好悪」ではなく「集団の総意」ですから、嘘でもなんでもなく「一般」とか「みんな」な訳です。
もちろん、「個人の好悪」を「一般」とか「みんな」とか言う場合もありますから、間違いって訳じゃないですけどね。

ああ、あと、「ASと定型の差異」だけでなく、「似た所・同じ所」って聞いてみたいですね。
結構同じ所も多いと思うんですよね。
どっちも矛盾だらけでですし、他人の気持ちが分からない所も同じかと。
欲求不満は身体に…。
狸穴猫さま
ご要望にお答えしまして(笑)ひとつ。

『対応のコツ』の具体例をお願いします。
なんと言うか、自分からしても「感覚的用語」とか、具体的には思いつかないんですよね。
それに、個人毎で感覚の違いもあるでしょうから、狸穴猫流の対応例があると話題に広がりが出来てよいのではないかなと思います。
ほら、言うじゃないですか「亀の甲より…」って、失礼(笑)

閑話休題
感覚的用語を多用した会話を考えてみた。

A<○×って面白いよね。
B<あ~、確かに面白いけど、なんか、こう、もうちょっとグッと来るモノが欲しいね。
A<例えば?
B<そうだねぇ…。ダメになり始めると本気でズブるから、そこは何とかして欲しいかな。
A<ああ、分からんでもない。

どうでしょう?(笑)
マルマルさんへ
まるまるさん

過ぎた話題で申し訳ありませんが、下記のコメントに対しての前のコメントで「無欲」と感想をいただいた側として答えさせていただきます。



>「私はどうしてあげたら良いんでしょう」
というボールは、ささやかにヒゲ達磨さんが投げ返してくれましたが、
「あなたには、こうして欲しいのよ」という
ASの方の要望がとても希薄な感じがしたのです。

それは、ASの方の分析力の鋭さや、洞察力の深さや、表現力の巧みさや、視点の多角さからの、ものすごく豊かな情報量に比べ、ASの方からの具体的な要望が、極端に微量な印象を受けたからです。


nさんがおっしゃったように理解してもらいたいという感情がないわけではありません。

ただ、人間とは悲しいことに自分がそうでないこと状況は気がつきません。

いくらこちらが理解してもらいたいことでも、大多数の人間にとって自然にできていることでそれが生得的にかけている人間がいるとは思いもよらない、その中でいくら訴えても
「思い過ごし」
「考えすぎ」
「理解されたがりすぎ」
と逆に言われれば、まずそのずれはどこから生じるのか、と考え分析することから始まり、さらにそれがわかったところでどこまでが他人に訴えてある程度理解してもらえることなのか、そうでないのかがわかってきます。

であるならば、私の場合は自警するほうが手っ取り早い、と判断し、さらに質問の内容に関してはあくまで本人が実行しやすい形でないとアドバイスとして有効でないと思い、上記のようなコメントになったわけです。

「一般」か「個人」かに思うこと
AS者も定型者も個々に違うのは当然で、私も定型ですが((相槌の項で他の定型さん達とことごとく見解が違ったのでブログテストしてみたら思い切り数値が低く多分定型))定型皆さんの見解意見と、差異は多々あります。では、定型者も個々に違うからと、その時々で実際に関わる人を探ぐるとなると此のブログの意味はなくなるんじゃ…?
多数の見解なり心を知っておく事で色々チョイス出来たりするのかも知れません。

それと、傾向を知っておく(おきたい)という事だと思うんです。

これをAS者さんに置き換えるとやはり個々に違いますが傾向はあると思うのですね。
例えば5才児の傾向、特徴
思春期の傾向特徴など。
そんな中にも皆(例えば5才児思春期)個々に違うのはわかっていて実際該当者を前にした時、それらを踏まえながら個々への対応を取ってるのだと思います。
それとも傾向として纏められない程皆さんバラバラなのでしょうか・・・・?
余談ですがAS者・定型者を5才児とか思春期なんて置き換えてみると客観的に見られ皆さんそんなに抵抗ないと思うのですが。

それから前の方と被りますが、AS者定型コミュニケーションの仕方が同じに感じることあり、どちらのコメントか一瞬わからないことあります
コミュニケーションについて
おはようございます。

発達障害の心理検査では定型発達者的な数値を出したけれど
知能検査でアスペルガー的な数値を出し
幼児時代のエピソードが、アスペルガー児丸出しだったので
アスペルガーに診断されている者です。
医者からは「ご両親の教育が良かったのですね」とか
「努力で定型の考え方を身につけましたね」などと言われましたが
私の心根はアスペルガーなのだと思います。

前の話題に戻るんですが、
「あなたのために」「みんなが」で言われるとイヤってのは
ASに限らないと思うんですよね。
ASじゃない人でも、そういう言い方をされたらムカッときたり
ジワジワと蝕まれるように傷つくと思うのですよ。

私の考えだけだと「ASの意見なんて客観性がない」と思われるかも
しれないので、「ザ・非AS」といった感じの実家の母や
夫に聞いたけど、私に賛成してくれました。

「私、あなたのそういうところ、嫌いだな」よりも
「あなたのこと、みんなが『嫌い』って言ってるよ」のほうが
疑心暗鬼になっていくんです。
(これは、鴻上尚史さんのエッセイにも、そういうことが書いてありました)

だから、みんなのせいにして批判するのを
老婆心だとかみんなの代表のように正当化して発言した方が
いらっしゃったのは、とても残念に思いました。

あと、Rさんの発言ですが

>AS者定型コミュニケーションの仕方が同じに感じることあり

それは…。
幼児の頃は、AS特有の困った症状(思い通りにならないと人前でかんしゃくを起こすなど)がたくさんあっても、そのままでは人間関係が上手くいかないので、だんだんと学んだり、教えられたり、他人を傷つけ自分も傷ついたりしながら、ASじゃない人の人間関係構築の仕方に近づいていく人がいるんですよ。

AS本や福祉番組に出演しているASの人は、ASの困難や福祉の必要性を世間に訴えるために、症状や困難の重い人の話を出したり出演させているので、普通に働いたり結婚しているASの人には全く当てはまらないことも多いんですよ。

ASは相手のことを考えられない、心の理論がない、という扱いをされると、こちらを「対等な人間」として扱われていない気がして悲しくなります。

「kyotoハートネット」というブログのkyoto先生という臨床心理士の方は、発達障害者でありながら努力と学習で高いコミュニケーション力を身につけて、発達障害者支援の活動をされてる方なのですが、発達障害者の人の中にはそのような方もいるんですよ。

私の場合は、緊張すると恐怖に懲りかたまったような表情をしてしまうので、まだまだアスペルガー特有のぎこちなさや、ヘタクソなコミュニケーションの面は持っているんですけれどね。
感想について
さて。感想についてなんですが。

私は、子供時代に良い先生や友達に恵まれたおかげで
「あんたの感想は変だ」みたいな扱いをされたことがあまり無くて
日常生活では、自由に感想をしゃべることに抵抗はないんです。

でも、ASに診断されるような人には
子供時代に「あなたの感想はおかしい」「変わってる」のように言われて
先生に怒られたり、友達に無視されたりして
自由に感想をしゃべることができなかった人も少なくないそうなんです。

そういう扱いを受けつづけていたら、自分の本当の感想が言えなくなって
「事実」「立派な人の意見の引用」のようなことしか言えなくなっていくのも
無理もないんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか?

そういう人に、本当の感想を言ってほしいと願うのなら
根気良くその人の話を聞いて、「私はあなたの敵ではないよ」
「あなたの発言を変わってるとか変とか言って差別したりしないよ」
という態度をとりつづけて、根気良く
心をほぐしていくしかないんじゃないかなと思います。
それは何年もかかるかもしれません。

実を言うと、私も
インターネットで「アスペルガー当事者」として発言を書く時は
少し注意して、自分の自由な感想や意見を書くのはセーブしています。
私も、事実や、書籍や、学者の意見の引用で構成したような
ウンザリするような堅い文章をあえて書く時があります。

なぜ、そんなことをするかというと
それは、アスペルガーの知識のある人の一部には
「アスペルガーは認知が歪んでいて、想像力がない」
「アスペルガーの言うことは妄想やファンタジーだらけでアテにならない」
「アスペルガーは視野が狭くて、広い見方ができない」
「アスペルガーはひとつの考えにこだわり、色々な考えをもつことができない」
という前提をかたくなに信じたまま接してくる人がいるので
「素人でASの私の発言だけだと信憑性がないかもしれませんが
専門家でも同じことを言っている人がいますよ」という
例を出して、説得力を増すために
あえて、そういう書き方をすることがあるんです。

狸穴猫さんが、処世術として、あまり自分の感想は言わないで
聞き役に徹する話を書いていましたが
そのことも、とても理解できると思いました。

またちょっと話が脱線してしまって申し訳ないのですが
ASの人が人間関係をうまくやっていこうと思ったら
ASの側が、ASじゃない人に配慮するほうが
結局、上手く行きやすいことが多いように思うんですよ。

ASじゃない人達にASの困難さを伝えて配慮してもらうのは
ASの発言をASじゃない人に曲解されて過剰配慮にされたり
ASじゃない人から距離を置かれることが多いように思います。

可能性はひとつじゃない。
のらさんへ

「正当化」と言われると辛いですが、どんな事にも複数の可能性があると思います。そして、自分としては件のコメントで複数の可能性を示しているつもりです。
それはなぜかと言えば、どんな場合も一様に「こちらが不正解である。」と言うものではなく、その時々によってその言葉の奥にある真意は異なるものだと感じるからです。

もちろん、「それら(異なる真意)の差を判別するのが難しい」と言う事は特性としてあるのかも知れません。ですが、「単なる知識」としてだけでも「そういう視点もある」と言う事を知っておく事は損ではないと思います。
nサンのご意見が、よくわかります。
自分を主語にして話してほしいという考え、とても同感です。
そのような話し方はとても気持ちがいいと思います。

のらさんの、
>「あなたのために」「みんなが」で言われるとイヤってのは
ASに限らないと思うんですよね。
ASじゃない人でも、そういう言い方をされたらムカッときたり
ジワジワと蝕まれるように傷つくんですよ。

これ、私もそうだと思います。

昔心理学の授業で、ある先生がとても力説していたので、妙にそれだけ覚えているのですが、
コミュニケーションをうまくする方法として、
『私』を主語にして、「私はそれを聞いて、こういう気持ちです。」というふうに、私は自分の気持ちにのみ責任を持つ、とスタンスでの言葉を発するといいのだそうです。
相手を主語にして、『お前は○○だ。』とか、「あなたはもっとこうすべき」というと、相手は、自分の領域を侵されるわけですから、反発を生みやすくなります。
それでけんかにもなります。
そうではなく、自分の気持ちを表現するという形で主張する。「それをされると不快なんだ」という気持ちだけをを伝える。(それこそ感想の形ですね)
そうすると、相手は、そうか、とはっと気づいて、それならばやめよう、と自分で考えるなり、考えないなり、どうするかは相手次第です。

相手にも気持ちがあるし自由がある。人を変えようとするのは無理が生じます。
反発しか生みません。

要望って特にありませんが、もし言うとすれば、しいて言えば、このスタンスでお願いでできるととてもうれしい、ということですかね。私なら。

nさんも書かれていました。「マルマルさんが変わるともおもっていないし、変えようとも思っていない」と。
私も、このコメントで、人を変えようとか、変えられるとは思ってないです。けど、私の不快感は伝えたいと思いました。
ヒゲ達磨さんも、以前、「私が変えられるのは自分の態度だけですから」と書かれていました。
この態度って、定型とかASに限らず必要なことなのではないかと思います。
でも、そうでないコミュニケーションが非常に世間では多く、お前はこうすべき、とか言う批判の仕方が多いように思えます。
だからみんな傷つきあったり。
そんな世間は変えられないけど、それこそ自分のスタンスだけは、自分の信じるようにしたいと私自身も思っているので、「私はこう思っています」、とコメントの書き方で、特に人の考えを進んで否定したりしないようにしてます。

ヒゲ達磨さんが、以前、他尊自尊、自尊他尊のことを書かれていましたが、まさに、ヒゲ達磨さんは、いつもそれに気をつけてコメントされている、と私は感じています。
相手も尊重しながら自分の考えをいう。
ですから今回も、「マルマルさんがそう感じられたのは事実ですから」、と尊重しつつも、こういったらどうですか、と、あくまでも「提案」といっておられました。
それは欲がないのではなく、そういうスタンスで貫いているのだと理解しています。(そういうことでよかったですかね?)

それと、今回のこの、「どういったらいいのか」という疑問は、「そういうときは黙るのが正しい」という前提の元で上からいわれているように聞こえる点が、不快感を感じるようにおもいます。
たとえば、「私はどうしてあげたら良いんでしょう」 というフレーズの、「あげたら」ということばに、それを感じます。

「みんなが気持ちよく話している中で、長々と話をするのはASだからだ。」
「そのところを何とか治してあげたい。」
このような気持ちを感じるのです。
定型のようになることが、ASにとってもよいことだ。
定型の感覚になることが絶対的に正しい、といわれているように感じられるのです。
それは、定型優位、定型にあわせるのがいいにきまってる、というちょっと差別的なものを感じるのです。
私なら、友達ならもう少し対等の気持ちで同じ目の高さで、あわせてくれるところがほしいと思います。こういう人間なんだとうけいれてくれること。
もちろんあわせてもらうばかりではなく、こちらも努力は当然します。
こちらが話しすぎて不快感を友達に与えるようなときがあれば、そのときはぜひ、「長くなって疲れてきたからその辺でやめてよ、」とか率直に、自分の気持ちとしていってもらったほうがいいです。
こちらだって、友達にいやな思いはさせたくないですから。

ちなみに、私も、定型の中にもいろんな方がいていろんな考えの方がいるとおもっていて、実際私の友達は、類は友を呼ぶ、で、必要なことしか話さない、という人ばかりなので、したくない会話を長々とできるようになることが正しいとか、そうなれることに憧れはないです。
ただ、スキルとして、それを身に着けておいたほうがいい場所はたくさんあるので、身に着けたいとは思いますが。
心にもないことを言うこととかの多様で、人にあわせすぎで、病んでしまう定型の人だって多いと思いますから。
まわりにあわせすぎで、流れをとめられなくて、いじめになっていったりとか。
そういうコミュニケーションをあまりしすぎることは、精神面でかえってよくない所だってあると思います。

私は、診断を受けて、周りに理解を求められることができたら楽になるかな、という思いでこのブログを見始めましたが、残念ながら、ここで、マルマルさんの、ところどころの私にとって気になる発言を読んでいるうち、
ああ、こういう方もいるんだな、診断を受けると、こういう風に見られたりいわれてしまうこともあるんだな、と警戒を始めました。
気づいてはおられないかもしれませんが、ところどころで気になるお言葉があって、グサッときています。
何か問題があったとき、「これだから、ASは・・・」というような見方をすぐにされてしまうのだなと、思いました。
ちなみに現実社会では診断を受けていないので私はこのような思いはしてはおりません。ASとして登場しているここでのみの感覚です。
なんだか窮屈でいやなものですよ。

ただ、私がそう感じるなら、好きこのんでやってきてこのブログを読まなきゃいいじゃん、ってことになります。(汗)
マルマルさんはじめ、ここで心地よくやっている方の立場もあるのだから、そういうのが好きな方たちの自由だってあって、外からやってきて私がああだこうだと邪魔するべきでもないと自分で自分に突っ込みを入れました。
自分でそう思ったので、コメントももうあまりせず、時々読む程度にしようと思ってました。
なのですが、今回つい又書いてしまいましたが。
のらさんのコメントを受けて
のらさん、率直なご意見ありがとうがざいます。
先ず、良かれと思って発した言葉が結果的にのらさんやAS者さんを傷つける形になりお詫びします。
すみませんでした

私は一貫して「皆同じ人間」を述べて来てます。AS定型の「違い」を羅列するより「同じ」を訴えないのは何故か?も問いかけた事もあるんですね(これは回答頂き解決済みです)又、苦労して定型に合わせるより違いを認めて貰った方が楽に生きられるのでは?と述べた事もあり、私の根底は金子みすずさんの「みんなちがってみんな、いい」です。

ASさんからコミュニケーションが難しいと良く意見が上がってましたよね?
やり取りと言うか…
でも、私が見てると良い事も悪い事も含め(例えば不愉快な感想に対しやんわり指摘する方や棘のように責め立てる方、自分への指摘への返し方、何気ない言葉に相手に感謝したり、誠意を持って伝えたり等)がASさん対ASさん、ASさん対定型さんとどのパターンでもなされていて定型同士のそれと(わからない位)かわらないと感じたのですよね。

所で前にも言いましたが自分には自閉症ではありませんが知的障害のある子がいます(環境的に発達障害のお子さんもいます)
見たらすぐ障害があるとわかるのであからさまに「違い」を理由に差別的発言も受けたりする中(手を繋ぐと移るからときょうだいでさえ友達から手を繋いで貰えない事もありました)
そんな中「○○ちゃん私達と同じじゃない。出来ない事もあるけど違わないよね」と言って貰えると嬉しいものでした。

ですので上に戻りますが皆さん「コミュニケーション苦手と仰るけど私から見ると変わらなく感じますよ」の意味でした。
少しホッとして下さるといいなと思ったのです。

ただあの後の文章を間違って消してしまい「まあいいや」とそのまま投稿したのでとても言葉不足でしたね。
ごめんなさい。これで伝わるかどうかはわかりませんが私の想いです。
私も「善意の偏見」で嫌な思いは沢山してますので気を付けていきたいと思います。
レスのレス
Rさん
のらです。
Rさんの発言には、全然いやなキモチにはならなかったですよ。
ASの人にもよるのでしょうが、私は
「ASの人も定型の人も変わらない、同じ人間だ」って言われるのは
嬉しいほうなんです。(^▽^)ニコッ
私のほうこそ、言葉が足りなくて、Rさんに悲しい思いをさせてしまってごめんなさい。


Yさん
同じことを私も感じていました。(`・ω・´)
私は自分がASに診断されたことは、日常生活では、夫以外、誰にも言ってないですし、これからも言わないつもりです。
のらさんへ
コメントにレスは頂けない様で、ちと凹んでおります。
で、自分とのらさんのコメントを読み返したんですが、行き違いがあるような気がします。
自分は、のらさんがご指摘されたコメントについて「批判」と限定したつもりはありません。
これについては、のらさんの誤読ではないかと思います。

当該コメントについて、もう一度説明します。
第一に、のらさんの書かれた様な事も当然としてあると思います。
これについては、自分自身にも経験は多々あり、気分のいいものでない事は同意できます。
特に「あなたのため」と付く様な言葉(この言葉について、自分は言及していませんが)には、特にその傾向が強い様にも感じます。(ドラマなどでもよく出てくる台詞ですね。)

第二に、実際問題として「みんな」とか「一般」が適当な場合があるのではないか?
これについては、確かに皆さんが言われている「一人称単数」の物言いもいいと思います。が、対人距離的に遠い人からそう言われても心に響くのでしょうか?
個人的には心に響く前に(対人距離の踏み込まれ方に)驚きますし、「押し付け」と感じる事もあると思います。また、発言者側に立った場合は言えません(そこまでは踏み込めません)。
とは言え、言い換えて「個人的には~と思う。」と言う様な言い方はしますが。
また、「注意」や「忠告」の場合、「みんな」や「一般」とする事により、その内容を受け入れ易く出来る場合もある(特に大人の場合)と思います。

第三に、「みんな」や「一般」が使われた言葉であっても、それが全て「嘘」や「責任逃れ」ではないのではないか?
これは、可能性の話ですが、「嘘」や「責任逃れ」以外にも、「老婆心」(かなり誤配慮な香りはしますが…)や「好意」など、当事者の事を思っての言葉もあるのではないかと思います。
それらを十把一絡にネガティブな方向に持って行くのはどうかなと感じますね。
(おそらくは、それらを理解した上でネガティブな事柄のみを挙げられていたのだと思いますが。)
当然の事ながら、ネガティブなもの(悪意や怒り、利己心など)もあるでしょう。

で、最後に、意見として異なると思うのであれば、直接ハッキリと言って欲しいですね。
のらさんは気付いているかどうか分かりませんが、周囲の人(みんな)に聞いて自分の意見を補強し(一般的に)「残念に思った」とコメント(批判?)するのは、のらさんが好きでない行為と何が違うのでしょうか?
(と、思いっきり自己矛盾しておりますが、それでもそこに好意など、相手を思いやる気持ちがある場合もあると思って言います。もしかすると、ASの方は全く別のものと認識し、無意識のうちに受け入れている可能性があるのかもしれませんが…。)
マルマルです。
のらさんやさかいさんのコメントの
「自分の過去の経験で、大多数の人相手に訴えるより、自警や工夫する方が手っ取り早い」
という内容で、数の脅威、数への対応の道中に、いかに傷ついて来られたか・・ということが伺えます。

Yさんにお尋ねしたいのですが・・
私の言葉や表現の「どこ」「どういう箇所」がYさんを傷つけているのでしょう?
実は、ここが一番の私の問題点でもあり、ヒントが欲しい点でもあります。
Yさんは「あなたには傷つけられた。私は去る」

これは、過去ASの方に聞かれた言葉ですが
「去った方は良いかもしれないが、言われっぱなしでずっと疑問を抱えたままで生きて行かなくてはいけない私はどうすれば良いのでしょう?」
今の私の気持ちと同じです。

その答えがどのようなものであろうと、そこから反省、納得、今後のヒント、方向性が生まれて来るのではないでしょうか?

私はアス君とひとつ約束をしています。
「あなたには解らない。
解ってもらいたいとも思わない。
この言葉だけは言わないようにしようね。」

解るか解らないか。変るか変らないかは、他者が判断することではなく、本人の意欲や姿勢によって結果が違ってくることだと思います。

私は定型の1人として、解らないから聞きたい。
教えていただきたいのです。

「ASと知られると、偏見やよけいな誤解を受けるので、親近者だけにしか言わない」
というご意見は、最もだと思います。
言う事で、多大なダメージや誤解や偏見につながるなら言わない方が良いと思います。

でも・・・それを恐れたり拒んだりすることすら出来ない場面もありました。

ASの方も、千差万別の個性、特質があると思いますが、私のASの友人は、年老いた父親が
「わしは豆と豆腐とちくわさえあれば良い」という言葉に忠実に、日替わりで「それだけ」を与えていて、
「父親急変」の知らせを聞いて私がかけつけた時、父親は栄養失調で歩くことさえままならぬ状態でした。
父親の入院先でも、医師や看護師さんの言葉のニュアンスが解らず双方で混乱を重ね、
さらに本人が体調を崩し入院に至ったときも、医師とのコミュニケーションを欠いて誤解されてしまいました。

ASの方々がこの友人のパターンに入るとは全く思っていません。理解力やコミュニケーション力は、定型者も様々ですから。

ただ、こういう場合、私は医師や看護師や福祉の方に、友人の特性を説明し、理解してもらい、友人に解りやすく誤解の無いような説明や指示をもらえるように頼む位置にありました。
同時に、友人にも「言葉の向こうや、言葉の背景」を説明する位置にもありました。
友人には、年老いた父親しか家族、親族は(同県に)居ないので、急場には周囲の仲間の協力が必要です。
同時に、友人がAS者ならば、その知識も必要です。

私は当事者ではないので、当事者の方々が経験されてこらた気持ちが解っていません。
日頃、使い慣れた言葉や表現をそのまま使用し、それが当事者の方を傷つけているならば、悪い事をしたと思います。
でも「どこが」が解らないと、改善、解決にならないので、教えていただきたいのです。

私の「ささいなこと」が、相手にとって「とても大きなこと」になりうるように、その逆もあると思うのです。
質問自体が無礼失礼もあろうかとは思います。

コメント全体をとらえて、その人の真意や姿勢を感じての意見なのか
全体の中の一言をとらえての意見なのか
その見極めも、今の私には解らない時があります。

ただ「気に入らない」を批判や拒絶で終わらさず「なぜなら」と教えていただかないと・・・

解りたくても、解らないのです。





















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う~~ん。
何か物事を複雑に考えすぎているような気がします。定型の方もASの方も。
大福さんの書いてくださった内容で、私的にはすっきりしました。
実生活の場面ではそこを押さえておけば何とかなるような気がします。
記述的に感想(意見など)を求められるときには狸穴猫さんの書かれているとおり、素直に意見見解を書けばよいのだし、噂話、悪口陰口の類の「感想」は聞き役に徹するか、場合によっては「こいつは誰の味方なんだ?」と観察されている場合も想定して、
ふ~ん。へ~。そうなんだ~。
後は代名詞と、形容詞を多用する。
しゃべるのはせいぜい二語文。
「あなたはどう思うの?」と追及されたら
「わかんない~~」でごまかす。
というのはどうでしょう?(このしゃべり方だと女子限定かな??)

それから、マルマルさんの例題は、あまりにも特例的過ぎる様な気がします。
実際場面において、ASとカムアウトしている人が、多数の人の中で、話が止まらない常態になることはあまりないのではないでしょうか?
AS無自覚な方、あるいはこどもなら、考えられますが・・・
その場合、ASの人に「どうしたらわかってもらえるだろう」よりも、定型者ならば、周りの雰囲気を変更させるように上手に話を変える工夫をすればいいだけの話だと思います。
そして・・・
その例題がアス君(仲のよいAS者)ならば・・・
あとで二人だけになった時に、ゆっくりと彼にあった方法で、お話してあげればいいんじゃないですか?
集団の中で、何かを指摘するのはたとえどんな言い方をしても、されたほうは傷つくと思います。AS、定型にかかわらずね。
ちくわと納豆とお豆腐のお話も、極端すぎます~。
それはASの問題ではなく、福祉の分野に入ると感じました。

でも、マルマルさんは、本質的に優しい方だと思います。
そう、力まずにAS、定型という枠を考えずに、ASの人の手助けをしていったほうがいいと感じてしまいました。
○○という言葉は使わないでほしい。
と言うのも、ちょっぴりゴーマンさを感じました。
理解できないうちはそんなことを言われるとストレスがたまります。(うちの息子の場合)
きちんと理解してもらってから、でないとつらいと思います。

生意気なことを書いてごめんなさい。
定型ASの枠だけにとらわれると、見えるものも見えなくなる。と思いました。
単純に困っている箇所だけを、丁寧に解決していけばいいと思いました。
あ、私、AS児の母親でAS傾向ありの未診断者です。
長々と書いてしまって、申し訳ありませんでした。
友人の受け止め方
この所、マルマルさんの言葉に対するいろんなコメントが続いてますが、マルマルさんを含め皆さんのコメントを「…そうなんだ」と読んでおります。
自分には良くわかりませんが2つだけ、あり得るなと思う事を述べると、

1. アス君の重量感ある言動に周りの友人は困惑している事実があり、それにより友人達の反応でアス君も傷ついている事もマルマルさんは知ってる。
ですのでこの場合の「みんな」や「あなたの為」はあり得ると思うのです。
ただ、アス君に「みんな」を使うと吊し上げのようになりますので「私」の方が良いと思うんですね。
そして、この場合話を制止しアス君に譲って貰う選択しかないわけでなく、そこはその場の状況判断によると思います。

2.「~してあげたい」は親→子・先輩→後輩・上司→部下・先生→生徒のように上下関係で使われますが、対等な友人関係でも自然に使われる事もあり得ると思います。

友人は対等ですが、どちらかが傷ついたり、困ったりした場合はそこに元気度や辛さ度の優位立場はコロコロ変わるわけで、例えばマルマルさんが何かに行き詰まった時アス君の得意分野を教えてあげる事でマルマルさんが前へ進めるなら「わかるように教えてあげたい」とおもうと思うんです。

以上2点ですが、これらや色々な言葉は受け止める側も発する側も「AS者の友人(アス君)」と捉えているか「友人(アス君)のAS(障害)」と捉えているかで言葉の持つ意味が大きく違って来ると思います。
今までのコメントからマルマルさんはアス君の保護者的ニュアンスを感じる事もありますが、文字からだけでは私にはわかりません。そして、この場はマルマルさんを語る場ではなく、第三者の私がコメントするのはどうかと思いましたが、首を突っ込ませて頂きました。すみません。

==========のらさん、そのように言って頂けて安堵してます。
ありがとうございます。
マルマルです。「ありがとうございました」
はるぽんさんのご意見に、思い当たる事、多々です。

「あなたには解らない。
解ってもらおうとも思わない。
この言葉だけは言わないようにしようね」

この約束は、アス君の担当医に
「お互いや周囲の関係性に、最も大切だと思うルールをひとつ決めて接したら良いのでは」
と言われ
アス君に意見を聞いたら
「この言葉だけは言われたくない。これを言ったり言われたりしたら、もう・・・お互いに掛ける橋がなくなるでしょう」
ということだったので
「解った。では、そうしましょう」
と、私が復唱した言葉でした。
文章が足りず、こちらが言い聞かせたような印象になったこと、すみません。

私のASのとらえかたの前面にアス君が居たので、
私のコメントの具体例がとても極端で「AS者を全てそういうイメージで見ているのか」という不快感につながったこともあるのだと解りました。

担当医の
「アス君はごく軽度の自閉度の、ASの方なのですよ」
という見解を、私はとても狭い感覚でとらえていたようです。

福祉の方も、アス君と会った時、どこで学んだか
「やたらゆっくり大きな声で、読み聞かすような」話し方を心がけていて
アス君は「バカにされた気分」と怒っていましたが、やはり、かまえこむ、リキむ、ということが、誤解の第一歩かと気づきました。

私も、もっとたくさんの方のコメントを読み込んでから、質問とかしなければいけませんね。

ありがとうございました。


こんにちは
 はじめまして、日頃から狸穴猫さんのブログをやヒイロさんのブログをナルホドと感じながら読ませて頂いてます(旦那さんのはちょっとだけ)。最初の記事からコメントも含めて読ませていただきますした。色々な考え方、感じ方があるのがわかって本当にためになります(面白くもあります)。

日頃から、いわゆる発達障がいの子どもたち、方、また、もっと見える形でのニーズを持つ子どもたちと、楽しく接する機会を持つ者です。

マルマルさんの最初の質問を読んだ時”どうなんだろう”と私も思いました。そして、狸穴猫さんの3分を読んで”ナルホド”と思いました。ただ、Asとか定型に限らずです。

突然で乱入のおきてやぶりかもしれませんが、勘弁してくださいm(_ _)m

私が伝えたいのは、どんな個性の子どもでも大人でも、何にも感じない、傷つかない人なんていないと思います。その感じかた、気付き方、表しかたとか、色々あると思うのです。言葉や文字で表しにくくても、他の行動や表情や色々な手段で。察することが得意でなくとも、感想がうまく?言えても言えなくても構わないと思います。

相手に好意を持ったり、友達になりたいと感じるのは、言葉や会話だけではないはずです。

だから、お互い相手を傷つけたいなんて思っていないのなら、コメントのように文字だけでは、誤解もあって普通だと思うから、”わかりっこない”とか”立ち去る”とかおっしゃらずに、気長にやって欲しいと感じました(会ったら気が合うかもしれませんし)。どなたかが他尊自尊…アサーションについて言われてましたが、大事なことだと思います。
”みんな違うのだな”と”うまく伝えられない””わからない、誤解してるかも”って感じているのだから、伝えること、わかろうとする心が大切だと私は感じています。
どんな個性の子どもや人であってもお互いにコミュニケーションをあきらめてはいけないと思います。 わかりにくいですが少しでも、伝わればと思いコメントしてしまいました。
乱入失礼いたしました

マルマルです。「Rさんへ」
現場解説・・というのか、非常に的確な状況把握を
ありがとうございます。

まるで、その現場や経緯を見ていたかのような
コメントで、私のアス君へのかかわりようが「保護者的」
というのも、私自身の心情や、感覚を正確に表現していた
だいたと思います。(担当医にもそう言われました)

そういう情緒的かかわりゆえに、関心が前のめりになり
冷静さや客観性が足りなくなっていた、と反省します。

説明や、質問の仕方・・・に配慮が足りなかったと
Rさんのコメントから学びました。


初めまして
2、3ヶ月前から拝見しています。ASぽいところが思い当たる未診断者です。さて、定型者から質問あると[アスペルガーをひとくくりにしないで・みんな違う]との意見がAS側から出ますが、どうもバカにするなと取れ(それは文句になっているから)[一緒にしてくれるな]との気持ちが強い気がします。それはアスペルガー内差別のように程度の困難なASから見ればそれこそ傲慢には映りませんか?
[あなたのことです]と言ってるわけではないですし定型者がそのパターンに合う、また今合ってるAS者の理解が増えれば対人困難なその人のストレスが減り過ごしやすくなると思います。自分のことも誤解されたくないかも知れないけど、ASとしてひとりのASが救われるのは、仲間?が救われるのは嬉しくないですか?
あと、定型者のこと今まで[定型者は]とひとくくりに分析してますね
きょんさんへ
定型者をひとくくりにして分析して論じちゃってる首謀者は私ですぅ(^o^)

ま、必要悪だと思いますよ。
アスペルガーも定型も必要から生じるラベリングです。
ばらせば個々人・くくろうと思えば集団。
どうしてそこが問題になるのか私にはわかりません

同じ障害で差別が生じるのかについては
障害の受容の問題が関わってくると思い、新たな記事を起こしてみました。

ではでは。
感想と意見のちがいとは
こんにちわ。
私もアスペルガーだけど、感想がわからないというのが私にはわかりませんでしたね。感想とは読んで字の如しで、本を見て自分が感じて思ったことを書けばいいのではないかと思うのですが。
意見と感想のちがいは自分も考えてみたのですが、感想が読んで字の如く感じて思ったことだけど、そこに第三者が介在することは前提にしてないけど、意見はやはり読んで字の如くで、自分の意を見せたり他人の意を見たりすることだと思うのですが、誰某に意見を求めたり意見を交わしたりなどというように、第三者が介在することを前提してるのが意見ではないかと思います。
RE:感想と意見のちがいとは
うーみゅ、やっぱり私だけかしらん。
講演会の感想なんて、よく書けるなと思うんです。
第三者が介在しないとなると「へぇ」「ほぉ」しか出てこない…
どこから出て来る・・?
感想の親は感情。
意見の親は脳。

感想は、独り言でも成立。
意見は、相手が居て成立。

似て非なるもの・・という感じがします。
Re: どこから出て来る・・?
うーん、どっちも脳機能なのは間違いない。

ただ「感想」は曖昧なイメージがありますね。
それで私はピンと来ない。

テンプル・グランディンさんが「幸せ」がわからないのと同様かも…

ってえと、私って結構重症なほうなのか…。

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アスパラガスの会は、大阪南部を拠点に活動する成人自閉症スペクトラム障害者の自助会です。1ヶ月に1回の集いを中心に活動しています。アスパラガスの会ホームページはこちら

第78回アスパラガスの会は2017年7月22日(土)開催です。
テーマ:気分や感情面での困りごとを思考・行動から考える(自閉症スペクトラム者の「あるある」な困りごとシリーズその3) 参加登録受付中 2017年7月10日(月)迄

アスペルガーライフblogの発達障害関連動画

発達障害の常識とやらにツッコミをいれてみる !

発達障害に関するよく言われるセリフってなんか変!

自閉症(ASD)児者の聴こえ方を疑似体験!

自閉症児者の聴こえ方を定型発達の方に疑似体験していただける動画を作ってみました。

この動画に関する詳しい説明はこちらの記事をどうぞ。

うわ!狸穴猫が本に登場してしまった
かなしろにゃんこ。さんの新刊に狸穴猫が登場します。
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