当然、障害の受容過程にも様々なケースがある。
さて、アスペルガー症候群の診断は医師にしかできない。
となると、当事者の障害が判明するためには、当事者が何らかの事情で精神科の門を叩くという経緯をたどっている事だけはほぼ共通するだろう。
(まあ、なんらかの精神福祉相談の途上で心理検査等をし、心理職から「可能性の示唆」をうけたという状態の「未確定」者という場合もあるだろうが)
で、受診や相談のきっかけというのが、ちょっとくせ者だと私は思う。
周囲との違和感に悩んで…なーんていうのは、未だ多くないだろう。
私のケースは極端だが、ちょっと披露しちゃうと…
(前も書いた気がするが、ま、いいだろう)
1息子がアスペルガー症候群の診断を受ける
(参考書籍を読むよう薦められる)
2参考書籍を読むと自分にもあてはまる事が多いと思う。
3たまたま別件でのPTSDの症状が悪化。
4これは発達障害がわかっている医師にかかった方がいいと判断
5息子の通院する病院の相談窓口に相談
6受診の予約をとり、ケースワーカーとの面接を重ねる
7受診に至り、PTSDの診断のついでにアスペルガー症候群の診断も下る。
(実はこんなのは珍しい…。ろくに関係ないPTSDが関わっている。)
だいたい、適応障害先にありき…、あるいはうつ病先にありき…で受診に至るケースの方が多い。
例えば…
職場・学校に適応できずに鬱になり精神科を受診してアスペルガー症候群との診断がつく。
とか、
主婦になって自分が「片づけられない女」である事に悩み、
ADD・ADHDではないかと思い、受診。
意外にもアスペルガー症候群と診断される。
(ネット見ていると意外にこのパターン多い…)
とか、
様々な精神症状(フラッシュバック・解離・自傷・引きこもり・統合失調症類似症状などなど)の出現をきっかけとして、周囲のすすめで受診に至りアスペルガー症候群との診断がつく。
などが主流であると考えられる。
あと、それなりに多いのが、子どもがアスペルガー症候群で、勉強してみたら自分もそうであるのではと思って(または子どもの主治医に指摘され)受診に至り診断を受けるケース。
で、これらはさらに、周囲との違和感を子どもの頃から感じていたケースと、そうでないケースに分けられる。
どんなきっかけで受診に至るかはともかく、前述の「違和感」の有無が結構障害の受容に大きな要素として関わってくるだろう。
私なんぞは、小学校のころから違和感はバリバリにあるわ、いじめは受けるわで、「ふつーのひと」っていったいどういう思考回路なの?と9才くらいから常に思っていたので、診断を受けて
「やっぱり違ってたのね!!あースッキリ!」
だったり、
「今まで、私って結構がんばってたのね~」
であり、さして診断を受けた事に抵抗はないのだが、違和感がないケースは初期の抵抗が大きいだろうという事は想像に難くない。
違和感に悩まずに育ってきた人(症状の軽重とは関係なく)や、本当にそうかはともかくも、自分は普通と思い続けてきた人にとっては「障害」の2文字が大きな混乱の原因になってくるだろう。
特に家庭環境や教育環境において恵まれており、自然とSST(ソーシャルスキルトレーニング)を受けてきて、コミュニケーションスキルが高い人の場合、「自分が障害者」として生きざるを得ないということに関して抵抗が強くなりやすいと思う。
その結果、
「障害があるということで同じ人間
として対等に扱われないのでは」
という新たな不安をかかえるハメになるといったことはあるのだろう。
あと、いわゆる三つ組みの障害
「コミュニケーションの障害」
「想像力の障害」
「社会性の障害」
があると言われてしまうという事にも抵抗が生じやすい。
一応であっても社会適応できているケースでは
コミュニケーションの障害・社会性の障害を指摘されても
「私は適応できている!」
といった反発も考えられる。
想像力の障害…というのも訳のわからないもので
「私は想像力はあるわ」
といった反発も出やすいだろう。
(ちょっと想像力の障害の厳密なところについてはおいておく…いま思考中なので)
また、特徴として、
ファンタジーどっぷり…とか
考えの幅が狭い…とか
人の気持ちがわからない。
などと書籍などで紹介されることが多いが、
ま、そう言われてうれしい成人当事者は少ないだろう。
これに関しては、違和感バリバリで育ってきた私ですらかなり抵抗があるのだから、自分を「普通」と思ってきた人にとってはなおさら受け入れがたい事であると思う。
また、実際、二次障害で解離・同一性障害・人格障害・妄想様観念・ある種の攻撃性を伴うケースがあるし、この手の例は書籍などでもしばしば当事者の手記などでもあるのだが、
これらの症状がない人の場合、それらの症状に対する知識や理解があるわけもなく、それらの症状に対しては逆に非常に差別的に、
「そういう人と一緒にしないでほしい」
といった思いを持つ事も十分考えられる。
(私はたまたま身近でそういった人と接する機会があった…実はPTSDのネタの元夫だが、それで現実として二次障害のあるケースの困難の大きさを受け入れざるを得なかった。
それからもう一つ、
特殊事情として、凶悪犯罪などの容疑者がアスペルガー症候群はじめ広汎性発達障害を持っていたといった事件がここ数年多かったので、その関係からも障害の受容がしにくくなっているという部分もあるだろう
「犯罪者と一緒にしないでほしい」
といった反発は当然出てくるだろう。
子どもの頃、十分な支援を受けられずに育った人が多い(つまり二次障害の多い)現在の成人アスペルガー者に対して、二次障害を発せずに育つ環境にあった少数の成人当事者が
「自分はとてもラッキーであった。」
「もし環境が悪ければ二次障害でどうなっていたかわからない」
そう思えるほど、実際自分に余裕があるわけでもないといったケースが大半だろう。
障害は障害として、厳然と存在している。
いくら抗っても、聞き違えはするし、人疲れはするし、片付けは下手だし、結構こだわりはあるし、会話では迷うし…等々さまざまな困難はある。
障害による「困難」を何らかの手段を用いて軽くすることはできるだろう。
しかし障害は明らかになった時点で、最終的に当事者本人が受容しなければならないもののであるのも事実である。
障害者は社会的弱者であることは明かである。
(でなきゃ障害者福祉なんていらないもんね)
しかし、これも「弱者」であっては対等な人間関係を結べないのでは?
といった危惧を成人当事者に与える原因となっている。
特に、アスペルガー症候群者に対して、「いかに支援べきか」が、確立していない現在、トンチンカンな支援や配慮がされたりして、「対等感」を当事者が持ちにくいといった現状がそれに拍車をかけているような気もする。
もちろん、これらが改善されれば、前述の当事者の危惧は徐々に解消していくであろうことは期待できるが、「現状」はそうではない。
ともあれ、成人アスペルガー症候群当事者の障害の受容の前には
「発達障害者」となることへの抵抗感
アスペルガー症候群についてよく言われる事への抵抗感
自分と異なる二次障害を持つアスペルガー症候群者へ心理的距離の遠さ
不適切な支援への抵抗感
など多数の壁が立ちはだかり、アスペルガー症候群当事者の障害受容への阻害要素(葛藤要因)となっていることは間違いないであろう。
そして違和感や二次障害が軽いほど、逆に障害の受容には困難を伴う可能性も大いにあると考えられる。
おまけであるが、これらの事から、支援者には、成人当事者が「障害受容」の道筋の途上という葛藤の中にある可能性を考えながら接して欲しいと思うのである。
肢体不自由など、他の障害では既に当たり前化している
「障害者は社会的には弱者、しかし人間同士としては対等」
という常識が、発達障害においても常識となることを切に祈り、一旦この稿を終わる事にする。


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