定型発達者はなぜ「世間」「みんな」を根拠に主張するか その1

定型発達者は



「みんなそうなんだから…」
「世間一般ではそうなの」



という主張の仕方をしばしばする。


アスペルガー症候群者では、それに対し「???」と思った経験がある人は少なくないだろう。



特に親が定型発達者の場合、


「みんなそうなんだからそうしなさい」

的なことを言われて、「みんなって誰?」「世間って誰」と疑問に思い、




「みんなって誰のこと?」

とか、

「あなた(かーさん)がそう思うんでしょ」
とか

「それはあなた(かーさん)の押しつけでしょ」

などと口にして、



「減らず口をたたくんじゃない!」(怒)

とか、

「話題をそらさないの!!」(怒)



ってな目に遭遇することもままあるようだ。

(学校で教師も多用するような気がする。)



さて…


社会に出てもこれに類することは多々あるので、


「みんな」「世間」を根拠とする主張で不愉快な思いをした人は少なくないと思う。



しかし、定型発達者は、


アスペルガー症候群者が、「世間さま」とか「みんな」という主張の根拠がわからないということが「わからない」ようである。



結果、こういった「世間さま」を持ち出した論議になるとアスペルガー症候群者も不愉快、定型発達者も不愉快という、ドツボにはまる。



これは両方にとって得なことは何もない。



さて、なぜこんなことになるか考えてみる。



定型発達者の場合、他者と共感するシステムが脳に備わっているが為に、ある種「錯覚(あるいは幻想)」として「共通認識」が自動的に「想定」されてしまうようである。


まあ、とどのつまり、そういった「認知」の仕組みがあるとしか言いようがないのだが、



定型発達者は「世間さま=共通認識」という発想から自由ではないのだ。


それゆえ、


「世間一般」「みんな」に疑問をはさまれると、


定型発達者にとっては、それが

「”あるもの”と認知されてしまっている」

ものなだけに、


「減らず口」
とか
「話題のすり替え」


などと、悪いようにとってしまうのだ。


共同感という「心地よい錯覚」が崩されるので不安になるというのもあるかもしれない。



だから、アスペルガー症候群者のとれる対策としては、「世間では…」「みんな」という意見に対しては、少なくとも表面的には逆らわない方がいい。



定型発達者にとってはそれは「あるもの」なのだ。否定されて嬉しいはずがない。


そこんとこは理解してあげよう。



だからここは面従腹背大いに結構!ということで、乗り切るべきだろう。



ただ、とりあえず、服装や言葉遣いなどのTPOに関しては、乗っかっておいた方が無難である…ということも覚えておいたほうがいい。なぜなら、この世は定型発達者主導の社会なのだから。


それをわかった上で、外れるかどうかを選択をする方がアスペルガー症候群者にとっては精神衛生上いいだろう。


もちろん、法律の許す範囲内でということは言うまでもないが。



=========

ちなみに、定型発達者の共感のシステムに関しては、「ミラーニューロン」の発見を発端に、脳科学がかなり解き明かしつつあるようだ。

=========


最後に定型発達者の皆さんに向けて…


極力「世間」とか「みんな」を根拠にした主張はしないで欲しいと思うし、それを無理にわからせようとしないで欲しいと思う。

アスペルガー症候群者の方は理不尽と感じるだけなのだから。

「私は…」で主張してくれた方が、よっぽど分かりやすいのだ。


どうしても「多数派の考え」を理解して欲しい時には、

「こうやったら、こう思われることが多いと”私”は思う。」

とでも言ってくれた方がアスペルガー症候群者の反発が少ないだろう。


その2はこちら




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コメント

なるほど…
>「こうやったら、こう思われることが多いと”私”は思う。」

確かに!この表現のほうが、私(AS)は受け入れやすいですね。この表現のほうが、相手の誠意を感じます。

私は、「みんな」を使って説明されると、相手に「逃げ腰」を感じてしまいます。
「"みんな"なんて、ごまかさないで、正々堂々と"自分の意見"だっていったら?」って、怒り倍増…(^_^;

これって、真正面勝負を生理的に避けようとする定型さんには、意味不明な反応に見えるんでしょうねぇ…

私自身は、"自分の意見"としていってもらったほうが「誠意」を感じるので、"受け入れやすい"です。
「誠意」の感じ方も定型の人とちがうってことなのでしょうか…

狸穴猫さんはどう思いますか?
2種類
「みんなそうだから・・・」は、判断の基準であることもあれば、口実であることもありますよね。

口実というのは、例えば子供を叱るときに、
周りに合わせさせたいときには「みんなそうだから」というのに、
周りに合わせさせたくないときには「よそはよそ、うちはうち」などというケース。
これは「親の方が偉いんだから黙っていうことを聞け」という思想があるんでしょうねえ・・・
上司とかでも同じ。
日本国憲法第14条(平等権)なんてあってないようなものです。

判断の基準という場合だと、
「合わせておけば損することは少ない」というような経験則ならアスペルガーでも持ち合わせますが、
「合わせないと流行に後れる、共感できない・されない」みたいな考えは多分定型特有なんでしょうねえ。
この文章が一番楽ですね♪
>「こうやったら、こう思われることが多いと”私”は思う。」

我が家では、わたしの母がこの言葉を使用していたからか、これが普通の会話で、娘等も普通に使用します…(^^;
 
みんなとか世間という言葉を使用すると、「ねぇ、それって、何人?何処にいるの?」と真顔で尋ねられますぅ。
思い出しました
「みっちゃんのためにしったってる」という言葉、実は「いってるあんたのためしてる」という言葉を突っ込みたくなります。
私はアスペなんですが…世間は~、みんなは~を連発します(^_^;)
それは、支援者の人達にアスペと定型の人との違いを理解してもらおうと説明するときに使います。ですが、反応はなぜか人それぞれ違うやそんな人くくりにできないなどと返されるんです。
かと言って、具体的に症状を説明するとみんなそんなもの、同じだよと返されるんですよ。
正直、ならどう説明したらいいんだよ!と思います(-.-;)
>それをわかった上で、外れるかどうかを選択をする方が
アスペルガー症候群者にとっては精神衛生上いいだろう。

そう思います。子供にいろいろと教えてやったりするんですが、
「これをすると多くの人はあなたの事を悪く思う、
わかった上でやるのならあなたの自由だと母さんは思うので、
自分で考えて行動してちょうだい。」
そういう風に教えていると、学校の先生から
「お母さん、本当にそれでいいんですか??」と言われました。
「非難されるのをわかってやるのなら本人の自由だと思いますけど…」
と返答したら怪訝な顔をされました(^_^;)
みんなとちがっていいよというまやかしの文言
みっちゃん@エンジン全開

ハッキリ言って、「気休め」にしか思えないのですわ。

「だったら、同じ動作してるのはなんで」「同じ動作はしないやろ」

と思ってしまいます。

特に、みんなと違う人が会話してる、「会話の演奏」できてるのは奇怪です(T_T)

だったら、音楽の基礎を教えてくれたってええやん!
なんて思ってしまいます。

うまく綴れません。


狸穴猫さんへ、リクエスト
「最後に、定型者さんに向けて」のPSコーナー、是非、今後も続けて欲しいと思います。

定型者には「ASとは」の説明と同時に「ASには」というアドバイスが必要です。
本などの説明だけでは「ふぅん」「そうなのか」で終わってしまうからです。

ちなみに定型者が「みんな」とか「世間」とか言う潜在心理には「めんどくさい」という本音が潜んでいると、私は思っています。

■いちいち「私は」「僕は」という主張がめんどくさい。
■「私は」と言ったからには、自分の発言に責任もたされるようで、めんどくさい。
■1対1の論争がめんどくさいから「みんな」「世間」でまとめて封じ込めたい。
■「私はこう思う」などと主張して目立ってしまう事がめんどくさい。
■話を早く終わらせたいときに、つい言っちゃう傾向。

めんどくさがったり、封じ込めたりしたいわけですから、確かに「みんな」「世間では」の乱用は、誠実な言葉ではないと思います。
同情するなら金をくれ的発想
マルマルさんのコメントにて。

”■「私はこう思う」などと主張して目立ってしまう事がめんどくさい。 ”

って目立つことそんなにもいやだったのかな?

むしろ、目立たないと認知できず、認知してもらえなくなるのです。

めんどくさいなら、最初かかわらんといて!

とツッコミたくなります。

うちの家族がそう!
口癖のように『世間では~』って言ってくる(笑)。


あたしは

『一体、何軒のお家の1日を観察して回ったんですか(笑)』

って突っ込みたくなります。


さらに、


『自分の家のことだけで“世間は~”って言ってるのバレバレなんすけど(笑)』

と冷静に突っ込みいれたくなります。


突っ込み入れたくなるのであれば、敢えて聞かないほうが楽だし、相手からの攻撃も最小限で済むでしょう。
あたしは突っ込み入れまくって離婚沙汰に何度かなりましたが(´ヘ`;)
かぶり物としての言葉
「みんな」や「世間」という言葉を使って、ものごとを主張するやり方。

応用編としては「主人がダメって言うのよ」「子供がこう言うもんですから・・」「姑がその方が良いって申しますものですから」・・・など、自分以外の人を全面に押し出して、実は自分の意志を伝えようとするやり方。

だいたい・・そういう時は「あぁ、それがあなたの本音なのね」と察するのが定型者の受け取り方だと思います。

「みんな」「世間」も同様に、多数派にまぎれて自分の意志を相手に押し付けたい時に、使いがちですね。
定型者にとって圧をかけたいときの便利な言葉と言えましょう。

しかし・・・ASの方には通じない。

「みんなって何人よ?」
ある意味、痛快な反応ですし、正論ですよね。
わかります。
私の場合は、子供のころ「普通は~でしょ」という説教をよく受けたのですが、

「普通って何?」

と突っ込みを入れて火に油…ということが多々ありました。

今でこそこんな突っ込みは入れませんが(笑)、やはり「普通」という一般論はこう、となぜ特定の個人が断言できるのだろう?と疑問に思いますし、「じゃあ、あなたの意見は?」とも思います。
はい、同様です。
私も、みんな〇〇してるという言い方に、言葉遣いのおかしさを感じてます。
あと、経験は人それぞれなのに、共有してるつもりとかも、おかしいですよね。
定型の人たちの感じ方って、マトモなんですか?
何か、私等の感じ方の方がマトモだと言いたいですが、どうでしょうか?
世の中はどこかで必ず線引きが必要です。アスペルガーに限らず若い人が個性、個性と強く主張するのは危ない。度が過ぎれば単なる我がままに見えてくるんですよ。そういう人は常に戦闘的でみんなでする事をいちいち停滞させる原因を作っている。にもかかわらず反省しない。忍耐をしらない。協調性がない。やっぱりみんなはそう思うんですよ。それでも自分の感性がマトモだというのなら世間から排除するしかなくなる、病院にいってもらうしかなくなります。
横レス
線引きの基準が明確じゃないところが難儀しちゃうのです。

その線引きというのは定型には見えるピアノ線があるのではと思ってしまうのです。

目にないもの=ない

ってなってしまうのだから。。。
アスペルガーの傾向があるかも、と思っている私ですが、「みんな」を使ったことはありますね。
前段階として相手が「みんな」を使った場合ですが。
例をあげますと、
親「〇〇しなさい、みんなそうしてるでしょ」
私「みんなって誰?」
親「口答えしないの!」と怒る

私「△△欲しい、みんな持ってるんだよ」
親「みんなって誰?」
私「えーと、AちゃんとBちゃん…」
親「2人はみんなって言わないでしょ」と怒る
私「……」(言ってることがちがーう)

まぁこの例は親子関係ならではかもしれませんが、「みんな」をはじめ言葉の定義を都合よく(状況に合わせて)使うのが一般の人で、そうできないのがアスペルガータイプなのかな、と思っていました。
私は未診断なので、不適当な例かもしれませんね。
診断されている方は、どんな場面でも「みんな」は使わないのでしょうか?
私の場合を考えてみました。

主に、成人してからの話ですが、
私が「みんな○○なんとちゃう~」って、発言するときって、
「ああ~!もうめんどくさい!この話さっさと終わらせよーよ!"みんな"そうって言っとけば、納得するやろ」的な、この上なく不誠実な心のあり方のときに、相手を黙らせるために定型さんの"真似"として言ってます(^_^;
↑今、改めて考えて気がついた
「みんな」は何処に
定型発達者研究、いつも、本当に面白いです。

今回の指摘を読んで、今度は、「みんなは・・」の口調に早く
遭遇したくなりました。

とくに、

>定型発達者は「世間さま=共通認識」という発想から自由ではないのだ。

この辺の確認が楽しみです。
「みんな」を意識する仕方を、窺えるかどうか。


>共同感という「心地よい錯覚」が崩されるので不安になるというのもあるかもしれない。

世間さまと自分との一体感が安心の基盤だという話は、とっても興味深いです。
一体感を必要とするという事情は、「会話」が共感の演出で進行するのと
似通った仕組みなのでしょうね。


と同時に、

>それをわかった上で、外れるかどうかを選択をする方がアスペルガー症候群者にとっては精神衛生上いいだろう。

こちらも大切ですね。
「みんな」が、まるっきり見えていないのに、「そんなものは口実だ。幻だ。」と常に言えるわけではないですよね。
Re: なるほど…
少なくとも「みんなが…」という主張に誠意を感じる度合いは定型者と自閉者で差があると思いますね。
他にもあるかもしれませんがちょっとすぐには思いつきません。
Re: 2種類
ああ、口実、それはありますね。

>>「合わせないと流行に後れる、共感できない・されない」みたいな考えは多分定型特有なんでしょうねえ。

おっしゃるとおりだと思います。

問題となるのは定型の親が、自閉児の多少はずれたこだわり行動などをどうにかしなきゃと真顔で考えて変えようとする場合などでしょうね、二次障害の元になりそう。

他にもあるかもしれませんが…。

Re: この文章が一番楽ですね♪
やはりお宅もですか。

「それって誰?」「何人?」と聞く自閉児(者)のほうは真顔なんですよね。

ちなみに、私も、特定の範囲の「みんな」しか理解できません。


なんで「みんな」とごまかすの?
きちんと自分の言葉で言って欲しいです。
もっと自分の言葉に責任を持って欲しいです。
自立した人間なら出来ると思います。
p.s.友達が多ければいいってもんじゃない。
   付き合いが良ければいいってもんじゃない。
   一人もそんなに悪いもんじゃない。
クロさんへ
確かに「定型発達者は」の代わりに「世間は」「みんなは」と言うことはあり得ますね。

それに対する
「人それぞれ…」と言う答えの裏側には

「個々人がそれぞれ違う考えを独立して持つ」という思想があるのだと思いますよ。
今のメジャーの思想だからある面しょうがないでしょうね。

ただ、ミラーニューロンの発見によって、「個」が本当に「個」であるのかということに疑問が呈されているのが今の時代ですから、これから状況は変わるかも知れません。

そういえば「同じだよ」はある種慰めともとれますね。

うーん、まとまりません。

絢未さんへ
あはは、学校の先生は保守的な人が多いですからね…。

”クラスをまとめる=「私たち」意識を作る”
と考えている人も多いでしょう。

学校環境では、なかなか個人主義に徹するのも難しいかもしれませんね。

でも、やはり本人にとっては納得ずくが一番だと思います。



Re: みんなとちがっていいよというまやかしの文言
みっちゃん、こんにちは。
エンジン全開ですねえ。

そういえばうちの息子が昔、小学生の頃
「クラスメイトはロボットみたいだ…だって誰も彼も同じ反応ばっかりするんだもん」
って、言ってましたっけ。

息子はどうやっても「みんな」と違っていたんですね。

基礎は定型者の場合、脳内に「私たち」という感覚があるようですよ。
自閉さんにはそれがない…あるいは少ない。

というわけで、基礎は学べないと思います。うーん、残念?

となると、別の方法で生きる道を探す方が賢明かと考えます。
Re: 狸穴猫さんへ、リクエスト
リクエスト、承りました。
おまけ代わりの別記事を仕立てることもあるかと思いますがやってみたいと思います。

封じ込めのための「みんな」、確かにありますねえ。

ただ、それが封じ込めの手段となりうる基礎として「私たち」「みんな」という意識がある人が多数派には多いということがあるとは思います。


Re: 同情するなら金をくれ的発想
出る杭は何とやらということわざがあるよね。

定型さんはわりと「みんな」の枠(これが見えないからことなんだけど)におさまっていたいという欲求があるような気がします。

ただこれは文化背景もあるからそれだけでスパッとは割り切れない…と思う。


Re: うちの家族がそう!
苦労してますね。

ま、突っ込みすぎると角が立つ。

夏目漱石だっけか…
智に働けば角が立つ、情にさおさせば流される、意地を通せば窮屈だ
って何かの小説の冒頭で書いてたの。

ま、なかなか「情にさおさせない」のが自閉さんといったところかな。
Re: かぶり物としての言葉
本音…になぜかぶり物が必要になるのか…
ま、角を立てないためなんでしょうが、
やはり回りくどいですね。

それで角が立たないと言うことはほんとに不思議な現象だと思います。


Re: わかります。
確かに「普通」というのもアイテムとしてありましたね。

「みんな」「世間一般」と同じ意味に解釈していますが、やはり私も疑問がわいてしまいます。
Re: はい、同様です。
最新の脳科学によるとどうやら、感覚や情動を「共有」できるのが「健常者」の多くだそうで、
決して珍しいことではないようです。…というより、それが一般的のようです。

「マトモ」か「マトモでない」かという議論に関しては、多分に社会的な問題をはらんでいますね。

自閉者と非自閉者の両方の人権を認めるのであれば両方とも「マトモ」という事になります。


ところで、「個々人が完全独立の考え・感覚を持つはず」という前提に立てば「みんな」を全面持ち出した主張は確かに大いなる矛盾をはらんでいますね。

しかしながら現代の思想の前提である「「個々人が完全独立の考え・感覚を持つはず」」という事が脳科学によって葬り去られようとしているため、それが「ごく一般的な現象だ」ということになれば倫理観も変わってくることは十分に考えられます。

今ちょうど「ミラーニューロンの発見」と言う本を読んでいて、それに書いてあったのですが、

「脳神経倫理学」という学問が新しくできているそうですよ。


新しい時代の倫理観が障害者差別を容認しないものであって欲しいと思いますね。


freezeさんへ
freezeさん、はじめまして。


病院にはすでに通っていますが…という冗談はさておいて。


「みんな」を論拠にした「気に入らないタイプの排除の構造」の主張の例示をしていただきありがとうございます。


「みんな」感覚のやみくもな否定は「排除」というタイプの「攻撃」につながるケースがある(すなわち危険を伴う)ということもこのブログをお読みの多くの皆さんが理解なさったのではと思います。


さらに、「○○に限ったことではないが…」という、ターゲットが○○であることを潜在意識に登らせながら最終的に「○○に対する誹謗中傷だ」という反論に対しては「○○といった訳じゃない」という防御壁を作るという高度な技をお見せいただき、ブロガーとしてはなかなか感服いたしております。


ところで、ちょっと疑問なのですが

「そういう人」が「常に戦闘的でみんなでする事をいちいち停滞させる原因を作っている」

の論拠はなんなんでしょう?freezeさんの経験でしょうか?

Re: なんで「みんな」とごまかすの?
どの部分へのコメントでしょうか?
それとも他のコメントへの横レスでしょうか?

ちょっとわかりかねるのでお答えできません、ごめんなさい。

しーたさんへ
正直な告白ですねえ。
不誠実…うーん、難しいな。
Re: 「みんな」は何処に
トラネコさんお久しぶりです。
お褒めいただき恐縮です。

「みんな」という概念が

「あるのにない、ないのにある」

ということになるのだとすれば
なにかとっても哲学的な気がします。

般若心経の「色即是空 空即是色」というあたりともつながるような…

脳科学と哲学がつながる日はそう遠くないのかもしれません。
とっても楽しみです。

すいません
freezeさんの記事からです。

失礼しました。
定型発達者なんて言葉を使っているところをみれば、障害者の中にも「我々」という認識が生まれつつあるように思えます。ひとつの可能性としては独立した集団としてコミュニティを形成していく道もあるのかもしれない。ただ、これで健常者と調和がとれるかという問題にはどうしても懐疑的にならざるを得ないですね。今の世の中人の懐が非常に浅いですよ。理解してほしいが理解されないというのはこれが障害になってるからだと思います。真理は一つという考え方から解放される対話法がかつてあったような気がするんですがね。
ですね♪ですね~♪
あさひです。私は、まだ、診断 待機中ですが… ねこさんの、ご意見【 ですね~♪】と、同感(^O^)。私が、思うには、【普通、とか、みんな、とか】を、連発して 何でも 1まとめに、考えてしまう 傾向に、ある人は… 【状況& 体質& 周りを取り巻く環境& その時の 心理 等々の、分析が 出来ない!分析力が かける! おおざっぱに、しか 考えられない! それは、何故か? それは… 【自分自身の、分析を、する 習慣に、欠けるから! 自分の、分析事態が 苦手なのだ!】だから… 分析ベタの、自分の 能力の 目線を、通して人& 物事を みるので、分析力なし!の、【普通、みんな…】の、おおざっぱさ なのだ!やはりですね~。私達 【診断待ちですが】の、方が … 幼少の頃より、自己に、向かい 何故?と、自己分析を する習慣が、ついていると、思います。集団に、一歩引く部分が、ある部分、客観的に、分析して 捉える力が、あるのです。【普通、みんな~】で 1まとめに ならない 良さは、分析力と、芯の部分を 捉える事が、できる 良さでも あると思います。まぁ 私達【仮】子供の頃から 自分の、身に 起こる 出来事に、対して 理解者が、なく 自問自答を して きたので、【みんな~】と、おおざっぱな、事は 出来ません。人の、心の 痛みや 喜びなどに、ついては、誰もが、皆と 言う 発言は、しますけどね。【みんな~】で、1まとめに、する人は、自分の、気持ちも 分析できて 無いので、人の、気持ちに 対しても、鈍感なのだ!
もう 1つ 言わせてください。 【私は…】で、意見を 言えない 人達は、実は… 共感だけで 流されやすく、上っ面しか、読み取れない人なのだ! 受けながす事に、たけていて、流暢に 世渡りしているように、見えても、実は、上っ面の、見せかけの、人なのだ。私は… で 意見の、言わない人は 意見を、言いながら 【意見の 責任の所在を、自分に おかない 】人なのだ。曖昧さは、人づきあいでは 重要な ポイントですが、【人を、裁かない。愛情を、持って 物事を、みる】 事を、心に、留めて いれば【私は…】の、自己責任を、持った 意見を、言っても 恐れる事は、ないです。 そうです! 【私は…】の 意見の 言えない人は、相手に とっての 相手中心とした、愛情に、かける 意見を、言っている人で~す。相手を、せめる思いの ある、意見とも、言えましょう。(^O^)
質問の回答
>狸穴猫さんへ

余計な論争をしないための知恵ですな。
昔はこんなこと言わなくてもよかったんですが。

質問の回答ですが、これは経験です。
いちいち自己主張する人間の多い職場で働いてたことを思い出して、書いたものです。

そういう人とは全くコミュニケーショ ンがとれないという状況でして相手をしていれば安心して仕事ができないし常にストレスのたまる会話をしなきゃならんといった状態で疲れたんですよ。
私は、自分なりに 【色即是空…】と 【みんな~ 普通】の 関係に ついて 考えて みました。(・o・) 【 色即是空…】とは、ある ようで なし… 即ち 【魂、霊、物質界、以上の奥の、もの】…【みんな~…】は、【観念のもの】 ですから、【色即是空…】を、絶対的、真理と 定めた場合…【 色即是空…】の、魂の部分が、今、 この世界に 生かさせて、頂きながら 【色即是空…】の、本来の 純粋な 魂に、戻る事を 目指す 過程に、おいて、【観念 】は、自己の、サトリに、対しての、足かせにも なりうる。【みんな~】は、もっとも 簡単な、分析力にも 欠ける【観念】なのだから… この場合 ズバリ! 【サトリの、苦手な方が、使用する 言葉】でしょう。【みんな~】の、観念と、いう 一種の 【かくれ簔】を、まとって いるのですよ。(^O^) 【笑】 私、好きな事 書いちゃいました。(*^m^*) ムフッ
あさひさんへ
あさひさん、こんにちは。


自己分析については、分析の必要がないのが非自閉者の特質なのではないでしょうか。

自己の感覚や情動の自己フィードバックについては自閉者が一番苦手とするところなだけに、「分析」によってしか理解しえないだけであって、「みんな」意識のある人はむしろ分析の必要すら薄いところなのだと思います。

また、人は主観を離れることができないとも思います。これは自閉者も非自閉者も変わらないでしょう。


定型者は自閉者の気持ちを考えるのは苦手かもしれませんが、定型者の気持ちに関しては敏感であると思います。なぜならそれが脳の仕様であるからです。

必ずしも「みんなが」意識の全てが問題なのではなく、いたずらにそれを論拠に強引に自説を主張することが問題なのだと思います。

周囲に流されにくいという面で、自閉症者の考えは「独自性」が出やすいですが、周囲を見ると言うことを怠ればそれは誤解・誤認知にもつながりかねないので私の場合、そこはできるだけ自戒しております。

また、

「みんなが」意識は社会形成の基礎となる部分であると思いますので、必ずしも否定すべきではないと考えます。

さらに、日本の文化として、「私は」という主張のしかたがあまり快く思われない。むしろ、他を考えていると解釈される傾向がありますので、一概に、「私は…」と言う意見をいえないことをあれこれ糾弾すべきでは(少なくとも現段階では)ないと思います。

意見は言う自由もある反面、言わない自由もありますし、
それも考えに入れておく必要があるかと思います。
私としてはアサーションの考え方が日本にも、もっと普及して欲しいとは思います。

Re: 質問の回答
freezeさん、こんにちは。

ご回答ありがとうございます。
コミュニケーションがとれないというのは、ストレスがたまるものですね、お察しします。

自閉者も障害の程度によっては「我々」意識くらいは持ち得ますが、
非常にそれが維持しにくいと傾向があると私は思います
ですから別コミュニティを作ると言う考えには無理があると思います。

私はむしろ、自閉者はもっと定型発達者の特質を理解し、それに配慮しながら定型社会で生活する方が、両者にとってストレスがもっとも少なくなるのではないかと考えております。

両者うまく特性に応じて役割分担ができればそれがベストだともまた思います。

でもねえ…
親としては、子どもに
「多数派を敵にまわして孤立して、それでいいんならいいけど、本人もそれで泣くんなら、なんにもいいことないじゃない?」
ということで、多数派の考えを教えていってます。
大勢の人が「不快」と思うことをして、いいわけないじゃない?
でも、自閉っ子って、その大勢がいやがることを選択してしまうことが多いのよね。
それを、「それはあなた(一人)が、不快なことでしょ?」「どうして、自分ばかりあなたに合わせることを強要されるの?どうしてあなたは僕に合わせてくれないの?」と、言う。
そうすると、相手は怒る結果となる。

あー、これについては長くなりそうなので、私もブログ上で検証しますね。
早期完了
「みんな云々」という言い方をなさる定型発達者に、「私は・・・」という言い方に変えてもらうというのは、かなり難しいと思っています。というのは、私の経験からいうと「みんな云々」とか「常識」という言い方を多用するから方の多くが、自我同一性・アイデンティ・dentityの早期完了だからです。(早期完了とその予備軍の同―性拡散は約6割との研究があります。)

早期完了とは「見かけ上”完成されて(complete)”いるが、実は、内的葛藤のworking throughを経ずして先行世代の規範を取り入れただけで、実は真の心理=社会的相互作用の過程を経ての自己確立ではない」
http://kasega.way-nifty.com/nikki/2009/04/---c2e6.html

「親が云々」は格好悪いですから、「みんな」「世間」「常識」という言い方をしている。自分のworking throughで得た規範に基づく意見、見解ではないですから、「私は・・・」という言い方は心理的に不安定になるので、困難。面倒くさいのではなく、私は・・・」という言い方は自分のworking throughで得たものということですから、、その言い方では元々ないものを有ると偽り、嘘を言うことになりますので、不安になる。それで、云いたがりません。

こうした方は、権威主義的で排除的です。こうした方にAS側が勝手に貴方は○○との考えと解釈して、アサーションの考え方で対応すると、自分の考えを対置すると、それでだけで、対置するだけで、自己を否定されたと受け取られることが経験上多いです。早期完了の方は、親など他者の考えや規範を丸呑みしていますから、それとは違うだけで、心理的に受け入れらない模様です。つまり権威主義的です。そして、丸呑みした体系とちがう考え、規範の持ち主を、自己の視界から世界から、排除、追放することで安定化を図ります。

それは「貴方は悪い人」、「貴方は嫌い」といった白黒の黒という評価や、見下げる「貴方は障害者だから」、この変形として「障害があるから、そういった非常識な考えをするのね、可哀想に。」といった同情がありました。

気をつける点は、こうした方が「常識」云々という考えと違う考えを認めない点が、ASが他者には他者の独自の考え、感情があることを気付かないor十分に配慮できないで結果的に無視することと外見的に類似している。またASの質問攻めといった攻撃性と、早期完了の方の追放、排除という攻撃性が共鳴しやすい。つまり、第三者に対しては、外見上は同じような第三者の考えを無視して、攻撃性を顕す親和性があることです。共通の敵にたいする戦友といった親近感を抱きやすい。AS側から見ると、ある日突然、手のひらを返したように、友人と思っていた早期完了の方から「非常識」と言われることになる。なったことがあります。
なるほど。
今までボンヤリ考えていたことがまとまって、いくらか楽になりました。

みんな、とか、世間では、という人の言葉は詭弁にしか聞こえません。
オレはそういう主義なんだ、と言われれば納得できますが。

そういえばマーフィーの法則に、
「子供が”みんな持ってるから”といっておもちゃ(ゲーム機だったっけ)をねだるときの”みんな”は、せいぜい2,3人である」
というのがありました。それと同じなのかもしれません。

#自分の場合、そういったものには興味がなかったので、親が頼んでもいないのにゲーム機を買って帰ってきて往生こいた事があります。
言えなくはないが…。
『みんな~』と言う言い方は、確かに自己中心的な主張の際の論拠(口実)に使われる時がありますね。
そうでない場合も同程度に多いですが…。

いずれにせよ、それら全てを『わたしは~だと思う』と言う形にするのは不可能です。
特に、『礼儀作法』など、個人の好みを超えた規範などについては、『わたしは~だと思う』的な発言をする事により、ASの人達がそれらの重要性を過小評価してしまうのではないかと危惧します。
個人の好悪がその発言に対する判断材料になる事がなければ問題はないのでしょうが、今までのコメントを見る限りではそうとは言えない模様です。

『その方が通りがいい』と言われれば、歩み寄りとしてその表現方法を使う事は可能でしょう。しかし、それにより内容が変質してしまってはあまり意味がないと思うのです。
そして、それにより不利益を受けるのは主としてASの人達でしょう。
(二次的に定型者側が不利益を受ける事もあるかと思います。)
この点について、狸穴猫さんはどう思われますか?

とは言え、聞いて貰えなければ意味がないと言う部分もあり、難しい所です。
『みんなが~』と言われふと思うのが…
誰かもコメントしてくれてるのですが…

『あんた、自分の意見なら“みんなが~”なんて言わんと“私は(俺は)”って言えって!!』

と怒りが先に沸きます(汗)。

理由は、自分の意見に責任を持ってるという態度ではないからです。

こういう人は、大概

『みんながって言うけど、あんたはどう考えてる?』

って聞き返すと黙るんですよね(怒)。


黙るなら最初から意見するなって言いたいです。
それこそ無責任だし。

6歳の娘にも、

『みんなが言ってる(やってる)からってだけで言う(やる)んやったら言う(やる)な。
言う(やる)なら、自分の考えを相手にしっかり伝えなさい。』


と教えてます。


こういうのは、幼少期から教えんと身に付かないですから…。
(↑経験者語る…汗)
夫、50歳、AS傾向有り。
(息子、高2、ASの疑い有りと診断)
最近、夫と近くのスーパーへ買い物へ・・。

私が食材を選んでいると、夫が知り合いを発見。
それまで無表情だった顔がにこやかになり、(俺に気付いてくれ!)と言わんばかりに相手の行方を目も離さず顔で追いかける。

当然、相手は(誰かに見られてる)気配に気付き、軽く会釈をして過ぎる・・。
夫は「こんにちわー」と返す。

一見よくある普通の様子かもしれないけど、相手の会釈の仕方、表情で、何かが違うと瞬時に思う。
で、私はつい夫に言ってしまうのです。
「相手は、あなたが気付く前からあなたに気付いてたかも知れない。でも、買い物をしている振りをしてやり過ごすつもりだったかも知れない。」
「なのに、執拗に見続けて、気付いて貰おうと顔で追うのはどうかと思う。【普通は】買い物しながら、さり気なくして、近づいた時に挨拶する。」

夫は「さり気なくねぇー。難しい・・。」

また、ある時、新人のレジのお姉さんがご丁寧に「いらっしゃいませ」と言いながら『深く』お辞儀をすると・・。
夫もお辞儀を返す。・・別に悪い事じゃないけど、そんなお客は見たことない。
で、後で夫に言ってしまう。
「【普通は】そこまで深くお辞儀をしない。軽く会釈程度でいいじゃない」
夫「そんな偉そうな態度は失礼じゃないか」
私「じゃぁ、デパートの開店時に1番で入ったとして、両脇の多数の店員さんがお辞儀をしながら挨拶してたら、全部お辞儀を返すの?」
夫「するよ」

私は、店員さんに傲慢で、無礼で、失礼な態度をとるつもりは全くないけど、普通に「客らしい」「店員らしい」態度でいいと思うのです。
人との距離感というか、誤認知というか、悪いのは私?
無理がありません?
そもそも、自己中心的な要求の口実である『みんな』と、集団からの要求(規範・慣習・礼儀)である事を表す『みんな』を混同して語る事に無理がありますし、個人的にはフェアでないと感じます。(半ば吊るし上げです。)

前者は非難されても仕方がないとは思いますが、後者に関しては個人の責任の範疇を超える事柄です。『世間(みんな)が好ましいとする言動など≠特定個人が好ましいとする言動』=『世間≠特定個人』ですから、最大公約数的な世渡りを提示する場合、特定個人が責任を終えないのは仕方ないかと思います。

また、ASの人たち同様、定型を選択して生まれてきた訳ではありませんし、好きで多数派になった訳でもありません。また、これら集団の要求は自分達が生まれる前から存在していたものも多いと思われます。
これらに対して責任を持てと言われたら、個人的には、『そんな事は家庭で済ませておいて下さい。』としか答え様がないですね。
親くらいだ思います。そんな事で責任を負えるのは。
単なる強者の理論でしかないですが…。
発達障害児の親の立場で
コメントさせていただこうと思ったらものすごく長くなっちゃって・・・
ブログに記事にしました。(TBさせて頂きました)

私自身もPDDなので、「みんなが」や「常識」が、地雷原でありまして・・・嫌な思い満載でしたから。子どもには使いたくありません。
もっときちんと事柄を説明するか・・・
どうしようもなく曖昧な部分は、「多数派の行動・考え」と教えていくようにしています。
だから、それにしたがいなさい。じゃなくて、社会は多数派の人が使いやすいようにできてるから、仕方がないね。がまんしてやって~(ってくらいの気持ちで)やってます。
はじめまして。
はじめまして、ともmamaと申します。
これまでも時々お邪魔しておりましたが、初めてコメントさせていただきます。
4歳時に「非定型自閉症・言語能力発達遅滞」と診断された小学2年生の長男が、先ごろ「アスペルガー症候群」だといわれました。同じ自閉症スペクトラムとはいえ、接し方の注意点が違って来るといわれ、少なからず不安になってしまいました。色々と教えていただければ…と思い、ご挨拶させていただきました。どうぞよろしくお願いいたします。
票を投じます。
まう?さんの『無理がありません?』のご意見に一票。

考えてみれば、定型に生まれ、生まれる前からの流れに物心ついた頃から乗って「それが自然」と生きて来たことに関しては、つい「世間は」「みんなは」と言ってしまいがちですが、それを「自分の意志や意見として言ってみろ」と言われる事自体、戸惑いがある。というのはいなめませんね。

だって「世間一般」のことを「私個人は」と言い換えると、単なる個人対個人の見解の相違で片付けられてしまいそう。

「調和の大切さ」という本当に伝えたいことが「私は」で伝えると、伝わらなくなる可能性は大ですねぇ。


ゆうさんのコメントにも一票。

ファミレスなど飲食店で、ASの友人が持病の薬を飲むために、食後に水をおかわりするんですけど、「すみません」と店員さんを呼び止め「水をお願いします」と頼みます。
「その一言だけで良い」というのが、なかなか受け入れられず「どうして水をおかわりしたのか」という理由を「病気のプロフィール紹介」のごとく丁寧に語ってしまうのです。

戸惑う店員さん。 足を止められ迷惑顔の店員さん。

つい「みんな、そんな説明なんかしてないでしょう」と言ってしまい

「みんなという言い方で個人の見解に威圧を持たすのはフェアでない感じがするんですよ」と言い返され

「あぁ、もう、めんどくせー」となったこと思い出しました。

定型者の「当たり前」が「みんな」とか「世間では」という言葉でよけい通じなくなっているコト。

このブログで改めて考えさせられました。

店員さんからの挨拶への返事に心を込めないのは非常に日本的特性かもしれない。
はじめてお邪魔します。


ゆうさんの、

>夫は「さり気なくねぇー。難しい・・。」

>また、ある時、新人のレジのお姉さんがご丁寧に「いらっしゃいませ」と言いながら『深く』お辞儀をすると・・。
>夫もお辞儀を返す。・・別に悪い事じゃないけど、そんなお客は見たことない。

 これを読んで、鴻上尚史さんが『「空気」と「世間」』という本で書いていたことをちょっと思い出してしまって。

 マクドナルドなどの高度にマニュアル化された接客の場合は留保すべきなんでしょうが、少なくとも日本と比較した場合、欧米の店員さんの挨拶というのは、個人的な知り合いに対して「こんにちは」「ありがとう」という時との違いが小さいとのことです。つまり、パーソナルな心情がそのまま込められたものとして体験しやすい。

 つまり、店員さんに「おはようごさいます」といわれて「おはよう」と返さないままだとか、品物を受け取って「ありがとう」と答えないまま平然とレジを後にする、日本での多くの日本人のお客たちのお店での振る舞いのほうが、欧米から来た人には何かしら異様な光景(一種「非人間的な」、ぞっとするくらいの、サイボーグじみた光景)として写る・・・・確か、そんなことが書いてあったと思います。

 実は立ち読みしかしなかったので、これ以上詳しいご紹介はできないのですが。

 私は2回しか外国(どちらも欧米圏)に行ったことっはりませんが、どちらもパック旅行ではなかく、1週間を超え、同一地域に滞在する形となったので、乏しい英会話力を総動員しながら、いかにも外国人観光客相手の商売をしている人たちではない街の人たちと、時には繰り返し顔を合わせ、コミュニケーションする機会がたくさんありました。

 その時つくづく思ったのは、言葉の意味を「額面どおり」に信じて素直にコミュニケーションできることの風通しのよさでした。ほんとうに、お店で"good morning!"といわれたら"good morening!"と心から言葉を返すことが「気持ちがいい」し、全く自然なのですね。

 もちろん、こっちは不慣れな外国旅行でしたから、業務上の当然のことであろうと、相手にきちんと対応してもらえればそれだけで「心から感謝!!」の心境以外の何者でもなかったとも言えますけど。

 でも、なぜか、仮にそれが一種の「営業スマイル」であったとしても、日本での営業スマイルとは別の「何か」としかいいようのないものがあるということを感じたのです。

 鴻上さんは、日本には「世間」はあっても「社会」はない、風化した「世間」の代わりに今も残っているのが「空気」だという言い方をしています。

 日本的な「空気」への対処に、発達障害の皆さんは欧米「社会」でよりも、たいへんな思いをしているのかもしれないと思いました。

 お店の人に深々とお辞儀をしてしまうゆうさんのご主人を、私は逆に「人間くさい」と思ってしまいます。欧米のお店でなら、違和感のない「適応的な」スタイルですらあるでしょうね。ご主人も、お店の人がしてきた挨拶以上に大袈裟に挨拶を返されることはないでしょうから。


>マルマルさん

>「みんなという言い方で個人の見解に威圧を持たすのはフェアでない感じがするんですよ」

 この言い方をそのASの友人の方がしてしまった背景には、次のようなことがあるのではないでしょうか。

「席に座る」→「店員さんに案内された席に座る」→「しばらく待つ」→「店員さんが水を持ってくる」→「メニューで注文する料理を選ぶ」→「店員さんを客席のブザーで呼び、注文を伝える」→「料理が来るのを待つ」→「料理が届いたら食べる」→「レジに行って料金を払う」

以上、

「レストランに行ったら『みんなに』社会的規範として受容される連続的な行動の手順」

(というふうに、ASの彼の中では、物凄くsquareに受け止め、自らに必死に強制する訓練をすることで、やっとのことで、かろうじて心の平衡を保ちつつレストランで実行可能な段階にまでたどり着けた「行動スケジュール」)

というものから逸脱した、「イレギュラーな行動」をレストラン内で取ることは、
それが薬を飲むために水を一杯頼むということに過ぎなくても、「何か特別な事情があることを説明し、お目こぼしいただくべく」、十分に理解してもらえないと、圧倒的に不安になるくらいの「社会的触法行為」としてしか体験されないんでしょうね。

 彼にとっては、途中で水をもらうという「イレギュラーな行動」を、それこそ清水の舞台から飛び降りるくらいの勇気を奮って「敢行」することを受け入れてもらえるかどうかという、ほとんど自分と世界がぶっ壊れそうなくらいの不安と戦っている。

そこにマルマルさんから、

「レストランのお客は、理由の如何に関わらず、席に座ったときから、レジで料金をはらうために最終的に退席するまでの間、いつでも、水のお代わりを注文する自由と権利を有する」

という、より詳細な「レストランでの社会合意」に関する「条文」があるんだということを説得されるわけですね。

 もう、この段階で、彼はパニック寸前なのだと思います。

 そして最後の追い討ちは「みんなは」そんな説明はしない・・・・という言葉。

 友人さんにとっては最終的な"Guilty"宣告のように響き、

「私は、『あなたが』『個人的』にそう思う、という次元での表明にしてくれないと、私が店員さんにここまで訴えてくなったプロセス全体とその心情を無条件に否定されたと感じてしまって、耐えられない」

ということを伝えたくなる。

 彼が店員を困らせまくって訴えずにいられない「心の内」をこそ、彼はまず汲んで欲しかったのではないかと思います。

 ASの人自身が体験している世界の「身になって」気持ちを受けとめるというのは、ほんとうにたいへんかもしれないのですが、私なりに、敢えて、「凄くまどろっこしい言い方を重ねて」シミュレーションしてみたのですが、いかがでしょうか?

 いきなり長文で割り込んでしまったことを心苦しく感じています。
Re: でもねえ…
多数派のやり方を学ぶ必要はあると思いますよ。

ただ、本人の納得する形でと言うのと、
家のなかが避難所として機能することは必要だと思います。

Re: 早期完了
早期完了とその予備軍が6割となるとそっちの方が多数派ですね。

模倣や共感の回路が自動的に働くとなると
それをどうこうするのは難しい…というか、できる事じゃないと思います。

文化の未成熟の問題ともいえないでしょうし…
難しい問題ですね。

早期完了の方とASで攻撃性の表面的類似は確かに生じやすいかもです。
ASサイドとしては他者に攻撃的にならない事に気をつける以外ないかも。


Re: なるほど。
FP2さん、こんにちは。

> 今までボンヤリ考えていたことがまとまって、いくらか楽になりました。

そりゃ何よりです。(^^)v


まあ、理解できない「みんな」に苦労しているアスペルガー者は多いのでしょう。

「みんな」概念の成立を頭で理解しておくだけでだいぶ怒りも違ってくるのではと思います。

Re: 言えなくはないが…。
最低限の礼儀作法などについてはアスペルガー児、定型児問わず、
子供の頃にたたき込んでおく必要があるでしょうね。

たたき込み方が定型児と違う方が入りやすいかもしれませんが。
「これはルールだ」は意外に若年の場合受け入れやすいものです。

不利益に関しては、ご指摘の通りだと思います。
だからこそ多数派の使う「みんな」といったような概念をアスペルガー者も少なくとも頭で理解しておく必要があるとも。

ただ、「みんな」「世間」「普通」などで理不尽な思いをしてきているアスペルガー者は多いので、(かなりトラウマ化しているケースが多いと思います)支援者の方には、できればなんらかの言い換えをして欲しいと思います。

口実としての「みんな」に関しては次稿で触れようと思っています。

Re: 『みんなが~』と言われふと思うのが…
「こういう人」ってのは、

ヒゲ達磨さんが触れられている「早期完了」タイプですね。

怒っても仕方ないのが「みんな」なのではと思います。

明らかでない…がある。しかし個でもない…。
ああ、また哲学めいてきた。

どうしたらうまくかわせるかを考える方が…と思います。

でも、自分の意見をはっきり言える方が私は好きですね~。
ゆうさんへ
一緒にいると恥ずかしいってところでしょうかね。

じゃ、一緒に買い物に行くのをやめたらいいというのも一策。
「私といるときはやめてね」と言うのも一策。

というところでどうでしょう。
Re: 無理がありません?
それが意外に無理じゃないと思うんですね。
どっちも「みんな」に依拠していられるのはなぜかと考えると…。

ま、このあとは次稿で。

Re: 発達障害児の親の立場で
やはり地雷原ですか(笑)

多数派にあわせる事を教えるのは難しいですね。
特にこの「みんな」というのは。

記事、あとで読みに行かせていただきます。
みつひろ様
私のコメントに対して、丁寧な掘り起こしと分析をありがとうございました。

ASの友人は「とにかく自分の理由を説明しないといけないと思ってしまう」とか
「話のどこが省略ポイントか解らない」と言っていました。

みつひろさんのアドバイスを視点に加え、さらに話し合ってみたいと思います。
Re: はじめまして。
ともmamaさん、はじめまして。

ご愛読ありがとうございます。

息子さん、言語面が急激に伸びられたんですね。
よかったですね。

ただ、いわゆる「へらず口」が大変になるかもです。

でも必ず理由のあることなので、一見「へらず口」に見えても
必ず当人には理由があるので、理由をよく聞いて理解してあげてくださいね。
Re: 票を投じます。
んでは、「私は○○する場合がが多い(少ない)と思う」で、大丈夫な理由を。

「Aさんが○○する場合が多い(少ない)と思う」→「Bさんはどうだろう?」「Aさんの経験値は?」

という発想に行っちゃうんですよ。
結果として、かえって周囲を見てみる結果になる。


しかし…

親でもなし、単なる友人なら説得するのも面倒だから私なら
一緒にレストランにはいるのやめるなあ…


Re: 店員さんからの挨拶への返事に心を込めないのは非常に日本的特性かもしれない。
みつひろさん、はじめまして。

確かに日本的かも…。

で、意図的に多少「周囲」より「ありがとう」を多めに言うように心がけています。

その方が人間的な気が…するんですよ。
私もやはりちょっと変わっているかな。


====
後半はマルマルさん宛のようなので、私は遠慮しますね。
(場面もよくわからないし…)

狸穴猫さんが言っているんだから、そうなのかなぁ(個人的信頼)。

これだけ多くのASの人が「私は」で会話して欲しいと言っているのであれば・・・ここではそれが多数派の意見であるので、その流儀にのっとった方が良いであろう。(多数派に流れやすい定型気質)

しかし、定型者側の視点や感性には、本能的に共感してしまう。(葛藤)

>『親でもなし、単なる友人なら説得するのも面倒だから渡しなら一緒にレストランにはいるのやめるなあ・・』

こういう選択肢もありますねぇ。

多分・・・面倒を上回る何か、その人物への好感とか興味とかがあるんだと思います。


いろいろなコメント、ありがとうございます。
ちなみに私は、買い物やレストランなどでは、それなりに会釈もしますし、「ありがとう」や「ご馳走様」も言います。

気になって、さり気なくできずに異常なまでに知り合いを見続ける視線と、店員さんへのお辞儀の【度合い】が・・。

で、次は野鳥。
夫「おっ、見たこと無い鳥だ」と、サッシを開けてサンダルを履き、庭先へ。

夫「あぁ~ぁ、近くで見ようと思ったのに逃げちゃったよ」と部屋へ入る。

私「はぁ?・・・。相手は鳥だもの、『普通は』気付かれないように物かげに隠れながら見るんじゃないの?家の中でも、人の動きで逃げるんだから、外に出たらアウトでしょ」

夫「なるほど」

私「・・・・。」

記事とは無関係な内容かもしれませんが・・。
家族の安全
数年前の夜、12時過ぎ。近くの駐車場から何かを破壊する音が・・。
私は、家の暗闇の階段を上がり、窓からそっと外を見る。・・誰かの車を壊したらしい。

多数の若者が、車やバイク、自転車、徒歩などで逃げる姿があり、手には鉄パイプやら棒を持っている。

夫に「大変よ!」と手短に説明すると・・・。
こともあろうか・・・夫は玄関の電気を付け、サンダルを履いて出ようとしている。(野次馬的に)

私は慌てて「やめて!!」と静止し、電気を消す。急いで2階へ行き、暗闇から外を見ると、我が家の前の道路を、鉄パイプを持った数名が歩いて通り過ぎる。・・・ホッ・・・。

私「あなたねー、あのまま外に出たら『てめー、何見てんだよー』とか言われて、家を傷付けられるとか、家の中に入ってきて、家族が危ない目にあうとか思わないの?【普通】そんな事しないでしょ。・・見たいなら、暗闇から!外の明かりにも気をつけて、物陰に隠れながら見てよ!」

夫「エッー、そんなコソコソするような事、出来ない」

家族の安全より、自身の行動を弁護する。
怒りと情けなさで、言葉も出ない。
木を見ると森を見る
ちと混乱しますね。
つまり、発言の内容の善悪の判断やそれに対する感情、個人への好悪は切り離して、ただただ単純に『わたしは~だと思う』の方が言葉として入り易いって事なんですかね。
そして、発言の内容の吟味はその後の話ですよと。

例えるなら、『ヨレヨレの紙幣は両替機が認識しないので、なるべく綺麗な紙幣を使用してください。紙幣の種別は両替機が紙幣を認識した後に改めて判別します。』と言う感じでしょうか。

あと、狸穴猫さんのコメントで興味深かったのが『Re:票を投じます』です。
全てではないでしょうが、ASの人達は個の集合体として集団を認識している模様です。
個人と集団は別個のものとして認識しているであろう定型(である自分)から見ると、不思議な感じですね。
Re: 家族の安全
外に出た場合、夫さんが一番危険な気が…

「こそこそするのはいけないことだ」というルールが
「安全確保は優先されるべき」より
上位に位置してしまっているんでしょうね。

夫さんに自己弁護の意図はないような気がしますが…
単にびっくりして口をついて出たことばのような。

ま、アスペルガー症候群者には安全教育は
必須だということで、お子さんには徹底して
安全教育をしてあげてください。


ちなみに、うちの安全第一タヌキ(亭主:AS傾向)は
「出かけたら早く鍵を閉めろ」
と今日”も”言って、いましがた出勤していきました。

Re: 木を見ると森を見る
そうですね、アレルギー反応を起こしにくいと思っていただければいいかと思います。

内容は…確かに後からです。


後半についてですが、

自閉者の場合、集団を、個の集合として『しか』」認識できないんですよ。

なにせ人と人との相互作用とやらが感知できないって性質なもんで、
集団というものが「個」を越えて(ある面別個に?)存在するというのは、感覚的にわからないんです。

ま、そこが社会性の障害ってところなわけです。


…なーんてわかったように書いていますが、「相互作用」を頭でとりあえず理解できたのは「ミラーニューロン」という本のおかげです。つい最近、それを読むまでは相互作用ってわからんなあ…って思っていました。

>マルマル様、狸穴猫様、このサイトでコメントなさっている皆様

 実は、昨日、たまたま別サイトからのこの記事へのリンクをたどる形で、突然お邪魔させていただいて、コメントしてしまったのですが、このサイトでの皆様のやりとりが、定型発達者の皆さんも、発達障害の皆さんも、同じ土俵に立ち、日常の中でお互いにコミュニケーションする際に繰り返し生じる、すれ違いや行き詰まりを、どうすれば解決していけるのかを、それぞれの個人の立場でフランクに本音を出し合いながらも、知恵を出し合って話し合って行きたいという、皆様ひとりひとりの誠意が伝わる場であることに、心から敬意を献じました。

なお、一点だけ、私の書いた、前のコメントへの修正です。

>「席に座る」→「店員さんに案内された席に座る」→「しばらく待つ」→「店員さんが水を持ってくる」→「メニューで注文する料理を選ぶ」→「店員さんを客席のブザーで呼び、注文を伝える」→「料理が来るのを待つ」→「料理が届いたら食べる」→「レジに行って料金を払う」

・・・・・この箇所を読んでいて、「あれ?」と思われた方はおられたかたと思います。

ここで引用した冒頭の部分、

>「席に座る」→「店員さんに案内された席に座る」

の部分、意味が通じませんよね?

正確には、

>「店に入る」→「店員さんに案内された席に座る」

と書きたかったはずなのに、コメント発送前に推敲する際に、見落としてしまったようです。お許しを。

通しで訂正稿を表記すれば、

「店に入る」→「店員さんに案内された席に座る」→「しばらく待つ」→「店員さんが水を持ってくる」→「メニューで注文する料理を選ぶ」→「店員さんを客席のブザーで呼び、注文を伝える」→「料理が来るのを待つ」→「料理が届いたら食べる」→「レジに行って料金を払う」

となりますね(^^)

・・・・・敢えてこのことを「追加して」書いてしまうあたりに、私自身のかすかなAS傾向(自分なりに時々そう感じるんです。単なる「強迫性」というだけでは説明がつかないものを・・・・)が如実に現れ、他ならぬマルマルさんのご友人と少し似た現象が、私の中に、これを書いている今、まさに生じている気もします(^^;)

でも、さすがに、私もこのくらいで止めることができるのが、ちょうどいい塩梅(あんばい)でしょうから(^^)

このサイトの更なる発展をお祈りいたします。
はじめまして。娘が高自と診断。多分夫AS(配偶者記事のA-F全部◎)で私が定型です。なんとか2人を理解したい(特に困難なのが夫。いつもどう説明したら伝わる解らない)ために、こちらに訪問させていただいています。
「みんな~」の会話で夫も同じ反応をします。娘はすんなり聞きます。
「みんな~」という言葉を使うのが良いかどうかはケースにもよりますが
その意味は主様の分析の感じとは、ちょっと違うように思います。
私は娘に「みんなきちんと片付けているでしょう?ならばあなたもやらないといけない。なぜなら、皆に迷惑がかかるから…(略」と、説明をしていきます。絵を描きながら、というのも加え。
みんながそうする、みんながそう思う=協調性であり、迷惑がかかる行為につながる事であり、和が乱れるから、という意味の時に使う事が多いです。
あとは「そんな事(非道徳=浮気とか勝手な行為)されたら(言われたら)誰でも嫌な気持ちになるでしょう?それが普通ではないでしょう?」と言った【私が特別な感じ方をする特異な感情を持っている訳ではなく、誰もが嫌だと判る行為ではないのですか?という、問い&なぜ判らないの?という疑問と怒り】などです。
社会性に通じる事などで、こちらの道理が通っている場合は、その言葉を言われると「ハッ、そうだね…」と共感が生まれるものなのです。
そして「第三者になって考えてみる」という事を促す=理解しやすくするための
台詞みたいなものなんですね。
一拍置いて他者の立場で考えろ、という。
それだけの事なんです。
まさかそんな風に感じているとは判りませんでした。なぜそんな事に拘るのか…と、きっと互いに思っているのでしょうね。
私は夫の事もあってASの人は他人の痛みが判らない、会話が成り立たない、と良く思ってませんでした。ですが主様やそのご家族を見て「ここまで考えられる人もいるんだ、素晴らしい家族だな」そう思いました。他サイトでASの悪口を見ると不快に思っていましたので毛嫌いをしている訳じゃないですし、理解しあいたいと思っているのですが、なかなか難しいですね(互いに)。でも今後もこちらを参考にさせていただき、頑張りたいと思います。
共感について、補足
自閉やAS傾向の人は共感が難しい

と言いますが、理解できる事だと思うんです。きっと説明が「通じにくい」だけの事で。

先日、娘や夫にこう言いました。
(夫は自分で認めたり、受診を促すと怒り出して認めなかったりなので、夫には「聞こえるように」言っただけですが)

私「あなたに良い事があった時、あなたはそれを誰かに話すよね?先生だったり私だったり。その時、相手の人が『ふーん』とか無言だったら、どう思う?
相手が『よかったね!!偉いね!!』って、笑顔で喜んでくれたら、どうですか?
どちらの『反応』が嬉しいですか?」
娘「喜んでくれた方」
私「そうだね。喜んでくれた方だね。
その人に良い事があったわけじゃない。
でも、あなたに良い事があった事が嬉しい。それで、一緒に喜ぶ。すると、もっともっと嬉しさが風船のように膨れる。
それが『共感』です。悲しい時も同じ。
けれど、悲しい時は悲しさが半分になります。なぜなら、悲しい時、人は孤独を感じるからです。孤独は死も意味します(略)。でも、一緒に泣いてくれる人がいる、自分を心配してくれる人がいる、と判れば、孤独から開放されます。
それが『共感』です。
私が悲しい映画を見て号泣したり、不幸な人が幸せになって嬉し泣きをするのは、自分が一度、相手の立場に立って『自分が同じ事になったらどうだろう?』と想像するから。想像して、理解したいからです。理解は人を救います。共感は人を救えるからです。」と言いました。

人は個々であるにはあるのだけれど、
孤独は辛いものです。誰かに支えられ、支えながら生きている。理屈じゃなく。

共感は孤独からの開放を助けるものであり、喜びを倍増させてあげる重要な方法なのです。
定型発達者は
「みんなそうなんだから…」
「世間一般ではそうなの」
という主張の仕方をしばしばする。

アスペルガー症候群者では、それに対し「???」と思った経験がある人は少なくないだろう。

>> うーん、大人な常識人は、考え方やライフスタイルは人それぞれだという事を認識、理解しているので、「みんなが~」という表現は安易に使わないと思いますけどねぇ。もちろん、一般的に人と同じが好まれる事(箸の持ち方や言葉遣いなど)には「世間一般ではそうなの。」という言い方は適切だと思いますが。

個人のライフスタイルや考え方を優先する。これは他民族国家の欧米圏では普通なんですが、日本ではまだまだ一般社会のレベルでは根付いていませんし、集団主義傾向が強いように思います。これが村八分やイジメの原因、少数派の排除になっているかと思うんですが。逆に、英語圏では「世間一般では~」という主張をしても、それはそうだが、「じゃあ君はどう思うの?」と聞き返されてしまい、自分の主張が出来ない人というマイナスなイメージで捉えられしまいます。ここで言いたいのは、日本社会でのコミュニケーションと北米圏と比べると、平等・フランクという共通認識がなく、力関係、年齢差、地域、状況、職場の風土、人によって考え方異なり非常に複雑だと言う事です。なので、混乱してしまい、アスペルガー症候群と診断される人の割合が多いのも納得できる気がします。

海外在住者さんへ
はじめまして。

うーん、やっぱPDD者は海外の方が暮らしやすいのかなあ…。

日本では見えない「みんな」にがんじがらめな気がします。
とはいえ、そうそう、移住もできないし。

日本では診断が増える…ってことがあるのか?問題です。
一応統計上ではないようですが…。


もうひとつの見方
今日、初めてこのサイトを拝見しました。というより、「AS」関連のブログ自体初めてなのですが。そこでこの「AS」の方の視点からの「定型」の分析というコーナーに大変興味を持ち(というより、まさに知りたかったことです)、さらに「定型発達者はなぜ「世間」「みんな」を根拠に主張するか」というテーマで一言書かせていただきたくなりました。すでに時期遅れかも知れませんがご容赦を。

本文とみなさんのコメント(このシリーズ2を含む)を拝見していて、「定型」の私の経験から言って、少し違う視点からの分析が可能であるように感じています。

ASであろうと定型であろうと、このブログの場がそうであるように、常になんらかのコミュニケーションの中で生きています。コミュニケーションというのは相手からの反応を期待しながら自分から相手に働きかける、ということをお互いに繰り返すことで成り立ちます。この点もASであろうが定型であろうが変わりはないはずです。

両者で何が違うかというと、ある働きかけをするときに、どのような反応を期待しているのか、あるいはある働きかけを受けたときに、どういう反応を期待されていると理解するのか、という期待の内容、あるいは期待の理解の仕方です。さらにそのようなコミュニケーションへの積極性の強さにも違いがあるのかも知れません。

では、コミュニケーションをしようとしたときに、相手が自分が予想しなかった反応を返してきたときはどうなるか。当然混乱します。反応を期待しているのに全く反応が返ってこないときもそうですね。

では混乱した場合、人はどうしようとするでしょうか。相手の反応に当惑し、なぜ自分の期待や予想が裏切られたのかを考えるのではないでしょうか。このコーナーがまさにそのようなことをやろうとされているように。

さて、この「なぜ?」についてはいくつかの答えの可能性が考えられます。ひとつには、自分の伝え方がうまくなかった可能性。ふたつには相手の理解の仕方がうまくなかった(誤解された)可能性。三つには相手が意図的におかしな反応を返してきた可能性。そして最後に四つめには、お互いのコミュニケーションの仕方についての理解が異なっていた可能性です。

ひとつめと二つ目の可能性を感じた場合には、とりあえずもう一度伝え直そうとするでしょう。でも、もしそれでも相手の反応が変わらない場合、どう考えるでしょうか。もしかするとここでASの人と定型の人では違いが現れ始めるかも知れません。

定型の場合、多くの人は、相手がコミュニケーションの規則を破っている、と考えがちです。もちろん、自分が規則を勘違いしていているかもしれない、と考える人や場合もありますが、その場合は他の人がどう理解しているかを思い出したり、場合によって尋ねたりするでしょう。そして定型の場合は基本的に多数派なのですから、自分の理解している規則がその周囲の人々から支持されることが多いわけです。つまりここでASの人はコミュニケーション規則の「違反者」、として考えられてしまいます。

このような状況に至った場合、コミュニケーションを持続させるためには、そのコミュニケーションを成り立たせるための規則をお互いに守る必要があるわけですから、「違反者」であるASの人に対して、「正しいやりかた」を強制しようとすることになります。この場合、定型の人はASの人が異なる規則を持っていると言うことを想像することさえ困難な状態であることが多いので、自分の考える規則が「正しい」という思いはなかなか崩れません。

そうやってASの相手の人に、一生懸命に「正しい(と自分が思いこんでいる)」規則ややり方を伝えようとしているのに、何度言っても相手の人がそれを納得しなかったり、また同じような「違反」を繰り返してくる場合、定型の人は往々にして怒りを感じたり、不安を感じたり、情動的に大変混乱してきます。その混乱を収めるために、「自分の方が正しい規則を守っているのだ」ということを確認したくなります。

では自分が持っている規則が正しいと主張できる根拠は何でしょうか。それは「みんながそうしている」からだし、「みんながそれを当たり前だと言っている」からです。(権威がある人がそういっているから、という場合もありますが)

そこでASの人に対して「世間」とか「みんな」を根拠に持ち出すことになるわけです。そうやって自分の正しさを主張し、それを否定されてしまう不安を解消し、そして自分が正しいと思っているコミュニケーションの仕方を回復しようとするわけです。

実際にはコミュニケーションの規則、というのは一つだけではなく、いくつもあり得ます。たとえば異なる文化の中ではある場合にどう振る舞うべきか、ということの考え方が驚くほどに違う、ということがよくあります。でも定型の人の場合、日常生活でそういう違う考え方に出会う機会はそれほど多くないので(特に日本はその傾向が強い)、自分の理解している規則が唯一で絶対だと思いこみやすくなっています。だから「(ASである)この人も同じ規則、同じ理解を持っているはずだし、持っていなくても理解できるはずだ」という思いこみから抜け出しにくいのです。そしてますます「みんな」や「世間」にしがみつくことになります。

定型の人間のひとりとしては、そういう理由があると考えるのですが、このような理解の仕方は、ASの方にも共有可能でしょうか。あるいはわかりにくいとか、どこかおかしいと感じられるでしょうか。
Re: もうひとつの見方
アナグマさん、はじめまして。

なるほど、コミュニケーションの混乱からの回復のためということですか。
興味深い解析ありがとうございます。

ASの一人として、アナグマさんの解釈…理解はできます。
ただ、感覚的に納得はできないです。
それだけ「みんな」に嫌気がさしているのかもしれません。
数の問題だとは思います。

ではでは。

いいブログですね
初めてブログに訪れました。
ASの方は「嘘が付けない」純粋なかたが多いですよね。

社会って「自分に嘘をついて、自分の考えを押し殺して、周囲(大多数)にあわせれるか」が重要なのかもしれませんね。

その嘘をつくことで失うものもあるし、得るものもあります。
どちらを選択するかは個々の判断なんですよね。


ただ、自分の考えを捨てて譲歩したとき、意外と周囲の人はその努力に気付くものです。
お互いに譲歩を繰り返すことで、信用が積み重なるような気がします。

面倒くさいですが、得るものは大きいですよね。
ごめんなさい。読んでいて正直、小学性の言い訳レベルでバカみたいです。

自分の意見だというのが怖くて・・や
衝突を恐れるのが定型だから・・などなど
どう思われようとどうでもいいですよ。

でも、世間一般=社会性です。
社会に出る(出ている)のなら社会を理解して欲しいものです。
それが協調性を養い、一般社会に出て生活を営んでいる人としての本能ですよ。
人間って、一人一人が社会性を持った一匹狼なんです。実は別に周りと合わせるのが凄く楽な訳じゃないですよ?人の数だけ考えも有りますしね。
でもそれを言ってたりやってたりしたらね、秩序なんてあったもんじゃあありませんよね。
この秩序があるから経済や国家が成り立ち、信用や家庭や友人関係が営まれているのだから、協調し、社会秩序を作るというのは人間が生きていく上で非常に重要な能力なんです。
それが当たり前だから、当たり前だよって言うだけです。だってあなた達だってそう言う社会で暮らしているんですから。
なら、世間一般ではっ・・!
って言われて何も間違えてないし言った人には問題ありませんよね?
問題なのはあなた達が適応出来ないことなのだから、他人に文句を言うのはお門違いです。

世間一般では、その場合、「協力してください。」とお願いをするところです。
しかしながら、例えば身体障害者に身体的補助的な協力をするのとは訳が違ってきます。
だってあなた達が言う協力は、具体的には、社会性が無い人間を社会が受け入れろと言うことでしょう?
でもね、社会性が人間を守り生かすから苦労して社会を作っているのに、社会性が無い人間を受け入れてたら社会性が保たれないんだけど、つまり定型によって定型用に作られたこの社会は崩れるんだけど、そうなったら定型の人の苦しみはどうでもいいの?

いっそ自分達だけで自分達の好きなように出来る国を作れば?
でも多分、秩序無き大貧民無法国家が出来ると思うの。
あと、協調性が無いのは発達障害じゃなく人格障害の可能性も有りますよね。
自閉さんは秩序大好きですよ。自分なりの決まりを家庭に持ち込んで「こだわり」と糾弾されるくらい好きです。法律家を目指す人も多いです。
視覚的に表示された秩序には素直に従う傾向があるから、制限速度も守ろうとします。むしろ決まりを破るのが好きなのは定型さんです。制限速度で走っている車に「みんなはもっとスピード出してるよ、空気読めてない」とケチつけるのはそちらでしょう。

大事なのは規則?それとも、みんな?
どんなに頑張っても健常者のようになれないのが障害者。
字のとおり本人や社会にとっても障害がある者だから発達障害は百害あって一理なしでしょうね。
仕事をこなせる発達障害者は別ですが、どんなに頑張っても人の理解や支援なしにはやってけない人が多いですから。

障害者を人格障害扱いしてる発言もありますが、それは人によるでしょう。発言した人が人格障害を疑われても仕方ない場合もある。
それに健常者も人格障害者かと思う人や他人に苦しみを与えてる人は少なくないですからね。
どっちもどっちな面はあるでしょう。

みんな=通常決められてることを基準に社会が動き、それに従って生活を送ることは必要。
ほとんどの発達障害者はそれができないから邪魔物にしかならない。

しかし健常者のみんなの概念が悪い方向に行くと、ある特定の人物へのいじめに繋がってしまう恐ろしさもある。

いや
自分を変えようとしなよ
早期完了‼︎‼︎
狸穴猫さん、はじめまして。
少し前にこのブログに辿り着き、拝見させて頂いています。
2ヶ月前に自分が恐らくASだと気付いた50歳主婦です。AQテストは何度やっても40越えです。
関係破綻している夫もまた、心の理論を学習出来てない自閉さんだと思われるのに、「みんなは、普通は、常識だ、当然だ、当たり前だ」(全然常識的でなく、主観的思い込みに対して)が口癖の夫、、、???
釈然としなかった部分が、2009/8/13のヒゲ達磨さんのコメントを見て、合点がいきました。アイデンティティ早期完了型、夫にピタリと当てはまる。夫は小中高まで、ガキ大将の人気者として、挫折知らずだったそうなので。
私個人としては「みんなは」は好きではないし言いません。「人は皆其々〜」「一般常識として」「社会通念上」は使います。
他人がどのような言葉を選ぶかはその人次第、自分が好もうと好まざろうと、認めざるを得ない、といった所でしょうか。
7年も前の記事へのコメント、躊躇しましたが、この素晴らしいブログを開設なさった狸穴猫さんと、過去コメントにてヒントをくださったヒゲ達磨さんに、一言お礼申し上げたく、初コメントさせて頂きました。
アドバイスありがとうございます
でもそれでわからないアスペさん、いますよ?
私が嫌だ、と言っても自分はそう思わなくて理解できないそうで。
また、みんなって誰、とおっしゃいますが、多くの人が争いなくくらしていけるようにしたもので公に明文化されたものが法律で、それ以外が常識(みんな=多数の人、と表現されがちなもの)なんではないでしょうかね。
定型からの提案ですが、みんな、と言われて理解不能や腹立ちがあるなら、外に出て、見知らぬ人に、事実をありのまま、アスペさん定型どちらにも公平な形で、聞いて見たらいかがでしょうか。
また、ご本人はまわりの人に今回のアドバイスをしてさしあげていると思いますが、ぜひほかのアスペさんも、この記事を見せて説明してあげてほしいですね。
ただ、不公平はやめて下さい。
アスペさんに定型が理解できないなら、定型だけにアスペさんを理解しろと言われても了解し難いです。
定型、もしくは定型個人の行動や思考が気に入らなくても、ネガテイブに捉えて攻撃しないで下さい。
No title
アスペルガーが単に定型社会に対する疑問を投げ掛けただけで、定型社会への攻撃じゃないんだからそんなに噛みつかないでくださいね。

しかし不公平はやめてください。
定型さんにアスペルガーを理解できないなら、アスペルガーだけに定型さんを理解しろと言われても了解し難いです。
No title
ネガティブに捉え、定型さんの集団が少数のアスペルガー攻撃してる方が圧倒的に多いですけどね。

何かと文句言える定型さんの頭が不思議です。

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違いを認めるだと!?リターン
狸穴猫さんの「定型発達者はなぜ『世間』『みんな』を根拠に主張するのか?」という記事をもとに、2008年4月21日の記事を再構築してみました。
常識・世間様・みんなってなんだ???
今日もとってもいいお天気! 私が住んでいる地域の人は、この見てわかる空の具合で、 「いいお天気!今日は暑くなるわね~」 という共通認識があるはず。 (これも、視覚、感覚などの障害または過敏・鈍磨などでも、人に伝えてもらわないとわからないこともあるだろう)..
『みんな』『世間』・・・で、ふと思ったこと。
みんなわかってないよねぇ。みんな聞いてないよねぇ。みんな言ってるのに。みんな見て
自閉症者は迷路の中にいる 17 「共通認識(2)」
  それで、前回の流れから…。 そんなこんなで、発達障害側の考え方も経験があるし、 健常者側の感覚もわからないでもない。 どっちの考えもわかるといえばおこがましいんだけどさ。   だから、現在私の自閉症論の数々があるわけで…。     ...
とりあえず、「みんなそうだから」に逆らうな
定型発達者は 「みんなそうなんだから…」 「世間一般ではそうなの」 という主張の
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