さて、定型発達者がなぜ世間とかみんなとか(普通ってのもあったな)を根拠に主張するのかを前回考えてみたのだが、
コメント欄で「口実としての”みんな””世間”」があるということが話題になった。
マルマルさんがそういうときの心理について、まとめて書いてくださったのでそれをまずは引用する。
ちなみに定型者が「みんな」とか「世間」とか言う潜在心理には「めんどくさい」という本音が潜んでいると、私は思っています。
■いちいち「私は」「僕は」という主張がめんどくさい。
■「私は」と言ったからには、自分の発言に責任もたされるようで、めんどくさい。
■1対1の論争がめんどくさいから「みんな」「世間」でまとめて封じ込めたい。
■「私はこう思う」などと主張して目立ってしまう事がめんどくさい。
■話を早く終わらせたいときに、つい言っちゃう傾向。
なるほど、である。
で、ここで問題になってくるのが、定型発達者(非自閉者)は「みんな」「世間」で封じ込められやすいということだ。
「みんな」「世間一般」と言う根拠で
「そうなのか~、納得」となりやすいのだ。
(時として、渋々納得ってこともあるだろうが)
その理由は、前稿でも書いたが、やはり「みんな」「世間一般」などを想定できてしまいやすいという脳の仕様なのではないかと思う。
これは自閉者ではどうしてもその傾向はグッと低くなる。
(そうだ、共感性能が低いのだ)
で、逆に腹が立ってくる場合さえある。
さて、ちょっと視点をかえて「みんな」「世間一般」等で主張する側の傾向を考えてみよう。
子供が何かをねだるときの
「みんな持ってるから」
を初めとして、
個を主張するのが面倒な場合の自己主張の根拠としての「みんな」「世間一般」
そしてさらに集団からの要請との根拠としての「みんな」「世間一般」
一見違うように見えるが、
ここで視点をまた「主張される側」に変えてみる。
すると
「それを根拠として認めたくなる傾向」というのはきわめて連続的なモノだとは考えられないだろうか。
共感性の高い人ほど、「そうか~」となりやすい傾向にあると思う。
さらに反転して主張する側に考えを戻すと、
やはり、共感性の高い人ほど、「みんな」「世間一般」の存在を無意識に感知しやすいといえる。
すなわち、
共感性の高い人ほど、「みんな」「一般」という根拠を「本気で」主張することになるだろうと考える。
となると、口実と意識的に認識しての「みんな」「世間一般」を根拠とした主張か、本気で「みんな「一般」を論拠にするかというのは完全には弁別できないのではないかと思う。
それこそスペクトラム状になっているといったところだろう。
前稿のコメント内でマルマルさんがこうも述べられている。
定型に生まれ、生まれる前からの流れに物心ついた頃から乗って「それが自然」と生きて来たことに関しては、つい「世間は」「みんなは」と言ってしまいがちですが、…
定型発達者はあまり意識して「みんな」「世間一般」を主張しているわけではないのだ。
それを知っていおいた上で「面従腹背」なり「うけ流す」なり「意見を受け入れる」なりといった、対処を考えていかないと、いたずらに対立を生んだり、定型発達者を困惑させるだけの結果になることも少なくない。
「やみくもに反論するのは」は必ずしもアスペルガー症候群者にとってメリットを生むことではない。
<おまけ>
もちろん、この文章が読めない段階の「アスペルガー児」に対しては、
大人の側が寄り添うかたち
(すなわち、アスペルガー児の疑問を解いていくかたち)で
社会の多数派のやり方を教えていく必要があるだろう。

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