(ツイッターで議論があって…それでなんですが…。)
私には「自閉症スペクトラム」の「スペクトラム」という言葉が一人歩きしているように思える。
さて、前提。
自閉症を「スペクトラム(連続体)」としてとらえることを提唱したのはローナ・ウィングである。
Wing, L. (1991), "The Relationship Between Asperger's Syndrome and Kanner's Autism", in Frith, U. (ed.), Autism and Asperger Syndrome, Cambridge, Cambridge University Press.
ウィングの主張は「カナー症候群」と「アスペルガー症候群」の間に連続性がある(スペクトラム状に存在する)というものだ。
この主張は概ね現在、自閉症理解の一般的なものとして受け入れられている。
ところで…というかところがだ。
この「スペクトラム」という言葉が何故か一人歩きしてしまっているように思えるのだ。
どういう風に一人歩きしたかというと…。
「定形発達」と「自閉症スペクトラム」の間に連続性があるという解釈が広まってしまったのだ。
ウィキペディアの「自閉症スペクトラム障害」の項を見てみてほしい。
そこには、あたかも「自閉性」という軸があり、中間ポイントがあるかのような画像表現がなされている。(ま、ウィキだから今後変わる可能性はあるが)
さて、ちょっと目先を変えて考えてみよう。
疾患・障害には正常体と異常体に連続性があるものとないものがある。
以下にいくつかの疾患・障害を挙げる。
正常体との間に連続性があるかないか?、考えてみて欲しい。
白血病
高血圧
結核
視力障害
統合失調症
貧血
私は、白血病、結核、統合失調症では連続性がなく、高血圧、貧血では連続性があると思う。、
ちょっとここで視力障害に触れるが、
一見連続性ありそうだが、原因によってまちまちだろう。屈折異常には連続性があるが、緑内障には連続性はないだろう。ただ、結果としての視機能は「視力」という連続的な尺度で測られることが多い。
さて、自閉症スペクトラム障害で、正常体(定型発達者)との間で連続性があるのだろうか?
自閉症スペクトラムは脳の機能障害であるというのが現在の通説だ。
脳のPET画像の研究等で、自閉症者では脳の利用のされ方が正常体と違うということは、しばらく前から指摘されている。
また、脳生理学的側面からも、違いが指摘されつつある。浜松医大の研究によると、自閉症者では、セロトニンの運搬を担うタンパク質の機能が正常より30%程度低いことがわかったという。
また、AQテストで正常群と自閉症スペクトラム群では差異がかなりはっきり出る(2群に分かれる…グラフにするとピークが2つになる)という研究結果もある(千葉大若林氏)。
もちろん、自閉症スペクトラムの中で症状の軽重はあるだろう。
だが、連続性を否定する理由はあっても、連続性を指摘する理由を私は見かけたことがない。
にもかかわらず連続性があるという解釈がされやすいのは、
1、尺度に連続性があるから(社会性、コミュニケーション力)
2、尺度とされる能力が「さまざまなやり方で」学習可能なものであるから
なのではないだろうか。
表面的な社会性やコミュニケーション力という学習可能な、また、非定量的で、かつ連続的な尺度を適用することによって、あたかも「自閉症スペクトラム障害者」と「定形発達者」の間の連続性があるかのような解釈が生じているのではないかと私は考える。
広範囲自閉症形質(BAP)というものが最近は注目を集めて「自閉症」が連続的なものであるような解釈をする人も多いのだが、BAP自体の尺度が「自閉症の連続性」を前提に、また「社会性」「コミュニケーション能力」を尺度に作られているので当てになるとは私には思えない。
自閉症が連続的だとする解釈の存在は、ちょっと由々しき事だと私は思う。
なぜなら連続性を支持する場合、障害に伴う困難を、
「そんなこと誰にでもそれなりにあるものよ」
と捉えられてしまい、障害自体の存在を否定されかねないものだからである。
すなわち、障害によって起こる失敗等を「本人の責に帰す」ものとされてしまいかねない。
「努力が足りない」「自覚が足りない」等々。
もちろん、自閉症スペクトラムにおいて、臨床的にはグレーゾーンというものは存在するだろう。
「疑診」というものである。
診断尺度が非定量的で連続的なものであるほど「疑診」は多発する事になる。
線引きが難しいからである。
しかし、これは、脳科学の発達によって「自閉症スペクトラム」の実体が解明され、簡便な検査で判別できるようになれば、自然と少なくなるものだろう。
さて、何故、このような解釈が広まったのかについて考察してみよう。
1自閉症児の親の問題
2社会の問題
が挙げられる。
個々に考えていくことにする。
1自閉症スペクトラム児者の親の問題
自閉症児の親としては、自閉症と定形発達が連続的なものであって欲しいという思いがあるのだろう。
連続性を支持するならば、「成長・発達によっていつかは普通の行動ができるようになる」という期待を捨てなくていい。
さらに「認知」や「脳機能」の差異を考えずに「発達促進」のみを考えればいい。
要は親にとって、こう考える方が楽なのだろうということだ。
2社会の問題
自閉症スペクトラム障害では、社会的・障害コミュニケーション障害を持つ場合が多い。
ということは、職場等で「扱いにくい人」や「困ったちゃん」であるケースが多々ある。
端的にいってしまえば「迷惑な存在」である場合も多いのだ。
ところが、これが「障害に起因する」となると、定形発達者サイドはその理解・対応に関して「変更」を求められる。
単純に「叱責」したり、「努力しろ」とだけいってみたり、ひどい場合は「邪魔者扱いしたり」ということができなくなるわけだ。(するとしても良心の呵責を伴う事になる)
かといって、「どう支援していいか」ということに関して、指針ができていないのが現状である。
こういう状況で、連続体であるという設定をすることにより、自閉症スペクトラム障害者の問題な(定形発達者社会にとってだが)行為・行動について、
「誰にでも多かれ少なかれあること、その頻度が高いだけ」
という解釈が可能になり、定形発達者は新たな理解や対応を迫られなくても済むということなのではないだろうか。
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おおざっぱにまとめる。
「自閉」←→「定形発達」が連続的なものとして捉える解釈が多発しているのは、果たして科学的なのかというと、現状ではそうではないように思える。
連続型の尺度を診断に利用するのと、病態が正常体と連続的であるとするのは別問題だと考える。
また自閉症と正常体の連続性を想定することが、自閉症スペクトラム児者の為になるのだろうか?と考えると、私には現状、ではそうは思えないということである。

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