アスペルガー的言語感覚と「いわゆる気遣い」
今日も我が家は寒い。
多少寒さは緩んだとはいうものの
全国的にもやはりそれなりに寒いようだ、
さて、寒い中出かけて夜遅く帰ってきた家族にどういう声かけをするか?
仮にうちの息子が出かけていたとして、私が
「寒かったでしょう、いま熱いお茶入れるわね」
なーんて言う言葉をかけたら…
「ネタですか?」
とか
「やめてくれ、気色悪い」
という言葉が返ってくるだろう。
「こんな遅くまで何してたの?心配するじゃない、とにかく中はいってストーブにあたりなさい」
こういうパターンもありかもしれないが、
これでも
「なに妙な芝居やってるんだ?」
という返答が返ってくるのはほぼ間違いない。
狸穴での正解は
「遅い!片付かないじゃないか、早く飯あっためて食えよ」
とか、
「早く風呂入れ」だったりする。
そう、気遣い…それは定型発達者のそれと、ASD者のそれは大違いだったりする。
だが、その差異の詳細については、今回は触れない。
今回のテーマは定型発達者と気遣いの関係である。
定型発達者的「気遣い合い」
さて、前振りはこのくらいにして本論に入ろう。
一家の主婦が風邪を引いた場合を例にとって考えてみよう。
-晩ご飯の後を想定-
母:「なんか頭が痛いわ…」
娘:「お母さん、大丈夫?」
母:「うん、ありがとう、ちょっと熱っぽいみたい」
娘:「しんどそうよ、横になって休んできたら?お皿洗っておくから」
母:「でも…、そう、悪いわね」
娘:「いいって、いいって、」
母:「ありがとう、じゃ、休ませてもらうわ」
この会話のやりとりを見て「ああ、こうだったらいいなあ」と思うあなたは定型発達者の可能性は高いだろう。
往々にして、ASD者では、笑いがこみ上げてきたり、背中がかゆくなったりしがちであるようである。ちなみに私は何故か知らぬが背中が…である。
ま、その感性の違いはともかくとしておこう。
とにかく上記の会話例は、定型発達者の会話としては「ありがち」な、そして「好ましい」パターンの会話であるらしい。
ASD者がもしこの会話をしなければいけないとなったら…とりあえず直感的に
「う、これは…疲れる…、疲れそうだ。」
という言葉が出てくるだろう。
大体、すらすらと気の利いた言葉が出てこない。
それに背中がかゆい、笑わないで言うのも大変だ。
様子からどんな言葉をかけたらいいのか判別するのに全神経を集中させなきゃいけない…
となる。
ところがどっこい!
定型さんはこの会話で疲れることはないらしい。
これだけでASD者にとっては驚きなのであるが、さらに驚愕の事実が…
実は…
この会話で定型さんは「精神的な活力を得られる」
のである。
さて、分析を試みたくなったのは…
「夫がアスペルガーで妻がうつになる」という話しからだ。
まあ、ネット中探せば、腐るほど転がっている話しだから、
どうやら、その現象は確かにあるようだ…。
夫の気遣いというものが感じられない…とか、
「気遣い」を受け入れてもらえない…とか
会話が一方通行である…とかいうことで、
定型発達者は気力が萎えたり、不安感が募ったり、自尊心の低下が起こる。
それはまあ、事実だろう。
定型発達者が気遣い合いを好むメカニズム
さて、それはどういうことだろうか?と、考える。
上記の構図が成立するための条件を考えてみる。
すると、
定型発達者は
「気遣われること」
「気遣いを受け入れてもらうこと」
によって、精神的活力を得ている。
ということが浮かび上がってくる。
もちろん、定型発達者とて、赤の他人、全く知らない人にそれを期待することはしない。
ある程度親しいということが前提となってくる。
親密さが大になればその効力もまた大になる。
とともに、親密さが大になればまた期待も大きくなる
さて、どういったメカニズムだろうか?
例に出した母娘の会話をもう一度ひもといてみよう。
母:「なんか頭が痛いわ…」
聞いてもらえる人がいるという事実の確認から共感欲求の満足
聞いてあげているという事実からの確認から娘の自己効力感UP
娘:「お母さん、大丈夫?」
気遣うという望ましい行動をとることによる娘の自尊心のUP
気遣われていることから母の自尊心UP
母:「うん、ありがとう、ちょっと熱っぽいみたい」
感謝するという望ましい行動をとることによる母の自尊心UP
感謝されることにより娘の自己効力感UP
娘:「しんどそうよ、横になって休んできたら?お皿洗っておくから」
気遣うという望ましい応答をすることによる娘の自尊心のUP
気遣われていることにより、母の共感欲求の満足と自尊心のUP
母:「でも…、そう、悪いわね」
遠慮がちにするという望ましい言動をとることによる母の自尊心UP
気遣われたということにより娘の自尊心UP
娘:「いいって、いいって、」
相手を許容するという望ましい行動をとることにより娘の自尊心UP
病態が許容されたということによる母の安心感UP
母:「ありがとう、じゃ、休ませてもらうわ」
感謝するという望ましい行動をとることにより母の自尊心UP
感謝されることによって娘の自己効力感UP
ということになるのではないかと考えられる。
まとめると、
会話の中で。
自分が望ましい言動をとることにより、自尊心がアップする。
気遣われたという事実により、気遣われる側の自尊心がアップする
感謝されることにより、気遣う側の自己効力感がアップする。
聞いてもらえる(コミュニケーションがとれる)ことによる共感欲求の満足が起こる。
さらに、自尊心が満たされるので不安感が減少する
ということなのだと考える。
「定型発達者は気遣いのやりとりの中で精神的活力を得ている」
とは、このようなことである。
もちろん、「望ましい気遣い」が定型者の流儀に沿ったものでなければその効果がないことは言うまでもない。
そして、それがなければ、自尊心の低下や不安の増大が起こるということから、定型発達者はコミュニケーションの中で自己の存在意義を確認し、自尊心や自己効力感の維持をはかっている面が大きいのではないかということになる。
定型発達者とアスペルガー者の気疲れの違い
定型発達者が、ASD者なら「疲れそう」と思う会話ができてしまう背景には
「気遣いの為の注意」
「気遣いの為の情報収集」
に関わるエネルギーが、ASD者が同じことをやる場合のそれよりはるかに小さいことが想定できる。
つまり定型者では
「気遣いに必要なエネルギー」<<「気遣いをすることによって得られるエネルギー」
なのであろう。
(ASD者ではこの不等号の向きが逆になるだろう)
親しい定型者同士では「気遣いのやりとり」が比較的容易なことであるから、何もASDの特質に対する知識がなければ、「簡単なこと」としてASD者に要求するが、「簡単なこと」という前提であるが為に、それが得られない場合の落胆もまた大きいといったおまけ付きになる。
「家の中くらいホッとしたい」というのは、定型発達者でも、ASD者でも思うことのようだが、定型者がこういった性質を持つこと前提に考えれば、その意図するものが大違いなのはいうまでもない。
定型者が
「気遣いというコミュニケーションを通してホッとしたい」
のに対し、ASD者では
「余計な気を遣わなくて済むことによりホッとしたい」
のであるからだ。
とまあ、ここに至って定型者とASD者の間に生じる溝が一つ明らかになった?わけだが、
どうしたら、こと家庭内で定型発達者とASD者がお互いに精神的に疲労しないで共存することができるのかといった課題への決定打は私にはまだ見つかっていない。
だが、とりあえずは、互いの性質を知ることができれば、決して道がないわけではないのではないだろうか。
こんななところで本稿終わり。

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というわけで、
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