こうなると体温調節が苦手なアスペルガー症候群者にはつらい。
着たり脱いだり、温度計とにらめっこで調節せねば風邪を引く。
困った季節である。
ところで、たくさんコメントをいただいているのに一部にしか返答ができずにいて申し訳ないです。
どうも調子がのらない…というわけで、ここしばらく散発的なお返事になるかと思いますがご了承ください。
さて…、
最近表情についての本を読んだり、表情についていろんな方と話す機会を得て、定型発達者の表情読み取り能力というものについていろいろ考えた。
行き着いたのが「察する文化は表情の読み取りに端を発しているのではないか」ということ。
定型発達者の表情読み取り能力はすごい!
はっきり言って私から見れば超能力だ。
視力にたとえて言うなら定型者1.2 私0.01だと思える。
驚くべき点を2つ上げると
・瞬時に表情を読み取っている。
・ほとんど意識せずに表情を読み取っている。
もちろん、定型者でも読み取りミスはあるものの、その読み取り性能はアスペルガー症候群者とは段違いだ。
自助会などであえて観察させていただいていると、まず、アスペルガー症候群者では表情に着目する習慣を持たない人が多い。
さらに、「表情なんてわからない」ともらす人も多い。(私も例に漏れない)
この差はいかんともしがたいものだ。
自閉をマインドブラインドネスという表現をする場合があるが、
私は自閉を「色盲」ならぬ「表情盲」と表現してもいいという部分があると思えるのだ。
さて、定型発達者の話に戻すが、
定型発達者では表情の読む能力、表情を表出する能力が高い。
→表情から様々なものを察することが苦痛ではなく当たり前。
→他者にも表情から様々な事を察することを要求するのが当然。
→察し合いをできると安心する。
こういったルートは成り立たないだろうか?
そして、集団内の表情等による「察しあい」のやりとりがいわゆる少人数集団における「場の空気」の本質であるのではないかとも考えられる。
これが察する文化の基本構造なのではないだろうか?
そう私は思うのだ。
そして、このような察する文化の中にどっぷりつかった定型者に対しては
我々アスペルガー症候群の人間は「察することができない」「うまく表情を表出できない」というアピールをしない事には「察することを要求されてしまう」危険性は非常に高いのだ。
…、というか、それに苦しむアスペルガー症候群者は多い。
このように考えていくと、何らかの手段で「それ、できませんよ!」とアピールしておく方が安全性が高いといえるのではないだろうか。
いわゆる「天然ボケ」の演出とか「鈍感」「変人」のアピール。
(「無害・できれば有益」のおまけが必要かもしれないが…)
これはアスペルガー症候群者にとって、盲人における白杖と同じ意味を持つツールなのではないだろうか?
「障害を理解して支援してもらう」…まあ、それも重要だし、そういった支援者がいてくれたら心強いのではあるが、無形の障害なだけに自ら積極的にそういった「ちったあ見えやすい無形のツール」を獲得していくというのも生きるすべにはなるのではないかと思う。
とまあ、今日はそんなことを考えた。

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