アスペルガー症候群者から定型発達者への歩み寄りについて

風邪を引いた。どうやら息子からうつされたようだ。
もつ鍋食ってあったまったのでおいおい治る…と信じたい。


さて…


コメント欄でいただいた疑問。


「アスペルガー者から定型者への歩み寄りはあるのか?」


これは障害に関する自覚の有無によって異なるだろうとしか言いようがない。


今回はコミュニケーション面だけに限って考えてみる。


自覚の段階を三段階に分けてみよう


1アスペルガー症候群である自覚がある場合

2何となく自身のコミュニケーション能力に問題を感じている場合。

3自分には何のコミュニケーション能力上の問題がないと考えている場合。



1と2の場合は確実に定型者に歩み寄っている。
いろいろ考えていることだけはほぼ間違いない。
(打開策になっているかは別問題として。)


問題は3の場合なんだろうと思う。

きっかけがなければ、自分がアスペルガー症候群であることすら気がつかない。
そうなれば

「何で自分ばかり責められるのか?」
「何で自分ばかり避けられるのか」

などの原因を他者にばかり求めて周囲に対して怒りや恨みを持ったりしやすいだろう。
他者を振り回してしまう例もあるかもしれない。
歩み寄りというのにはほど遠い。

だが、これが責められる問題なのか?というと話は別だ。
なぜなら、障害の自覚ないのだから。

こういうケースでは本人が自分の障害に関して気づくきっかけがあることを祈るばかりだ。



さて、1.2のケースに話を戻すが、

定型者サイドの歩み寄り要求が大きすぎるのではと思うことがある。

支援者側からの言い分としてアスペルガー症候群は


「支援しがいがない障害」


と言われることがある。


一言で言ってしまえば、障害特性を十分理解していない支援者なのだなあとも思うが、


定型発達の支援者側が「感謝の態度」はじめ、「良好なコミュニケーション」というものを被支援者に求めてしまう事による行き違いである。


ノンバーバルコミュニケーションがうまく機能しないこと、
コミュニケーション自体がうまくいきにくい事



が障害の大きな部分であるにもかかわらず、意識しないとつい定型発達者はこれらをアスペルガー症候群者に求めてしまう。



当事者が必死の思いで「ありがとう」と口にしても、
支援者は「棒読みで心がこもっていない」と感じてしまう。




これはありがちな事だろう。




ちょっと待って!と言いたくなる現象だ。


誰も白杖を持った盲人に「見えるようになれ」とは言わない。


だが、アスペルガー症候群者に対しては、障害がわかっていても


「もうちょっと察しろ」
「もうちょっと愛想よく」
「もうちょっと態度で示してくれ」
「もうちょっと即時に反応してくれ」



といった要求がなされてしまう。


ある意味不思議な現象だ。


記事「アスペルガー症候群者は正直であるしかない」のコメント欄で大福さんが指摘されているように、定型発達者とアスペルガー症候群者で歩み寄り像が異なることもその原因だろう。



まあ、定型発達者の分析と努力次第で定型者の望むような姿を「ある程度」演出できなくもないが、所詮「ある程度」であるので、常に、


「もうちょっとできないのか?」
「できるんならはじめからやれ!」



と言われる可能性をはらんでいる。


すなわち「定型者への歩み寄り」が「歩み寄り要求」のエスカレートを生む訳だ。


見えない障害、そして、コミュニケーションの障害というのは、このような矛盾をはらんだ障害なのだということ。


そして、無理をして「歩み寄り」をしようとし過ぎればそれ自体のストレスで
二次障害にもなりやすい。


ここんところ、定型発達者にすべて理解してもらうというのは現実的には無理である。が、できれば福祉関係者はじめ、支援者と呼ばれる人にはもうちょっと理解して欲しいと思うのである。

アスペルガー症候群者サイドでも、この構造、理解しておいたほうが二次障害の防止のために有用ではないだろうか。


そう考える。





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コメント

うなづく
知的障害をともなう不定形発達障害の息子がおります。。母親から感じる支援者への困り感と共通点が多くて、うなづきながら読ませていただきました。。察しの悪いのはどちらなのかとため息ですね( ̄◇ ̄;)
「支援しがいのない」というのは支援者のわがままな都合であり、傲慢だと思います。
アスペルガーについては知識だけ、カナーの人と会ったことがあり、自閉症、自閉傾向については多少知識がある者です。
狸穴猫さんのように、インターネット上でなら、整った文章と言葉使いで自分の考えや感情を表現できる人もいるのであれば、こういうサイトやブログの存在を知ってもらい、健常者に読んでもらう事で、アスペルガー者も感情を伝えようと歩み寄りをしている事の証明になるのではないでしょうか?
それが難しいのが現状なのでしょうが。
直接顔をあわせての会話で誤解されるのが問題なのは分かるのですがね。
もっとこの問題が周知されないといけませんね。
歩み寄りとは言えど
自覚がないときは、「なんで自分ばかりが責められるんだろう?」という疑問ばっかりでした。
自覚した今は、それはなくなったけれど、果たしてどこまで、定型さんに受け入れられるレベルまで頑張れるか・・・気が重たくなってます。

今日は通院日で、その帰り道で考えたことは、今の職場で、なかばいじめに近い処遇に遭い、それがトラウマになりかけていること。あのときの、あの人の、この人の、あの言葉や私にした仕打ちが忘れられず今もドロドロした記憶の残る職場に、果たして復帰して、うまくいくのかどうなのか・・・。自信をなくしている最中です。。。

わかっていても、なんで少しばかり脳みその働きが違うだけで、ここまでの思いをしないといけないのか・・。

自覚がない時期はそれはそれでつらかったけど、自覚した今は、とんでもない努力が必要なことに呆然とするばかりです。

私も杖がほしいものです。正直、そう思ってしまいました。

次回アスパラのスピーチは、こだわりをテーマにしたお話をする予定です(私の気が変わらないかぎり)。こだわり1つとっても「なんでそんなことに、そこまでこだわるの?」と言われると失望してしまいますね。苦笑。
はっとさせられて・・・
こんばんは、連投ですみません。

「支援のしがいがない」のところで、私ははっとさせられました。

それで、今日のブログの記事が一本出来てしまいました。

結論からいえば、「支援者も人間」なのです。

「ありがとう」の言葉を支えに仕事している、という部分があるんだ、ってこと。

これは大きな発見でした。

記事の公開は、たぶん明日の朝になると思います。
あずきさんの「支援者も人間」という言葉に乗っかる形になりますが、記事を読んでよくよく考えた結論を書いてみます。
支援者の多くは福祉や医療関係者が大半だと思うのですが、福祉・医療業界に属する人間だからこそ「支援のしがいのなさ感」に悩むのではないか、というのが私の結論です。
その理由として、
1.(支援の)対象者の反応は自分が行った支援の結果であり、それが次へのステップの指標になるためOKかNGはっきりとした反応が欲しい
2.問題の改善や解決には支援者と対象者の相互協力が必要なため、自分の支援が押し付けになっていないか確実に確認したい(言葉だけではなく感覚としても手応えが欲しい)
ということがまず始めに上げられます。
支援する側は(特にそれを職業として行う場合)対象者の抱える問題・悩み・不安・困り事に介入するに当たって到達目標をあげて介入方法を考えて実行します。そして、常に到達目標にどこまで近づいているか、介入方法に間違いはないか、修正・変更の必要はないかアセスメントしています。アセスメントの基になるのは対象者の反応です。この時に定型の支援者は相手の言葉だけで反応を確認してはいません。むしろ言葉だけを信じることはしないと言っても過言ではないでしょう。
支援者は自分の五感+第六感をフル活用して感じ取り、確認し、判断しています。福祉・医療関係の有資格者であればそのトレーニングが課せられています。有資格者でなくとも、人を相手とする職業であれば日々そうした感覚と思考回路が鍛えられてしまうのです。そのため、「感謝をしてほしい」というよりは自分の仕事に対する手応えが欲しいのです。そして、その欲求を無意識に強く持っているが故に、「発達障害者から定型者と同等の手応えを得るのは難しい」ことを理屈としては理解していても、ついつい癖で期待してしまうのです。
また、支援に対する反応や手応えを支援者は対象者本人からのみ得ようとはしていません。対象者の周囲の反応や変化も観察していきます。
対象者が発達障害の場合、周囲の人間の多くが障害を理解していません。支援者ですら完全に理解できていないため、ある程度の理解すらもできない関係者の方が多いと言えるでしょう。そのため周囲の人間は、支援者が介入した結果改善があると更なる改善を期待します。
発達障害の方々の努力に限界があるように、周囲の関係者の理解にも限界があります。その両者の間に立つ支援者はどうしても板挟みになり疲弊してしまうケースが多く、対象者が定型であれば比較的容易に分かりやすい達成感も得にくいため「支援のしがいのない」と言葉に出してしまうのだと私は思います。そして、対象者に対して「もう少し察して欲しい」「少しは空気読めないかなぁ?」と望むのと同じくらい、周囲の関係者にも「もう少し分かってやれよ」「四の五の言わずに受け入れてやれよ」と苛立ってもいます。
もちろん、あずきさんの言うように「ありがとう」の言葉を支えに仕事をしていることも大きいでしょう。
人間相手の仕事はマニュアルや工程表通りには進みませんし、事務的、機械的にこなす訳には行かない分、精神的なストレスや疲労が重くつきまといます。その割に金銭的報酬は「こんな程度か」と虚しくなる額です。それでも、福祉・医療関係の仕事を続けられるのは対象者の「ありがとう」の言葉や明るい表情、幸せな気配、溌剌とした様子などから自分の仕事の結果を手応えとして感じる瞬間の喜びがあるからです。

発達障害の当事者と支援者間での歩み寄りということで考えると、歩み寄ろうとするからこそお互いもっと理解して欲しいと望み、理解し合えないことのジレンマやフラストレーションが大きくなってしまうのかもしれないなあと、人間の欲深さを考えさせられる記事でした。
読みながら
発達障害に求めすぎたら、逆に大袈裟なやり方をしそうで、却って危険度増しますよ!
私自身が、その典型的なパターンですが。
何故なら、それじゃないと、私には分かりにくいんですよ。定型のやり方は分かりにくくて、学習しにくくないですか?
悲しいけれど、発達障害者からの歩み寄りに、そんな危険性を孕んでんです。
先日、発達障害者の就職支援をしている会社の説明会を聴いてきました。
そこでは、基本的なビジネスマナー(いわゆるホウレンソウ等)や時間の管理方法、PCの使い方等をレクチャーし、発達障害者に合った仕事、就職の支援をする、ということでした。
その会社の代表者と話しましたが、基本的には発達障害者を定形に合わせさせるスタンスでした。
現状では、発達障害に理解ある職場というのはほとんど無いということ。なので、定形に歩み寄る事も必要だと。
発達障害者であろうと無かろうと、メリットのある人しか会社は採用したくはないわけですから、そのスタンスは理解出来ます。
ただ、周りの理解が薄い状況で送り出された人達は、会社の都合で環境が変わったりした場合どうなるのか疑問は残りますね。
まぁ、子供じゃないんだからって事なんでしょうけど、環境が変わる時って発達障害者には苦手な事がいくつも起きるのでね。
私のように不適応で会社を辞めなければいいなと思います。
肢体不自由者から
私は肢体不自由者ですが、アスペルガーに罵倒されました。肢体不自由者が自分の足りない身体機能を補うのを、アスペルガーに無駄だの逆効果だの罵られ、何回説明しても「こんな人に何を言っても無駄、判っちゃいない」と罵倒されました。否定するなら否定するに足る根拠を示してから進言するのが常識ですが、彼は一方的に否定しますが、代替方も何も示しません。
否定する根拠を尋ねたら、酷い非難を浴びせられたと言い始めたので、私が彼に何を言ったのか尋ねたら何回も酷い非難を浴びせられたが内容は覚えてないと子供のように拗ねました。そんなに頻繁に非難を浴びせられたら内容を覚えていない筈がありません。
言い逃れや事故弁護も正当化も出来ない状況となるとその場を去るか、通話を切ります。
彼以外にも身近にアスペルガーはおりましたが、自分の言動で社長を怒らせてもふて腐れるか、俯いて無言を通し謝罪の言葉は全く聞いた事がありません。
私は肢体不自由者となり、工夫を余儀なくされてます。肢体不自由者は足手まといになり、足りない機能を工夫して補わなければ生きる屍です。生きる屍になりたくないので創意工夫してます。
精神障害と重複してる時に言われたように、障害者だけで離島に行き互いに理解し円滑に生活出来るでしょうか?ある程度の理解は得られますが、生活は成り立ちません。同じようにアスペルガーだけで村や町を造ったらどうでしょうか?。
私は不当だとか理不尽な扱いをされたと不平や不満を言い、健常者から離島発言を返され障害者の特権意識に気付き、それを棄てました。障害は盾でもなく矢でもありません。障害を武器にしている間は疎まれるばかりです。健常者から見れば、肢体不自由者もアスペルガーも傷病利得追求者です。マジョリティーが障害者を支えていますが、我々障害者は受ける恩恵に比して貢献度が低く非難されて当然です。尊大な態度の障害者など支援を拒まれます。
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>アンチ綺麗事氏
貴方の見てきたASD者って高々数名ですよね?
それで、全体を見た気に成っているとしたら、相当の傲慢だと思いますがね。

貴方はASD者に対する個人的な憎悪を、自分に敵意を向けた相手と向き合うのではなく。
赤の他人に八つ当たりする事で晴らそうとしている様に見えます。

貴方自身、四肢不自由者としての苦労も有るでしょうし。
その、生き方を否定された過去は許せないものかも知れませんが
それを「綺麗事は嫌い」と言う言葉で武装して、自分は他人の意見を聞かず
相手を責め続けるという逃避行動を取る。

私には、貴方が語る中に出てくるASD者と貴方自身の在り方や。
傲慢さ理不尽さに何かの違いを見出す事は出来ません。
所謂、同じ穴の狢、類は友を呼ぶ。
ただ、それだけな気がして成りません。
しばらく様子見ていたのですが。

みなさん、なんたら綺麗だかって人はただの悪ふざけですよ。
相手にしてはいけません。放置しましょう。

もはや障害者なんて関係なく、
こんなの「個人の悪口」ですよ。
よく読めば、言ってることが矛盾してるうえ支離滅裂なのが明白です。

精神障害と知的障害で、薬の副作用で身体障害だとか、
そんな三大障害の総合デパートみたいなもの聞いたことないですね・・・。
それこそ障害という言葉を都合よくつかってるだけですよ。
最初に「歩み寄り」なんて「綺麗事」いっておきながら、内容はまったく逆じゃないですか。

全部 でたらめか、もしすべて真実なら
それこそ心に問題があるとしか思えませんが。
黙れ欠陥品
空気も行間も読めないアスペルガーさ迷惑な存在なんです。前述の否定する人も相手の立場でかんがえられず、普通ではあり得ない展開になりました。
アスペルガーがイジメの対象になりやすいのは尤もです。アスペルガーは察する回路を持たない欠陥品です。有って当然の機能がないアスペルガーは不愉快だ。場に相応しくない発言やとんちんかんな受け答えと言い、常軌を逸してる。昔ならアスペルガーは高い確率で無礼討ちだ!猿にも劣る察する能力のアスペルガーは尊大な障害者だ。アスペルガーはアンドロイドと同等かターミネーターのようだ、思考は出来るが、感情は読めない。アスペルガーや池沼に対して下手に出てはならないと判った。迷惑がられてるんだよ!気付けや!
人のブログで欠陥品とかタイトルに書いて楽しいですか?
あなたも自分の足で歩けないなら欠陥品です。
車イスなしで歩けるなら文句いっていいですよw クソだるまさん。
肢体不自由のくせにかまってちゃんとかキモイ。
エレベーターの中で車いすごと立ち往生してろ。
バリアフリーだのなんだので支援してもらえていいよな。
そんなにアスペが嫌いなら蹴ってみろよw あ、足動かないんだっけw 可哀想w
はいはいその辺で
このブログでここまでひどい罵倒合戦があったのは初めてですねえ。せっかくだから削除はやめときますが、ま、このくらいにしといてくれませんか?読む方も面倒だとおもうんで。
とっととくたばれ欠陥品身障
アク禁も通報もキチガイ呼ばわりも怖くねーよカタワ
お前らみたいな脳筋が発達障害やメンヘラを生んでんだ
自分で自分の首締めてるのに気がつけよ肉体的欠陥野郎
肢体障害の奴見かけてももう絶対助けない
正直に言うのも善し悪し
あなた方のようにストレートに言ったらこうなります。
私は歩けますよ。
オブラートに包んだ言い方や間接的或いは比喩的表現を用いて相手を傷付けないのが社会人の常識です。
言いたい事が判りますか?行間を読んでください。
身障者には禁句とされる言葉をかけると言われた本人も周囲も険悪な雰囲気になりますが、気遣いに欠ける正直な言葉にも感謝を言います。
こういう苦労や気遣いや気配りが判りますか?
悪気がないのだろうからと、本心で傷付きながらも有り難うとか返します。
「中風みたいに震えてて字を書けるんだ」社会人にあるまじき声かけで、侮辱や罵声に等しい言葉です。周囲の気持ちや感情を考えて欲しいです。
スキー楽しいよ? 縄跳び楽しいよ?
野球もサッカーも楽しいよ?
一緒にやらない?
出来ますよ
スキーは未経験ですが、素人レベルでそれらは出来ます。

空気読めると良いですね!
でもネガフイルムで録音しろって言うのと同じで無理でした。
健常者の視点から書きます。

アンチ綺麗事という人は障害者ではない。ということに、ASDサイドの方々まだ気づかないのですか?
わたしはとっくに気づいてましたが。
障害者の視点からものごとを一方的にしゃべったら、こんなふうになる。
というふうに遠まわしに教えてあげたかったのでしょう?

だいたい手足が不自由で、視力も0.1以下ならPCつかえるなんておかしいですし。
おそらくは、以前 会社の上司にアスぺ疑いの人がいる、と書き込みした人と同一人物じゃないですか?
一票いれるとか、コメントを自分で投稿したのもあなたですよね?

これでわかったと思いますが
ASD者は正直者というよりバカ正直なんですよ。
だからあなたの言葉をそのまま受け止め、
あなたは障害者だということを本気で信じてしまったのです。
障害者が障害者の悪口をいっている。と思ってしまったことでしょうね。
もちろん、
「ストレートな言い方するとこんなふうに相手は不傷つくんだ」と悟らせようとしたという
あなたの真意など気づくはずありません。

あなたの正体がわかっても
「最初から、そうならそうってストレートにいえよ。」
ってASD者サイドの人たちは思っていることでしょう。

これでわかったと思いますが、
ASD者に「相手の立場に立って気持ちをわからせよう」的なやりとりは
まったくの時間の無駄です。
こっちが気をつかっても、気をつかってることに気づかないのがASD者です。
ですからストレートに言ってあげてください。
そうでないと、お互いのためによくないです。

むしろ、アンチ綺麗事さんの意見に
本気でむきになって反論してくるASDサイドの人たちを止めようと
「相手にしないでください」と書き込みしたつもりだったのですが、
逆にアンチ綺麗事さんを怒らせてしまいました。
「障害者だというのはでたらめですよ。
本気で相手にしないほうがいいよ。」と言いたかったのですが。
言葉が足りませんでした。ほんとうに申し訳ありませんでした。

管理人さんには個人的にメールを送って謝罪したのですが、
まったく動く気がないようなので、コメント欄にあらためて書きました。
ほんとうに言葉が足りなかったために、このような事態になってしまい申し訳ありませんでした。

最後に、
ASD者サイドの方たちも、相手が本気否定していてると思って傷ついたと思います。
最初から真意がわかっていれば、決してこんなことにはならなかったと思います。
ASD者は社会性や情緒面においては、こどもとおなじなんです。
いちいち本気で相手にしてたら、定型者のほうが疲れてしまいます。

そう考えると、アンチ綺麗事さんはとてもまじめでやさしい方だと思います。
最初からASD者に興味なかったら、相手にしなけりゃいいだけなんだし、
わざわざこういうブログにたどりつかないでしょうね。
あとから真意がわかったからこそ、そう思うわけです。
謝罪になっていないかも知れませんが、
様子みながら冷や冷やして、自分の軽率な書き込みに後悔していました。
これは本当で、反省しています。
書きこめば、さらにエスカレートしてしまうし
なにもそなければ言い放しになるし・・・
ずっと悩んでました。

えらくながくなりましたが、
ほんとうに、ほんとうに
ご迷惑をおかけしてもうしわけありませんでした。
わたしも発達障害ですが、わたしなりに定型者の立場から考えてみました。

発達障害者、ASD者のすべてが定型者に否定的なわけではありません。
また定型者であっても、人の気持ちを考えない、気づかいができない。という人はいると思います。

人違い
アンチ綺麗事はアンチ綺麗事です。上司にアスペルガーらしき人?アンチ綺麗事に一票?私ではありません。

視力は裸眼で0.03ですが、度の強い眼鏡で0.8にしてます。起きている時は眼鏡掛けっぱなしの生活ですが、店の出入口などで、温度差でレンズが曇ると立ち止まってしまいます。不便です。
発達障害と一口にいうけど
コメントはお久しぶりです。

あくまでも私の場合ですが、コミュニケーション以外にも感覚過敏(鈍麻)も抱えてるので、そういった部分にまで「歩み寄れ」って言ってくる人がいてかなり困った覚えがあります。

すごく働きたかった職場があったのですが、就職してその会社の制服を着たらじんましんが引かなくなってしまい、1ヶ月で泣く泣く辞めることになってしまいました。

定型さんでも身体壊してまで相手に合わせようとする人がいてますが、それは歩み寄りとは言えないんじゃないかなぁと常に思います。
やはり、双方が健康でいられるようにすることが一番の歩み寄りだと思うのです。
相手が出来ないことを知って、自分が出来ることでカバーしあう。

私はこれだけで充分やと思います。
奈良人さん、はじめまして。

わたしも発達障害で、感覚過敏があります。
たしかにASDやPDDはコミニケーションの障害ばかり、大きくされて
感覚過敏(鈍麻)や認知の問題はあまりいわれませんね。

わたしの場合もどうしても触ることができないものがいくつかありました。
大人になると、いくらか我慢したり使い方を工夫するなどで、対応できるようになりましたが。

じんましんは出ないですが、特定のものに触ると
体中 悪寒がはしり背骨のあたりがとくにゾクゾクします。鳥肌がたつこともあり
「嫌悪感」としかいいようがない感覚です。

しかし、なかなか周囲の人にわかってもらえず
発達障害だと判明するまで、
「たんなる気のせい」だと言われ、我慢しつづけてきました。
我慢しているわけだから、触れるようになっても嫌悪感に耐えるストレスはつねに感じています。

グニラ・ガーランドさんの「ずっと普通になりたかった」(ASD者の自伝)という本で、
著者の場合は金属のアクセサリーにたいして感覚過敏があったのですが、
その著者の感じる嫌悪感とか、表現などが
わたしの場合に感じていることとそっくりでした。
媒体違えど、はじめておなじ感覚を知っている人を知りました。

そのときは自分はまだ診断されてなかったのですが
コミニケーションなどより感覚過敏や認知の違いにおいて、自分ももしかしたら発達障害・・・?
と疑った最初の体験でした。

たとえば、いままで正常だった人が
急に目や耳が不自由になったり、感覚が敏感になったりしたら、
自分がおかしくなった。どこか悪くなった。とわかります。
しかし発達障害の場合、生まれつきですから
症状があっても、自分の障害がわかるまでそれが感覚過敏である。と気づかないのではないでしょうか?
周囲も目に見えない症状だし、普通ではありえないものに過敏なので
「そんなの気のせいだ」「なんともない」としかいわれません。
自分も、これはべつに病気や異常ではない。と思いこんでしまいます。

そうなると、自分でも発達障害の症状のひとつだという自覚がなくなり、周囲も理解できないので
主治医ですら気づかないこともあるのではないでしょうか?
じっさい、感覚や認知の違いについて研究してる人はたくさんいますが
一般的には感覚過敏があることまだ知らない人が多い気がします。

こういった感覚や認知にも障害があるのだから
結果として
定型者とはものごとの感じ方、認識の仕方が違う。
よってなかなか定型者とおなじ感じ方・考え方ができない。
そう考えるとコミニケーションの障害についても
「本人の性格や考え方」の問題ではなく
「脳の機能」の問題であるとわかってくれるのではないかと思います。


書き忘れました。

これを読んだ定型者の方へ。

これは決して定型者に対する批判ではありません。
「理解してくれない定型者が悪い」とか思ってませんし
誰かのせいにするつもるりもありません。
批判ではなく、たんなる個人の体験談です。

言葉の裏に、悪意があるのではないか?と定型者の方は思うかもしれませんが
バカ正直な発達障害者の言葉ですので
探しても言葉どおりの意味しかありませんよ。

ニュアンスには気をつけたつもりですが
読んで不快に感じるような言葉があったら
どうかお許しください。
一度 寝かけたのですが、
気になって、目が覚めました・・・

よく考えてみたら、
最初の本文そのものより あとから書いた
定型者さんへ
という追記そのものが、とってつけたような言い方で、
定型者さんに限定したあてつけのようで
「空気読めてない」的なニュアンスがあるのではないか?
と思いなおしました。

訂正したいです。
不快に感じていたら、もうしわけありません。

まぁ、さすがに最初の本文だけで
そこまで なんでもかんでも、否定的な意味に解釈する人はいないだろう、と考え直したので・・・。

果てしなき論争があったあとなので、
わたしも気をつかいすぎて、逆によけいなことを書いてしまいました・・・。

ところでASD者の人たちなら
こういう気をつかったつもりが、逆に定型者にとってはよけいなことで、怒られたという経験はあると思います。
それいったら障害の有無にかかわらず、
良かれと思ってやったことが裏目に出ることも
たまにはあるでしょうね。

まぁ、障害者なりの気づかいに対して、
「よけいなことをするな」と怒る人もたくさんいますが、
「この子なりに気をつかってくれたんだね」と
笑って許してくれる人もおなじくらい知ってます。


とにかく、今更 過ぎた論争をおもいださせるような書き込みだったので、
追記したコメントについてはなかったことにしてください。
管理人さん必要なら削除もかまいません。
一連の投稿を読んで思ったこと。

まさにもふ太郎さんのおっしゃった通
りだと思います。ただ、本人が本物の障害者かどうかは別の問題で、そこに関しては「そうかもしれないしそうでないかもしれない」というスタンスでお話しさせていただきます。

私自身は当事者ですが、認知の問題はあっても感覚過敏はないので、そこからくる問題に関しては確かに定型側の理解が必要な部分があるかもしれません、本人の力ではどうにもできない部分があるだろうし。

しかしながら、認知の部分、特に対人関係に関してはアンチ綺麗事さんと他の当事者さんのやり取りを読んでいてどっちもどっちと思いました。

もふ太郎さんの言うとおり、彼(彼女)の言っていることは2通りの意味を持っています。ひとつはおなじ障害者として、そしてもう一つは定型発達者として当事者と関わった人として。

障害者としては歩み寄ってほしい、理解してほしいという気持ちはわからんでもないが、実際問題今度は自分が定型発達者としてかかわった時、もう少し歩み寄ってほしい、まぁ矛盾しているようですが、ある意味で理屈は通っています。

ただ、これはこの方がかかわった人のタイプとも関連があります。当事者に問題意識がない、被害者意識が強い場合、これはどんな障害でも難しいでしょうね、お互いの妥協点を見出すのは。

そして今度は当事者に問題意識があっても、どこで自分の妥協点を見いだせるかはこれは個人の能力と大きくかかわってくる部分もあると思います。

さらに言えば、「それでも自分の”本心”を”理解”してもらいてたい」という期待を抱き続けるか、「”本心を理解”してもらうことは不可能であるが、とりあえず”お互いが邪魔にならない”状況を作る」くらいの低いハードルしか期待しないか。

これによっておそらく綺麗事さんのコメントの受け取り方が違ってくるのではないのかと思いました。
さかいさん、こんばんわ。

もふ太郎とMOFUTAROさんは別人ですよ。
もしかしたら、事態を収集するために現れた別の人格かも知れませんが。

あっちは定型者の視点でいろいろ言ってましたが、
いまの もふ太郎は、どっちかというと障害者寄りの考えを持っている人間ですので。

まぁ、もふ太郎も見ていてどっちもどっちだと思いました。
アンチさんの狙いとは違った結果になったでしょうが、
結果として 私も含めASDサイドもこれがきっかけで みなさんいろいろ考えたり、勉強になった面も多く見守ってた人たちも影響うけたみたいだからいいんじゃないですか?

すくなくとも、こういった書き込みを見て
決して頭から定型者を批判しているのではなく
それぞれ考えて悩んでいるのだということはわかってくれたでしょうし。

当事者としても、たしかに相手の気持ちを察したり二重の意味を考えるのが苦手なのはたしかなのですが、
当事者が「できないんだからしょうがない」と言ってしまうと、定型者さんは怒ります。
「開き直ってる」とか「障害をいいわけにして、わがままを言っている」というように感じてしまうようです。
もちろんこちらも、ストレートに「できない」と言わずに
ちょっとほかの人より苦手です。みたいな言い方しないといけないと思います。
定型者さんのほうも、ほんとうに脳の障害によって感情を理解する能力が弱いと知ってほしいです。

以前に「正直者」という表現についてもおなじようなことありましたが、
たしかに支援者向けの本などには
アスペルガーは正直者。素直。と書かれています。ただしこれは
定型者が、障害者支援においてはできないことをやらせてはいけない。長所をみつけてあげることが大切。という考え方のもとに
かれらの長所は正直なところです。と例えたわけです。

ところが本に書かれてるからといって、障害者がそのままつかってしまうと
自分で自分のことを「正直者」というのは
「偽善者」「良い人ぶっている」「自分を正当化している」
みたいなニュアンスがあるらしく、定型者さんたちが怒ったのだと思います。
自分たちが言う場合は「真に受けやすい」とか「バカ正直」みたいな言い方が適切ではないかと思います。

とはいえ文章で書くのはたやすいですが
実生活で、リアルタイムに進行していく会話の中ではたいへんです。
相手の言葉を聞き取り、意味を考えながら、表情や視線を意識しながら言葉づかいにも気をつけなくてはいけないとなると、もうパニックです。私の場合、声の音量調節も苦手らしいので、
しゃべる音量や速さにも気を配らないといけません。
こういうことを定型者さんたちは、
なにも考えなくても自然に当たり前にできるのかと思うと気がとおくなります。


それから
自分の障害については自分が自覚し理解しないといけないですが、これもできない発達障害者もおおいです。
わたしも以前は「理解してほしい」という気持ちが強かったのですが、考え方などはやはり理解はむづかしいのですね。
理解したとしても、受け入れてもらえない場合が多いでしょうし。
もふ太郎さん、失礼いたしました。

>それから自分の障害については自分が自覚し理解しないといけないですが、これもできない発達障害者もおおいです。
わたしも以前は「理解してほしい」という気持ちが強かったのですが、考え方などはやはり理解はむづかしいのですね。
理解したとしても、受け入れてもらえない場合が多いでしょうし。



私も以前は「共感はしてくれなくてもいいから理解をしてほしい」と思っていました。

最近は「相手に理解させようとするよりは自分自身の扱い方を理解してからそれをどのようにお互いが“邪魔”にならないレベルまですり合わせができるか」というスタンスです。

もちろんどうしようもできない部分に関してはある程度「認識」してもらう必要はありますが、それが決して「理解」「共感」につながるという期待はしないようにしています。

その「認識」を真っ向から訴えるか、ある程度距離をとって少し婉曲に訴えるか、そこは注意を払う必要はあります。
アンチ綺麗事氏の様なタイプに「空気を読めって言われたら」「嫌ですv」って返しますねえ。
誰がテメーなんぞの為に、神経すり減らして精神的不調のリスク追ってまで空気なんぞ読むかって話で。
やろうと思えば、行間やら空気やら多少は読めますよ?
けど、それをやるんだったら相手にもそれ相応の対応を求めます。
個人的に自分に利が在るなら多少の我慢もしようって気には成りますが
自分に利が一切無いのに相手の機嫌取りに走るのは嫌なので。

私に空気呼んで欲しかったら、精々、その偏屈な差別意識と偏見と
個人的嫌悪を他人に押し付ける姿勢を如何にかして下さい。
それが出来るんなら、こちらもそれ相応の対応を取らせて頂きましょう。
それが、出来ないなら諦めて下さいw
win-winが私が赤の他人で在る貴方の意見を聞き入れる最低限の譲歩ラインですよ。
もう一度、言いますが、それが出来ないなら諦めて下さい。
人と話をする最低限も守れない人間にやるだけの優しさ、許容、真面目さ、真撃な姿勢は
一切、持ち合わせておりませんので、悪しからず。
再燃をお望みですか?
六花さん、再燃をお望みですか?
貴方のような人が、風評被害拡大の主要因です。アスペルガーってこう云う人達なんだと更に印象付ける事になります。
当事者のがなと言います。
歩み寄りについて言えば、私の身近にいる定型発達者のやり取りはいつも。
定「発達障害者も定型発達者への歩み寄りをしてほしい」
→発「自分としてもぜひしたいので、歩み寄りの仕方を教えてほしい」
→定「一言で言うと○○ということで、具体的には□□だ」
→発「○○というのはよくわからないが□□というのは具体的なのでよくわかる。他のケースでもうまくやるために、何故その状況で□□としなければならないかを教えてほしい」
→定「何故と言われても理由などない。みんなやっているし、そういうことになっている」
→発「理由がなければ○○に沿った行動はできない。やりたくないというのではなくて、○○に沿った行動とそうでない行動の区別が自分で判別できない」
→定「理由はないけど常識なので従ってほしい」
ということの繰り返しです。

思うに、定型発達者の言いたいことは、「歩み寄りの理由や内容を詳しくを説明せずに、定型的に好ましい行動をすることが歩み寄り」なのではないかと思います。

それについて、「説明してくれなきゃわかるわけないじゃないか」とは思うのですが、何度も何度も上記のようなやり取りを繰り返すうちに、「もしかしたら定型発達者は『自分たちの行動様式を説明などのはっきりしたやり方で表すことができない(あるいはそういうことをしたくない=そういうことをするという意欲を持つことができない)』なのではないか」と思えてきました。

単に「説明しない」というのなら、「そこをどうにかして説明してほしい。説明できるようになるためにどうすればいいのか自分も協力する」と言えるのですが、「できない」ということなら、ちょっと考えてしまいます。
障害を持つ身として、「できない」ことをどうにかしてやらされることがどんなに辛いかはわかっています。
定型発達者は必ずしも敵ではないとはわかっていますので、辛いことをやらせるのは嫌だなあとも思います。どうすればいいのかわかりません。
今更だけど…
「行間を読め」とか「空気を読め」とか、一番苦手で不可能なんじゃないかと思えることなのに、それを強いてくる相手は、やはり自分のこと思ってくれていないのかなぁと思ってしまいます。
相手を思いやるってことも大切だなと。
他人の気持ちを大切にとか、他人を思いやれってよく言われるけど、じゃあ自分自身の気持ちや思いはどうすればいいの? って思います。自分の気持ちを棚に上げなければいけないのか。
他人とのコミュニケーションの難しい所です。
アンチ綺麗事さんの「行間読め」発言に反応してみました。

感覚鈍麻は自分にもあります。
良く包丁で指切るけど、「あ、血が出た」くらいにしか思わないし。意外に冷静。
>アンチ綺麗事氏
貴方を見てると定型発達者に見えないんですよね。
寧ろこっち側に近いんじゃない?って感じ。
再燃という言葉で、必死に自分へ向いている矛を別の方向に向けようと為さってますけど。
私の質問には答えようともしないんですね。
それとも答える事が出来ないの?
まあ、最初の貴方の発言で図星を突かれると汚い言葉を並び立てるタイプだと分かっては、居ますがね。
結局、貴方は自分の言動より他人の言動を重視してしまう人なんですね。
整合性の無い行動の連続は其処から来ている。
自分を安全圏に置いておいて、他人は徹底的に責める等。
人間的な欠陥が数見られる訳ですが。
まるで、自分は悪くないと地団駄を踏み続ける幼児の様だ。

貴方のその被害者意識も果たして、どれ程の正当性を持つのかも疑わしい。
まあ、アスペルガーに馬鹿にされたから、アスペルガー当事者のBlogに張り付いて
喚き散らしているヒステリーってだけの話ですが。

それと、事の発端が、御自分のヘイトで有る事を棚上げ為さらないで下さいね。
今回の一連の話は、貴方が居なければ起こる事も無かったのですから、ねえ?元凶さん。
僭越ながら一言。

六花さん、管理人さんの「コメントに関して」をもう一度よくお読みください。

>自身の障害の有無によらず、また、真意がなににあるかによらず
罵倒、煽りととられる表現はは厳に慎んでいただきたく思います。

誠に申し訳ありませんが、あなたの表現方法は上記の管理人さんのコメントとあまり相容れないのではないかと思います。

「自身の障害の有無をとわず」といっておられますよね?

失礼ながら、私自身も貴女のほうが再燃を望んでいるように見受けられます。

そして一言付け加えておきますが、私は当事者です。
適材適所
私も当事者さんに近い位置にいる人間なので、
このようなことを言うのはなんなのですが、
「見えないルール」があるとしたら、
「その場所に応じた発言をする」というのも
その場の秩序を守るために
重要なことだと思います。

ここは、管理人さんも書かれているように、
「防げ二次障害、明るく生きようアスペルガーライフ」をコンセプトにしながら運営されています。

ですから、それになるべく沿ったコメントを寄せるのが筋ではないかと思います。

定型さんは、定型さんの言い分があると思いますが、当事者さんが読むことを考えた上で、出来れば、当事者さんがあまり凹まないコメント書いてくだされば幸いに思っています。

アスペルガー当事者をご家族にお持ちのかたは、さまざまな葛藤がおありかと思いますが、そうしたことを吐き出せる場所が、他にあろうかと思います。

個人的には、ご本人、ご家族双方を支えてこそ、支援だと思っています。

私は当事者に近い人間なので、視点がどうしても当事者視点になってしまい、定型さんのそうした葛藤には残念ながら応えることができません。

申し訳ありません。
>さかい氏
私は、貴方ではなくアンチ綺麗事氏に質問しているのです。
貴方は関係ないのでお黙り下さい。
罵倒という言葉の意味をもう一度、学んでらしては如何でしょうか。
あの人の行動に関しての分析をしてなにがいけないのでしょう?
貴方にとって好ましく無い方法だから口出ししたのでしょうけれど。
此方としては良い迷惑なので、お引取り下さい。
>さかい氏
私は、貴方ではなくアンチ綺麗事氏に質問しているのです。
貴方は関係ないのでお黙り下さい。
罵倒という言葉の意味をもう一度、学んでらしては如何でしょうか。
あの人の行動に関しての分析をしてなにがいけないのでしょう?
貴方にとって好ましく無い方法だから口出ししたのでしょうけれど。
此方としては良い迷惑なので、お引取り下さい。

>そして一言付け加えておきますが、私は当事者です。

ああ、一つ言い忘れた。
私も当事者ですよASの、他にも高機能自閉症とか持ってますけど。

で、それが何か?
当事者が言うから黙れとでも脅迫・・・?
正に子供のようだ
社会性も情緒面も子供のようだ!

区別されるのは必然性があるからです。

職場なら本来生じないトラブルの元凶となる。
社会性も情緒も子供だからだ。

六花よ、聴け。aspが貴方のような人ばかりとは限らないが、世間は貴方のような人をサンプルとして見てしまう。

鎮火しかけたコメント欄に油を注いだのは、貴方ではないですか。
貴方は当事者間で罵倒しているではないか。
拗ねた子供のような自信を省みてください。
>アンチ綺麗事氏
ああ、貴方は全部他人が悪いって言うタイプなんですね。
で、自分は正義。
分かりました、貴方みたいな人は何言ってもダメなのでもう良いです。
世間は私みたいなのをサンプルとしてみてしまうっていうのは「世間=貴方の様な人」の間違いかと。
テメーの存在を大きく見積もり過ぎてますよ。
結局、私の質問には答えてくれない訳ですがね。
障害の有無では無く分かり合うにしても、貴方の様な人と分かり合うのは絶対に嫌です。
殺し合いなら喜んで寝首欠きに参りますが。
大体、鎮火じゃなくて物事を有耶無耶にしたいだけでしょう?自分に都合が悪いから。

丁度、此処の管理人さんもそういう様なお触れだしましたしね。
狸穴さんには悪いけど、貴方と分かり合う何て絶対無理。
人の事を見下すしか能の無い障害者の腐った様な輩となんて。
貴方が過去に不快に成った物を私も感じ続けている訳ですが。
其処は完全に無視、なら此方も同じ事をするだけですから。
子供だというなら、子供で結構。
私は貴方を許さない、之がPC越しで無いのであれば今直ぐでも出来る事は数有るのに。
口惜しい限り。
横レス失恋します
>アンチ綺麗事氏

あなたのおっしゃることは尽くあなたご自身のことのようにしか思えないのですが、これが所謂ブーメランですかね。

誠に失礼ながらあなたも、正に子供のようで社会性も情緒面も子供のようなお方のようですね

本来生じないトラブルの元凶となる火種をつけたのは、社会性も情緒も子供なあなたではないのですか?

失礼ながらあなたは身体の障害よりも人格の障害をどうにかされた方がよろしいかと存じますが。
貴方の方こそ拗ねた子供のような自信を省みては如何ですか。
連投失礼します
記事の内容とは無関係ですが、障害で問題なのは障害そのものよりも、自分の障害に固執したり卑屈になるあまり心も歪んでしまうことが一番の問題だと思うんですよね。

自分も高次脳機能障害のおじいちゃんに怒鳴られてイヤな思いはしたことあるし、正直そのじいさん今も苦手だけど、だからといって高次脳機能障害の人間全員を罵倒する気にはなれないし、好き好んで障害持つ人間なんていないんだから、障害者同士で罵りあいをして自分の障害が消えて無くなるならともかく、互いにイヤな思いするだけなんだから時間の無駄なんじゃないですか。

単なる釣りかアオリイカかは存じませんが、某アンチさんもASPに個人的な怨みがあるなら、他人のブログでアオリイカみたいにスミ吐いてブログ汚して周囲を不快にさせるより、某巨大掲示板かチラシの裏にでも恨み辛み書いてる方がいいと思いますよ。
ASP当事者のブログでASPへの恨み辛みを書き連ねたところで無用なトラブルと反発を招くだけで、何の解決にもならないと思いますし。
アンチさんも自分のアンチさんを人間ではなくスミを吐くアオリイカだと思えばあまり腹も立たないんじゃないですかね。
自分もこれからは自分のアンチさんは皆スミを吐くアオリイカだと思うことにしようと思います。

長々と失礼致しました。
歩みよりができるならはじめから障害者として扱われないでしょう。
やはり支援を求めるしかないですよね。

でも健常者はなぜ自分達が?ってなるんでしょうね。障害者の苦労が分からないことによる無理解もあるんでしょうけど、支援しても障害者から得るものは皆無か僅か。

発達障害に限らず、重い身体障害も含め、健常者から彼らを支援する意味は倫理観以外に何があるのか?との質問を見かけたことがありますが、回答者は倫理の問題から以外に答えられる人はいませんでしたね。

健常者は障害者から歩みよりができるとは思ってませんよ。歩みよりをしろというのは日頃の不満を障害者にぶつけてるだけです。
分かっていても人間だもの。感情を抑えきれなくなる時もありますよ。

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