もつ鍋食ってあったまったのでおいおい治る…と信じたい。
さて…
コメント欄でいただいた疑問。
「アスペルガー者から定型者への歩み寄りはあるのか?」
これは障害に関する自覚の有無によって異なるだろうとしか言いようがない。
今回はコミュニケーション面だけに限って考えてみる。
自覚の段階を三段階に分けてみよう
1アスペルガー症候群である自覚がある場合
2何となく自身のコミュニケーション能力に問題を感じている場合。
3自分には何のコミュニケーション能力上の問題がないと考えている場合。
1と2の場合は確実に定型者に歩み寄っている。
いろいろ考えていることだけはほぼ間違いない。
(打開策になっているかは別問題として。)
問題は3の場合なんだろうと思う。
きっかけがなければ、自分がアスペルガー症候群であることすら気がつかない。
そうなれば
「何で自分ばかり責められるのか?」
「何で自分ばかり避けられるのか」
などの原因を他者にばかり求めて周囲に対して怒りや恨みを持ったりしやすいだろう。
他者を振り回してしまう例もあるかもしれない。
歩み寄りというのにはほど遠い。
だが、これが責められる問題なのか?というと話は別だ。
なぜなら、障害の自覚ないのだから。
こういうケースでは本人が自分の障害に関して気づくきっかけがあることを祈るばかりだ。
さて、1.2のケースに話を戻すが、
定型者サイドの歩み寄り要求が大きすぎるのではと思うことがある。
支援者側からの言い分としてアスペルガー症候群は
「支援しがいがない障害」
と言われることがある。
一言で言ってしまえば、障害特性を十分理解していない支援者なのだなあとも思うが、
定型発達の支援者側が「感謝の態度」はじめ、「良好なコミュニケーション」というものを被支援者に求めてしまう事による行き違いである。
ノンバーバルコミュニケーションがうまく機能しないこと、
コミュニケーション自体がうまくいきにくい事
が障害の大きな部分であるにもかかわらず、意識しないとつい定型発達者はこれらをアスペルガー症候群者に求めてしまう。
当事者が必死の思いで「ありがとう」と口にしても、
支援者は「棒読みで心がこもっていない」と感じてしまう。
これはありがちな事だろう。
ちょっと待って!と言いたくなる現象だ。
誰も白杖を持った盲人に「見えるようになれ」とは言わない。
だが、アスペルガー症候群者に対しては、障害がわかっていても
「もうちょっと察しろ」
「もうちょっと愛想よく」
「もうちょっと態度で示してくれ」
「もうちょっと即時に反応してくれ」
といった要求がなされてしまう。
ある意味不思議な現象だ。
記事「アスペルガー症候群者は正直であるしかない」のコメント欄で大福さんが指摘されているように、定型発達者とアスペルガー症候群者で歩み寄り像が異なることもその原因だろう。
まあ、定型発達者の分析と努力次第で定型者の望むような姿を「ある程度」演出できなくもないが、所詮「ある程度」であるので、常に、
「もうちょっとできないのか?」
「できるんならはじめからやれ!」
と言われる可能性をはらんでいる。
すなわち「定型者への歩み寄り」が「歩み寄り要求」のエスカレートを生む訳だ。
見えない障害、そして、コミュニケーションの障害というのは、このような矛盾をはらんだ障害なのだということ。
そして、無理をして「歩み寄り」をしようとし過ぎればそれ自体のストレスで
二次障害にもなりやすい。
ここんところ、定型発達者にすべて理解してもらうというのは現実的には無理である。が、できれば福祉関係者はじめ、支援者と呼ばれる人にはもうちょっと理解して欲しいと思うのである。
アスペルガー症候群者サイドでも、この構造、理解しておいたほうが二次障害の防止のために有用ではないだろうか。
そう考える。

にほんブログ村
発達障害ランキング
↑ブログランキング参加してます。↑
応援の1日1クリックを
秋は食欲の季節?
って、関係ないっすが
…
ぼちっと↑
おひとつ。
- 関連記事
-
- アスペルガー症候群かもと思ったら-支援に繋がる前に知っておきたい7つのポイント-
- 発達障害の支援ニーズをどうとらえるか?
- 発達障害者、発達障害児の親御さんが、診断がついてから途方にくれがちな理由を考えてみた
- 段階に応じた発達障害者支援を考える
- アスペルガー症候群者から定型発達者への歩み寄りについて