世の中、正直であることは「一応」美徳ということになっている。
「うそつきはいけません」というのはよく親に言われる台詞でもあるし、幼稚園でも習うだろう。
が、この美徳とやら、「人は結構ウソをつきやすい」という前提があっての美徳であるし、「ウソも方便」ということわざがあることからも、ウソを絶対悪として見るものではないはずだ。
年齢があがるに従い、「絶対いけないウソ」、「できればつかない方がいいウソ」「場合によっては許されるウソ」「ウソをつく方がいい場合のウソ」など、いろんなウソの存在を学習していくのが普通である。
が、あとから修正がききにくい発達障害者に「うそつきはいけません」ルールが入ると、往々にして、「正直に話さねばならない」という強迫的なものになってしまう場合があるようだ。
ここで前回の話とつながるのだが、
自閉者の場合、「嘘つきはいけない」ルールを適宜修正せずに野放しにしておくと、
「嘘つきはいけない」→「正直に話すべき」→「何事も真っ正直に対応するのが善」などというルールをこさえてしまう事がままあるようだ。
高じると、
→「回りの人間は悪い奴ばかりで信用できない」
→「正直にせず、うまく立ち回る人が許せない」
→「戦略的に動くのはいけないことだ」
→「真正直に対応しても成果を出せない自分が情けない」
などに移っていってしまうことは想像に難くない…というか、このパターンに陥っている人を見かける事は少なくない。
結果として、思い切りストレスを抱えているという人は少なくないだろう。
さて、自閉者にとっての致命的な誤学習はいくつかあるが、こう考えていくと
「正直は善である」
というのはその筆頭に上がるものの1つといえるのではないだろうか?
というのが結論である。
ところで、自閉者の私が比較的戦略的思考に抵抗がない、「正直ものルール」に縛られないで済んでいるのは何故か?そこにもちょっと触れておこう。
実際、私も正直が好きである。
楽だからだ。
ウソをつくというのはそれなりに精神的負荷を伴う。
家の中では、つい正直にペロッと言ってしまってあとから後悔ということは多々ある。
が、外ではとりあえず対外仕様で動けるし、戦略指向も強いしそのことにさほど抵抗がないのは、徹底的な教育の成果だと思われる。
またしても登場するのは私のおとっつぁん(父)である。
私が小学生の頃、融通が利かない私に対し、「ウソも方便」ということわざの意味を、何度となく父は例を引っ張ってきて理屈で解説した。
そして、そりゃもうしつこいというくらい「ウソ」というものについて小さい頃から考えさせられた。ついていけないウソ、つくべきウソ、その中間。
そして、戦略的であることは身を守るためには当然やるべき事として徹底的に教育された。
まあ、そんなわけで、陥りがちな罠に引っかからずに済んでいるわけだと思う。
話を戻そう。
「嘘つきは悪、正直は善」
この一見まともそうな観念は、まともそうなだけに一度根付くと非常に覆しがたい。
しかし、このルールが修正されないまま自閉者が成長すると、前項でも語ったように、二次障害や逆恨みの元になったりと、とてもやっかいな事になる。
だからこそ、早期の教育段階で、注意深く、これがが絶対ルールでないことを教育していくべきであると思うし、それは決して不可能な事ではないと私は考える。

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