我が家には現在ワンセグ携帯以外にテレビを見ることができる機材はないので。携帯のちっちゃい画面で見たわけだ。
何を見たかというとNHKのEテレ(教育テレビ)のハートネットTVの再放送。
発達障害に関する討論番組だ。
テーマが「克服かありのままか?」というもの。
見ていて何かしっくり来ない。
出演者個々の意見はまあわからなくないでもないもの。
なのになぜかしっくり来ない。
何がしっくり来ないのか?うーんと頭をひねり、ちょいと狭い個室にこもって
出てきたらひらめいた。(よくあることだ)
テーマ自体がしっくり来ないのだ。
そう、克服ができないから障害なのだというのが抜け落ちてる。
発達障害者では障害によって苦手なことやできないことが多々ある。
定型発達者が通常しない工夫をすることによってできることを拡大することが可能な部分もあれば、工夫が不可能な部分もある。
仮にできることを拡大できる部分についてがんばって工夫したとしても、それは障害の克服ではないだろう。効率のよい工夫という代替手段を獲得したにすぎない。
要は1下肢を失った人が高性能の義足をつけて歩行可能にしたようなものである。義足に相当するものが発達障害の場合は無形であること、そして、代替手段の獲得後、定型発達者の行動・言動と表面的に差異がなくなってしまう事から、あたかも「克服」したように見えてしまうのだろう。
本来、
「生活していく上で工夫するかしないか?」
という議題であるべきところを健常者側から見た外見での「克服」を持ち出し、
「克服かありのままか?」
としているからややこしくなるのだ。
その結果、当事者からも「克服したら健常者になっちゃう、それは本来の個性をつぶすことでは?」というような意見が出てしまい、無用な当事者間対立を生んでしまう。
車いすか義足かの選択肢がある場合、どちらを選択するのも自由であるように、工夫するもしないも当事者の自由意思に任されるべきなのだから、実は議論の余地はないのではなかろうか?
そんな事を考えた。

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おひとつ。
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