さて、昨日、前稿に関連してツイッターでなかなか興味深いご質問をいただいたのでちょっと続けてみる。
前回の記事はこちら
まずひとつ目、定型発達者も意識的に切り替えているのでは?というもの。
私自身が定型者でないため、真実のところはわからない。
が、いろんな方面で定型発達の方に伺ったところによると、かなり自動性は高いと思われる。ただ、新しいシチュエーションにおいてどういう振る舞い方をするか?(つまりいかに新しいレイヤーを構築するか?)といえば、それまでの経験から”類推して”意識的に選択していると考えるのが妥当だろう。
もちろん個体差はある。レイヤーの枚数の限界や、構築力において差はあるだろう。当然エラーが起こることもある(人間だもの)。
さて、ここでもう一つ問題になってくるのがレイヤーの作り方と利用の仕方である。
定型者の場合は「類推」という方法で意外に簡単にレイヤーをつくってしまう事が推測される。まあ、「ちょっと考えれば出来る」のであるらしい。
それに対してASD者の場合、「類推」機能がかなり弱いので、かなり強引に理屈をぶんまわして振る舞い用レイヤーを作るしかない。さらに利用するにも理屈をぶんまわし、かなりの部分意識的に判断していくしかないわけである。
自動化できない分これはかなり頭脳に疲労を引き起こしかねないやり方である。
多数のレイヤーを構築・利用しようとすれば、慢性的な頭脳の疲労にさいなまれることにもなりやすい。
どういう事かと言えばレイヤーの構築・利用に頭脳リソースの多くをつぎ込むあまり、他の事象へのリソースの配分が少なくなってしまう。
要するに対人コミュニケーション部分以外の様々な実行能力の低下まで引き起こしかねないということである。
というわけで、ASD者には最低限の振る舞いレイヤー以上の構築はおすすめ出来ないということになるわけだ。
衆人のなかで「ちょっと変わっているけど失礼ではない人」「ちょっと変わっているけど悪い人じゃない」程度の評価を維持できる程度の振る舞いレイヤーの構築くらいが、持てる能力を生かすためにも安全な範囲ではないだろうか?
さて、さらにもう一つ。
特に成人になってから違和感に悩んだりして診断を受けた成人発達障害者の多くが「ありのまま受け入れられること」を希求するのだろうか、という問題。
これは違和感をかかえながらも対人接触において試行錯誤をし、多数のなレイヤーを無理やり構築して適応しようとしてきた結果、失敗を繰り返しながらも過剰適応の状態に陥り、その反動として「ありのまま受け入れられること」を追求してしまうのではないだろうか?
が、これは、正直難しいのは「ありのまま」に対する定型者の生理的な抵抗があるのと、過剰適応の状態にまでなってしまった場合、前項で述べたように様々な能力が落ちていることが予想される。
となると「ありのままかつ能力が使えない状態」という事になる。
もちろん支援者の皆さんにはこの状態を見放さないで欲しいとは思うが、そのままの状態で社会に受け入れられることは難しいと思われる。
持てる能力をある程度生かしている状態での参加が社会のデフォルトだからだ。
この問題の解決策は既に述べた「変人枠の利用」である。
「ありのまま」+「ちょっとの加工(振る舞いレイヤー)」が能力のパフォーマンスを最大化するのだから。
まあ、色々述べたが「ありのまま主義からの脱却」が生き辛さを解消するための必要アイテムなのは間違いないだろう。
補足
本稿では、以下の書籍中にある、ASD者の「シングルレイヤー特性」というものをベースに考えを進めてみた。
![]() | アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか? 大人の発達障害を考える (こころライブラリー) 米田 衆介 講談社 2011-12-17 by G-Tools |

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