それは「成人発達障害者」というくくり。
発達障害の概念も医療関係には広まって久しい。
若い頃に見つかる例も多くなった。
子どもの頃に発見されてそろそろ成人…なんてケースも出てくる。
しかし、中年以降で発見されるケースも多い。
おなじ発達障害ではあるが、本人が困難を感じている部分は当然異なる。さらにいえば、人生展望に対する見方が決定的に違ってきてしまう場合があるのだ。
発達障害を起因とする職場不適応などで解雇やリストラ、うつ病などで職を失うケースを考えてみよう。
「どう対処すれば次にうまくいくか?」
といった思考に入ることができるまでの時間は、たぶん若いうちに発達障害がわかるほど短いだろうと思われる。
中年以降になり勤労経験も豊富になってから失職し、発達障害が判明した場合では「次」に思考を向けることすら困難になってしまう場合も多々ある。
特にそれまで様々な困難を感じながらも長年社会生活を送ってきた人にとって「自分が発達障害であること」は価値の崩壊を引き起こしかねないことだ。
「今まで長年やってきた努力」「今まであると思っていたもの」など崩れてしまう。
「社会人をやれていた、経験を積んできた」という自負がある場合も多い。
感情すらわからなくなることもある。
今まで「周りがなっちゃいない!」と悲しんだり腹を立てていたものが、ある日突然「それが普通の姿だ」と言われたら、怒りや悲しみの感情すら訳がわからなくなるのも当然だろう。
発達障害による「切り替えの苦手さに」加えて加齢による「柔軟性の低下」も加わって、障害がわかる以前の考え方を離脱するためにより時間が掛かってしまいやすいという面もある。
さらに、
障害を受容しようとすれば今までの自分(のやり方、考え方)は…と言う問題に突き当たる。
また、
年齢が「やり直しの困難さ」を否応なく感じさせる。
若いうちに発達障害がわかった発達障害者に比して、再スタートの地点が極端なマイナス地点になってしまうのだ。
だから、若いうちに障害がわかった成人発達障害者と比較して
「おなじ発達障害なのに…」
「おなじアスペルガーなのに…」
と言ってしまうのはあまりに残酷といった面があると思うのだ。
子ども~若い発達障害児者にとって診断は「人生の展望を広げるためのもの」になりやすいが、それまで障害と知らずに生きてきた中高年にとっては診断は「人生の展望を広げるためのもの」に容易には転化しにくいものだなのだ(だからこそ「早期診断」が重要だとも思うが、ここではそれは脇に置いておく)。
これからの時代、早期に発達障害の診断を受けて育つケースは増えていくだろう。
しかし、全てが捕捉できるわけはないから、診断されないまま成人し、中高年になってから発達障害がわかるケースがなくなることはないだろう。
またそういうケースでは、元気のある柔軟な若者に比べ、ある種「強情さ」「情けなさ」などを露呈する場合も多かろうと思う。
だが、そういう人にも生きる権利はあるし幸せになる権利もある。
障害がわかる以前にどう過ごしてきたかによってもその後の適応という観点からみてが千差万別になってしまう:ひとくくりにはできない!のが発達障害なのだということを。(特に支援者には)ちと憶えておいて欲しい。
そんな事を考えた正月だった。

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