不登校と疲労についての一考察 -睡眠と感覚過敏から-

新学期がはじまって二週間…というわけではないが、不登校についてちと思うところがあるので書いてみる。

疲労型の不登校はないのか?という疑問

原因があまり定かでない不登校というのはそれなりにある。そういうケースって本人も親御さんも突破口が見つかりにくくて難儀するようだけど、実は疲労の問題が大きいんじゃないのかと思うのだ。

いろいろ見てると線の細かったり、姿勢がよくなかったり、これじゃ学校いって座ってるだけで疲れるだろうという気がするお子さんが多い気がする。

こと思春期にかけて起こってくる場合、家族関係とか友人関係などが影響して…ってな具合に解釈されやすいけど、単純に身体がおっついていないって場合も結構あるのではないだろうか(不登校になれば結果として家族関係とか友人関係にも響いてくることはあるだろうし、長引けば自己肯定感にも影響してくるだろう)。

進学、行動範囲の拡大に伴って負荷は増える

こと、睡眠の質が悪いとか、感覚過敏が強い人の場合、行動範囲が拡大すると知覚刺激の影響を受けやすくなって疲労度が極端に増すことも十分考えられる(電車も結構うるさいし空調音もきつい)。

中高生になり要求される勉強の量が増えると、机に向かう時間も増える。ここで姿勢の制御がうまくいってなければこれまた疲労が増すことになる。

疲労が蓄積した状態で学校の教室の喧噪や通学負荷に耐えられなくって不登校がはじまるってなパターンは結構あるかもと私は思ってしまうのだ。

聴覚過敏というのは聞こえてないワケじゃないし、視覚過敏は見えてないワケじゃない。本人にとってはそれがデフォルトなので自覚していない場合すらある。デジタル耳せん使ってみてはじめて自分の聴覚過敏を自覚したなんて人もいるくらいで、視覚についても同様だとするなら、隠れ感覚過敏族は結構いると思われる。

睡眠の質が悪かったりしても傍からはわかりにくい。

問題の根っこ

不登校への対処というと、どうしても心理的な方面に着目することが多いようだが、本当にそれでいいのかなあ?と思えてくるような話としばしばお目にかかるのだ。

まあ、こういうことを考えてしまうのは、私自身が不登校にはならなかったものの、体力や疲労というものがガキの頃から長年私自身の活動のネックでありつづけ、ずっと改善し続けたことだったというのもあるのかもしれない。

心と身体のどっちが問題の根っこなのか、考え直すとうまくいくケースももしかしたらあるんじゃないか?そんなことを考えてしまうのである。

 

 

 

 



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発達障害者における過度の関連づけや被害的思考を防ぐには

ここ数日ネットを賑わせているホリエモンこと堀江貴文氏への批判の件について、昨日障害者就労の問題からちと考えてみた記事をアップしたが、今日になってまた関連のおもしろい記事を発見。

 

「批判の9割は被害妄想」という記事に対して発達障害や統合失調症の視点から補足してみた(メンタル発達インフォ)

 

ちょっと引用する。

 

人間には自動思考というものがあります。自動思考とは、「○○であれば、△△である」という思考のことです。先日の堀江氏の「障害者差別問題」を例にすると、 生産性を上げろ、と言っている人物がいる ↓ 生産性を上げろと言っているということは、その人物は障害者を差別する考えを持っているに違いない(太字部分が自動思考によって導き出された考え) と考える人がいると考えられます。従って、発達障害や統合失調症がなくとも、妄想(勘違い)は起こりえます。人には誰にでも勘違いや妄想はありますよね。 (メンタル発達インフォより引用)

 

上記でメンタル発達インフォの荒川氏はの自閉症スペクトラムと統合失調症についての言及と、その他の被害的な勘違いについて述べられているのだが、私は荒川氏が「その他」に分類した「自動思考によるもの」にも自閉症スペクトラムの問題が反映しているのではないかと思うのだ。

 

自他の境界が思考に与える影響

自他の境界(自他の区分)が明確な人とそうでない人では、ある事象の自分への関連づけ方は大きく異なるだろう。

 

自他の境界が不明確になればなるほど、被害的な受け取り方をしやすく、自分と関連ある事象と受け取りやすく、人の言動をチェックせずに真に受けたり(ひいては騙された感も強くなる)しやすいと思うのだ。

このあたり、ちょっと前に記事自閉症スペクトラム児者における自他区分の問題について考えてみる(2)に、図解つきでぐだぐだ書いてあるのでよろしければどうぞ。

 

誤学習が思考に与える影響

もう一つ、被害的な考え方をしやすい理由として、誤学習があると思う。

誤学習はまあ思い込みの一種だが、何かの「やり方、考え方」での不便になりやすい思い込みと言っておこうか。

なかでも面倒なのが「正しいものは必ず1つ」というもので、理系分野などではそれが真理の追究といった方面に花開くこともあるので誤学習といえないのだが、社会的な場面に「正しいモノは1つ」を持ち込むと途端に様相がかわり、コミュニケーショントラブルの原因にすらなるので「誤学習」になってしまう。

本人にとっては「正しいことを主張、指摘した」つもりでも、傍から見るとどうみても「余計なお世話」だったり「関連つけすぎ→被害的」に見えてしまう、という現象が起こる。

このあたり、ちょっと前にツイートしてトゥギャッターでまとめてある。

 

トゥギャッターまとめ 「発達障害者が被害的になりやすい理由とその解決策について考えてみた」

これはもうちょっと詰めてそのうち記事にするつもりでいたのだが、まあまたそれはそのうちということで。

 

「ちょっとまて」の習慣化と自分の身体の明確化

正直いって、上に挙げたような「思い込み」の多発は不幸でしかない。

本人にとってみても怒ったり悲嘆に暮れたりすることが多すぎれば心身疲弊するだろうし、周りにとっても要らん手間がふえるわけで面倒くさい。

ということで、何らかの対策は必要だろう。

誤学習対策の「ちょっとまて」

これは習慣づけという部分が大きい。「ちょっと待て!本当にそう関連づけていいのか?」と立ち止まるクセをつけておく。そして、すぐに結論を出しすぎない。定型児ではほぼ教える必要がないものだが、判断を保留したほうがいい場合があるということは自閉症スペクトラム児には意図的に教えておいたほうがいいところだと思う。

 

自分の身体の明確化

身体感覚と認知は結構結びついていると思う。自分の身体が認識しにくい(コタツに入ると自分の足があるのかわからなくなるとか)状態では自他の境界を思考だけで認識することになり、身体感覚としっかり結びついている場合よりも判断エラーが起きやすくなるだろう。

私がボディワーク類をすすめるのはそういう理由でもある。

 

ってなところで今日はこの辺で。

 

 

勘違い…問題があったりなかったり…いろいろです。

 



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58回アスパラガスの会参加登録開始のお知らせ

皆様こんにちは。

次回第58回アスパラガスの会のご案内です。

第58回アスパラガスの会開催概要



とき:2015年月9月26日(土) 午後2時~午後3時45分

ところ:JR大和路線・近鉄道明寺線 柏原駅徒歩数分の公共施設

参加費:100円(通信費・資料代等)

申込期間 2015年8月24日(月)~2015年月9月13日(日) 

テーマ:自慢歓迎!みんなの恋愛談義(アンコールテーマ)

昨年初めて取りあげたテーマで、開催前は参加者があるのか?どういう流れになるか等、ちょっと心配しましたがフタを開けてみたら意外に盛り上がり、ぜひまた!という要望もあったのでアンコールテーマとして取りあげさせていただきます。
リア充の方もそうでない方も、ふるってご参加くださいませ。

定員:25名(先着順)

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【書籍】自閉症の子供へのコミュニケーション指導/青山新吾著

今日は久々に書籍紹介。

自閉症の子どもへのコミュニケーション指導―「関係」を育て「暮らし」を支援する (教育の課題にチャレンジ)

青山 新吾 明治図書出版 2005-03
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著者の青山新吾氏は通級指導教室を中心に岡山で長年教員として支援教育に携わってきた方、 現在はノートルダム清心女子大学の講師をされている。

自閉症児におけるコミュニケーションの意味

自閉症の子供へのコミュニケーション指導というと、まず思い浮かぶのはABAやSSTという方も多いだろう。

しかし、この本では、ABA的な手法も、SSTのようなコミュニケーションスキルの指導手法についてもほとんどでてこない。

具体的手法がなくていったい何が出てくるのかというと、「コミュニケーション」というものそのものを自閉症児の中にどう形作っていくか、そのための支援はどうあるべきかといったことがその内容だ。

1章では青山氏が支援教育に関わるきっかけからスタートし、支援においてどういうことを大切にしてきたかといったこと。2章はケーススタディ形式で、パニックや自傷など含め、さまざまなトラブル例がでてくるが、その問題を解消・解決すべく氏がどういう道筋で考え、どういう対処をしてきたのかといったことと、その分析が綴られている。
さらに3章では支援において何をどう観察、デザインしていくかといったことのポイント整理。4章ではよりよい特別支援教育を模索するための方法論と続く。
ケーススタディ部分で出てくる子どもたちは知的障害のある子もいればない子もいる。

事例では、青山氏の観察ポイントといったものもかなり参考になるだろう。そして発語がなかったり知能検査ではかれなくても、自閉症児は実は豊かな内面や高度な言語理解力をもっているという前提のもとでの氏の様々な対応が綴られいることも注目すべきポイントだと思う。

この本は支援教育に携わる教職員向けの本だが、4章以外は親御さんや支援者、行政関係者にも十分参考になる内容だと思う。
また、現代の子育てに欠けやすい部分があらわにされている本だとも思う。

療育の手法を選ぶ前に考えるべきこと

青山氏がこの本で強調するのは「関係性と暮らし支援する」ことだ。

自閉症児者はコミュニケーションの障害があることで他者との関係性を構築しにくい面はある。しかしだからといって関係性が不要な訳ではなく、むしろ容易に構築できないからこそより重要で、それぞれの家族のスタイルで日々の暮らしの中で関係性を構築するための努力をすること、そしてそれを黒子のように支える支援が必要だという青山氏の主張は非常に納得のいくものである。

前の記事でもちょっと出したが、療育の方向性として「将来にむけて自由度を上げる」といったところも重要な視点だと思う。

ケーススタディに垣間見える青山氏が用いる手法は非常にバリエーション豊富だと思うが、この本は具体的な支援の手法を学ぶための本ではない。 個別の療育において何を目標にしていくか?支援において何を目標にしていくのか?といったことをどういった道筋で検討していけばいいかといった内容である。

「寄り添う」とか「向き合う」という言葉は福祉や支援の世界でよく聞く言葉だが、真に寄り添う、真に向き合うとはどういうことなのか?ということを考えさせられる本でもある。

 

 



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発達障害者(児)支援をどうデザインするか? -社会性の障害による困難には相手があることから-

ちょっと前に千葉市長の熊谷俊人氏がツイッターで「障害者という表記を障がい者に変えることは反対」というツイートをして波紋を呼んだ。

害の字の表記の問題にも熊谷氏の政治思想についても大して興味がないのだが、氏の主張の理由がなかなか興味深い。

熊谷氏は

『障害者』とは『社会の障害』でも『身体に障害を持つ者』でも無く、『社会との関わりの中で障害に直面している者』という意味であり、私たちはその障害を一つひとつ解消していくことが求められている、と理解しています」https://twitter.com/kumagai_chiba/status/600875438454378496

と、その理由について語ったのだが、これは結構多方面に使える障害モデルになりうるかもしれない。とりあえず発達障害者への支援や配慮を考える際にかなり有用だと思うので、そのことについて書いてみる。

だいぶ長くなるがおつきあいいただきたい。

さて、障害モデルは医学モデル(障がい者の自身の中に不都合があるとする)と社会モデル(社会の側に障がい者が暮らしにくくなる不都合があるとする)の二つが割と知られているモデルである。

近年では社会モデルを重視すべきだとする方向性が主流かもしれない。だがまあ、そのことについての是非はちょっとおいといて話を進めてしまおう。

 

障害というものを行動することという面から見直してみる

生活行動の上での障害(ハードル)

生活を送る上で、無意識化された行動以外の行動をしようと思えば目の前になんらかのハードルが立ちはだかる。

ただそれのハードルが十分に低ければたいした問題にならない。

冬場こたつに入っているときトイレに行きたくなったとする。こういったとき、

「あー、こたつから出たくない」

という思いを抱いたことがある人は多いだろう。

室温が低めだったら寒さがハードルになる。

だが、このハードルは普通十分に低い

たいていの人が難なく越えられるハードルである。

大げさにいえば生理的欲求からわき上がる気力がハードルを越えるに十分な大きさであるひとが多いのだ。

ここでこたつに入っている人物が膝に慢性痛を抱えていたり、あるいは下肢を自由にうごかせない状態であったら…

当然ハードルは上がるだろう。

つまり心身の状態によってハードルの高さは変化するということである。

 

社会生活上の障害(ハードル)

次に、社会生活ということに話を広げてみる。

人間二人いればそれは小さな社会であるというのはよく言われる話だが、ここではわかりやすくするために家庭内社会のことは割愛、家庭外における社会生活について考えてみる。

さて家庭外ということになると当然家の外に出ないといけない。

生活行動にやたら時間がかかったり、膨大な気力を要したり、からだに痛みがあったり、怠かったりすれば家に出るのが困難になる。困難度合いによって外に出るという行動に伴うハードルの高さは異なるが、とりあえずサクサク動けるひとに比べると家の外に出るだけでもハードルは高くなる。

そして外にでて誰かと接触を図るとここで社会関係が生じる。

近所の人に会って挨拶をするという場面を考えてみよう。

挨拶というのはまあ簡単にいえば「敵じゃないよ」ということを互いに表明する行動だが、結構複雑怪奇である。

A「こんにちは」

B「あらこんにちは、いいお天気ですね~。あ、そうだ、先日はどうもありがとうございました…」

まず相手を視認、挨拶をすべきか判断し、すべきとなったら視線を向けたりしながら適当な言葉を選んで相手に届くように発語をする。場合によっては前に接触したときのことを想起し、そのことを持ち出すべきかを判断し、必要とあらばそのことに言及し、場合によっては礼をいったりその他いろいろ言及したり…、もちろん表情なども連動させねばならない…とまあ、かなり複雑なことをしている。

たいていの人は惰性…つまりほぼ無意識でやっている行動とはいえ、まず見えたり、視線を向けたり、適切な範囲の音量で発語ができたりということが必要になるので、その辺の機能に問題があると大変である。そして口頭での応答をするとなると聴く機能もまた重要だ。

さらに挨拶が必要であるということがわかってないとこれまた挨拶は難しいし。前にあったことの記憶が適切に想起できたり、表情を適切に使い回せることもそれなりに重要になるので、これらの機能に問題があれば挨拶という行動一つとってみてもかなりハードルが上がる。

ここまでのところをまとめると、

「恒常的な心身機能の問題に起因する、社会生活上の障害(ハードル)が高く、なんらかの対処を要する状態(及び、対処をしない場合障害(ハードル)が高くなる状態)にある者」

を「障害者」と定義できるのではないだろうか。

 

障害者支援は障害(ハードル)を下げること

上記の定義を使って障害者支援、配慮というものを考えてみる。 支援・配慮というものは、障害当事者の目の前にあるハードルを下げることといえるだろう。

路上の段差を少なくするというのは、車いす使用者の移動の際に立ちはだかるハードルを下げるための支援であるし、料理や飲料にとろみをつけるというのは嚥下に問題を抱える人の飲食の際のハードルを下げるための支援である。視覚障害者が白杖をついて歩くときにちょっと道を空けようというのも移動のハードルを下げる配慮である。 これはハードルそのものを縮小化するタイプの支援・配慮であり、障害当事者の外にある支援である。

そして、視覚障害者への点字教育や脳梗塞の後遺障害のリハビリテーションなど、残存能力の活用を促進するのももまた支援といえるだろう。

これは本人の能力を開発することによってできることを増やし、ハードルを相対的に下げるタイプの支援であり、当事者の内へアプローチする支援である。

どちらがいいということも当然ないので、リソースの許す範囲で障害者のQOLを最大化する方法の組み合わせを選択できればいいわけだ。

下肢の一部欠損の場合の義肢の利用などはこの両方が必要な典型的な例だろう。高性能の義肢の存在はハードルそのものを縮小化するものだが、義肢を装着した状態で歩行するためには適切なトレーニングが必要であるので、トレーニングの提供はハードルを相対的に下げる支援である(もちろん当事者本人の自助努力も必要だ)。

ここまでをまとめると、障害者への支援・配慮を考えるとき

  • 周囲の配慮・支援でハードル自体を下げる
  • 自力のアップでハードルを相対的に下げる

の二つの方策があり、それを柔軟に使いわけすることが障害者のQOLを下げることになる。

発達障害者への合理的配慮を考える

やれやれやっと前置きが終わった。

実はここからが本論だ。

何か行動するときにハードルが全くないなんてことはないというのは冒頭のこたつの例でおわかりいただけていると思う。つまり、ハードルの高さが越える力に比して極端に高い場合に支援や配慮が必要ということになる。

相手がある問題が多いということ

ここで、発達障害者における障害(ハードル)について考えてみる。

視覚や聴覚の問題(過敏や注意の問題など)については基本的に身体障害の場合と変わらないが、社会性の障害部分やコミュニケーションの障害部分となるとちょっと話が異なってくる。

社会性の障害やコミュニケーションの障害、二次障害の問題になってくる場面というのはたいてい社会的場面である。そのため必ず相手というものが存在する。

相手のある問題で発達障害者の前のハードルを外側の支援・配慮だけでどうにかしようとするとどうなるか?相手の前にハードルが生じるという問題が生じてしまうのだ。

 

その配慮は可能なのか?

発達障害関連の本を読むと就業関係の本でも「周囲の支援や配慮を受けながらやっていきましょう」 という類いの文言がしばしば書かれている。

そして最近は障害者差別禁止法という法律もできて「合理的配慮」というのが叫ばれている。

 

障害者就労の場合「合理的配慮を受けられるはず…」と期待して就労する人も多いようだが、「理解がない」とか「配慮がなされない」という不満もあちこちから聞こえてくる(SNS等)。

だが、「もっと理解を」と叫んだところで、理解しても配慮できないことはたくさんあるのだ。

学校で適切な配慮が受けられないとか、支援機関等で適切な支援が受けられないというならそれは解決すべき問題だが、一般社会ではいかに法律ができようと、社会性・コミュニケーションの障害部分への配慮はかなり難しいものがあると私は考えている。

 

「傷つきやすいので配慮して欲しい」といわれてもそりゃほとんど無茶である。

「挨拶も会話もできないけど職場で疎外感を感じたくない」と言われてもいったいどうしろっての?

「叱責されると萎縮するのでほめて育てて欲しい」といわれても、企業は親でも学校でもない(常軌を逸した激しい叱責はパワハラなのでやめるべきだが、そりゃ対象が障害者でなくても同じこと)

社会性の障害、コミュニケーションの障害部分、二次障害部分への配慮をしようとすると、どうしても人的リソースを必要とする。

 

「ある人(Aさんとしておこう)が発達障害の特性のため傷つきやすい」ということに職場が配慮することを考えてみよう。

Aさんがどういう場面で傷つくか?が職場全体に周知される必要が生じる。

Aさんが傷つくような場面を生じさせないように業務を割り振り、上司、他の社員に対してAさんへの接し方を指導し、言動の制御を求める必要がある。

非協力的な人に対しては説得するなり接触しないように働きかける必要も出てくる。

 

ここまで書いただけでも結構無理難題なのはおわかりいただけたと思うが実はまだ先がある。

 

(1)もしAさんが「笑い」に対してすべて「自分に対する嘲笑」というとらえ方をするために傷つきやすいとしたら?

そう、配慮するには職場のAさんから見える範囲から休憩時間も含め笑顔をなくしてしまうしか対策はない。

現実的にはお手上げだ。だれがそれを納得するのか?そりゃだれもしないだろう。 仮に納得したとしてもしそんなことしたら生産性もさがるだろう。

 

もう一ついってみよう。

(2)もしAさんが、休憩時間の同僚の雑談についていけないことに傷つくとしたら?

お手上げだ。休憩時間なんぞどうしようもない。

 

さらにもう一つ。

(3)もしAさんが自分自身がどういう場面で傷つくかということを認識していなかったら?

いつ何でAさんが傷つくのか周囲が予測することは不可能なので対策も立てられない。これではまるで地雷である。

 

ここで上げた「もしAさんが」の例は現実にしばしば見かけるものだ。「笑い=嘲笑」「雑談にはついて行けないといけない」といった誤学習の例でもある。

誤学習を掘り起こしてアプローチし誤学習を解消すれば問題そのものがなくなるが、企業は医療機関でも教育機関でも支援機関でもないのだからそこまでやる義務はないだろう。

誤学習由来の傷つきやすさは本人が意識していないことも多いので地雷のような面もある。こうなると理解や配慮のハードルは青天井だ。

 

正直なところ、誤学習が絡むと発達障害者同士でも理解も配慮もほぼ不可能であることは多々ある。

また、こだわりへの配慮も他者に影響が及ばない範囲でしかできないし、自他区分の問題からくる被害感なんてのには配慮しようがない。

 

相手の前にできるハードル

数行前に「ハードル」という言葉が出てきたのでお気づきの方もいるかもしれないが、あるASD当事者の社会的な障害部分に配慮しようとすると、往々にして相対する人の前にかなり高いハードルが生じる。

対人状況において、なんらかのハードルが生じることはどんな人間同士の関わりでもあるので、人に会うとき初対面で緊張するとか、上の立場の人に会うと緊張するなんてのもこういった対人ハードルである。乗り越えるのにあまり難儀すぎなければ問題はないだろう。

挨拶や礼儀やマナーというのはこういった対人ハードルを下げる為にあるのかもしれない。

ただ、ハードルが高すぎたり、ハードルが地雷化していていつ出現するかわからないとなると、

「この人に関わるとあれこれしんどい」

とか

「この人に関わるとなにかとめんどう」

といって敬遠することになる。これはある意味自己防衛である。

対人関係において相手の前に生じる心理的障壁を下げるように努めるのと、上げるように努めるのと、どっちが受け入れやすいかといったらそりゃ前者だろう。

特に定型者にとっては発達障害者の思考を理解するだけでもかなりしんどい部分がある。 わかったところで気持ちがついて行かないといったことも起こりやすいのでいきおいハードルは高くなりやすい。

ある発達障害者に相対する人の前にできるハードルが異様に高くなってしまうような配慮の求め方をすれば、相対する人のほうが「重い障害者」になってしまう。

障害による問題が社会的な場面、対人場面で起こりやすい発達障害では、配慮の求め方によっては

「どっちが障害者?」

という現象が生じやすいといえるだろう。

周囲との関係性の成立に問題が生じる障害の場合、いたずらに周囲に配慮を求めることは「敬遠」というかたちでさらに周囲との関係性の成立を阻害することになってしまいかねない。

これから先、発達障害者を雇用する企業で人事担当者や直属の上司の胃に穴が開いたり 発達障害者がらみの合理的配慮訴訟なんてのがないことを祈るばかりだ。

相手の前にハードルを作らない戦略

さて、発達障害への理解・配慮を求めることが新たな敬遠を作り出しやすい部分に関しては、取るべきなのは新たな敬遠を作り出さない方法だろう。

そう、前述の「自力のアップでハードルを相対的に下げる」である。

料理から経験値のアップを考えてみる

だいたいさせればできるがさせねばできないことが多いのが人間というものだ。 調理技術なんてのもそういう面が大きい。

昨今、若い世代の調理技術というのは多いに下がっているようで、料理がろくにできない人なんざくさるほどいる。

まあ、昔と違ってそれでも外食・中食産業に金さえ払えば食事にありつけるし、調理関係のお助けグッズ、調理の楽な半調理食品も増えているので、料理が苦手な人の食事へのハードルを下げるのにそういったものが大いに役だっているわけだが、ジャガイモの皮をピーラーでしか剥けないと災害時に困りはしないかなあ?などと思ったりもする。

発達障害者でも料理が苦手という人は結構多いように思う。

ただ「やってないだけでは?」と思うケースも多い。

どうしても発達障害児者は興味関心の範囲がせまくなりやすいので積極的に料理の手伝いなどに引っ張り出さないとやれることが増えにくい面があるとは思う。

やらないからできるようにならないし工夫もしない、当然自信もつかない。成し遂げたという経験も少ないので自己肯定感も下がりやすい。自己肯定感が下がるとさらに物事にトライする意欲がしぼむ→(以下行頭に戻る)

という悪循環に陥っている人が多いように思うのだ。

料理以外でも、様々な面で同様の悪循環が生じてしまっているように思うことは多い。

将来につなげる支援とは

まず一冊の本を紹介しよう。

自閉症の子どもへのコミュニケーション指導―「関係」を育て「暮らし」を支援する (教育の課題にチャレンジ)

青山 新吾 明治図書出版 2005-03
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著者の青山新吾氏は岡山で通級指導等の特別支援教育に携わってこられた学校の先生である。

氏はこの本の中で、

周囲の人や物との関わりが増えることが自閉症児の自由度を上げると、 そして、そのためには親や教師との関係性が重要であるともいう。 さらに氏は日常を丁寧にすことの効用を挙げている

確かに、発達障害者でも特にASD者は他者との関わりを作る(=関係性を取り結ぶ)ということにかなりの困難を抱えている。 となれば、自力をアップして相対的にハードルを下げるための支援は、やはり他者との関係を取り結ぶことへの支援が重要になってくるだろう。

語彙や常識、定型者の発想などを学ぶといった学習部分もちろん重要だ。 そしてもう一つ、いろいろな当たり前のことに日々の生活の中で取り組んでいくといったこと、そして支援としてはその取り組みをサポートしていくことが結果的に周囲との関係をよくしていき、ひいては後々の生きる意欲を支える自己肯定感を揺るがないものとする経験となっていくという視点は非常に重要だと思う。

 

発達障害児者への支援のデザイン

発達障害児者の支援というのは自閉症児者のそのとき表出している欲求を満たすだけの表面的な配慮をすることではなく、困りごとや課題に当事者自らが取り組めるようにサポートしていくことなのだと思う。

発達障害者の声といえば「特性理解を」「特性に配慮を」というようなものが非常に多い。医者の中にもそういったことを主張するむきも多い。

だが、理解は相手がすることだ。理解したくない人もいるかもしれないし、理解が難しい人もいるだろう。 理解しても対応を拒否する人もいるかもしれない。

しゃべりたいことだけを一方的にしゃべるのを特性として理解し、周囲の側が対応するほうがいいとしてしまったら?

過剰に被害的なとらえ方をしがちなことに対してそれを特性として理解し、配慮したほうがいいとしてしまったら?

それは周囲の人の目の前にハードルを作るだけのことだ。

「しゃべるのを自分で止められないこと」や「周囲が見えにくくなること」

「つい被害的に捉えてしまうのを止められないこと」

などといった水面下の課題に発達障害児者自身が取り組めるよう支えるのが真の支援だろうと思うのだ。

いろいろ書いてきたが、発達障害児者の支援というのは、いたずらに一般の配慮義務を増やすよりも、ツールの利用、心身の調子を良い具合にもっていくことを含め、発達障害児者自身の課題への取り組みをサポートする方向性でデザインしていった方がよいように思う。

 

 



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芋づる式に治そう! 発達凸凹の人が今日からできること

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自閉症スペクトラム児者における自他区分の問題について考えてみる(2)

自他区分の問題について、ちょっと間が開いてしまったが続き。

前回の記事「自閉症スペクトラム児者における自他区分の問題について考えてみる」はこちら

ちょっと一気に進めたいのでかなり長くなるがお付き合いのほどを。

自他区分というより自他の境界感覚かも

前回の記事で図にしてみたら浮かび上がってきたのは、自閉症者では自他区分に問題があると言われるが、それは実は自他の区分というよりも自分と外界との境界の性能なのではないだろうか?ということだったが。これに外界からの刺激(情報含む)を加えて図にしてみるとこんな感じになるだろう。↓

barrier-basic.jpg

境界が明確な場合は外界からの刺激がむやみやたらに入ってくることはない。刺激の取捨選択によって境界内部に取り込むことはあるだろうが、基本的にかなり安全が確保されやすい状態であり、内と外のj区分が明確な状態である。

対して境界が不鮮明な場合は刺激が易々と自分の内部に入り込む。境界の不鮮明度にもよるが、常時刺激が入り込む状態である。安全かどうかは情報の量や性質に依存する度合いが高くなる。

ここで言う刺激は、話が内的世界の問題であるので実際の感覚的なものではない。すなわち他者の発する情報であるから他者からの情報流入に対してのとらえ方の差として現れてくるだろう。

境界が明確でない場合、どういったことが起こりうるだろうかを考えてみた。

自他の境界と他者の言動のとらえ方

他者の居る場で何らかの意思表明をした場合、他者がいろいろそれに対しものをいうことがある、アドバイスであることもあるし、勝手な物言いや感想だったり、まあそれは様々だ。それに対するとらえ方はどうなるだろうか?まず、境界が明確である場合。

barrier-iken2.jpg

人の意見を聞きつつ、適当に取捨選択をして一部を取り込むこともあるだろう。まあ、これはごくありがちで妥当な反応だ。

では、自他の境界が不鮮明な場合はどうなるか?

barrier-iken.jpg

どの意見を採用したらいいのか、あるいは全部破棄するのかというのは、自分の嗜好or指向性という基準が明確でないと困難だ。だが、他者の意見が内部に入り込みやすい状況ではその基準が揺れ動きやすくなるだろう。

接する他者の人数が多くなればなるほど、他者の意見も多種多様になってくるのでより選択の困難度も増すし侵襲性も増す。当然対人状況における思考の負荷や心理的負荷も高くなるだろう。

barrier_select1.jpg

他者の意見、見解が自分の内部に容易に入り込むので、もともとの自分の考えとの混同も生じやすくなる、つまり結論が他者の意見に翻弄さらやすくなるし決定が困難にもなるだろう。

他者のアドバイス

barrier-teian1.jpg

上記はごくごく妥当な反応である。他者の意見はとりあえず参考としながら要不要を自分で判断できる体勢である。

もし境界が不明確、不鮮明だったらどうだろう?

他者の意見が自分の内部に入り込みやすいと他者の意見というだけで自分の内部への侵襲ととらえる場合も十分ありうる。この場合、他者の提案(アドバイス)に対し、提案(アドバイス)というだけで「押しつけ=侵襲」ととらえ、拒否してしまうといった過剰防衛的な対応をしがちになるだろう。これでは他者からのアドバイスを有効利用することは難しくなる(下図)

barrier-teian2.jpg

様々な場面で困難が生じてたときに人にものを聞くことを躊躇、忌避してしまいやすくもなるだろう。

真に受けやすさとの関連

世の中真に受けて良いことと悪いことがある。成長過程でそのあたりの区分がついてくればいいが、そうでないと結構問題なことも多い。他者の意見を鵜呑みにすることは往々にして結構危険だ。だが、内部と外部に明確な線引きができなければ、当然鵜呑みにしやすくなるだろう。

褒められ編

褒められて悪い気がする人は少ないだろうが、あまり自分の実態と合わない賞賛は適当にながして真に受けないのが穏当な対応である(下図)。

barrier-maniuke1.jpg

だが、他者の意見が容易に内部に入り込む状況では、賞賛がそのまま内部に取り込まれてしまいやすいだろう。

barrier-maniuke2.jpg

こういう状態では下手に褒められると実態に合わない自己像を作りやすいといったことにもなるかもしれない。

悪徳商法編

世の中には悪徳商法なんてのが存在するが、もし悪徳商人の言葉を鵜呑みにしたら…財産に危険が及ぶのは言うまでもない。

barrier_akutoku1.jpg

境界が明確であれば上の図のようにスルーできるものでも、境界が不明確な場合は悪徳商人の言葉が真実として内部にはいりこんでしまいやすいだろう。

barrier_akutoku2.jpg

だまされやすいのは正直危険でしかない。悪徳商法とまでいかなくても交渉等で自分に不利な条件を受け入れやすくなってしまうことは十分にありうる。

傷つきやすさ編

世の中いろいろな人がいる。好意的な人もいれば批判的な人もいる。他者には他者の事情も気分もある、そして気分で言動がまったく変化しない人というのは珍しい。あまりありがたくはないが年中攻撃的な人もいるにはいるし、悪意をもった人だっている。

となれば、人の意見を聞いていろいろ今後の参考にしていくにしても自分を苛まない程度に取捨選択しないことには他者の評価に翻弄されてしまう。取捨選択するには自分の内と外の境界がはっきりしていないと難しいだろう。

境界が明確な場合は他者の批判は基本自分の外にある。これなら批判をどう取り入れるかの決定は自分でできる。(下図)

barrier-hihan.jpg

だが、自他の境界が明確でない場合、他者の批判的な言動が内部に入り込みやすい。そして真実としてとらえられてしまうがために、他者の批判的な物言いに対してとても傷つきやすくなる。妥当でない批判や、気分に起因するちょっととげのある程度の言動にまでいちいち翻弄されることになるので傷つく回数も増えるだろう。

barrier-hihan2.jpg

批判が選別されずに真実化してしまうと、本気で腹が立つことも、落ち込むことも多くなる。妥当でない批判に対してスルーすることも難しいくなるだろう。嫌味や皮肉でちょこっとだけ反撃なんてことも当然できようはずもない。

勝手にPTSD、勝手にウツ、そしてリセット行動

特に対人関係部分に関して、今まで述べたことをちょっと図にまとめてみると下記のようになるだろう。

ishi01.jpg

ishi02.jpg

他者の意思と自分の意思の区分が容易でないなら、特段批判的ともいえないような他者の言動で深く傷ついてしまったり、他者の言動に翻弄されて疲れ果ててしまったりというのがASD者にありがちなのは上記のようなメカニズムなのではないかと思う。

こういう世界観であればまた過剰な遠慮が生じて意思表示がしにくくもなるだろうし、逆に他者のテリトリーに関して無頓着な言動をしやすくもなる。

これでは記憶特性(画像記憶が再現しやすい)の問題がなくてもウツにもPTSDになりやすいだろう。

ウツやPTSDでは、深刻な原因がある場合ももちろんあるが、ことASD児者の場合なんで傷ついているのか意味不明な「勝手にPTSD」「勝手にウツ」現象といっていいようなケースも結構あるような気がする。

そしてこの際だから書いてしまうが、「発達障害者は傷つきやすいから傷つかないように周囲の人が配慮しましょう」なんてのは、絵に描いた餅だと思う。自他の境界の問題があるかぎりイタチごっこになるのは必然だ。

また自閉症者では処理のキャパシティを超えた高度の対人状況に置かれたときにリセット行動を起こすことがあるということを先日十一元三氏の講演で聴いてきたのだが、それもこういったメカニズムなのではないかと思う。

自他の境界が明確でない状態のメリット

自他の境界が明確でなために他者の言葉を鵜呑みにしやすい例を3例あげたが、鵜呑みにする(=内部に取り込む)ということはある意味真実として認識することでもある。これには実はメリットもある。

健常児の場合も、自他の区分ははじめから明確ではないという。自他の境界が不鮮明であることは、外部の情報を内部に急速に取り込めるということでもあり、成長過程での言語、生活習慣などの習得や保護者との愛着関係の成立という面において逆にメリットとなっているだろう。

barrier_child.jpg

また、特に芸術などの分野で、対象者あるいは対象物を容易に取り込めることは擬似的な対象との一体化といったことが容易になり、対象のリアリティを表現するのに好都合となるといったことも考えられる。

barrier-art.jpg

(とはいえ、これは境界の明確度をある程度自覚的にコントロールすることを習得できていないと役に立ちにくいようには思う)

自他の境界と対人認知

ここまで、自他の境界についてだけ述べてきたが、自他の境界の不明確さに加えて対人認知の問題がある場合について考えてみよう。

自他の境界が明確でない場合、様々な他者の言動がダイレクトに入ってきても、それが他者由来のものだということは認識できるだろう。真に受けるか処理できなくて拒否するかという事になるだろうというのは前述のとおり。(下図)

barrier_select1.jpg

だが、ここで対人認知の希薄さが加わるとまた様相が変わってくる可能性がある。(下図)

他者が意思をもった個人であるという認識が希薄であればあるほど、反発が生じにくくなり、より真実性が増してくる。つまり外から入ってくる「こうしたほうがいい」という情報は義務になってしまいやすくなる。

barrier_select2.jpg

それが高じてくれば入ってくる情報はその人の中で「天の声」化していくとは考えられないだろうか?(下図)

自閉っ子、こういう風にできてます! 」の著者のお一人である藤家寛子さんがかつて持っていた「巨人のいる世界(今はいないらしい)」というのはこういったメカニズムで生じていたものではないかと私は推測している。

barrier_voice.jpg

意思を持った人間が集まって社会が形成されているということが”リアルな感覚として”認識しにくければ、様々な社会的事象について「必然」あるいは「何か見えざるものの意思」という解釈をしがちになるのはある意味当然かもしれない。

上記のように自他の境界が曖昧だということは、程度の差こそあれ外部からもたらされた情報の真実性が容易に増すということにもなる。そのため、自分に対し向けられた言葉や周囲で言われていることが「正義」と認識されたり「一般的なルール」と認識されたりしやすいということでもある。

「公平にしましょう」といわれた場合「常に公平にすべき」ととらえやすかったり、その延長線上で「自分は公平に扱われるべきである」といった認識をしやすいということも生じるだろう(一見よさそうではあるが世の中公平でないものの方が多いので杓子定規に適用すると社会に受け入れられにくい怒りや不満の元になる)。

自分が言われたこと、周囲で言われていることを範囲を広げてルール化し、他者にまで適用しようとするタイプの誤学習はよく見られる。

医者や支援者がよく使う「まずは理解が必要です」とか「特性に応じた合理的配慮をしましょう」いうのも、拡大解釈や反転、ルール化の起こりやすいように思う。

barrier-sup01.jpg

もちろん必要な支援の整備は待たれるが、上記のような現象が行き過ぎればなんでもかんでも「うまくいかないのは社会の理解、配慮がないせいである」という判断をしがちにもなるだろう。こうなっては慢性的な不満、イライラの元である。

まとめ、境界の不明確さゆえに起こりやすいこと

自他の境界の不明確さゆえに起こりやすいことをリスト化してみよう。

  • 被害的に受け止めやすい
  • 怒りが発生しやすい
  • 他者の言動を真に受けやすい
  • 騙されやすい
  • 自己像がゆがみやすい
  • 他者からのアドバイスを有効利用しにくい
  • ルール化、義務化が起こりやすい
    • ルール、義務の絶対視が起こりやすい
    • ルールの他者への適用拡大が起こりやすい
  • 他者のテリトリーに関して無頓着な行動、言動をしやすい。
  • 過剰な遠慮から意思表示が苦手になりやすい
  • 知識を取り込みやすい
  • 対象への没入、一体化を起こしやすい

正直、ここまでリストアップできてしまうというのは私自身少々驚いている。派生する現象も含めたらもっと多そうだ。

ASD児者の内部や周辺で起こりがちなトラブルのかなりの部分が、自他の境界の問題と結びついていそうである。

そんなわけで、今私は視線認知の問題と自他の境界の問題は自閉症の謎?を読み解くかなりのキーではないかと思いつつある。

自他の境界はかたちづくられる

内的な世界観として「自分は自分、他人は他人」ということが明確化されていないことのリスクについて書いてきた。ASD児者周辺で起こる様々なトラブルがしっくり理解できるにはどう捉えたらいいのか?を考えてきたら、かなりの現象で「自他の境界の不明確さ」に行き着いてしまったという訳である。

では、ASD者の全部がこういった自他の境界の明確度に由来する問題を持っているか?と問われればNO!である。

これを書いている私もASD者だが、どこ吹く風度に関しては定型さん顔負けのようで、心臓に毛どころか剣山が生えているとか、ワイヤーロープの神経とか友人に言われたりもする。

周りを見回しても他人の言うことをさほど気にしないタイプの当事者は結構いる。そして発語を持たない自閉症児者の場合でも他者と自分の境界を明確に捉えているとおぼしき人たちもいる。

ASD者でも「自分は自分、他人は他人」というのが世界観として定着していくことは別段ありえないことではない。境界は明確化できると私は思う。そしてやはり境界がしっかりできていた方が生きていて楽だろうとも。

こうなると自他の区分を明確化するための要件とは?という問題にぶち当たる。ここが解決すれば結構が片付く問題も大きいかもしれない。

次回はそこに話を進める予定。

 

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自閉症視覚シミュレータを体験してきた

自閉者の特異な視覚が体験できるように!



20150429grandfront.jpg





阪大と東大の共同研究で自閉症児者の視覚を疑似体験ができるシミュレータができたそうで、そのお披露目会?が梅田のグランフロントであったので行ってきた。



実はこの研究、私も被験者になっている。まあ私はあまり視覚的な問題は強くないので、あまり役に立ってない被験者かもしれない。



司会は阪大の浅田教授で阪大の長井准教授と東大の熊谷准教授の講演、そして肝心のブツであるヘッドマウント型シミュレータの体験ということだったが、予想以上の人出だったらしく会場は満員で一部立ち見が出ていた模様。



長井准教授の講演は開発の経緯とか技術的にどう実現していったかといった話が主で、視覚過敏が生じるメカニズムとして瞳孔の機能の問題があるのではないかという話も飛び出した。瞳孔の大きさというのは脳の思考による負荷状態を示すといった研究もある話であり、過敏と負荷状態の相関等に結びつく可能性もあるのでこれは興味深いと感じた。



熊谷准教授の話は当事者研究を今後どう発達障害者支援に生かしていったら良いのかといった話や、社会性そのものを多様なものとしてとらえていくことによって発達障害者と社会の壁はなくなるのではといった話だった。


ここいらはどうも私にはいまひとつピンとこないが、まあそれはそれで、そういう考え方もあるということは勉強になった。



このシミュレータのインパクトはすごい!



そしてかんじんのシミュレータのほうだが、こんな見え方してたらそりゃしんどかろうという感じ。粒状ノイズ、高輝度化、輪郭の明確化、高コントラスト化、不鮮明化、無彩色化の6種の変化が仕込まれているそうだが、こういう視覚なら脳に負荷がかかって当たり前だろうなという感じ。



よく息子がよく晴れた日に「空がグロくて不愉快だ」といっているで、光がしんどいのだろうとはおもっていたが、こういった見え方ならそりゃ納得である。そしてかえってグラサン大好きのタヌキ(亭主)に話してみたら「それは普通にあるぞ」とw。



このシミュレータがもっと気軽に使える形になって、親御さんが自閉症のお子さんの見え方を体験できるといったことになると、親子間の意思の疎通も多少は楽になるかもと思う。支援者もまたしかりだ。



この研究の続きだが、今後見え方と社会性の関連についての研究等様々な研究が予定されているとのことで、どういう結果が出るのかとても気になるところである。




おまけ、難敵!大阪グランフロント



余談ではあるが、会場が私にとってはかなりの問題だった。


どうにも空調音と反響音、残響音がすごい。さほど寝不足していたわけでもないしグランフロントは新しい建物なのでちとびっくり。



講演会場というのはわりと音響対策ができていることが多く、デジタル耳せんを使いたくなることはまずないのだが、今回の会場は空調音と反響音、残響音のコラボで、講演の半分以上を耳栓つけたまま聴いてきた(浅田先生と長井先生の声がデジタル耳栓で消えない音質で助かった)。


きっと内装設計者は聴覚が丈夫な人だったのだろう。



  



専門家も結構いたようだが、支援者、保護者、当事者も結構いたようで、見知った顔もちらほら。



しかし…ありゃ帰ってからへばる聴覚過敏もち当事者いたんじゃないかな~などといらん心配してしまったのでした。



 





 


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次こそは

自他区分の話書きます

…たぶんw









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アスペルガー者はエイプリルフール嫌い?

今日はエイプリルフールである。

毎年ネット上のアスペルガー症候群界隈では「エイプリルフールは疲れる、辛い」ってな話が跋扈する。
物事を真顔でとりやすいために、エイプリルフールになると「真顔でとっていいのか」の判断に苦しむという話である。

当然のように今年もそういう話が花盛り。
エイプリルフール撲滅運動になりかねない勢いだw。

ああ、既視感である。

ところで私はエイプリルフールは別に嫌いじゃない。
気の利いた嘘なんてのは私の頭から出てくることはないが、他の人の提供してくれるエイプリルフールの大嘘は大好きだ。

大規模なものから小規模なモノまで結構毎年楽しみに毎年楽しませてもらっている。
下手すると毎年チェックしにいくサイトまである。

さて、この違いはなんだろうなと思う。

要は「え、ホント?」と聞くのに躊躇があるかないかではないかと思う。


「聞かないでもエイプリルフールの嘘だとわからなきゃいけない」

とか

「嘘かどうか聞くことが恥かしい」

なーんて思いが強いとそりゃストレスたまるかもだ。
さらに、

そして思い切りだまされた様子を笑われる


なんてありがちな情景も「笑いに関する妙な誤学習」があったりすればまたしんどかろう。

こういうのが昂じれば確かにエイプリルフール撲滅運動を展開したくなるかもしれない。


だが…、


私もあれこれ真顔でとりやすいというのはあり、結構エイプリルフールには思い切りだまされるのだが、そういうところに引っかかりがないのでエイプリルフールを楽している。

変な枷がなくなれば、アスペルガー者のほうが真顔で受け取りやすい分ネタバレ感が薄くなって逆に楽しみやすいのではないかとも思う。



エイプリルフールは騙されて楽しむモノでもあるのだ。


と、前記事の続き書くのをちょい延ばして小ネタをかいてみた。

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自閉症スペクトラム児者における自他区分の問題について考えてみる(1)

自他区分が明確でないとはいったいどういうことなのか?

自閉症スペクトラムに関する解説本を読んでいると「自他区分が明確でない」というのが時々出てくる。

正直なところその自覚はない。どうやら他覚されるものもあまりないようで、しばしば「あなたは自分がしっかりあっていいよね~」などという(わけわからん)ことを定型とおぼしき人にまで言われる始末である。

となると、自閉症児者にありがちという自他区分の不明確さというものっていったい何なんだろう?ということになる。

奇妙な話2つ

若い頃、ちょっと不思議な経験をした。

学生の時分、ある学術系サークルの後輩に当たるA子にやたらなつかれた?のだが、どうも様子がおかしい。

どのようにおかしいのかというと、ただ同意するといったものではなく、私の考えや態度をまるのままコピーするかのごとくなのである。さらにサークルの他の成員にあたかも自分の意見であるかのようにそ”自信満々に”披露してしたりそれに基づく他者批判を展開するものだから他の連中とも何かとトラブルになる。

他の子達に「猫さんA子なんとかならないんですか?」と言われる始末。

正直言ってうんざりだったが、仕方ないのでやめるようにA子にあれこれ言ってみたが止まらない。いろいろ聞いてみても自覚もなければ悪気もないのでどうしようもない。結局距離をおくという方法をとった。

その時しばしば「なぜA子は他者のコピーをしてしまうのか?」を考えたが自分の考えってのがあまりないのだろうな以上の結論は出なかった。

もう一つは従姉妹の話。小さい頃毎夏を過ごした宮城に住む1つ違いの従姉妹が語った一言。

「私小学生の頃、アンタと自分の区別がつかなかったんだよね~。夏になると現れる分身みたいな感じ」

どうも自他区分の問題に関わりそうな気がする。

他にもある自他区分に関するおぼろげな疑念

他にもあれこれ当事者諸氏を見ていて気になることはある。何か自他区分の問題と関連しそうな気がするのである。いくつか挙げると次のようなものだ。

  • 文章中で能動と受動が入れ替わったり、主客の転倒が起こるケース
  • 提案を押しつけと捉えるケース
  • 人の言うことを真に受けやすいということ
  • 自閉っ子、こういう風にできてます!」中に記述がある藤家寛子さんがかつて持っていた「巨人が住む世界観」

なんかにおうのである。

サリーとアン課題は自他区分の明確度を測れるか?

自他区分といえばサリーとアンのテストを思い起こす人も多いだろう。この結果をして自他区分の明確度と結びつける解釈もすくなくない。

だが、これは自他区分というより他者視点での思考ができるかのテストではないだろうか?

直感的(な自動思考)に結論を出せるか、意識的な思考で結論をだすかはともかく、他者視点を想定した思考ができれば解けるものだ。

もちろん自他の区分がある程度ついていないと「他者」自体の想定がしにくい可能性はあるので、間接的に自他区分の明確度測りうると言えなくはないが、「ルールとして」思考する」ことができればリアルで他者の存在(感情や思考などが自分と異なること)を認識することに問題があってもクリアできる課題であるような気がする。

自他の区分というよりは「自分以外の視点の想定」に関するテストのような気がするのだ。

 

自他区分が明確でないということを図にしてみる

どうもよくわからないのでとりあえず図にしてみようという安直な方向性で動いてみた。図の作成ツールの発達はとても有り難い。

まず自他区分が明確であるということを視覚的に考えてみると、自分の内部世界と外部の世界の間にバリアーのようなものが存在するという図を思いつく。

下図のようなものだ。

barrier202.png

同様に自他の区分が明確でない状態を考えると、上図にある境界線がぼやけているといったものが考えられる。

barrier203.png

もっと明確さが損なわれると色味がうすれ、ぼやけ方が激しくなると考えれば良いだろう。

barrier204.png

図にしてみるとなんだかいろんな疑問が腑に落ちてきそうである。

この図を元に自他区分の問題についていろいろ考えを進めていくつもりであるが、かなーり長くなりそうなので今回はこの辺で唐突に終わっておく(たぶん数回は続く)。



続き(自閉症スペクトラム児者における自他区分の問題について考えてみる(2))はこちら



ボディイメージがうすけりゃそりゃ自他の境界なんてのもあいまいになりそうな気が…する。

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自閉症スペクトラムの常識とやらにツッコミをいれてみる【動画】

前の記事にちらっとだけ書いてたが、ちょっとした動画を作って見た。動画といってもスライドである。


材料は何かというと、自閉症スペクトラムの常識とやらだ。



vol1-01small.jpg

自閉症スペクトラムの常識とやらにツッコミを入れてみる 動画はこちら(Youtube)




前々からいろいろ思うところはあったのだが、いろいろ考えた上で長年封印していた部分だ。


一般書を読もうが専門書を読もうが専門家の講演を聴こうがどうもスッキリこなかった部分にツッコミを入れてみた。



今回はツッコむだけツッコんでいるので、「じゃあ、いったいどうしろっての?」という声が出るのは百も承知である。そこいらに関して私の中である程度の答えが出せたので封印を解いたわけだ。



そんなわけで、「じゃあどうしろっての?」という部分はこれからちまちま記事を書くなり動画を作るなりしていくつもりである。









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